3-14.めざめ

「私やスバルを殺してまで守ろうとしたのは……カレヴァンの利益ですらない。得体の知れない化物のためだったというのか?」


 アリアは茫然自失のていで呟いた。

 雨でけぶる街に現れた影を目撃し、彼女の黒瞳は絶望に揺れる。


 それは元々人間でありながら、魔界の力を受けて異形化した怪物だ。

 彼らの虚ろな目は赤光しゃっこうを帯び、鮮血は豪雨にも溶けない黒くドロリとしたものに変わっていた。身体のところどころがぜて樹木のつるが出現し、まるで意思を持ったかのように宙をのたうっている。

 人の魔物化。その言葉が脳裏を過ぎった。これが魔領域に侵された世界の光景なのだろうかと、アリアは慄然りつぜんとする。


「俺が《空の森》を殺して、ほんの数日後のことだ。《エコー》……魔族が人間の死体をしろにして、俺に接触を図った」


 ギルは自らに付き従う異形の軍勢を忌々しげに一瞥いちべつした後、訥々とつとつと語り出した。

 エコーとは、ギルの右腕ともくされている幹部の一人だ。マントで全身を覆い隠した珍妙な人物は、奇妙なほど正確な情報をもたらすことでカレヴァンの治安維持に役立ってきた。誰も素顔を見たことはない。性別どころか体格すらはっきりせず、会うたびに印象が様変わりするのだ。

 エコーとは複数人が演じている役割に過ぎないでは、と憶測されることもあったが、それは真実の一端を捉えていた。魔族の操り人形は、その時々で寄り代とする人間を取り替えていたのだ。

 今まで何度も対面してきた相手が魔族の分身であったという事実に、アリアの身体は雨の冷たさではないもので震える。


「奴は地下に自分の心臓があることを俺に明かした。そして魔族が持つ力を分け与えることと引き換えに、魔領域の秘匿を命じてきたのだ」

「それで悪魔に魂を売り渡したというのか。英雄として名を馳せるために!」


 アリアの痛烈な揶揄にギルは答えない。そして続く言葉の響きは、言い訳だというにはあまりにも淡々として、静かすぎた。


「奴がもたらす情報は街の支配を助けた。《空の森》の魔物は人間への敵意をなくしたばかりか、俺の指示に従うようになった。望みさえすれば、大樹の枝すら自在に動くようになった――――これが、どれほどむなしいことか、お前達にわかるか? 俺達は数え切れないほどの犠牲を払いながら魔物を退け、空の森を攻略した。だが目覚めた魔族の力は、俺達が死に物狂いで駆けてきた道を根底から覆すほどのものだったのだ。アリアよ、お前は《虫寄せ》のことを知っていたはずだな」

「だったら……どうした」


 絞り出したアリアの声は、苦鳴にも似る。ギルは乾いた笑いを浮かべると、吐き捨てるように言った。


「虫寄せは特殊な製法で作られているが、芳香ほうこう自体に魔物を誘引ゆういんする効能などない。あれは魔族への合図だ。その香りがある場所へ魔物を誘導する……ただそれだけの香水だったのだ」


 そんな、と掠れた音が漏れた。

 ギルの言葉が真実なのだとしたら、スバルと共に決死の思いで切り抜けた修羅場を、魔族は意のままに再現できるのだ。

 そしてアリアの脳裏に蘇るのは、あの巨大な蜘蛛だった。《森の天空》と呼ばれる大樹の根で邂逅かいこうした超大型の魔物は、スバルが森の秘匿に言及した途端に姿を見せた。あれもまた、魔界を支配する者の刺客に違いない。

 魔領域での冒険など、彼らにとっては掌の上の出来事に過ぎなかった。

 そして魔族は、自らの存在を隠しながら、それだけのことを実行している。その立場をかなぐり捨てて表舞台に現れることがあるなら――それは世界の終わりだ。


「わかっただろう。かつて人類を滅ぼさんとした、神にも等しい魔物が、お前達の敵なのだ」


 それは全員に向けられたようでいて、しかし確実にアリアを標的としていた。

 他の面々と比べれば、強い武器を持つだけの非力な少女だ。あまりにも壮大な話は現実味がなく、アリアは途方に暮れる。ギルの目論見どおり、迷っているのだ。


「安心するがいい。少なくとも、お前が生きているうちに魔族が動き出すことはない。ここで聞いたことをすべて忘れ、一介の冒険者として一生を過ごせ。そのための居場所を用意してやろう」


 そして弱ったところに、ギルは手を差し伸べる。戦士としてではなく、ギルド支部の長として海千山千うみせんやませんの者達と渡り合ってきた老獪ろうかいな男の手腕だ。


「……居場所……」

「そうだ。お前には冒険者として名を残す力がある。開拓者などと関わらずとも、な」


 ギルの言葉は、甘い誘惑となって耳朶じだもぐり込んできた。

 そう、アリアには力がある。

 それは彼女の得物にして無二の相棒、意思ある魔剣クローディアスも知っていた。彼女がすこやかでいられる環境さえあれば、誰よりも強く堅実な冒険者になれると信じていた。元より、魔剣などなくとも優秀な娘だったのだ。

 ギルドの後ろ盾を、今度こそ得られる。

 それはあまりにも魅力的だった。


 《切り拓く剣》の庇護は、強力だ。テオやシャルに同行するのは、ある意味では安全だろう。だが、その安全には闘争がついて回る。あらゆる障害を武力で叩き潰すのが、彼らのやり方なのだ。

 そこに愛しいアリアを関わらせることを、クローディアスは選べない。

 すまない、と心で思う。少なくとも、彼らに何度か命を救われたのは確かだ。

 だが、これ以上は付き合っていられない。

 それが魔剣クローディアスの、アリアをおもんぱかっての結論だった。


「私は……その提案を……」


 提案を、呑もう。

 かすかに震える声は、その一言を紡ぐことができなかった。

 躊躇ためらったわけではない。誰かにとがめられたわけではない。

 だがアリアは、驚愕に目を見開いたまま、中途半端に開いた口もそのままに硬直していた。


 身体が動かない。

 まるで、肉体の自由を奪われてしまったかのようだ。

 そこまで考えて、クローディアスは息を呑む。

 想像が正しいならば、そんなことが可能なのは、世界に一人しか存在しない。


「ア、リア……?」


 アリア、その身体の本来の持ち主である少女だ。

 彼女が、ギルの甘言かんげんに乗ることを拒んでいる。

 無理矢理に話そうとしても、低い呻きが漏れるだけだ。

 その妙な様子にギルも困惑し、ただ無言で立ち尽くしていた。


 不意に訪れた沈黙と、雨音の独奏――――。


 その中に、かすかな雑音が混ざる。

 くつくつと喉を鳴らす音だ。それは不穏と妖精の可憐を同居させた、いびつな含み笑いだった。


「なにがおかしい」


 ギルは静謐せいひつな殺意をもって、腹を抱えて上体を震わせているテオに答える。

 最上級の喜劇を見ているかのように楽しげなテオは、やがて途切れ途切れに言った。


「なにが、ときたか。それは貴殿、なにもかも、おかしいに決まっているだろう。居場所、居場所と、それは流行はやりかなにかなのかね? スバルもに同じことを言っていたのだよ。アリア、貴殿が真の居場所に辿り着くまで面倒を見てくれ、などとな。あの強情なスバルが余に頼み事をするとは、成長したものだと驚いた。まったく……」


 テオは言葉を切ると、吐息をついて笑いの衝動を収める。

 そして、うつむき加減の顔を上げた。

 その場にいた全員を、ぞっ、と寒気が襲う。

 テオの発する威圧感に怖気おぞけが立ったのだ。


「愚かしいことだ。そんなもの、どこにもありはしないというのに」


 彼の面には変わらず笑みがたたえられていたが、そこに親しみや快活さはない。

 深い嘲弄と、愚者へのあわれみに彩られた、どこまでも酷薄な笑顔だ。


「居場所を用意するだと? 慈悲深きギルともあろう者が人の悪い。本当は知っているのだろう。あるいは信じたいだけかね? 自分が見つけられなかっただけで、それがどこかに存在するのだということを? だとすれば、認識を改めるべきだな!」


 エメラルドグリーンの瞳が、周囲を順繰じゅんぐりに睥睨へいげいする。


「いるのだよ、この世には。力を持ち過ぎた者。生まれながらにしての破壊者。イレギュラー……そこにいる、ただそれだけで世界を滅ぼす疫病神がな。スバル、余に……シャル……リューク……ギル……アリア、貴殿もだ」


 開拓者。自らの騎士団を壊滅させた裏切りの騎士。闘争に明け暮れていたカレヴァンを完膚なきまでに蹂躙し、瓦礫の上に再構築した英雄。

 そして、一つの街ごと敵を押し潰した魔剣の使い手だ。

 数多の屍を踏み締めて歩いてきた。そういう運命にある者だけが、この尋常ならざる戦場に立っているのだ。


「目を逸らしているのなら、直視したまえ。忘れていたのなら、思い出したまえ。我ら皆、戦い、殺し、壊し続けなければ生きてゆけん。望む、望まぬは瑣末事さまつごとで、度を超えた怪物は存在そのものが破滅の権化ごんげなのだ」


 知らず知らず、耳を塞いで避けてきた事実が、突きつけられた。顔を背けようにも、見開かれた少年の瞳がアリアを捉えて離さない。

 彼の言うとおりだった。

 心のどこかで、本当は悟っていた。

 逃げ場所など、ないのだということを。

 だからこそアリアは絶望し、アルバートの街で死を受け入れたのだ。


「居場所とは、なるほど、甘美な響きだ。きっと陽溜ひだまりの花畑にも似た、暖かでかぐわしい優しき世界に違いない。だが、それが一時は貴殿を迎えたとしても、やがてぬくもりは冬の冷たき刃と化す。ギルよ、弾かれし者アウトサイダーとは、よく言ったものだな?」


 一歩、一歩とテオはアリアに歩み寄った。ただ淡々と、責めるように言葉を紡ぎ続ける。

 だが――なぜだろう。アリアは困惑の中で静かに呼吸していた。

 銃弾よりも残酷な事実で打ちのめされているのに、なぜか悲哀を感じない。


 否、クローディアスは、その少女への憐憫れんびんを抱いていた。

 ならば彼の語る哀しき真理を受け止めていられるのは、アリアの心が、それを覚悟しているからだ。

 千々ちぢに砕かれ、死に瀕していた彼女が、過酷な現実に対して毅然と立ち向かっているのだ。


「剣を納め、息を殺すことで、溶け込むことはできるだろう。平穏な生活を送ることも不可能ではない。だが永遠はない。いずれ、弾かれる。あるいは、すべてを破壊する。我らの望みは一つとして叶うことはない。もしも叶ったのだと思うのなら、それはいずれめる夢か、鮮やかで短い幻に過ぎん」


 テオが、すっと手を伸ばした。冷えた感触が首を掴み、アリアの身体がびくりと跳ねる。

 至近距離で対峙する彼の眼の、なんと美しいことだろうか。

 どこまでも透明なみどりの中に、アリアは自身の姿を見た。


「理想郷など我らに用意されてはいない。行けども行けども、我らの前に道はない。安息、安住、安寧、まったく無縁の言葉だ。あるのは降り注ぐ悪意の矢と、獣も通らぬいばらの海よ」


 狂気的に整った面の、笑みに歪んだ形――それが、ふとやわらぐ。

 かすかに覗くのは、愛にも似た感情だ。

 哀しみに裏打ちされた、いつくしみだった。


「だけれども、貴殿、もし、自らの生きる場所を作りたいのならば……世界を滅ぼしてでも道を見出すことをほっするのならば……」


 ふと、テオが身体を引いた。

 アリアは早鐘を打つ心臓に手を伸ばし、そこになにかがあることに気づく。

 自分の胸を見下ろして、息を呑んだ。


 それに触れ、軽く揺らす。響き渡るのは、まるで刃の噛み合うように歪で澄んだ音色。

 鮮血のように赤い剣と鉈。

 テオは無邪気に微笑むと、芝居がかった仕草で両腕を広げ、詩劇しげきの句をそらんじるように言った。


「切り拓きたまえよ! そのための剣だろう!」


 アリアの中で、かっ、と灼熱が生まれる。

 《切り拓く剣》を下げられた胸から全身へ。腕から指先へ。脚から爪先へ。

 衝動は白い色を伴って、アリアの髪を暁光ぎょうこうの白銀へと染め上げた。憂いを帯びた黒瞳が黄金へ覚醒し、震えていた唇も決意の一文字に引き結ぶ。彼女の象徴たる《黒い剣》は、まるでそれまでの姿が抜け殻だったかのように、闇黒あんこくを取り戻した。


「……この剣で、切り拓く」


 本来の人格を取り戻したアリアは、覚悟を決めるように小さく呟いた。ただまっすぐの瞳で、自身の変貌を穏やかに見守ったテオに頷く。

 そして、きびすを返した。

 カレヴァンの南門、平穏への入り口を背に、英雄ギルへと向かって。


 ギルは首を振り、嘆息した。

 その眼が次にアリアを捉えたときには、もはやそこに慈悲はない。


「止まれ」


 厳しい制止の声に、アリアは歩を休める。

 その周りを、ギルの配下たる魔族の眷属が囲んだ。


「その下らん飾りを捨てて、街を出るのだ。あと一歩でも進めば……二度と戻れんぞ」


 アリアは瞑目めいもくし、ギルの恩情に感謝をする。

 弾かれた者への優しさは、彼自身が辛苦の人生を過ごしてきたところから生まれている。開拓者の戦力を削ぐための策略とはいえ、逃げ道を用意してくれたことは嬉しく思っていた。それほど気にかけてくれた人物は、今まで出会ったことがない。

 だが、アリアは既に決めていた。

 人々を傷つけ、うとまれ、価値などないはずだった女に、意味を見出してくれた人へ。

 スバルの元へ、走ると。


 雨が降っていなければ、その音はギルにまで届いていただろうか。

 連続する乾いた響きは体内から発生していた。まるで身体の中で、なにかが組み変わっていくようだ。

 そして、アリアは目を開く。

 縦に裂けた瞳孔どうこうの、黄金に輝く色彩は、決然とした闘志に燃えていた。


(本当に、いいのか。アリア)

「大丈夫」


 自分にだけ聞こえる、懐かしく優しい声なき声。気遣わしげな彼に向け、気丈に微笑んで、囁く。


「行こう。黒い剣クローディアス


 直後、彼女の姿が消えた。

 戦場と化していた大通りが激しい水飛沫に白く染まり、その後を豪風を伴った轟音が追いかける。石畳が一直線に砕け割れ、その欠片が飛散した。衝撃波が通りを席巻せっけんし、魔族の眷属を薙ぎ倒していく。


「浅はかな……!」


 ギルは忌々しげに呟き、顔を庇う腕越しに、厚い雨雲に覆われた空を見上げた。

 そこに、アリアはいた。

 常軌を逸した加速で駆け抜け、家屋を飛び越さんばかりに跳躍したのだ。先の衝撃は、彼女の高速移動と大跳躍が生み出した余波に過ぎない。

 魔剣を所有している以外に特筆すべきことのない少女――――そのはずだった。その認識が迎撃の一手を遅らせる。


 ギルの立ち直りは早い。

 湾曲わんきょくした刃を持つ剣に手をかけ、抜刀と同時に投擲した。特殊な投擲剣は風切音を帯びて旋回しながら、一直線にアリアへ突き進む。

 きらり、と黄金色がまたたいた。

 攻撃の気配を察知したアリアは空中で身体をひねると、両手で握った《黒い剣》を振るう。

 雨空に闇の衝撃が下弦の孤を描いた。それがギルの剣を薙ぎ払うと、後にはきらきらと光の粒が残される。魔剣にすり潰された、投刃の成れの果てだ。


 アリアは建物の上に着地すると、肩越しに鋭い視線を送った。

 背後をかえりみるのは、一瞬だ。どこか遠くへ耳を澄ませたか思うと、再び跳躍する。その激しさに屋根が砕け、地面が震えた。


「追え! 逃がすな!」


 無論、ギルはそれをただ見送ることをしない。自らを守るように配置していた魔族の眷属に追討の指示を出す。

 しかし、黒い血の死体達が動くのと同時に、雷鳴のような声が響き渡った。


「見よ、曇天にきらめく一筋の白銀! 闇にえる紅の尾は、道拓く意思の輝きなり!」


 挑発か、奇行か、仰々しい台詞。ギルは一瞬の後、はっと目を見開いた。

 気づいたのだ。

 これは、魔法だ。

 思考と行動の間には刹那の間隙もない。

 ギルはアリアを追っていく眷族達と真逆、高らかにとなえるテオに向かって地を蹴り、更に短剣を投げ放つ。


 牽制けんせいのつもりだったナイフは、心臓、首、眉間にそれぞれ突き刺さった。ぐらりと揺れる少年の身体。

 呆気ない開拓者の最期に対する驚愕は、別のそれに取って代わる。

 人体急所をいくつも破壊されながら、テオは踏み止まっていた。

 それどころか、喉を貫いた刃を平然と引き抜く。あるはずの傷口は、ない。


気高けだかさをたたえよ! 美しさに刮目かつもくせよ! 風雨ねじ伏せ飛翔する、翼なき龍に祈りを!」


 胸と額を抉った剣をも無造作に捨て、テオは更に続ける。

 だが、そのときには既に、ギルは彼の目前に迫っていた。


「させるものか!」


 横薙ぎの一閃は、あまりにも速く、重すぎた。ましてや、子供の首をねるには。

 手応てごたえは、ないに等しい。

 頭を失った身体が、激しく鮮血を撒き散らしながら、自らの死を信じられないかのように立ち尽くしている。


「そして、その後を無様にも這い進む不埒ふらちやからよ――――」


 ギルは、愕然と天を仰いだ。

 翡翠の輝きと、目が合う。

 空中を舞っている、頭部だけのテオが、天使の笑みのままで、告げた。


「風に守られし者の、荒れ狂う無形の鎧に触れる愚かさを知れ!」


 爆発にも似た衝撃が発生した。

 それは、螺旋状に駆け上がる超局所的な突風だ。

 木っ端のように飛んでいるのは、ギルの命でアリアを追った者達だった。竜巻は真空波さえはらんでいるのか、彼らは鋭利な刃物で切断されたように、ばらばらに分解されていく。

 通りに面した建物が土台から根こそぎもぎ取られ、道という道を塞いでしまっていた。


 だがギルは、振り返って背後の出来事を確認することすらできないでいた。

 その目に映るのは、首をなくした死体が両腕を掲げて、自分の頭を受け止めようとする滑稽こっけいな姿だ。

 やがて落下してきた頭部は、しかしその両手をすり抜けて、石畳に激しく衝突する。

 身体が蜂蜜色の髪を掴んで、それをぞんざいに持ち上げた。顔面から落ちたのか、鼻梁びりょうは完全に陥没し、頬骨は砕け、血溜まりとなった眼窩がんかから破裂した眼球がどろりと零れる。

 それが、時間をさかのぼるように再生していく様に、ギルはもう驚かない。

 形のいい鼻骨が隆起し、頬が膨らむ。目は、瞼が開閉する刹那で、既に翡翠の色を取り戻していた。


 そして未だ断続的に鮮血を噴いている首の断面に、頭を乗せる。しっくりこないのか、しばらく微調整をしたかと思うと、いつの間にか正常な位置で安定した。

 雨が血を洗い流せば、そこに傷ついていた痕跡はなにもない。


 テオは、おもむろに口を開く。

 しかしなにかを言おうとして、出てきたのは濁った音だ。可憐な顔を不快そうに歪め、何度か咳払いをする。ぺっと赤黒い唾を吐き捨てると、今度こそ得意げに胸を張った。


「まったく、英雄と呼ばれる貴殿にも若かりし頃はあっただろうに。初心に帰りたまえよ。さすれば、今のような無粋な真似はできなかったろう!」

「お前、一体……」


 さしものギルも、困惑に二の句を継げない。

 あの大規模な魔法、もしその中心に巻き込まれていれば、いかなギルとはいえただではすまなかった。

 だがテオが狙ったのは、アリアを追撃する刺客の方だ。殲滅の優先度は低いはずだし、それを見誤るような相手にも思えない。


「なんということだ! 余の意図がわからんのか、この愚鈍が!」


 りぃん、と響くのは、その胸元で輝く紅の剣の鳴き声だ。


わきまえよ、と言っているのだ! 老兵風情ふぜいが、若人わこうど道行みちゆきを遮るな!」


 《切り拓く剣》の音色に乗せて、テオは吼えた。


「余は《不滅のテオドリクス》――滅びを知らぬ者と相対したことを後悔するがよい、小童こわっぱ!」

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