3-16.予感
激しい戦いのあとに、雨音と静寂が戻る。
魔族の眷属は打倒し、親玉たる老兵も退けた。アリアの大跳躍とテオの魔法が残した破壊の痕跡を前にしながら、三人は警戒を解いて一息つく。
「まったく、とんでもないことに巻き込まれたな」
リュークは豪雨の合間に疲れた呟きをこぼした。
全身を濡らす雨水の中には、冷や汗の不快が混ざっている。
バートランド・ギルが最後に見せた鬼気と執着。そのすさまじさに、歴戦の騎士も戦慄を禁じえなかったのだ。
それでも次の瞬間には気丈に笑い、全裸のままで平然としているテオを振り返って言う。
「巻き込まれついでに……アリアに渡していた《切り拓く剣》。ついでに俺にもくれないかな?」
「いいとも」
テオはギルに切り刻まれた服の残骸を探ると、必要なものを拾って戻ってきた。そこには複数の《切り拓く剣》があり、揺れるたびにこすれあっては特徴的な音を立てている。
意外にも気安く頼みを聞き入れられて困惑するリュークに、テオは長年の友人に向けるように柔らかい表情で言った。
「貴殿には、これを受け取る権利がある。義務といった方がよいかな? 元は我々のように規格外の者と、尋常の人間との
不滅のテオドリクス――あの名乗りが耳に残っている。先の戦いから推測するに、彼は不老不死の異能を秘めているのだ。
彼の言葉が正しいのであれば、開拓者という概念そのものを作り出したのもテオだということになる。こうして《剣》の予備を持っているのも頷けた。
「リゲルとリーゼも、開拓者なのかい?」
血のような色の装飾を手の中でもてあそびながら、リュークは何気なく問いかけた。
一世代前の人物だが、二人の名は広く轟いている。特に《空の森》を殺したのちに唯一カレヴァンを旅立ったリゲルは、今なお最強の剣士として語り継がれていた。
「さて、どうかな。確かに彼らには《リーゼの手記》と引き換えに剣を渡したが、今はどこでなにをしているかもわからん」
「そうか……残念だ。一度、お会いしたかったんだが」
「そんなことより」
苛立ちの声が割って入ってくる。シャルは特徴的な灰色の目を
「昔の話より今の話。街を出るのは、やめにするんでしょ?」
「あぁ、そうだな。魔領域が出現したのち、目覚めた魔族との
「しかし、ここからどう動く? ギルの出方をただ待つだけではないだろう」
ふむ、とテオは目を閉じて顎に手をやる。つるりとした白い肌を、細指が
思考は数秒だ。すぐに翡翠の瞳を開き、決然と言う。
「エレオノーラだ。この局面、彼女が鍵を握っている」
心臓が跳ねるのを悟られぬよう、リュークは平静を装う。
ノーラは決定的なタイミングでギルに仲間を売った。開拓者が報復に走る可能性は十分に考えられた。
しかしテオは、難問を前にした学者のように目を輝かせながら続ける。
「保身のためならば、初めから開拓者になど関わるまい。カレヴァンを守ろうとするならば、ギルを我らに引き合わせることはなかったはずだ。その真意を
ギルはカレヴァンの守護者であると共に、魔族の秘匿を
ノーラは結果的に、事態をかき回しただけに過ぎない。
だが預言者の血筋である彼女は未来予知の異能――《鴉の眼》と呼ばれる超感覚を持っている。その行動には、なにか意図があると思われた。
「ノーラはカレヴァンを調べていた。過去の記録から、街全体を見張る治安維持部隊の監視網を分析していたはずだ。俺やアリアが彼らの追跡を逃れられたのも、そのおかげだった」
「その監視網は魔族の目だろう。異質な存在が街を背後から支配していると、彼女は気づいたに違いない。あるいは、もっと重大な……そう、なにかを知ったのだ。そして我らの元を去り、敵地へ乗り込んだ。そうは考えられないかね」
「俺達に黙って?」
「敵を欺くには味方から、というだろう? きっと、丁度よいタイミングで助けがくることを待っているのだよ」
なるほどね、と呟き、シャルはふと遠くへ視線を飛ばした。その異能は現在も、影の鳥や獣を通して情報を集めている。だがそこで得られるのは表面的なものに過ぎない。
テオの推測は、ひどく楽観的なものだ。
しかし、もしノーラが敵を内部から探っているのならば、その行動は核心へと届くだろう。
「……見当違いなら、どうする。君達を殺すためだけの罠だとしたら?」
リュークは硬い声で問いかけた。
じわりと滲むのは、闘気だ。その答え
テオは、少しだけ考え込むように首を傾げる。
そして、肩を
「そのときは、そのときだ」
どこかで聞いたような台詞に毒気を抜かれ、リュークは苦笑する。その様子をテオはおかしそうに笑った。
「ふむ、随分と彼女を大事にしていると見えるな?」
「借りがある。……大きな借りがね」
「ならば返しに行くがいい。彼女の捜索と救出は貴殿に一任しよう」
「それはいいけど、あてはあるの?」
力になれないことを言外に臭わせながら、シャルが釘を刺す。どれほど巧みに移動したのか、彼女の異能を持ってしてもノーラの足取りは掴めなかった。
しかし、リュークは迷いなく
元々は公国の大都市を守護していた騎士だ。こういった都市での立ち回り方は誰よりも心得ていた。
「影の権力者に接触する。冒険者ギルドは、いわばカレヴァンの表を牛耳る組織だ。暗殺者を抱き込んでいる以上、裏への影響力はあるようだけど……」
「そう、すべてを支配することなど不可能だ。歴史を
「あぁ、そこを当たろうと思っていた」
色街、つまりは人々が性欲を満たすために訪れる区画だ。
ありとあらゆる職業、立場の者が利用する性質上、そこには情報が集まりやすい。探索者が扱うものほど正確ではないが、時として重大な真実を導くピースになりうるものだ。
多くの場合、色街は闇の世界での権力闘争の中心となる。冒険者ギルドが頂点にある街とはいえ、カレヴァンもまた例外ではないはずだった。
決して悪い判断ではないはずだったが、シャルはひどく顔を歪め、軽蔑を塗りたくった視線の矢を投げかける。
「
思わぬ攻撃にリュークはたじろぎ、
「待ってくれ。誤解だ」
「騎士のくせに」
「いや、むしろ騎士は貴族令嬢などに手を出さないよう最初に正しい発散の仕方を……じゃなくて」
「必死なのが怪しい」
事実、リュークは必死だった。図星を突かれた人間とは、そういうものだ。情報収集のついでに、という目論みも当然あったのである。
「まったく、潔癖だなぁ。
口走った直後、その身体を硬直させる。
辺りを支配するのは、途轍もなく重い威圧感だった。
今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだ。
中心にいるのは、シャルだ。
「婚前交渉、ダメ、絶対」
「一昔前の貴族じゃあるまいし……」
減らず口も、更に強さを増す鬼気に負けて閉ざされる。
重力が数倍になったかのような圧力の中、リュークはなんとか声を絞り出した。
「悪かったよ」
「シャルは少し育ちが特殊だ。あまり、そこには触れないでやってくれたまえ」
物理にすら干渉しかねない迫力を、テオはものともしない。さすがに数百年を生きる化物だと感心するところだ。これが、素っ裸の少年の姿でなければ。
「それで、君達は?」
「余は適当にうろつくよ。遊撃、陽動、殲滅、そんなところだ。ただしシャル、貴殿は深入りするな。街の中央を目指し、情報収集に
「はぁ? なんで」
怪訝に問い返され、テオはふと遠い目でどことも知れない彼方を睨んだ。
「勘が良いのは探索者だけの特権ではないさ。なにか、予感がする」
「勘ね……ま、別にいいけど」
シャルは気だるげに言い残し、買い物へ行くようにのんびりとした足取りで、石畳の亀裂を乗り越えながら去っていった。
テオもまた、素足で雨を踏みながら歩き出す。
「まずは服の調達をしたいところだ。一応、羞恥心もあるのだよ?」
「はぁ……」
「そう間抜けな顔をするな。この戦いは貴殿とエレオノーラ嬢の肩にかかっている。しっかりやりたまえ」
あまりに無防備な後姿を見送ると、リュークは独りになる。
テオの言葉が蘇る。ノーラはきっと、なにか目論見があって寝返ったのだと。
だが、果たしてそうだろうか。
初めて彼女と出会ったときのことを追想する。あの頃は互いに、同じ国に仕えていた。自分は騎士として。彼女は預言者の後継者として。
預言者など胡散臭いと思っていた。だがエレオノーラの眼を見た瞬間、リュークは悟った。柔和なようでいて無機質、穏やかなようでいて虚無的な瞳。あれは常人とは違う領域を知る奇人の姿だった。時として意味もなく破滅の扉をノックする狂人の側面を、あの娘は確実に持っている。
その印象は、この街で再会したときにも変わっていない。
先に公国を旅立ったのはリュークだった。なぜ彼女も国を裏切り、指名手配までされているのか、その事情はわからない。ただ、ろくでもない理由だろうとは確信している。
もし、彼女が助けを必要としているのなら。
もし、テオの言うとおりに助けを期待しているのなら。
「借りは、返す」
決意を表明するように独りごちた。受け取った《切り拓く剣》を首に下げ、胸元に下ろす。
その場を去る彼の後ろを、焼かれたスコールの白い霞が
◇ ◆ ◇
駆けつけた冒険者達は、呆然と立ち尽くしていた。
カレヴァン北門近くの広場。普段ならば《空の森》を目指す人々で賑わっている。
だが今そこを満たしているのは喧騒ではなく、雨の匂いをかき消すほどの血臭だ。
屠殺場でも、これほどひどくはない。
目的を持った解体とはまるで違う、圧倒的な暴力によってなされた
無差別な犯行では、ない。
ここ最近、戦闘を生業とする連中がカレヴァンの要請を受けて動員されていた。強制力はなかったが、破格の報酬をちらつかされて揺れなかった者はいない。
無惨にも屍を晒しているのは、金に目が眩んで開拓者へ刃を向けた者達だ。
分を
小国アンテロを滅亡に追いやったことから《
街の反対側で待機していた彼らは、せめて
魂を抜かれたように凍りついていた彼らは、ふとくぐもった声を聞く。誰か嘔吐したかと、先頭を歩いていた男は振り返った。
そして、目を見開く。
最後尾にいた仲間の一人が、血を吐いて痙攣していた。
その胸から生えているのは剣の切っ先――――。
「皆、後ろだ!」
警句より、影は速い。
銀光が乱舞し、血風が
それは最短の動きで彼らの急所を破壊しながら駆けた。
急いで得物へ手を伸ばすが、手応えのなさに困惑する。
見下ろして、気づいた。腕は既に肘のところから切断されている。眼前で
だが最後に殺された男は、倒れなかった。
虚ろな目が、突如として赤く輝く。貫かれた胸から噴き出る鮮血が、どろりとした漆黒へと変化した。
血の溢れる口が、大きく開かれる。そこから放たれたのは咆哮ではない。
喉から出現した、鋭い棘を備えた蔓が、弾丸の速度で
「いい加減、見飽きたぞ」
冷笑が雨の中を漂う。
顔面を狙った異形の一撃を、スバルは拳の甲で打ち払った。
常人ならば反応できる速さではなく、弾くだけの膂力も、それに耐えられる皮膚もない。ただスバルは普通ではなかった。
不死の怪物と化した冒険者に、スバルは
魔族の影響が原因であることを知っていたスバルは、忌々しげに口の端を歪める。
不死とはいえ全身を切り刻まれれば活動はできない。戦闘能力を喪失した時点で、それらは不死性をも失うのだ。まるで、もはや利用価値なしと捨てられるように。
スバルは耳を澄ませ、雨音の中をこちらへ向かってくる気配を捉える。
彼らの大半は、ただの雇われだ。だが自分の命を狙ってくる相手に同情するほど、スバルは優しくもなかったし、愚かでもない。
警戒しながら、脳裏を過ぎるのはアリアのことだった。
おそらく今頃、テオとシャルに連れられてカレヴァンを後にしているはずだ。
唯一の懸念はバートランド・ギルだ。あの男に追われるものと思っていたが、その様子はない。
かすかな物音が、スバルを思考の渦から現実へ引き上げる。
頭を巡らせれば、広場に面した武具屋の扉が独りでに開いていた。そこから漂ってくるのは、得体の知れない闇の臭気だ。
「……罠だな」
あからさまな誘いに、口の端が吊りあがった。
そして、迷いなくそこに歩を進める。
罠とは、最低限のリスクで最大限の結果を得るための仕掛けだ。あえて挑むことに意義はない。
だがそのすべてを涼しい顔で叩き潰していけば、いずれ相手はぼろを出すと、スバルは経験から知っていた。
それに――薄暗い店内に踏み入れながら、考える。
これは、なにかが違う、そう予感がしていた。
警戒を解かずに進んでいくと、地下室への通路が見えた。スコールの多いカレヴァンでは珍しい。重厚でいて鋭利な鬼気は、その場所から
スバルは
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