4-2.闇の血
カレヴァン地下水道――街に降るスコールを逃がすため、蜘蛛の巣のように張り巡らされた迷宮。長きに渡る抗争が原因で、
陽の光も届かない暗闇に、消えた明かりの
静寂の漆黒を、鋭い呼気と地を蹴る気配が乱す。
そして次の瞬間、激しい火花が鋼の音と共に閃いた。
照らされたのは《空の森》を殺した冒険者《
その眼前に、切り結んだはずの相手はいない。
殺気は、背後だ。
互いの得物が接触して閃光が生まれる刹那の間に、その姿は消えていた。異能を持たない人間がここまで速く動けるか、とウォードは戦慄する。
空気を裂く響きは、なきに等しい。だが死角からの白刃が彼に届くこともなかった。
音速にさえ匹敵する剣を防いだのは、樹の枝だ。ウォードの背から出現したそれが、首への一撃を受け止めていた。
ウォードは、忌々しげな舌打ちを目がけて一閃を放つ。防御を魔族から得た力で
再び、小さな光が弾ける。重い手応えは相手を吹き飛ばした証拠だ。
壁面に叩きつけられた男の苦鳴の方へ、ウォードは猛然と突進する。その勢いのまま、双剣を束ねるように構えて
斬撃の域を超えた衝撃は石造りの壁を容易く粉砕する。その向こうは、濁流を地下へ逃がすための水路だ。瓦礫の一部が落下して、水音を立てた。
「横着しやがって」
その音に悪態が混ざった。
まさに鬼のごとき豪剣を紙一重で回避していた、スバルだ。父親譲りの黒い目が、するするとウォードの体内へ戻っていく枝を睨みつけていた。
ウォードの同士にして《
「そんなに枝だの
「いい考えだが、生憎、その手の感性には恵まれなくてな」
職人
その表情に余裕はない。ギルやリゲルの陰に隠れてはいたものの、ウォードもまた
彼の技が徐々に冴えを増していくのがわかる。鍛冶師に転向して戦いから遠ざかっていたために鈍った勘が、剣の一振りごとに取り戻されていくのだ。
先日の戦闘では、彼は双剣を扱っていなかった。それは決してスバルへの侮りではなく、老いに蝕まれていただけのことだ。今の彼は、違う。醜く肥大した肉体は、衰えた鬼に全盛期を超える力を与えていた。
「黒い血か」
スバルとの距離を計りながら、ウォードは零す。
先の攻防で、スバルは頬をすりむいていた。小さな傷から滲むのは赤ではなく、黒くどろりとした血液だ。
尋常の人間が流す色ではない。そして、それは魔領域の主に魂を売り渡したウォードと同じものだ。
「カレヴァンでの事業が軌道に乗ったあと、ギルは俺や他の仲間達に魔族の助力があったことを明かした。奴が連れてきた魔族の
異常な回復力と身体能力、暗闇を見通す目は、かつて味方ながらにしておそれたリゲルに酷似していた。
そして、ウォードは意を決したように続ける。
「リゲルも……ただの人間ではなく、魔族の血を受け入れた者なのだな」
それは事実の確認であり、相手の動揺を誘う目的を秘めた問いだった。だがスバルは、当然のように答える。
「魔族が
「なるほどな。よくそれで人との間に子を
「本当にな」
スバルは肩を
「魔族の血が力の源ならば、半分は人間であるお前の剣はリゲルに及ばんということだ。違うか?」
「うるせぇ」
その悪態は端的にスバルの心境を表していた。
彼の身体能力や剣技は超人の領域に達しているが、しかしリゲルには届いてはいない。あまりの強さに《
ウォードは既にスバルの剣術を
「条件は五分五分ということだ。戦友の息子だろうと、関係ない……死んでもらうぞ」
なんの前触れもなく、ウォードが一歩を踏み出す。
それはスバルの間合いを侵犯し、剣舞の再開を宣言した。
対峙する二人が弾かれたように前進する。
決して広いとはいえない地下の一室を、刃の暴風が
一見すると互角だが、そうでないことは双方が理解している。
その発生源は、スバルの剣だ。
ライアン・レッドフォードとの死闘でデュラハンの剣を失ったスバルは、その代わりをウォードから譲り受けた。質実剛健を体現した武具の数々はここまでの戦いで破壊され、残っているのはロングソードの一振りだけだ。その最後の一本も《断鬼》の剣技に耐えられず損傷しつつある。
長期戦は不利。
決断と行動は、同時だ。
スバルは斜めに振り下ろされる剣撃を撫でるようにして逸らす。相手の身体が泳いだところへ、霞むほどの速度で間合いを詰めた。
肉を食い破る音は、ウォードの胴体から《空の森》の魔族の象徴たる枝を生む。
スバルは、それを視認すらしない。鋭い迎撃に身を裂かれつつも、旋回しながら相手の死角へ潜り込む。流れるように繰り出した肘鉄は、まさにスバルを両断せんと迫っていた剣の柄を打った。鈍い感触はウォードの指が砕けたものだ。それでも剣を取り落とさないのは驚くべき執念だが、その隙だけでもスバルには十分だった。
更に竜巻のごとく回転すると、スバルは遠心力を存分に乗せた回し蹴りを見舞う。まるで丸太を蹴ったような重い手応えを残し、ウォードの巨体が横っ飛びに投げ出された。
意趣返しのように壁面へ打ちつけられたウォードは瞬時に折れた骨を治癒すると、自らの腕に意識を集中させながら身構える。
そこには既にスバルが肉薄していた。
間合いに侵入される直前、両腕から指先大の物体が放たれる。同時に、これまで何度もスバルの攻撃を妨げた枝が伸び上がった。もはやウォード自身が樹木と化したかのような規模に、黒い残影が急制動をかける。
瞬間、スバルの姿がぶれた。
ウォードは驚愕に赤い目を見開く。
あまりに高速の斬撃が、魔族の血で強化された視界ですら捉えられなくなったのだ。
縦横無尽に白刃が閃き、枝葉を切り払う。銃撃に匹敵するはずの飛来物もほとんどが叩き落された。
刹那の静寂。
不敵に口の端を吊り上げた悪魔が血飛沫をまき散らしながら、弓矢の
鳴り響いたのは心臓を貫く音――――では、ない。
鋼の噛み合う感触に、スバルは小さく
最短距離を突き進んだ刺突は、確かにウォードの身体を
びし、と剣の悲鳴が二人の鼓膜を震わせる。
スバルは躊躇わず、
強襲をやり過ごしたウォードは一転、間髪入れずに攻勢へ打って出た。
魔族の枝による重心の歪みすらも利用して、人間にあるまじき
ついに追い詰められたスバルが、たまらず剣を振るった直後――甲高い断末魔が暗闇に響き渡った。
からん、と
かすかな動揺は、達人同士の戦闘において致命的だ。
横殴りに襲いかかった枝が、スバルを激しく薙ぎ払う。鍛えられた身体が軽々と宙を舞い、苦鳴と共に床を跳ね回った。辛うじて受身を取ったスバルの顔は、さすがにダメージから歪んでいる。切れた口の端から、つ、と一筋の血が流れた。
「やはり、丈夫だな。常人ならば全身の骨が砕けているところだ」
「頑丈なのが取り得だからな」
感心したようなウォードの言葉に軽口で答えながら、スバルは体内の異物感に眉根を寄せる。ウォードが迎撃で放った銃弾のようなものが、一つだけスバルの身体に当たっていたのだ。
スバルは歯を食い縛り、肩に穿たれた
手負いの獣を思わせる唸りを上げながら、粘着質の音を立てて傷口を抉ると、そこに潜り込んでいたものを引きずり出した。生きているかのように
「これが魔族の眷属の正体か」
落としたそれを踏み砕きながら、スバルは鼻を鳴らす。
突如として変貌する冒険者達。彼らには食事に混ぜるなどしてそれを摂取させていたと考えられる。宿主が死んだとき、それは目覚めて死体を操り始めるのだ。
「すぐに摘出したのは正解だったな。もう少し放置していたら、お前は心身を乗っ取られていたはずだ」
「あんたも、これを食ったのか?」
「原理は同じだが、お前の想像とは違う。俺が自我を保っているのは、偶然ではないのだ」
ウォードは全身を不気味に
「人間が魔族の力に耐えることなどできん。それゆえ、魔族の影響を受けた現世の生物を媒介にする」
「ってことは、これは《空の森》の魔素で変質した植物の種子か」
魔物とは、魔領域が造った魔族の手先と、魔素で突然変異を起こした動植物に分けられる。その後者を人間に埋め込み、魔族が働きかけることによって眷属が生まれるのだ。
「より強く育った魔物の血肉ほど、人の身体に馴染む。幸い、俺の手元には百年近く生きただろう魔物の一部があったのでな」
ウォードの言葉を
「この野郎、俺の剣を使いやがったな!」
「デュラハンの剣は素晴らしい材料になったぞ」
レッドフォードに砕かれた剣を、スバルはウォードの営んでいた鍛冶屋に修理を依頼していた。あのとき、この男が敵だとわかっていればと、怒りが募る。
「わかったろう、スバル。今の俺は全盛期の頃を大きく超えている。あのとき手合わせしたリゲルと比較しても、引けを取ることはないだろう。お前は戦うべきではなかったのだ」
スバルの折れた剣と、足元に
「もう勝負はついたとでも言いたげだな。舐めやがって」
しかし、スバルの面に浮かぶのは絶望や憤怒などではなく、苦笑いだ。状況を理解しているのか疑わしい態度にウォードは眉根を寄せ、同時に警戒する。
心当たりはあった。
魔法だ。
ウォードの知る限り、《剣聖リゲル》の魔法への適性は壊滅的だった。ごく簡単な魔法すら発現させることはできず、こと戦闘においては無敵を誇った男の唯一ともいえる弱点だ。
スバルが魔法を唱えたところを見て、ウォードはこの上なく驚愕し、そして恐怖した。リゲルの力を受け継ぎながら魔法を扱える男――それが想像を絶する脅威になることを、確信せずにはいられない。
「ところで、あんた、俺の親父と良い勝負をしたってのが自慢らしいが……」
折れた剣を両手の間でもてあそびながら、スバルは息を整えた。
それを短刀のように逆手で構え、全身の筋肉を
まるで戦意が衰えていないことに戦慄するウォードへ、
「なんでもありの模擬戦なら、
疾走の速度は、自らの声すら追い越さんばかりだ。
積もった埃が、ほぼ同時に直線の軌道で蹴り上げられる。
咄嗟に後退したウォードの鼻先を、
半円を描いた刃が、今度は落ちる刺突に変化する。斜めに割れた断面は鈍いが、それでも人体を貫くには十分だ。
体重の乗った一撃を、あえてウォードは
横手に回り込む気配へ、勘を頼りに斬りつける。しかし鬼の豪剣は初速を得る直前、スバルの折れた剣が押さえつけていた。
長大な双剣が、接近されると不利に働くことをウォードは
だが思考と直結する怪物の魔性を発揮する前に、その言霊は完成する。
「火焔」
暗黒で繰り広げられていた死闘を、苛烈な赤の光源が照らし出す。
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