神話を斬れ

4-1.凶刃のリゲル

 足音が反響し、どこへ続くとも知れない遠くへと飛び去る。

 スバルは石造りの壁に灯された明かりを頼りに進んでいた。篝火かがりびは真新しい。先にここを訪れた誰かが用意したのは明白だ。


 誘い込まれた地下への階段は、武具屋の倉庫に繋がっていた。なんの変哲もない物置に過ぎなかったが、壁面には真新しい破壊の跡がぽっかりを口をけていた。その向こう側にあったのは、生活排水や熱帯雨林気候特有のスコールを逃がすための下水道だ。

 太古の冒険者が整備した地下の空間を、すべて把握している者はいない。カレヴァンは長きに渡る抗争の末に一度は瓦礫の山と化し、重要な資料のほとんどが散逸してしまっていた。


 複雑に曲がりくねった道を迷いなく歩くスバルは、当然、既に自らの位置を見失っている。ただ特段優れてもいない勘を頼りに靴音も高く前進した。

 やがて通路の突き当たりで扉に差しかかる。

 蝶番ちょうつがいが錆びていることを確認し、躊躇なく蹴り破った。

 くの字に折れた扉が、どう、と倒れて埃を舞い上げる。えた臭いと、冷たくよどんだ空気。がらんと開けた部屋はかつての作業員の休憩所なのかもしれない。しかし今では腐った木片やガラクタが転がるばかりだ。 


 その空間へ侵入していくと、なんの前兆もなく、壁の明かりが消える。

 自然現象ではない。

 視界が完全な暗黒に閉ざされる。


 スバルは立ち止まって鼻を鳴らした。

 そして、右足を思い切り打ち下ろす。

 戦闘用のブーツが石床を叩く音はない。その代わりに響いたのは、鋼鉄で補強された靴底が金属と衝突する耳障りな音色だ。

 スバルが踏みつけたのは、地を這うように足を狙った密やかな一撃だった。

 暗闇の中、黒き悪鬼が振り向く。その瞳孔は奇妙に歪み、吊りあがった口の端が熱い吐息を漏らした。


「よう。また会ったな」


 そこには、床から頭部と右腕だけを覗かせた黒尽くめの男がいた。以前スバルと交戦し、痛み分けした人物だ。胴体の出てきている場所は、水面のように揺れていた。

 自身も驚くべき状態にあるというのに、彼は思わぬ反撃に一瞬だけ硬直する。

 その刹那で、十分だ。

 スバルは踏みつけた剣を渡るように、襲撃者へと肉薄した。


 地面に波紋が広がり、巨漢の全身が浮上を始める。

 同時に、左腕と二振り目の剣が出現した。どこか別の空間で放たれ、トップスピードに達していた剣撃が、冷たい空気を斜めに切り取る。

 そして、なにも斬れずに宙を漂った。

 スバルの姿は、更に上を舞っている。

 以前は一振りの長剣を携えていた相手が、今は双剣を扱っていることにも動揺はない。軽やかに跳躍してやり過ごすと、空中から苛烈な蹴りで下弦の孤を描いた。

 重い爪先は、腕の防御ごと彼の頭を打ち抜く。弾みで、未だに空間の歪みに潜っていた半身が地下室へ引きずり出された。


 受身を取って体勢を整え、素早く身構えた男の視界には、スバルの残影すら映らない。

 空気の流れが自らの死角へ向かっている気配を感じ、男は舌を巻いた。


「手品に驚いて、動きが鈍るとでも思ったか?」


 嘲笑は、斬撃の後に届く。

 男は咄嗟に得物を掲げ、鋭い攻撃を防いだ。

 スバルは受け止められたロングソードの柄から片手を離し、巨漢が振るったもう一振りの剣を、その腕ごと押さえ込む。すさまじい膂力りょりょくの応酬に、二人の筋骨が音を立ててきしんだ。


「ちょっと見ない間に随分と男前になったじゃないか」


 揶揄は、男の肉体を差していた。

 スバルは彼と戦ったのは、ほんの一日前の話だ。餓死寸前だったスバルは辛うじて彼を退け、その先でバートランド・ギルと対峙し、そしてテオドリクスに導かれて遁走とんそうした。

 男がまとう黒い衣の下では絶えずなにかがうごめき、身体を一回りも肥大化させている。それは以前の彼にはなかった特徴だ。


 その正体を、既にスバルは悟っている。

 樹のつるだ。

 カレヴァンを蝕む魔族の影、その象徴たる蔓が、強力な剣技を誇る彼に更なる力を与えている。

 真実を見抜かれた男は、低く笑い声を漏らした。自嘲だ。だがその口から出てきたのは、まったく別の内容だった。


「見えているのか」


 二人は完全な暗闇の中にある。

 だがスバルの言葉や戦いぶりは、視界を失った者のそれではなかった。


「それとも見えている振りをしているだけか?」


 もっとも、それは双剣の男も同様だ。赤光しゃっこうを放つ双眸そうぼうは隠しようのない闘争の興奮をたたえたまま、闇に溶けそうなスバルを確実に捉えていた。


「さぁ、どうだろうな――――試してみろよ」


 挑発が空気を震わせた瞬間、二人の身体が躍動する。

 スバルは男の腕を掴んだまま旋回し、自身の倍ほどもある豪腕をひねり上げた。関節ばかりは鍛えることも強化も不可能だ。

 男は地を蹴り、ねじられた方へと軽やかに飛んだ。

 同時に、突如として高速の気配が出現する。

 男の背を破って現れた蔓が音すらも置き去りに、鞭のようなしなやかさでスバルに襲いかかった。


 蔓が裂いたのは、数本の黒髪だけだ。

 スバルは音速の一撃をかいくぐると、着地直後で不安定な姿勢の男へ肩から突撃した。鋭いタックルが胸板に突き刺さり、強靭な肉体を衝撃が貫いていく。

 常人ならば肋骨ごと心臓を破壊される打撃をまともに受け、しかし男は少し後退しただけで踏み止まった。

 至近距離で交差する殺意。

 男の中でなにかが動く気配を悟り、スバルは素早く距離を取る。その直後、樹木の幹を思わせる男の胴体から、幾本もの枝が飛び出した。鋭利なそれは意思を持つように伸び上がってスバルの四肢を狙う。


 追い縋ってくる枝を切り払うと、おもむろにスバルは男を指差した。

 わずかに動く口元。

 魔法の詠唱だ。

 その瞬間、男は両手に握る剣の尖端を前方へ構えた。

 丸太のような一対の豪腕が、小さくぜる。

 次に響いたのは、部屋の石壁が次々と穿うがたれる鋭い音だ。男の腕から放たれた、銃撃に匹敵するが、すさまじい速度で暗闇の中を貫いていく。


 完璧なタイミングの迎撃で、男は必殺を確信していた。

 だからこそ、標的の姿が霞んで消えた光景に、狼狽を隠せない。

 身構える暇さえ彼には与えられなかった。刹那の間に死角へ潜り込んだ気配が、風切音で鳴く。衝撃が身体を男を揺らし、気がついたときには片腕が切り落とされていた。

 男はスバルを視認もできないまま、残った手で剣を薙ぎ払う。大木をも折る豪剣は、しかし鮮やかに真上へと受け流され、天井に深く突き刺さった。

 そこで、ようやく彼は眼前に現れた男と相対する。

 闇より暗い髪と眼、血を宿した、羅刹らせつごとき怪物だ。


 スバルは自らの得物を唐竹割りに振り下ろした。雷の一閃が、澱んだ空気を真っ二つに両断する。

 手応えは、浅い。

 彼は咄嗟に一歩後退し、辛うじて回避していた。額を切っ先がかすったのか、鮮血に濡れた頭巾ずきんが、べたつく床に音もなく落ちる。


 スバルは目を見開き、息を呑んだ。

 しかし次の瞬間には、鋭く呼気を吐いて地を蹴り出す。天井から剣を抜いて退こうとする男へ、弾丸のように肉薄した。

 刃をはらんだ疾風が、肉を裂く響きを巻き込んで部屋を突き抜ける。

 大量の出血が暗闇の中で弾け、ごぼごぼと水音が男の喉を震わせた。


「浅かったか」


 スバルの剣は、男の喉笛を半ばまで切り裂いていた。常人ならば致命傷だが、スバルは油断せず戦闘体勢を崩さない。

 その目の前で、彼の傷は驚くべき速さで塞がっていった。切断された腕もまた、前回と同じように傷口から生まれた蔓が独りでに繋いでいる。


「魔法を使うものと思っていた」


 やや不明瞭な声で男は言った。咳払いをして、血の混じった唾を吐く。

 魔法の行使には多大な集中力が必要で、詠唱には隙が伴うはずだった。魔法を唱えようとするスバルを不意の遠距離攻撃で仕留めるのが彼の用意した必殺の策だったのだ。


「警戒してるのがみえみえだったからな」


 普段ならばすぐに軽口を叩いているはずが、スバルは動揺していた。

 その視線は、頭巾を失って露わになった男の素顔に注がれている。


 彼の正体は、鍛冶屋の店主だった。

 はみ出し者だったアリアの面倒を見ていた奇特な人物は、しかし今、双剣を手にスバルと敵対している。


 スバルは軽く頭を振り、一度だけ深呼吸した。

 次にまばたきをしたとき、そこにはもう迷いはない。殺意を抱いて立ちはだかるならば敵。障害があるならば、道を切り拓く。ただ一つ、それが冒険者の存在意義だ。


「魔法に対抗するために身体を改造したのか? 余計な力を得た分、雑になってるぞ。取って付けたように強くなって、いい気になってるからそうなるんだよ、間抜け」


 辛辣しんらつな文句に、店主はしわの寄ったまぶたを開いて絶句した。

 そして、不意に笑い声を上げる。武器を持って向かい合っているとは思えない優しげな目が、予想外の反応に困惑するスバルを見つめていた。


「まったく、嫌味なほど似ている。お前の親父に……リゲルに、そっくりだ」


 予想だにしない懐かしい名前に、スバルはぎくりと顔を強張らせる。

 だが次の瞬間には男と同じ、この場に相応しくない苦笑いを浮かべた。


「……よくわかったな。俺は母親似だと言われるんだが」

「そうだな。外見や性格は、似ても似つかん。だが……わかるさ。あのとき、この街で戦っていた者ならば、誰でもな」


 言葉とは裏腹に、暖かみがある口調ではなかった。そこに滲むのは悔悟かいごと、戦慄だ。

 常人にはなにも見通せない暗闇の中、黒と赤の視線が交差する。

 やがて、店主はゆっくりと口を開き、静かに呟いた。


「スバルよ。カレヴァンを、出て行ってくれないか」


 重い、様々な感情が入り混じった声音だ。最終的に諦観の色に染まった声を、スバルは小馬鹿にして笑い飛ばす。


「問答無用で殺しにきておいて、今更なに言ってるんだ。大体、俺を指名手配してるんだろ。敵を逃がしてもいいってのか?」

「この交渉は、バートランド・ギルの指示だ。元々奴にはお前を相手取る気などなかったが、それでは街の人間が納得しない。それが眠らせておくべき獅子だとしても、対処せねばならないのだ」

「ふん……カレヴァンを統一した《斬り裂く刃ツェアライセン》の頭領が世間体の奴隷か」


 失望すら込められた侮蔑ぶべつを受けて、彼は笑った。暗い自嘲を煮詰めたようなそれは、英雄の代理を名乗る者としてはあまりにも卑屈で、歪んでいる。


「《斬り裂く刃》か……まったく、下らんな……」


 彼の目は自分の得物を見下ろしていた。二振りの長大な刃は、常人では片方をまともに振ることも難しい。それを自在に操る怪力と技量は非凡なもののはずだが、男の眼には絶望にも似た闇が湛えられている。


「確かに、《斬り裂く刃》は強かった。活動を始めた直後から、どのパーティ、どのギルドよりも大きな戦果を上げたものだ……俺もまた、愉悦を覚えていた。このウォードという名が轟き渡るさまにな」


 スバルは、驚愕した。その名前を聞いたことがあったからだ。


「まさか……あんた、《断鬼ウォードウォード・サ・オーガ》か?」

「懐かしい二つ名だ……」


 それはかつてカレヴァンを切り崩した冒険者パーティの中で、最も勇壮で豪剣を誇ったという男。ギルに並び立つ双剣使いの達人で、剣を力任せに振るう姿を鬼にたとえられた豪傑ごうけつだ。

 しかし、今の彼は、あまりにも哀れで惨めだった。

 老いてくたびれた顔と、それに不釣合いな文字通りの化物じみた身体。赤い瞳には覇気がまるでなく、後悔に沈んでいる。


「俺達は幼かった。未熟だったのだ。勝利を重ねて強くなるほどに思い知っていった。どんなに力をつけようとも、俺達など無数に存在する冒険者の一人に過ぎない。俺達がカレヴァンを征服して《空の森》をも殺せたのは……他の冒険者パーティと異なっていたのは、ただ一つだけの違いでしかなかった」


 鍛冶屋の店主――――かつて鬼と呼ばれた剣士ウォードは、隆々りゅうりゅうとした肉体とは真逆の虚無的な目でスバルを見つめた。まるで、その向こう側に別の人物を覗いているかのように。


「俺達には……リゲルがいた。偶然あの男を引き入れられた瞬間から、俺達の道は拓かれたのだ」


 低い声が更に小さくなり、聞き取りづらくなる。そこに秘められているのは恐怖だ。かつての戦友を語るには似つかわしくない感情だった。


「あの頃、難所として知られていた《空の森》の探索拠点であるカレヴァンには、強者が集結していた。俺達も彼らと戦うに足る実力を備えていたはずだ。だがリゲルは、その中ですら常軌を逸していた。奴一人の手で、一体いくつの組織が壊滅したかわからん。誰もが躍起やっきになって奴の首を狙い、そして返り討ちにった……スバルよ、今でこそ《剣聖ソードマスター》などとたたえられている自分の父が、かつてどのような二つ名で呼ばれていたか知っているか?」

「知るかよ」


 スバルは気まずそうに言う。以前ギルに向かって、この街を《斬り裂く刃》が暴れた結果だと揶揄したが、自分の父親が片棒を担いでいたことを思い出して恥ずかしくなったのだ。

 疑問系でありながら、回答に期待していたわけではなかったのか、ウォードは冷たい熱に浮かされるように早口で呟いた。


「《凶刃のリゲルリゲル・ザ・ブルーティッシュ・エッジ》だ。ふらりと奴が現れた戦場すべて、屍山血河しざんけつがが築かれたものだった」


 一世代前、最強の剣士は各地で偉業を成し遂げて最後には剣聖と呼ばれるに至った。だがその覇道はスバルやアリアと同じ、力を持ち過ぎた者への畏怖と迫害から始まったのだ。


「奴のを引くお前を止められるなどとは思わん。だからこそ頼む。この街から手を引いてはくれないか。リゲルに話すことはかなわなかったが、ただ魔族の尖兵に成り下がったわけではないのだ。俺達の計画は……」

「どうでもいいな」


 一縷いちるの望みへ縋るウォードを、無慈悲な声が遮った。

 スバルは、怒気に顔を歪めて吐き捨てる。


「あんたらの計画なんか、興味ない。知らないし、知ったところで俺のやることは変わらない。この剣で、切り拓くだけだ」

「……なぜ戦うのだ。なにがお前をそこまでさせる? 神話の怪物を相手にしてまで」


 その問いに、スバルは失笑する。

 そして、当然のように言い放った。


「冒険者だからだ。他に、どんな理由がるんだ?」


 ウォードは絶句し、放心して立ち尽くした。

 やがて、ふっと笑う。それはスバルと対峙して初めて見せた、なんの気負いもない自然な表情だった。


「そうか……そうだったな。そんなことも忘れるとは、耄碌もうろくした……」

「思い出したなら、大人しく引き下がるか?」

「まさか」


 震えの収まった手で柄を握り直し、大振りな双剣を構える。かびた臭いをかき消すほどの濃密な闘志が、狭い地下室に充満した。


「俺も、かつてはリゲルと肩を並べた剣士だ。何度か模擬戦で奴と引き分けたこともある……黙って退くわけにはいかん」

「最初からそうしていればよかったんだ」


 同じく嬉々として身構えたスバルは、ふと真面目腐った顔をする。


「やり合う前に、謝っておきたい。あんたに借りた剣、ほとんど壊した。弁償する当てもない」

「初めから期待していなかった。お前さんの懸賞金で黒字にするさ。趣味の鍛冶屋でも、経営は厳しくてな」


 低い声が、暗闇の中で飛び交う。互いになにかを吹っ切ったような、快活で、血の滴る鋭利な刃の笑みだ。


「安心しろよ。死人に借金返済の義務はない」


 その言葉がウォードに届いたか、それよりも先か――――二人の剣士は同時に地を蹴り出し、刃を交差させた。

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