4-3.《魔法使い》の系譜

 爆炎の熱を浴びながら、ウォードは背筋の凍る思いで冷や汗を流した。

 あと一瞬でも後退が遅ければ、ほんの半歩でも浅ければ、その身体は業火に焼かれていただろう。

 火種もないのに燃え盛る、煙を生じない奇怪な火焔。現世の摂理から剥離した異質な紅は魔素と呼ばれるエネルギーを源にする破壊そのものだ。この世の法則を超えた朱の光は万物を焼き尽くす。

 魔法を回避したことに胸を撫で下ろす暇はない。

 赤々とした火柱を挟んだ向かい側で、黒く鋭い殺意の烈風が渦を巻いていた。


 右から迂回してくるか、あるいは左か……ウォードは双剣を構え、次の衝突に備える。スバルは後手に回ることを良しとしない。たとえ唯一の武器を砕かれていても、死を恐れぬ獣のように喰らいついてくる。その確信があった。

 警戒はしていた。相手の得物を破壊して慢心していたつもりもない。

 だが、まさかその黒影が炎の中から現れるとは。


「馬鹿な」


 思わず漏れた驚愕の呟きを目がけて、スバルは折れた剣を振るう。

 その後を少し遅れて、冷たい風が追いかけた。闇にひるがえる黒髪は濡れ、一部が凍りついて白煙を上げている。

 スバルは自らの生んだ炎を、続けて唱えた魔法の冷気でじ伏せ、突き抜けてきたのだ。ほんの少しでも加減を間違えれば、自分の魔法で凍死か焼死しているはずだった。


 ウォードは辛うじてスバルの一閃をやり過ごし、カウンター気味に豪剣を見舞う。

 だが、懐に潜り込んできた相手への反撃は精彩を欠いた。それが最高速度に乗る直前、スバルの身体が沈み、そしてさかしまの雷と化して駆け登る。炎の赤光を受けたきらめきはウォードの腕を深く捉えた。傷は骨にまで達し、腱を切断された手から大振りな剣が零れ落ちる。


 緩慢に自由落下を始めた剣の軌道を、二人の視線がなぞった。

 思考は一瞬だ。

 スバルはウォードの剣を蹴り飛ばすと、ブーツが刀身を弾く硬い音を聞きながら、更に回転して折れた剣を薙いだ。

 甲高い風切音は、ウォードの頭上を走る。

 巨漢の姿は地を這うように沈み込んでいた。伸ばした腕は落下する剣を取ろうとしていたが、スバルに阻まれて届かない。

 だが、つるは届いた。

 手首からしゅるしゅると出現した鞭のような植物が、あらぬ方向へ転がっていく剣の柄を捕まえ、引き戻すと同時にスバルへ叩きつける。

 高速で飛来する鉄塊は、さしものスバルにも防げるものではない。大きく後退する彼へ、ウォードは低い姿勢から突撃した。

 赤い瞳の視線は、スバルの口唇を注視している。

 折れた剣にも殺傷能力はあるが、頑強な魔族の眷属を殺すには貧弱すぎた。得物がない以上、スバルは決定打を魔法に頼る他にない。


 詠唱を確実に阻止するため、多少のダメージを覚悟でウォードは間合いを詰めていく。

 だがその目が見たのは、言霊を発しようとする口元ではなく、獲物を眼前にした獣の凶悪な笑みだ。

 ぱちん、と軽やかな音と同時にウォードの視界が灼熱し、そして次の瞬間には暗闇に閉ざされた。

 視界だけではなく、聴覚も耳鳴りに支配されている。身体を襲う浮遊感で、彼は自分が至近距離の爆発で宙を舞っていることを知った。なにも見えず聞こえもしないのは、爆風が眼球を潰し、轟音が鼓膜を破壊したためだ。


 魔法は詠唱していなかったはず――激痛と困惑に意識を囚われていたウォードは、ふと焼けた肌を撫でる風に気づいた。手の甲に触れる冷たさは、水の飛沫だ。

 決断は早い。全身から飛び出した枝や蔓が古びた石壁を次々と穿うがち、彼の巨体を空中に支え止めた。

 急速に治癒していく五感がウォードに現状を教える。宙吊りになって揺れる爪先の下を流れていくのは、地上で降ったスコールだ。先の手合わせでウォード自身が破壊した壁の穴から水路へ放り出されたのだった。


「化物具合に磨きがかかったな」


 嘲笑は、轟と吼える濁流に紛れて届いた。

 水路の両脇にある足場を、黒い死神が駆け抜ける。全身から根や枝を生やして樹木の化身となったウォードの姿をおそれる様子など、当然ない。


「ほざけ。俺に言わせれば、お前達の方が……」

「水針」


 化物だ、という台詞を、スバルは最後まで聞かない。

 簡潔な詠唱は水流から鋭い穂先を作り出した。それは枝を操って後退を始めたウォードの鼻先を掠めて天井を突く。

 ウォードは流れをさかのぼるように移動しながら、スバルを目がけて種子の弾丸を放った。

 細い足場には逃げる場所はない。


瀑布ばくふ!」


 視界が白く染まる。

 爆風じみた水飛沫が魔族の力を帯びた種を飲み込み、ウォードを激しく打ちえた。まるで横に落ちる滝を正面から受けたような衝撃に、ばきばきと枝が軋んで音を立てる。

 スバルは大量の水が不規則に乱舞する中をずぶ濡れになりながら跳躍し、軽業師のようにウォードの両肩に着地する。


 両腕を添えて振り下ろす剣が、ウォードの脳天を貫いた。刃は頭蓋を割って、内部に守られていた脳をずだずだに破壊する。開いた口が断末魔の声を漏らし、二つの眼球がぐるんと回って白目を剥いた。

 常人ならば即死だが、彼は既に人を捨てている。

 剣を抜いたスバルの横手から、巨大な掌のように広がった枝が横殴りに襲いかかった。それは本能のようにも、あるいはウォードに寄生した魔族の細胞が自我を持って行動したようにも思える。

 不意をつかれたスバルは全身を切り裂かれ、四肢を絡め取られて壁に叩きつけられた。轟音と共に壁面には亀裂が入り、潰されたスバルは空気と苦鳴を吐く。

 枝は更に音を立ててたわむと、スバルを捕らえたままで水中に沈め、濁った水の深い底に押さえつけた。

 身体を圧迫されて筋骨が悲鳴を上げ、口の端から苦痛の唸りを閉じ込めた気泡が漏れ出していく。

 ウォードは敵の溺死をただ待つ気はないのか、水流をゆっくりと漂う枝の槍がスバルの顔面に狙いを定めた。

 そのとき、スバルは見た。

 枝の中に生まれた、大きな目玉だ。

 ウォードの視覚と直結しているだろうそれが、スバルの苦しみもがく様を眺めている。

 かっ、と黒い血が沸騰するようだった。

 そしてそのときウォードは、第三の眼を通して、スバルの目がらんと輝くのを目撃する。


 爆音は、激しい衝撃と高温の水蒸気を伴った。

 発現した巨大な爆発は、魔族の枝を大量の水諸共に吹き飛ばす。狭隘きょうあいな空間に充満した高熱の白煙は、もし尋常の生物が存在したならば即座に蒸し殺していただろう。

 ウォードは、樹の幹を思わせるシェルターの中にいた。勝利を確信して当然の状況にありながら、身を守るための体勢は整っていたのだ。

 水中では、声を出せない。魔法の詠唱など到底不可能だ。

 だが、スバルは違う。


「《魔法使いメイガス》仕込みか……」


 苦々しい呟きを噛み砕く。

 スバルの父、リゲル。彼が家庭を築いていたという情報は、かの《凶刃》が過去のものとなった頃にもたらされた。冒険者界隈かいわいは人の入れ替わりが非常に早く、伝説と呼ばれた人物でさえ数年も音沙汰がなくなれば死んだか引退したと見なされる。リゲルもまた、一時の暴走とも思える活躍の後、長い空白期間を経て忘れ去られていた。

 だが彼と関わったことのある人間ならば、その鮮烈さを忘れることなどない。そして彼の妻となった女性のことを知り、戦慄するのだ。


 《魔法使いメイガスリーゼ》――現代に残る最後の正当な魔道士。彼女の力を目の当たりにした者は、自らの魔法を魔法と称することを恥じたという。

 ウォードが自分の肉体を魔族に明け渡してまでスバルとの戦いに備えた、最大の理由がそこにあった。かの魔法使いならば詠唱すらしない魔法を使えたとしてもおかしくはない。そして、それを子に伝授することも。


「風をり、紡ぎ、糸を成す」


 強化された聴力が、反響する声を捉える。

 貝の殻のように閉じた樹の幹をこじ開け、ウォードは幾分温度の下がった水路に顔を晒した。耳を澄ませば、荒い息の詠唱が聞こえる。

 その源は、崩れた壁の向こうだ。スバルは身体の自由を取り戻した後、自分の身を魔法で守りながら、手近な部屋へ逃げ込んでいる。


「糸を編み、織り、刃を成す」


 全身を貫く悪寒に突き動かされ、ウォードはスバルを追っていた。

 そこには粉塵が広がり、視界はないに等しい。聴覚を頼りに敵の居場所を特定して、その場所へ双剣を振り下ろした。

 二筋の斬撃が断ち割ったのは、朽ちた棚だけだ。

 そこで、気づく。空気がよどむはずの地下の空間に吹いた奇妙な風に。

 それが詠唱の声を乱して位置を誤認させる罠だと理解したときには、手遅れだ。


「凪ぎ払え、風糸の剣」


 ウォードが反射的に防御の構えを取れたのは、ただの勘だ。間に合ったのは僥倖ぎょうこうに過ぎない。

 交差した双剣と、閉じた翼のように身体を覆った枝の上から、一筋の刃という名の鋭利な風が斬りつける。

 刹那の凪。

 次の瞬間、吹き荒ぶ突風にウォードの胸が真一文字に斬り裂かれ、多量の黒い血が舞い散った。身を守っていた枝もまた、ばらばらと砕けて足元にばら撒かれる。


 不可視の刃が起こした剣撃の余波が、埃と血煙を一息にかき消した。

 明瞭になった世界を、スバルは剣の残骸を手に疾駆する。魔族に魂を売り渡した鬼を、今度こそ打ち倒すために。

 猛然と迎え撃ってくる双剣の嵐をかいくぐり、命知らずにもその懐へと飛び込んでいく。

 その姿を捉えたウォードの赤目が、揺れた。

 まるでスバルに、別の人物を重ねてしまったように。


 咆哮が反響する。

 慟哭どうこくだ。


 なにを悲しんだ声なのか――それを知る者はいない。そしてスバルには、その興味もなかった。

 奮い立つ敵へ目がけ、指を差す。

 ウォードはスバルの魔法が、詠唱以外にも身体の動きで発現することに気づいていた。咄嗟に防御を取るが、その瞬間にあやまちを悟る。

 罠だ。

 スバルは、その一瞬で背後に回り込んでいた。

 まっすぐに突いた刃は肉を裂いて、肋骨の間を通過する。

 しかしそれが心臓に到達する直前、スバルは強い衝撃を受けて吹き飛ばされていた。ウォードの背中から生え出た枝に阻まれたのだ。剣は彼の背に刺さったまま、スバルは唯一の得物を失う。


「火線!」


 スバルは、躊躇わなかった。

 剣を引き抜こうとする枝を炎の弾丸で焼き落とすと、素手のまま突進する。


「剣を失い、なお挑むか!」


 ウォードは吼え、双剣を振り被って自らもスバルへ向かい疾走した。

 両の手だけではない。その肩から更に、骨の剣を握った一対の腕が出現し、四腕の異形と化した。


 どんな人間や魔物でさえも一瞬で細切れに変えるだろう、凄絶な剣舞。

 しかし、掠りもしない。

 飛び、伏せ、駆ける。影が縦横無尽に躍動する。

 幻や霞を相手にしているようだった。

 黒い悪夢は《暴力ブルート》と称された男の姿を取って、すべての剣撃を鮮やかにかわしていく。

 武器もなく、こんな化物を前にどうして――焦燥に突き動かされるウォードは、信じ難いものを目にして息を呑んだ。

 スバルは、笑っていた。

 絶体絶命の窮地に立ちながら、楽しくて仕方がないといわんばかりの表情だ。

 開拓者。

 どこかが壊れた者達。暴走する以外に進む術を知らない人種。そしてだからこそ、なにかを切り拓く可能性を秘めている。

 強い、弱いではない。どれほど力をつけようとも、たとえ悪魔に身体を明け渡しても、辿り着けない狂気の領域――そこに鼻歌交じりで踏み込める正真正銘の怪物。その片鱗を見て、ウォードは初めてスバルを恐れた。


 恐怖を喰らい、刃なき凶刃がわらう。

 スバルは振るわれた剣の腹を、撫でるようにして受け流した。

 自らの勢いを利用されたウォードが体勢を崩したところに、体当たり気味の肘を叩きつける。確かな手応えと、何歩も後退する巨躯。そこへ、電光石火の速度で間合いを詰めて畳みかける。鉄槌に匹敵する左右の拳が、狙いもつけずに幾度も繰り出された。重すぎる打撃に自分の皮膚も裂け、互いの骨が軋んで罅割ひびわれる。

 それでもスバルは止まらない。


「剣を失って、だと? 剣なら、そこにあるだろ」

「……まさか!」


 そのたくらみに気づき、ウォードが叫ぶ。

 しかし反撃に出ようとした瞬間、スバルが突然に足を踏み鳴らした。

 どん、と強い衝撃が足元を揺らす。

 無論、脚力で地を震わせたわけではない。それは魔法を引き起こす合図だ。

 一瞬の鳴動はウォードが斬撃を放つために踏み込もうとしていたところを捉え、ぐらりと身体をふらつかせる。


 スバルは、旋回しながら跳んだ。

 黒い旋風は重く鋭い蹴撃を呼び、魔族の眷属と化した男を激しく吹き飛ばす。


 背面から壁に叩きつけられたウォードは、びくんと痙攣した。

 その背には、先程スバルが突き刺した剣が残っている。

 心臓に達する寸前で止まっていたそれが今、狙っていた急所をついに貫いたのだ。


 魔族の力で生み出した一対の腕が苦悶するように空をき、やがて灰となって崩れ落ちた。手だけではない。肥大化していた身体がぼこぼこと蠢き、濁った液体を噴出し始める。

 ウォードはしばらくふらついていたが、やがて、どう、と自らの血で汚れた地面に沈んだ。


 魔族に魂を売り渡した冒険者の最期。

 スバルは父の戦友だった男を見下ろすと、ぽつりと呟く。


「あんた、やっぱり前の方が強かったぞ。無駄なことをしたな」

「そんな……風にいえるのは、お前くらいだ……」


 仰向けになったウォードは、ごぼごぼと不明瞭な声で言う。


「心臓が急所だと、知っていたのか」

「魔領域の核は悪魔の心臓っていうだろ。なら、それが弱点だって誰でもわかる」


 ことげに答えるスバルに、ウォードは苦味を含んだ空虚な笑いを返すことしかできなかった。その途中で咳き込み、胸元に血の塊を吐き出す。


「おそろしい……奴だ。リゲルめ、なんという男を、育てた……」


 心臓を破壊されても即死しないのは驚くべき頑強さだが、それでも最期の時間が延びるだけだ。

 彼は今、確かに息絶えようとしていた。

 そのかたわらに腰を下ろし、スバルは天をあおぐ。地上にあるのはカレヴァンだ。自分の父が切り拓いた道を、ギル達が利用して作った街。


「まだ生きてるか?」


 ふと横目にしたウォードは、虚ろな眼でスバルと同じく天井を眺めていた。意識があるのかも定かではないが、スバルは構わずに続ける。


「あんたから見て、俺の親父はどうだった」

「……人の皮を被った……怪物だと」


 長い間を空けて返ってきた言葉に、ひどい言われようだ、とスバルは苦笑いする。


「災害に、近い。手綱たづなを握らねば……すべて滅ぼしかねなかった……地下の魔領域を活用することにも……奴だけが反対した。まつりごとも、はかりごとも、顧みない……闘争と、破壊の権化……」


 血を吐きながら、うわごとのように声を絞り出す。あまりの凄惨さに、思わずスバルは手を伸ばした。


「おい、苦しいならいい。無理して喋らなくても……」

「だから、俺がめた」


 突然の告白に、スバルは目をみはる。そしてウォードの姿に息を呑んだ。

 彼は、泣いていた。

 もう見えてもいない目に涙が浮かび、まなじりから静かに流れ落ちていく。


「奴が下層へ向かう途中……ゴンドラに乗り込んだところで、鎖を切った。仕方が……なかった。ギルに命じられた……いや」


 声は震えていた。彼の身体もまた、死の痙攣けいれんを始める。

 それでもまだ、突き動かされるようにウォードは言葉を続けた。


「ずっと恐れていた……魔物より、魔領域より、あの男を……しかし、後悔した。どれほど、得体が知れなくとも……仲間だった。共に死地をくぐった……戦友だったのに……俺は、なんということを……」


 小刻みに振動する手が、なにかを求めて床を掻く。だがどこにも届かず、自分の血溜まりでいたずらに汚れるだけだった。

 そのとき、光を失っていた目が、突然に力を取り戻す。

 もはや絶えようとしている生命の、最後の輝きだ。


「スバルよ……教えてくれないか。リゲルは、帝国のクーデターに……巻き込まれて、死んだと・……風の噂に、知った。確かな筋の、情報だ……」


 彼の問いを、スバルは神妙な顔で聞いていた。

 どれほどの剣士でも、過去の存在になってしまえば誰もが興味をなくして。リゲルも例外ではなく、その死亡説が流れたときにも否定する人間はいなかった。

 無論、ウォードやギルが疑いを持ったことは想像にかたくない。だが伝説の英雄でさえ一瞬の間違いで呆気なく命を落とすという真理も、彼らは理解していた。


「教えてくれ……奴は……最期を、どう迎えた……俺達を……憎んでいたか……」


 スバルは荒々しく黒髪をかきむしって息をつく。

 ずっと感じていたことだった。ウォードの目には、どこか深い陰が落ちていた。魔族の手先となり、しかしなにか強い意志を秘めて戦っているギルとは違う。

 彼は後悔しているのだ。かつての仲間を手にかけたことを、あれから数十年が経過した現在でも――死を目前にした今でも。

 鬼と称された剣士の、子供のように怯える様を見つめ、やがてスバルは端的に答えた。

 ただ一言の、だが決定的な言葉で。


「死んでない。まだぴんぴんしてるぞ、あのおっさんは」


 ウォードは、瀕死の苦痛すら忘れて愕然とした。

 言葉を失い、ただその続きを待ち望んでいる。


「クーデターの話だが、そのときに反乱軍の鎮圧を手伝ってな。きだったんだが、皇帝に恩を売って情報操作を頼んだんだ。あんたの得た情報ってのも、そこが出どころだよ」

「……そんな……本当、なのか……?」

「残念ながらな。あんたも後悔も、無意味だったわけだ」


 嘲るにしては、あまりに優しい声音だ。

 スバルはウォードの強張こわばった顔を見下ろし、肩をすくめておどけてみせた。


「今、親父がどうしてるか気になるだろ? 笑えるぞ。俺の母親と二人で、帝国領の僻地へきちで隠居してるよ。冒険者より楽しいことを見つけた、とかなんとか言ってな」


 少しの沈黙が降りる。

 やがてウォードは、死相の濃い面を楽しげに歪めて、大きな笑い声を上げた。

 身体をよじる度に傷口が開き、口からなく血を吐きながらも、その発作が止まることはない。


 戦いしか知らなかった、人形のような男。怪物、化物、およそ人を恐れる言葉のすべてを与えられた暴力の化身とも思える剣士。

 それが女と共に平穏な暮らしを望んだという事実に、ウォードは笑い続ける。双眸そうぼうから滂沱ぼうだと涙を流しながら、ただ叫ぶように。


「そうか……リゲルは……人間になったか……」


 笑いごとじゃない、という文句を飲み下して、スバルもまたくつくつと身体を揺らす。

 スバルは、リゲルとリーゼ、姉にして今は《魔王アークエネミー》などと呼ばれているスピカと四人で旅をしていた。その途中、父が突然に冒険者を辞めると言い出したときは驚いたものだった。いつもぼんやりとしていて、戦いの外ではおよそ役に立ったためしのない彼が、自らの意思をはっきりと表明したのは初めてだったのだ。

 スバルとスピカは、それぞれ両親が持っていた赤い剣と鉈の装飾――そのときはただの飾りだと思っていた《切り拓く剣》を受け取り、別々に旅立った。

 そのときスバルは父から、空の森という魔領域に秘匿があることを告げられたのだ。目的のない旅よりはマシかとここまできたが、まさか彼のルーツに触れることになるとは思わなかった。スバルは今も遠くで気ままに過ごしているだろう父に、最大限の敬意と文句を抱く。


「……すまない……」

「謝るなよ。大体、親父は嵌められたことに気づいてなかったぞ。ゴンドラが落ちたのは老朽化が原因だって……」


 絞り出すような懺悔を笑い飛ばそうとしたスバルは、迷った末に口を閉ざす。

 ウォードの瞳は、もうなにも見ていなかった。


「……すまなかった……リゲル……俺は……バートよ、俺は……」


 バート――バートランド・ギルの愛称だ。

 彼らの間に、なにがあったのかスバルは知らない。そこにどのような確執かくしつが、絆があったのか。

 いずれにせよ、もう失われたものだ。思いを馳せることに意味はない。

 ウォードの身体が弛緩し、膨れていた肉体が灰に還る。残されたのは歳相応にしぼんだ老人の死体だけだ。

 スバルは彼の涙に濡れた目に手を伸ばし、瞼を伏せる。《断鬼オーガ》の死に顔は、ひどく安らかなものだった。


 複雑な感情を胸に立ち上がろうとしたスバルは、ふとウォードがなにかを抱いていることに気づいた。

 彼本来の身体と、魔族が作り出した巨躯の間に、それは存在していたようだった。スバルは正面からウォードの心臓を貫こうとしたとき、なにか硬いものに阻まれたことを思い出す。


 黒ずんだ灰を払い、スバルは息を呑む。

 それは、剣だった。

 黒金の装飾が美しい、やや大振りな片手剣だ。

 一目で正体がわかった。スバルがウォードの鍛冶屋に預けたデュラハンの剣の残骸、それを打ち直したものだ。

 柄を握れば驚くほど手に馴染む。常人には重すぎるだろうが、スバルにとっては心地良い。


 強い魔物の血肉は、魔族の眷属を作る触媒として優秀だとウォードは語った。

 だが本当に触媒としてだけ使うならば、こうして剣にする必要などなかったはずだ。

 ならば、なぜ――真実は彼の命と共に、永久に失われている。

 もっとも、そんなものは大したことではなかった。スバルには、この剣で戦うことしかできないのだから。


 鞘を汚す灰や黒血もそのままに、腰のベルトに吊り下げる。スバルは、この剣が長い間、その場所を占有し続けるだろう確信を持って、立ち上がった。

 そして、おもむろに振り返り、鋭く言い放つ。


「それで、いつまで見物してるつもりだ?」


 部屋の隅、暗がりの中。

 そこに人影がたたずんでいた。

 ずっと隠れていたわけではない。戦闘を監視しているような意思は感じていたが、姿を取ってここに出現したのは、まさにこの瞬間だった。


 それは、一言も発することはなかった。

 深く被ったフードの向こうに、赤く光る目と、樹の蔓が這うような顔が見える。魔族の眷属だが、それにしては異常だ。この空間に満ちる鬼気はスバルをして総毛立たせるほどに強く、禍々しい。


「お前、魔族だな」


 やはり、答えない。

 虚ろな目でスバルを凝視していたかと思うと、それは突如として消失した。


 なんだったんだ、と浮かんだ愚痴が言葉になることはなかった。

 衝撃と轟く爆音が、地下を揺るがす。


「おい、冗談じゃ……」


 さすがに焦りを隠せず、零れ落ちた狼狽ろうばい。それもまた地下水路の崩落に巻き込まれ、押し潰されていった。

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