3-13.悪魔

 刃の竜巻が吹きすさぶ。唸る剣撃は、間断なく降り注ぐ雨の粒ごと、シャルが生み出した黒き魔物を斬り砕いた。

 バートランド・ギルは剣の勢いに乗ったまま旋回し、逆の手で空を薙ぐ。閃く幾筋もの銀光は、鋭く研がれた投擲用の短剣スローイング・ナイフだ。それは寸分の狂いもなく、宙を漂っていたキラー・ビー、ギルの隙をうかがっていたマンティス、まさに影から姿を現そうとしていたスパイダーの脳天を穿うがった。

 死骸は溶けるように形をなくすと、跡形もなく消滅していく。

 まさしく鎧袖一触――荒くれの混成部隊を圧倒した軍勢の異能は、しかし一人の絶対的な強者の前で駆逐されつつあった。


 くずおれる魔物の背後から白影が飛び出し、素早く駆け抜ける。

 その軌跡を彩るのは紅の残光だ。

 リュークは一足飛びにギルへと肉薄し、疾走に乗せた聖剣を逆袈裟の軌道で斬り上げた。


 ギルは退かず、むしろ更に前進して、灼熱の刀身を紙一重で回避する。

 交差する二人の間で風が逆巻さかまき、聖剣が蒸発させた雨の白煙、砕けた影の黒い破片が乱舞した。

 歴戦の老兵は振り向きざま、気配を頼りに白刃を送り込む。

 霞の幕を切り裂いた先には、縦に構えられたリュークの剣があった。なにもかもを焼き尽くす刃には、いかなる業物の鋭さも意味を成さない。触れただけで溶解することは確実だ。


 鳴り響くのは、鋼の軋む音。

 剣圧によろめきながら、リュークは驚愕に喘いだ。聖剣は異能と同じく、尋常の物質では対抗できない。そのはずだ。

 ギルは、更に踏み込んだ。下から駆けのぼる斬撃は、白鎧の騎士を甘い防御ごと弾き飛ばす。


 足元の雨水を跳ねて転がるリュークは、あえて体勢を整えずに背後へ向けて地を蹴る。その後を複数の投げナイフが追いかけ、石畳に次々と突き刺さった。

 やがて立ち上がった彼の眼は、不甲斐ない自分への憤怒からあおく燃え盛っている。手が触れた鎧の肩口には、小さな傷が刻まれていた。ギルの剣は、確かにリュークへ届いていたのだ。


「雑魚をけしかけても無駄みたいだね」


 攻防を見ていたシャルは鼻を鳴らす。リュークを退けた隙に、いくつかの影をギルの死角から襲わせていたが、それも瞬く間に切り伏せられていた。

 これ以上は無意味と判断し、異能を打ち消す。魔物達は震えたかと思うと、どろりと溶け出し、そのまま地面へ吸い込まれるように消滅した。


「おい、その雑魚に、まさか俺を含んでいないだろうな?」


 噛みつくリュークだが、語気は弱かった。軽々とあしらわれた自分の情けなさも自覚していたからだ。

 会話しながらも二人の視線は、悠然と雨の中を歩んでくるギルを捉えて離さない。


 周囲で戦っていた治安維持部隊や、彼らが雇った冒険者なども、次々とギルの元へ走った。随分と数を減らしたものの、萎えかけていた士気を取り戻している。ただ一人の老兵が加勢に現れただけで、亡者のような目が輝いていた。

 ただ存在するだけで、敵を圧倒し、味方を鼓舞するカリスマ。

 だがやはり、最もおそろしいのは彼自身だ。


 ギルドの支部長には必ずしも戦闘能力は求められないが、それでも荒くれ共を黙らせる説得力は時として大きな役割を果たす。その意味で、ギルの力は十分すぎた。

 彼は若かりし頃、卓越した剣技でカレヴァンの頂点に君臨した。

 剣の届く範囲で自らに匹敵する者はいない。そしてギルは間合いの外を斬る手段を模索し、投剣術を極めた。そのために装備した無数の大小様々な刀剣の数々こそ、二つ名《千剣》の由来である。


「なるほど、冒険者だ」

「感心してる場合か」


 楽しげに呟くテオに、アリアの不機嫌な視線が突き刺さる。

 かつての上官であり、街の守護者――しかし真実を知ってしまった彼女には、もはやギルに対する畏怖はない。

 彼は《空の森》の地下に広がる魔領域を、街の発展のために秘匿してきた。そしてそれを暴こうとする輩を秘密裏ひみつりに葬ってきたのだ。人の上に立つ者は、多かれ少なかれ闇を抱える。ギルもまた、そのうちの一人でしかない。


 ギルは開拓者達と大きく間合いを取って対峙した。その後ろに付き従った者達もまた同様に歩を止め、弓やクロスボウを構える。

 雨の轟音だけが世界を支配した。緊張感が張り巡らされ、ほんの一突きで殺意の濁流がすべてを押し流してしまいそうだ。


 そして、その中でギルは――おもむろに、剣を収めた。

 そればかりか両腕を広げ、無防備な姿を晒す。


「話をしよう」


 困惑する皆の前で、ギルは言った。

 真っ先に反応したのは、アリアだ。

 黒い瞳に怒気をみなぎらせ、雨音を跳ね返すように叫ぶ。


「話だと? 馬鹿げたことを! 私達を問答無用で撃ち殺そうとしていたのは、貴様らの方だろう!」


 多くの人員と装備、あまつさえ銃器を持ち出したのだ。この計画にカレヴァンの支配者たる彼が関わっていないはずはない。

 しかしギルは動じない。それどころか、悪びれもなくうそぶいた。


「この程度で、お前達をどうにかできるとは、最初から思っていない」

「ギルド長!?」


 身も蓋もない言葉はアリアを愕然とさせるが、当事者である冒険者達にとってはたまったものではなかった。事実、少なくない仲間達がシャルの異能の餌食となっているのだ。

 なにかがおかしい。

 その気配を、皆が一様に感じ始めた。

 誰もが尊敬する戦士であり指導者、バートランド・ギル。この場に現れてから彼は、死した戦士達に一瞥いちべつすらくれていない。


「たとえ無駄だとわかっていても、人と金を消費して対応せねば納得しない人種がいるのだ。この街の領主や、商人達などな……その上、特定のギルドに戦功を得る機会を与えれば角が立つので、多くの組織から平等に人員を募らねばならなかった。練度も装備もちぐはぐなあつめだ。こんなもので《黒い剣のアリア》、そしてリューク・レヴァンスを仕留められるなどとは思わん。まして開拓者がいるのであれば」


 ギルは周囲の困惑を無視したまま、苦り切った口調で吐き捨てた。組織の長が吐露とろすべきでない本音の呟きは、半ば独白にも近い。

 そして彼は、決定的な一言を口にした。


「アリア、そしてレヴァンス。お前達は街を出てもいい」


 どよめくのは、治安維持部隊とは縁のない賞金稼ぎや傭兵だ。

 懸賞金を目当てに加勢した以上、賞金首を見逃すのは契約に反する。


 しかし、抗議が声になることはない。

 ギルが初めて、彼らに目を向けた。どこまでも厳しく、侮蔑さえ込められた視線だ。氷雨ひさめもかくやという冷徹さに、黙って俯いた。


「《黒い剣のアリア》、お前の指名手配を無効にしよう。そして冒険者ギルド、カレヴァン支部長の名の下に、都市アルバート壊滅の罪に特赦とくしゃを与える」

「……そんなこと、できるはずがない。貴様の言葉で、一体どれだけの人が納得できるというのだ」


 ギルド長とはいえ、その権限はカレヴァンの中に限られるはずだ。

 だが、彼は確信を持った顔で続ける。苦渋に満ちた、慙愧ざんきの表情だ。


「アルバートは……腐っていた。上層部は甘い汁を吸うことだけを考え、犯罪組織と手を組むことすらあった。なによりがたいのは、連中が戦争をくわだてていたことだ。堅固な城壁、そして魔領域《アビス》から無尽蔵に得られる鉱石を使ってな」


 驚愕するアリアだが、記憶を辿れば、その兆候は確かにあった。あらゆる戦闘者を引き入れて肥大化していた、あの組織。アリアの魔剣を求めていたのも、戦のための武力を欲していたからだったのだ。


「俺達はアルバートに諜報を潜り込ませ、犯罪行為の証拠を集めていた。ある程度の情報を集められ、次に打つ手を模索していたところに現れたのが、お前だ。犠牲は大きかったが、大規模な戦争を防いだ功績をかんがみれば減刑の余地はある。必要ならば罪を償った先の仕事を斡旋してもいい」

「なぜだ? 一介の冒険者に、どうしてそこまでやってくれる」


 あまりにもおいしい話はアリアを混乱させた。裏事情はあるにせよ、それではギルがアルバートの関係者に借りを作ってしまう。

 最も簡単なのは、アリアを犯罪者として始末することだ。

 ギルは、まっすぐに彼女の黒瞳を見つめて、まるでそれが当然かのように言う。


弾かれし者アウトサイダーにも、救いはあるべきだ」


 アリアは、はっとした。その言葉に、どこか遠くで聞いたような懐かしさと暖かさがあったからだ。

 思わず黙り込んでしまった少女に頷きかけてから、ギルはこうべを巡らせる。そのやり取りを胡散臭そうに眺めていた、リュークだ。


「レヴァンス……お前の指名手配は、公国のものだ。俺も介入することはできない。だがカレヴァンから刺客を差し向けないことは約束できる。このまま、大人しく出て行ってくれないか」

「お断りだよ」


 リュークは挑発的な眼でギルを睨みつけ、灼熱の剣をこれ見よがしに素振りする。熱波が雨粒を蒸気に変え、白いもやを地に這わせた。


「生憎だが、俺には戦う動機も、それを止める理由もない。ただ楽しそうだから、渦中に飛び込んできただけさ。金や平穏を餌に飼い慣らせるとは……」

「欲するのは、エレオノーラか」


 軽口が途絶える。形のいい口を忌々しげに歪め、リュークは舌打ちをした。

 ノーラは治安維持部隊の手中にある。その事実が苛立ちを募らせた。


「お前は誤解をしている。彼女は犯罪人として公国に追われているのではないし、俺達も賓客ひんきゃくとして扱っている。既に公国には使いを出した。彼女を使者が迎えにくるまで、丁重にもてなすことを確約しよう」


 とんとん、とリュークは剣の鞘口を指で叩いた。それは表情を消してギルを見すえる彼の、心のうちを映しているかのようだ。

 ギルの声は真摯しんしな響きを伴って、アリアとリュークに向けられた。


 敵ではあるが、虚言をろうする男ではない。それは二人もわかっていた。

 だからこそ、理解ができない。

 そこまでして賞金首を見逃すことで、彼、ひいてはカレヴァンがなにを得られるというのか。


「いやあ、大した男だ。慈悲深き指導者という評判も頷ける!」


 この場にふさわしくない、うたうような賛美が朗々ろうろうと響き渡った。

 テオだ。

 絵画に描かれた天使が抜け出してきたのかと錯覚させるほどの美少年は、にっこりと微笑みながら言った。


「それで、とシャルには、なにをくれるのかな?」

「お前達には、死を」


 豹変だ。

 少女に優しく語りかけていた男の姿は、そこにはない。

 あるのは鬼面と、肌を刺す闘気だけだ。


 ギルの慈悲は、決して情だけが理由ではない。二人を遠ざけることで、本来の標的に注力するためだ。

 それは――鮮血に染まった剣と鉈、《切り拓く剣》の装飾を身につけた者。

 その答えは想定のうちだったのか、あるいは想定外であっても変わらないのか。テオは満面の笑みを浮かべたまま、両手を挙げて驚いたポーズを取った。


「なんと、子供殺しを? これはおそろしい!」

「黙れ。開拓者の目的はわかっている。魔領域の根絶など、愚かなことを」


 冒険者ギルドの情報網を持ってすれば、《魔王アークエネミー》を発端とする開拓者の活動を掴むことは容易だっただろう。なにせ、彼らは自らの痕跡を隠そうともしないのだから、当然だ。

 怪物の巣窟を破壊する。それは世界の誰もが抱く願いだ。

 だがそれは、魔領域の資源に頼った現在の人類を脅かすことにも繋がる。

 なにより魔境の消滅は魔物の大移動や天変地異を引き起こすとされ、大陸が沈む可能性すら否定できないのだ。


「人々の生活を守護する冒険者ギルドの理念に則り、お前達だけは逃すわけにはいかん」

「ふん……いつの間にやら、大層な題目を掲げるようになったものだな」


 テオは翡翠の目を細め、決然とした言葉を一笑にした。

 その冷淡さに、ギルは背筋を悪寒が走るのを感じる。まだ毛も生え揃わないような子供にも関わらず、そこには得体の知れない気迫があった。


「それで、どうするのかね? 貴殿一人で、挑むつもりか。それとも、そこで震えている子羊共をけしかけるとでも?」


 テオはともかくとして、異能の開拓者と、おそるべき剣の使い手が二人。いかな名高きギルとはいえ分が悪いと見えた。カレヴァンでおそれられた治安維持部隊さえ、この戦場では勘定に数えられるものではない。

 しかし、ギルは退かなかった。

 彼の鋭い眼が捉えるのは、シャルの異能に殺された傭兵や冒険者、荒くれ達の亡骸だ。


「――――恨むがいい」


 果たして、それがどういった意味を持っていたのか。

 前兆はなかった。

 ギルの足元から放射状に広がる気配。それを感じ取れたのは類稀たぐいまれな戦闘能力を備えた者だけだ。

 不可視の領域が周囲を呑み込んで行く。


 全身が粟立あわだつ感触を覚えたアリアは、ふとなにかの動く音を聞いた。そして、その黒瞳を見開く。


「なにが起きている?」


 思わず零れた声は震えていた。

 そこにいたのは、一人の傭兵だ。しかし、頭部の半分が食い千切られて消失している。

 脚も負傷しているのか、歩みはぎこちなかった。かくん、と不格好に一歩を進む。頭蓋の中から脳の一部がぼろりと落下した。

 それは、その男だけではない。無惨に打ち倒された戦士達が、生ける屍と化して次々に立ち上がったのだ。


 まるで、魔物の一種――アンデッドだ。

 だがゾンビは、それでも人間の機能を基礎にしている。これほどの不死性を持ち合わせてはいない。


「なんなんだよ、これ!?」


 恐慌をきたしたのは、ギルの背後に控えていた治安維持部隊だった。

 先程まで肩を並べて戦っていた仲間達が、おぞましい姿に変わり果ててしまったのだ。

 震える足を必死に動かして、後退する。すぐにでもきびすを返して、この異常な場所を去ってしまいたかった。

 だが、それをギルが許さない。


「すまない」


 短い謝罪は、刃の鋭さを伴っていた。

 逃げ出そうとしていた数人の首元に、短刀が突き刺さる。

 誰もが目を疑った。

 あの英雄バートランド・ギルが、まさか同胞を手にかけるなどとは。


 困惑は、それだけでは終わらない。

 喉を抉られた哀れな犠牲者達は、倒れなかった。糸に吊られたように立ち尽くし、うつろな眼窩がんかを宙に向けている。

 異様な光景は、一介の戦士でしかなかった彼らを麻痺させていた。死したはずの仲間が無造作に腕を持ち上げるのを呆然と見つめるしかない。


 ぶしゅ、と、その腕が爆ぜる。

 飛び出すのは幾筋もの黒い線。

 それが弾丸に匹敵する速度で、隣にいた男を貫いた。胸から侵入して心臓を食い破り、背中から出現して、更に別の者へ喰らいつく。

 触手のようななにかで数珠繋じゅずつなぎにされ、彼らは力なく頭を垂れた。

 同様の出来事が、何人もの間で展開されている。


 まさに一瞬だ。

 ギルを信じてこの場にのぞみ、開拓者の異能から生き延びた者達が、一瞬で全員、息絶えた。

 彼らもまた、明らかに死んでいるにもかかわらず、幽鬼のように頼りないままで立ち呆けている。


「あれは……つる、か?」


 異常な惨劇を目の当たりにしながら、リュークは冷静に観察していた。

 彼らを繋ぎ合わせている線条には鋭い棘がある。それは樹木の蔓に酷似していたのだ。

 蔓は出現元の男の中にしゅるしゅると戻り始め、殺害した者達から引き抜かれる。鮮血が雨に弾け、彼らの身体がぐらりと揺れた。


 そこで、アリアは気づく。

 そして、愕然とした。

 生きる屍と化した人々。その全身から流れる血の色が、変化している。

 闇が溶け出したような、黒だ。

 それは、スバルの漆黒の血液に、あまりにも似ている。


 変化は、更に続いた。彼らの顔に、これもまた植物の蔓を思わせる文様が現れたのだ。

 目は赤光しゃっこうを帯び、身体がぼこぼこと波打ち始める。なにかが人体を造り替え、歪に筋肉を膨張させていた。


「まさか、貴殿!」


 テオが叫んだ。

 さすがに驚愕していた少年の表情は、いつしか喜色にほころんでいる。

 柔らかい頬は興奮から桜色に染まり、エメラルドグリーンの瞳が曇天の下でなお光り輝いた。


「その力、異能ではないな! 接触したのか!? 心臓の悪魔――《魔族》に!」


 ギルは答えない。だが否定でもなく、テオの言葉を理解していない風でもない。

 暗黙のうちの、肯定だ。


 《魔族》。

 現代の冒険者で、その存在を知っている者が、どれだけいるだろう。

 アリアもまた、それを聞いたのは随分と前の話だ。偶然に酒場か宿かで出くわした学者に、この世の成り立ちについて講釈を受けたときだった。


 遥か昔、平和だった世界に突如として現れた侵略者。彼らとの戦いは人類が積み上げてきた歴史や文化を無に帰すほどに激しかったという。

 やがて、異能を覚醒させた戦士に抵抗されると、彼らは世界を蝕む毒《魔領域》を残して地上を去った――それが辛うじて伝わっている神話の一部だ。


「魔族、そんなものが、実在するというのか?」


 リュークは、そう零していた。

 その呟きを耳聡みみざとく聞きつけると、テオがきらきらと輝く眼のまま、弾む声音で告げた。


「実在もなにもない。貴殿も幾度となく目にしてきたはずだぞ」

「なんだって?」

「気になったことはないかね。魔領域の核を、なぜ人々は《悪魔の心臓》などと呼ぶ? 魔境の中心地に名を付けるのなら、もっと適切な名称があったはずだ。なぜ、あえて心臓という単語を選んだ?」


 テオは笑みを深くする。そして、底冷えするような声で、囁いた。


「悪魔とは、誰だ?」


 それが当然のことで、疑問に感じたことなどなかった。アリアは息を呑み、剣の柄を握る手に力を込める。

 ノーラは大陸で起きている事件を語る際、魔王が熱砂の谷を殺した、と表現した。違和感などなかった。ノーラ本人ですら、無意識だったに違いない。


 それはおかしい。あまりにも奇妙だ。

 通常、場所に対して生死や、ましてや殺すなどという言葉は使わない。

 そもそも、ある領域が心臓を持つことなどないし、それをなくしたからといって地形が変わることなどありえない。


 知らず知らずのうちに、本能が理解していたのだ。

 魔領域とは、一つの生物であることを。

 そして、その正体を。


「魔領域とは、異世界からの侵略者、魔族そのものだ。魔族は自らの体が限界を迎え始めたことを悟ると、その肉体のほとんどを代償にして魔界の一部を現世に召喚した。魔領域とは心臓を守る鎧であり、人間を誘引して取り殺す芳香ほうこうであり、そして、いつか目覚める赤子を包んだ揺籠ゆりかごなのだよ」


 衝撃に二の句を告げない一行を、ギルは静謐な眼で見つめていた。


「やはり……知っていたのだな」


 彼の言葉はテオの、ともすれば妄言とも思われかねない話を裏づけた。

 そして、ギルは再び剣を抜く。その身に帯びた無数の刀剣のうち、最も大振りな一対二振りの双剣。


「だからこそ、逃がすわけにはいかない。それが奴との契約でもあるからだ」


 《斬り裂く刃ツェアライセン》の象徴ともなった得物を構え、ギルは宣言した。


「ここで死ぬがいい。人類の敵、そして魔族の敵、開拓者よ」

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