4-5.白竜

 ざわめくことすら忘れた人だかりに、カレヴァンの雨が降る。

 次世代の最強とうたわれていた治安維持部隊隊長ジャスティンが、その中心に横たわっていた。彼の黒い血潮に、一度も打ち合うことなく零れ落ちた剣がむなしく沈んでいる。


 狼狽して顔を見合わせる隊員達を油断なく見渡しながら、スバルは困惑していた。

 彼らの体内には魔族の眷属を生むための種子が埋め込まれている。最も強力な戦士を失った以上、形振なりふり構わず全員を眷属化させてくるかと思ったが、その様子はなかった。

 ジャスティンの亡骸なきがらから流れ出る黒血を見て、スバルはふと考える。あるいはこの男こそが魔族の指示を受けて人々を蝕んでいた張本人なのでは、と。


 真実は闇の中だ。

 もっとも、真実に意味はない。やることに変わりはないと、スバルは軽くかぶりを振った。

 そして、握っていた剣を一閃する。

 刃は空中で硬い音を立てた。半ばで切断されたボルトが、速度を殺せないまま転がっていく。

 それは地盤沈下を起こした場所にいるスバル達を見下ろす、穴の淵に配置された狙撃兵のものだ。


「撃て!」

「隊長の仇討あだうちだ!」


 不意の攻撃で我に返った隊員達が、にわかにときの声を上げる。

 浮ついた士気は同時に危うさをはらんでいた。隊長のジャスティンは自らの勝利を疑わず、作戦が失敗に終わった場合を想定しなかったのだ。


「馬鹿馬鹿しいな。黙って下がってりゃいいのに」


 スバルは剣を鞘に納め、代わりに拳を掌に打ちつけて獣の笑みを浮かべた。


「いいだろう。痛い目を見たい奴からかかってこい」


 その言葉を皮切りに、スバルとジャスティンを囲んでいた隊員達が一斉に殺到する。

 だが統制の取れていない集団など、ある一線を超えた技量を持つ戦士には脅威になりえない。


 スバルは先陣を切ってくる隊員の間合いに飛び込むと、得物を振り下ろしてくる手を受けて身体ごと回転した。屈強な男は突進の勢いのまま宙を舞い、スバルに腕を掴まれたまま地面に叩きつけられる。

 足が止まったところに、かすかな風切音と雨を裂く気配。

 四方八方から突き込まれる刃を、スバルは視認すらしない。するりと前進すれば、すべての剣が自ら避けたように空を切った。

 必殺を確信していただろう隊員を無造作に殴り倒し、疾風と化して彼らの足元へ滑り込む。低い軌道の足払いを受けた数人が喜劇のように折り重なって転倒した。

 くずおれる男の背を踏み台に、スバルは高く跳躍する。苦鳴とスバルの間を、横薙ぎの剣がむなしく通過した。

 空中で放った蹴りが呆然と立ち尽くす男の胸板を打ち抜くと、吹き飛ぶ大柄な身体が何人もの仲間を巻き込んで崩れ落ちる。

 着地の隙を虎視眈々と狙っていた者達は、その姿が残影すらなく消える様に愕然とした。恐怖を感じる猶予も与えられず、彼らは首筋に鋭い手刀を打ち込まれて昏倒する。

 屈強な戦士を徒手空拳のまま次々と薙ぎ倒す黒い暴風。その圧倒的な攻勢に、隊員達は恐れおののいた。


「なんて奴だ。人間業じゃないぞ」

「後衛はなにをやっている!」


 最初の攻撃から一切の援護射撃がないことに気づき、数人が後衛部隊の待機する地上を振り仰ぐ。

 そこに見えたのは、人形のように高々と空中を舞う仲間の姿だ。

 非現実的な光景に唖然としていると、白銀の髪をした少女がひょっこりと顔を出す。


「スバル、こっち!」


 そう叫びながら、彼女は穴の淵にかけられた梯子はしごやロープを外し始めた。

 その行為を止める者はいない。あるいは、誰も止められる状態にないのか。


「命拾いしたな」


 スバルは腰の引けた隊員達を獰猛な視線で一瞥いちべつすると、少女が呼ぶ方へと駆けていく。

 それを制止する勇気を持った人間はおらず、何人かは安堵のあまりにへたり込んで黒い背中を見送った。


「掴んで!」


 崩れた道路の端から、身を乗り出したアリアが手を伸ばす。スバルは一瞬だけ躊躇ったが、近くの瓦礫を足場に跳躍すると、小さな掌に自らのそれを重ねた。

 直後、身体を浮遊感が襲う。

 驚愕が形になる前に、スバルは軽々と引き上げられていた。

 地上では弓やクロスボウで武装した治安維持部隊の後衛が一人残らず蹴散らされ、意識を失っている。他に大規模な破壊はなく、魔剣の力を発揮した形跡はないが、状況を考えれば下手人は一人しかいない。

 思わずまじまじとアリアを見つめれば、彼女は居心地が悪そうに口をつぐんでうつむいてしまった。


(驚いたか?)


 呆然としていたスバルは突然の声で我に返る。頭に直接響いてくるような言葉には不思議と聞き覚えがあった。


(今でこそ《黒い剣》などと呼ばれているが、元々アリアは幼くして《白竜ホワイト・スケイル》の異名を取る神童だった。剣を使わずとも雑兵ぞうひょうなど物の数では……)


 饒舌じょうぜつな声が尻すぼみに消えていく。見れば、アリアが黄金色の瞳で自らの剣を睨みつけているところだ。


「クロ、黙ってて」

(……すまない)


 剣と会話する女――その不可思議な姿に目を瞬かせていたスバルは、ふと笑みを零した。いつも張り詰めていた彼女の顔も、魔剣クローディアスの声も、本来の柔らかさを取り戻して安らいでいる。決して楽観できる状況ではないものの、彼女達の抱えていた最も根深く困難な問題は解決を見たのだと実感したのだ。


「ごめんなさい。怒って、いますか?」


 バツの悪そうなアリアの目が、長い睫毛まつげ越しにその笑みを見上げる。魔剣の宿っていたときは大人びた少女だと誰もが思ったが、今はいたずらをとがめられた子供のごとくだ。

 他の皆がカレヴァンを脱出できるよう、自らを囮にして敵の注意を引いたスバルの戦いを無駄にしてしまった。彼女にもその自覚はある。


 スバルは小さく溜息を吐いて、しかし力の抜けた笑みでアリアを見下ろした。無造作に伸ばした手が彼女の華奢な肩を元気付けるように叩く。

 そして突然、膂力りょりょくを増してアリアの身体を沈み込ませた。

 屈んだ二人の頭上を、太矢の空気を貫く音が通り過ぎていく。


「話は後だな」


 言葉短ことばみじかに告げ、スバルは鋭い視線を矢の放たれた方へ向ける。

 アリアと同じように、崩落を聞きつけた雇われの傭兵達が集まってきていた。治安維持部隊よりも分別がない彼らの目的は賞金首、ただそれだけだ。


(アリア、まずは飛び道具を抑えるぞ)

「わかってる!」

「おい、ちょっと……」


 一人と一振りの決断は早く、制止を差し挟む間もない。

 どん、と爆音にも似た衝撃が広がる刹那に、彼女はスバルの眼前から消えていた。


 まさに飛ぶような速度でアリアが駆ける。地を蹴るたびに石畳がぜ、道に面した建物の窓や戸が震えた。

 雨に紛れて、迎撃の矢が襲いかかる。

 アリアの黄金色の視線は、その軌跡を正確に捉えていた。わずかに姿勢を変える動きだけで、すべてを紙一重で回避していく。

 かつてのクローディアスは、彼女の肉体を操作するために魔剣の能力のほとんどを費やしていた。だが今は違う。心臓で脈打つ魔剣の欠片はアリアの身体に異能と勝るとも劣らない力を与え、身体能力はスバルをも凌駕りょうがしていた。


 二人を遠巻きに仕留めようと目論んでいた賞金稼ぎの一団は、急速に迫る白銀の弾丸に慌てふためいた。

 白と黒の尾を引いた一陣の風が、そこに飛び込む。

 拳打蹴撃の嵐が吹き荒れ、屈強な戦士達を玩具おもちゃ独楽こまを弾くように蹴散らした。ばらばらに粉砕された弓やクロスボウの残骸が、彼らのかたわらで雨に沈む。


 うめく連中を静かな双眸そうぼうが見下ろした。言葉はないが、とどめを刺さずにいることが彼女の心を如実に語っている。

 それは甘さであり、最後の慈悲だ。

 その気ならばアリアは、今の接触で彼らを肉塊に変えていた。覚悟は決めているが、避けられる人死にならば避けたいという気持ちにも偽りはない。


 無言の温情に対する返答は、死角から撃ち込まれる銃弾だった。

 たむろしていた連中は、初めから囮。そこを一望できる建物の二階に、銃を持った男が隠れていたのだ。


「……どうして……」


 苦渋に満ちた言葉は、誰にも届かず雨に溶ける。

 アリアは健在だった。彼女の身体を守るように薄墨色の膜が現れ、弾丸を跳ね返している。

 慌てて次弾を装填する男を見上げる瞳に、もはやぬくもりはない。爬虫類じみた冷徹な瞳が決意を湛え、薄暗闇の中で淡く輝く。


(アリア……)


 気遣わしげな声を振り切って、アリアは敵の潜む建物に向けて走る。

 そこに罠がしかけられていることは、ほくそ笑む傭兵達の表情を見なくとも明白だった。

 だからアリアは、ただ剣を構える。


 世界がかげり、空をあおいだ彼らは絶句した。

 虚空に出現した影――すさまじく巨大な黒き塊が、天を覆っている。

 それはアリアの動作に合わせて地上に落下し、狙撃手の潜んでいた建築物の半分を抉り取った。

 衝撃波が周囲を席巻せっけんし、彼らは身を縮めて耐えることしかできない。土台から呑まれて傾き始める建物の上階から、数人の賞金稼ぎが悲鳴を上げながら転がり落ちた。

 天変地異のごとき光景を目の当たりにして、彼らは恐怖する。話に聞いていた《黒い剣》の力と、その現実はあまりに剥離していた。


 更にアリアが剣を振り上げる姿を見て、いよいよ彼らは震えた。

 再び現れた影の正体を垣間見てしまったのだ。

 大きな塊と、そこから伸びる五本の傍流。

 それは、まるでなにかの掌のようだった。

 だが、これほど巨大な手を持つ存在など、どこにいるというのか。


 二度目の衝撃は、倒壊しつつある建物を真上から押し潰す。瓦礫や木材すら平らに圧縮され、羽虫の一匹すらも逃れることはできなかっただろう。

 都市アルバートを壊滅に追いやった黒い剣の魔女。大袈裟だと侮っていた逸話が真実であったことを、彼らは身をもって思い知ることとなった。


「あれを見て、まだやるか?」


 スバルの声に、茫然自失の体で硬直していた彼らは震え上がる。目の前の惨状に気を取られていて、もう一人の接近に気がつかなかったのだ。


「こ、降参する。もう、あんたらを追ったりしない。命だけは助けてくれないか」

「ふん……虫のいい話だな」

「だが、結局は俺達はあんたらに傷一つつけてないじゃないか。無謀なことに挑みたくなるのは仕方がないだろ? あんたらだって冒険者だ、わかってくれ」


 目をすがめるスバルに、リーダーらしき男が靴でも舐めそうな卑屈さで縋った。言われてもいないのに武器も捨て、丸腰で諸手を挙げる。

 厳つい連中が無様に喚く様を不快げに睨みつけ、スバルは剣を納めた。獣を追い払うように手を振り、アリアの方へと足を向ける。


 その無防備な背を、彼らは好機だと思った。

 あの人知を超えた魔剣は無理だとしても、同じ人間の姿をした若造ならばどうにでもなると感じたのだ。

 足音を雨に紛れさせ、懐の小刀を取って忍び寄る。逆手に持った刃をスバルの首に振り下ろしながら、彼らは勝利の美酒を幻視した。


「最後のチャンスを逃したな」


 嘲笑う声は、正面からだった。いつ振り返ったのか、いつ剣を抜いていたのか、それすらも彼らには理解できない。

 切断された腕の傷口から、数秒が経過してから思い出したかのように鮮血が噴出した。


「ま、待って……」


 命乞いの続きは、裂かれた喉笛から細い空気の流れとなって漏れる。

 スバルの背後には、一連のやり取りを見ていたアリアも追いついていた。鮮烈なほどの怒気が、大気を伝って肌を震わせる。

 二つの強大な刃が幾度も孤を描いた後、そこには原型すら留めない肉塊だけが残された。


 凄惨な殺戮の光景を前に、アリアは墓標のように黙然と立つ。まるで、自らの罪を見開いた瞳に焼きつけようとしているようだった。

 スバルとクローディアスもまた、口を閉ざして彼女を見守っている。見惚みとれている、と言っても過言ではない。降りしきる雨を浴びながら無惨な血の海にたたずむ白銀の髪の少女は、あまりに美しく、神々しかったのだ。


(これから、どうする)


 アリアがスバルの方へ向き直ったところを見計らい、クローディアスが切り出す。

 今までテオ達も含めた全員の行動は衝動的だった。ここで戦う決意を固めたからには、今後の方針を決める必要があった。


「この近くに《寝惚けた黒獅子亭》の支配人が用意した隠れ家がある。ひとまず、そこで休むべきだな」


 スバルの答えは明瞭だった。万全の状態を保っているスバルが休息を提案した理由は、その目に映るアリアにある。


「まだ本調子じゃないんだろ。無理しすぎだ」


 必死にこらえているが、アリアは肩で息をしていた。

 原因は自分の身体を長くクローディアスに預けていたことにある。今のアリアは、まさに病床から立ったばかりの病み上がりに過ぎないのだ。ライアン・レッドフォードとの戦闘を経て多少は勘を取り戻しているが、未だ全快には程遠い。


「……ごめんなさい」

「謝るな。それになんだ、俺もそろそろ腹が減った。丁度いい頃合いだ」


 下手な慰めは、俯き加減のアリアの面を少しだけ明るくする。対照的に、クローディアスは嘆息した。


(死体に囲まれながら食事の話をする奴があるか。つくづくデリカシーのない男だな)

「ほっとけ」


 スバルの持つ地図を頼りに、二人はカレヴァンの倉庫街を後にする。



 ◇ ◆ ◇ 



 治安維持部隊の作戦が作り出してしまった崩落現場では、気力を取り戻した隊員達が行動を始めていた。

 穴の淵にかけられたロープや梯子が破壊されてしまったので、何人かがその修理を試み、他は怪我人の手当てを優先している。助けがくることは期待できなかった。街を脱出しようとする開拓者の襲撃と、この作戦のために治安維持部隊のほとんどが動員されている。

 彼らの顔色は一様に青白い。すさまじい強者とはいえ、十人にも満たない相手だと侮っていた。伝説に語られるほどの強さを目の当たりにしたことで、矜持きょうじを抱いて戦ってきた心が折れてしまっている。死者が最小限だったことだけが救いといえた。


「梯子はどうだ。直せそうか?」

「なんとかなりそうです。ですが、怪我人の搬出は難しいでしょう」

「とにかく伝令だけでも出られればいい。本部に連絡して人員を要請しよう」

「その余裕があれば……ですが」


 生気のない乾いた笑い声が漏れる。彼の無気力さを普段ならば叱り飛ばしていたはずだが、代理の隊長として指示を出しているベテランも、折れそうになる膝を叱咤しったしてやっと立っていた。部下をたしなめる資格も、力もなかった。


「あの、隊長代理。よろしいですか?」


 そこに、別働隊の部下が戻ってくる。彼もまた病人のような顔色をしているが、それだけではなく、困惑や恐怖にも似た感情が顔を引きつらせていた。


「どうした。なにか問題か?」

「いえ……怪我人の報告です。命に関わる重傷の者はいません。ですが……」


 歯切れの悪いところを、隊長代理が無言で促す。やがて部下の男は声を低く落として、囁くように言った。


「隊長の亡骸が、ないんです。血の跡を残して、どこにも」

「なんだと?」


 案内されてその場所へ行くと、確かにジャスティンの死体は忽然と消失していた。

 黒い血溜まりも雨に洗い流されつつあり、ほんの数分後には跡形もなくなるだろう。ジャスティンの死が――――ジャスティンという人間そのものが、まるで虚構だったかのように。

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