4-6.光と陰

 薄暗い部屋の隅に、小さな人影がうずくまっている。

 高価な家具が並ぶ寝室で気配を殺している様は物盗ものとりにも見えるが、彼女は主のいないそこでじっと佇んでいた。

 緊張を維持しているものの疲労を隠せず、抱え込んだ大きな剣を今にも倒してしまいそうだ。


「身体が、重い……クロ、ちゃんと鍛えてた?」

(お前が日課にしていた鍛錬は、していたつもりだ)

「足りないよ。全然」


 アリアは恨み言を漏らしながら、垂れてきた前髪を震える手でかき上げる。たっぷりと水を吸ったプラチナブロンドが、背にした壁に飛沫を跳ねた。


(お前の身体を酷使したくなかった。仕方がないだろう……文句があるなら、これからは自分の面倒は自分で見ることだな)


 素っ気ないようで、そこには万感の思いがこもっていた。

 相棒がいながら死を選んだことへの怒り。一向に目を覚まさなかったことへの悲しみ。そして戦う意思を取り戻して帰ってきてくれたことへの安堵。心臓と一体化している魔剣の欠片を通して、クローディアスの感情はアリアにも伝わっていた。だから彼女はそれ以上なにも言えず、ただ黙って頷くことで答える。


 そのとき不意に聞こえてきた物音に、アリアは顔を上げた。

 扉を開けて入ってきたのは、スバルだ。警戒を解いているが、冴えない表情をしていた。


「一通り見てきた。しばらく暮らせるくらいの備蓄があるみたいだ。脱出用の隠し通路まであったぞ……どうなってるんだ、まったく」


 二人が身を潜めているのは、《寝惚けた黒獅子亭》の支配人が用意したという隠れ家だ。富裕層の居住する区画に近く、立地に見合った門構えをしている。

 カレヴァン随一の高級宿を経営する人間が、高級物件を所有していることに疑問はない。しかしこの場所へ安全に侵入できる経路を確保していたり、あまつさえ襲撃や篭城を予期しているような備えがあったりするのは一介の経営者として普通とは言いがたかった。

 とにかく差し迫った危機はないということで、スバルは気を取り直して肩をすくめた。そして手に持っていた服をアリアに掲げてみせる。


「向かいの部屋に着替えがあった。見てこいよ」


 アリアは首肯し、おもむろに立ち上がる。少し迷った末に魔剣クローディアスを手近な椅子に立てかけ、丁寧すぎるほど静かに扉を閉めて出て行った。

 物言わぬドアをしばらく眺めたあと、スバルは水分を含んで重くなった上着を剥ぐように脱いで、足首まで埋まる絨毯に投げる。


「無理をしてるな」

(当然だ。あの子を取り巻く環境が、なにか変わったわけでもない)


 クローディアスの思念は憂慮に曇っていた。かつて裏切りや策謀に心を殺されたアリアは、今もまだ絶えない闘争の渦中にいる。


「じゃあ、なんでアリアは目を覚ました?」

(さぁ、な。だがテオに《切り拓く剣》を……授けられてしまったのが、きっかけのように見えた)


 スバルは気のない返事をして、放り出していた赤い剣と鉈の装飾を拾い上げた。着替えた服に窮屈そうな顔をしたあとで、それを上着の内側に落とす。

 別段、思い入れなどないような態度に、クローディアスは疑問を抱いた。スバルは最初、開拓者の存在すら知らなかったのだ。


(結局、開拓者とはなんだ? 貴様のそれは、もらい物だと言っていたはずだが)

「元は母親のだ。姉貴……スピカは親父のものを持ってる。なくしてなければな」

(両親共に開拓者だったというのか!?)


 初耳の情報に、クローディアスは叫んでいた。魔剣の声は空気を震わせず、脳に直接叩き込まれる。その激しさに眉をしかめながら、スバルは続けた。


「昔テオに会ったとき、冒険者の潰し合いを減らす仕組みを作るのに苦労したって話してた。開拓者ってのは、そのことじゃないか? あいつ不滅らしいからな。年も取らないし、百回は殺したはずだが当たり前みたいに生き返りやがった」

(……なるほどな……そうして保護した稀有な力の持ち主に、魔族討伐のため接触を図っている最中というわけか)

「アリアは、お目にかかったらしいぞ」

(喜ばしいのかわからんな)

「少なくとも、仲間がいる。テオは信用できないが敵じゃないし、シャルは良い奴だ。アリアの境遇を考えれば悪いことじゃない」


 スバルは口の端を吊り上げて見せた。笑みの形をしているが、どこかに陰がある空虚な表情だ。なにより、仲間という言葉を他人事に思うような声音だった。


(スバル、貴様……)


 追及は遠慮がちなノックの音に遮られる。

 スバルが呼びかけると、上等な服をまとったアリアが現れた。冒険者の無骨な戦闘服を脱いだ彼女は可憐で、きちんと身なりを整えれば貴族の令嬢と遜色ないほどの儚げな美貌をたたえている。まさかその細腕に大人を数人まとめて蹴散らす膂力が秘められているなどとは誰も信じられないだろう。

 アリアは髪留めバレッタを外して下ろした白銀の髪を絞りながら、魔剣とスバルを交互に見つめる。


「なにを話していたの?」

(大したことじゃない)


 ふぅん、と返事をして、アリアはベッドに腰を下ろした。しかしすぐに、はっとして勢いよく立ち上がると、きょろきょろ周りを見渡した末に、クローディアスを置いていた椅子に場所を移す。その様子をスバルに見つめられていることに気づき、頬を紅潮させてうつむいてしまった。

 同じ肉体だというのに、人格が変わるだけでこうも違うものかとスバルは驚愕を隠せない。生真面目で強気、張り詰めたクローディアスとは異なって、本来のアリアは柔和な雰囲気だ。珍しい白髪と黄金色の瞳が、彼女を神秘的に演出していた。


「あの……」

「あ、悪い。やっぱり印象が違うと思ってな」


 スバルもまた、不躾ぶしつけな視線を向けていたことを自覚してしどろもどろに言った。

 これがほんの直前まで、大勢の傭兵や治安維持部隊の隊員を蹴散らしていた戦士達の姿かと、クローディアスは嘆息する。


(人見知りの子供同士ではあるまいし……)

「うるさい」

「うるさいなぁ」


 照れ隠しの悪態を吐いたあと、スバルは咳払いをして気を取り直す。今しがたアリアが座りかけたベッドに腰を下ろし、ゆっくりと口火を切った。


「もう、大丈夫なのか」


 短いが、答えるには困難な問いかけだった。アリアは口をつぐみ、伏せた視線は膝上で握った自分の手をじっと見つめている。

 沈黙は数秒だ。彼女は意を決してスバルと目を合わせると、はっきりわかるほど大きく頷いた。

 スバルは嬉しそうに笑う。悲しき過去を乗り越えた強さは眩しく、美しかった。


「空の森での出来事は、クローディアスを通して見てたのか?」

「おぼろげに。……夢みたいだった。ひどい悪夢。私の代わりにクロが冒険者になって、独りで苦しんで……早く終わればいいのにって思ってた」


 苦悩の中でもがいたクローディアスに、アリアの言葉は深く突き刺さった。それはまさに、彼が最も恐れたアリアの本音だったからだ。

 でも、とアリアは続ける。

 柔らかな唇が孤を描いて、ほのかな朱が頬を染めた。雪解けの微笑みに乗せて、アリアは言う。


「最後に、あなたと会った」

「……運の悪さも極まれりって感じだな」

「そうかも」


 スバルの自嘲をからかうように、アリアはくすくすと身体を揺すった。首から提げた《切り拓く剣》が動きに合わせて、きらりと赤く輝く。

 人の悪意を絶えず浴びてきたアリアとクローディアスにとって、強すぎるがゆえに愚直なスバルの言動は理解しがたく、同時に心地がよいものだった。共に戦うこと。仲間を救うこと。生き抜いた喜びを分かち合うこと――――アリアが望んでいたのは、ただそれだけだったのだ。


 屈託のない笑顔を前にスバルは、しかし険しい顔で目を閉ざした。

 当人に自覚はなく、激しい主張でもないが、紛れもなく拒絶の仕草だ。馬鹿正直で考えなしの男が時折見せる陰に、アリアは面を曇らせる。

 スバルはすぐにアリアの様子に気づくと、まぁいい、と溜息混じりに呟いた。一度またたきをすれば、もう普段のスバルに戻っている。だが決して追及を許さない、かたくなな光を黒瞳に宿していた。


「ところで、どうしてこんなところまできたんだ? テオにお前を連れて行くよう頼んでたんだが……怒ってるわけじゃないぞ」


 バツが悪そうなアリアに、スバルは困り顔で付け加えた。どうにも我が強い人間ばかり相手にしていたので、冒険者らしからぬ純朴な少女との接し方に戸惑っていたのだ。


(私は街を出るつもりでいたが、南門を目前にしてバートランド・ギルの率いる治安維持部隊に襲撃された。連中の話ではノーラが寝返ったらしい)

「単なる裏切りとは考えにくいな」


 スバルの推測にアリアは頷き、クローディアスも同意を口にした。

 そもそも、空の森から帰還した二人と接触したのはノーラ自身の意思だ。自らの身を危険に晒してまでアリアを庇った彼女が、今更になって怖気づくはずもない。なにより情報を扱う探索者は冒険者の天国と呼ばれる一部の都市において最も肝が据わっている人種なのだ。


(詳しいことはわからずじまいだ。その後、人間が怪物に変化したものに襲われた。シャルロッテがいなければ危なかったな)

「あぁ、あいつがいれば大抵はなんとかなる」


 確信に満ちた言葉に、アリアがぴくりと反応する。上目がちの瞳がなにかを言いたげにスバルを凝視するが、当の本人は不思議そうな面持ちをするだけだ。

 やがて業を煮やしたクローディアスが、アリアの疑問を代弁する。


(随分とシャルを信用しているのだな、彼女も貴様にだけは態度が異なっていた、以前から面識があるような素振りをしていたが、どういった関係なのだ、と、アリアが知りたがっている)

「ちょっと、クロ!?」


 アリアが激しく振り返ると、椅子に立てかけられていたクローディアスが床に横倒しになる。不意に響いた大きな音に、アリアは小動物のように身を竦ませた。

 彼女のせわしない様子を唖然と見ていたスバルは、ふと遠くへ視線を飛ばす。いつもより優しげな眼差しにアリアは不安になるが、続きを聞いて目をしばたたかせた。


「あいつは妹だ。血は繋がっていないけどな」

「妹?」

「俺が昔、一家で冒険者を組んでた話はしただろ。そのとき、他のパーティを抜けようとしてたシャルに会ったんだ。それからしばらく一緒に暮らしてた。別に、そう確認しあったわけじゃないし、誰かのお墨付きがあるわけじゃないが……家族だよ」

(天災のようなパーティだな……)


 《魔王アークエネミー》を含む開拓者の集団は、おそらく行く先々で騒動を起こしたことだろうとクローディアスは震撼する。


(話を戻すが、治安維持部隊隊長のジャスティンが貴様を追っていることを聞き出した。その警告のために貴様を探していたというわけだ)

「あの人の異能は空間転移だってクローディアスが知ってたの。テオも驚いてて……」


 その話を聞いて、スバルは目を丸くする。


「テオが、か? 空間転移は珍しくないはずだけどな」

「……そうなの?」


 予想だにしない流れに、対面する二人は同じ方向へ首を傾げる。ただクローディアスだけが、真相に気づいて言葉を失っていた。


「別々の人間が、似た異能を持つこともある。能力の強弱も個人差があるらしい」

「ジャスティンは、どう?」

「ろくに鍛えてなかったのは確かだな。伏兵でもいるのかと思って後ろに斬りつけたら、あいつ自身が転移してきたのは驚いたが……極めた奴はあんなもんじゃないぞ。そういえば……」


 なにか思い出話を続けようとしたスバルは、はたと黙り込んだ。

 長く生きていて異能も知り尽くしているはずのテオが、なぜジャスティンに脅威を覚えたのか。

 こちらも今になって感づいたのか、アリアが顔を両手で覆ってうなだれ、羞恥から震えている。スバルも同じように震えているが、それは握り締めた拳の憤怒の発露だ。


 テオは、アリアが街を出ることを躊躇っていると知っていた。

 スバルの後を追いやすくするために、一芝居を打ったのだ。


(もてあそばれたな)

「次に会ったら五回は殺してやる……」


 冗談ではなく確実に実行する意思を乗せて、スバルは殺気を吐き出した。


「奴のことはいいとして、ギルは他になにか言っていたか?」

(そうだな……)


 クローディアスは、あの激闘を思い出しながら話し始める。

 目覚めた魔族、怪物の尖兵に成り下がった英雄、まだ開拓者達は街に残っているだろうということ――――スバルは、一つ一つを吟味するように聞き入っていた。

 彼の落ち着き払った態度は、クローディアスに一抹の疑念を抱かせる。

 秘匿された魔領域を殺しにきたスバルにとって、《悪魔の心臓》が魔族そのものであること、魔族についての情報は重要なはずだ。しかし彼の言動は、すべてを既に知悉していたことを示している。開拓者達は、そしてスバルは、魔族の真実をどうやって知ったのだろうか。


 説明を聞き終えたスバルは、やはり冷静なままだった。ここまでの経緯と事情が、彼の想像の範疇はんちゅうにあったことが推し量れる。

 そのとき、ふとスバルは顔を上げた。アリアが黙りこくっていることに気づいたのだ。

 宝石の眼は、とろんと落ちた瞼に覆われ、徐々に首が前に倒れつつあった。かくん、と落ちたところで跳ねるように目を覚まし、彼女はすまなそうに言う。


「あ……ごめんなさい。私……」

「いいよ、疲れてるだろ。少し休んでろよ」

「待って!」


 部屋を出て行こうとしたスバルを、アリアの必死な声が押し留めた。足を止めたスバルは戸惑うが、彼女はそれ以上の言葉を発せずに、口を引き結んでしまう。助け舟を出すのは、やはりクローディアスだ。


(眠った女を放っていくつもりか? 相手は魔族だ。絶対に安心だとは限らないだろう)

「お前らが構わないなら、別にいいが」


 スバルに促され、アリアは大人しくベッドに身を横たえた。しばらく居心地が悪そうにしていたが、よほど疲労が溜まっていたのか、数分もしないうちに寝息を立て始める。

 無防備な少女と同じ空間に残されたスバルは所在なげにしていた。その心の内には困惑がひたすらに渦を巻いている。


(不安なんだ。貴様が、また知らないうちに消えてしまうのではないかとな)


 囁く思念は眠るアリアには聞こえず、スバルにのみ届いていた。

 戦闘において鬼神のごとき力を発揮する男の顔が強張り、苦痛を覚えたように歪む。髪をかきむしって苦悩したかと思うと、重い足取りで踵を返してしまった。


(おい!)

「食料を取ってくるだけだ。すぐ戻ってくる」


 クローディアスの返事を待つこともなく、スバルは静かに寝室を後にした。


(一体、なにがあったというのだ……)


 彼にもアリアと同じ、裏切りに彩られた過去があることは明白だった。

 もはや変えることもできない悲劇を暴くことに意味はない。いたずらに傷を抉るだけかもしれない。

 だが、とクローディアスは決意する。

 自覚しない痛みが癒えることはない。それを直視して苦しむことが好転に繋がる可能性もあった。ありもしない居場所を求めてもがいていたクローディアスに、テオが現実を突きつけたように。

 窓の外で、雨は止まず、しかし勢力を落としつつあった。

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