3-10.道と思惑
アリアはテラスの手すりにもたれ、夜の雨を見下ろしていた。
生温い風が吹き、艶やかな黒髪が揺れる。重い吐息が闇に溶けて流れ去った。
開拓者――伝説級の疫病神が
だがそれは、世界を救うために人類を滅ぼすことに他ならない。魔境の消滅は天変地異や飢餓を
結局、これからの話をする前に気持ちの整理をつけろと、テオを名乗る少年は一旦解散を宣言した。
じっとしている気にもなれず、アリアは部屋を抜け出して宿を散策している。街を一望できるテラスには雨音だけが響いて、混乱する心を落ち着かせた。
カレヴァンは、冒険者の拠点として築かれた集落としては大規模で、栄えている。初めて訪れたときには圧倒された場所が、今ではひどく不安定でちっぽけなものに思えた。
「君も散歩かい?」
軽薄な声に振り返ると、そこには金髪碧眼の美丈夫、リュークがいる。
いつもの白鎧ではなく、動きやすいラフな服を着込んでいた。手には酒瓶が握られており、腰に聖剣を
「……随分と
「まさか。とんでもないことに関わってしまったと
言葉の内容と声音の不一致に、アリアは
アリアに
「テオ、あの男は、なにかを隠している。決定的な、なにかをね。それを知らないままで怯えてはいられない」
それは彼の
そしてアリアは、やはりそうか、と納得していた。
あの開拓者が、自らの目的を易々と漏らすとは考えにくい。
テオに嘘をついている様子はなかった。もしそうならば、おそらく彼は真実が持つ側面の一つだけを語ったのだろう。最も重要な要素を隠したままで。
「貴様は、これからどうするのだ」
「当然、自分の命が最優先だ。連中の話は面白いけど命がいくつあっても足りない。付き合っていられないよ」
どこか自嘲の込められた声。皮肉げな表情は、一気に酒瓶を
「……だが、あの娘は放っておけない」
アリアが反射的に
「俺は部屋に戻るよ。君も今のうちに休んだ方がいい。どう転ぶにせよ、戦闘からは逃れられないだろうからね」
剣の揺れる軽やかな音を残して、白い騎士は遠ざかっていく。
アリア――その肉体に宿る魔剣は、ふと目を閉じて深々と溜息を吐いた。
胸の内に
ここからの戦い、自らの力不足を感じずにはいられない。
魔剣の強大な力も真の強者にはまったくの無力だ。暗殺者ギルドの末端にさえ、単独では歯が立たなかった。
スバルの言葉を思い出す。先のことは考えている――と言っていた。
傷ついた少女の心は、目覚めの兆しをみせている。
一つの道筋が、クローディアスの前に現れていた。たとえそれが、彼女の意思に反するものだとしても、それを選ぶことに躊躇いはなかった。
◇ ◆ ◇
「入りたまえ」
テオは琥珀色の液体で満たされたコップを揺らしながら、ノックの音に答えた。
少しの逡巡を経て扉が開き、ノーラが姿を見せる。
緊張のせいで落ち着かなげな視線が、ふとテオの持つ
「果実汁だよ。未成年なのでね」
「……そうですか」
ノーラは毒気を抜かれた面持ちで彼の対面に座り、その翡翠色の瞳を真正面から見据える。
「お休み中のところ、すみません。どうしても聞きたいことがあるんです」
「それは探索者として、かね? それとも占星術師の末裔として?」
彼女は首を横に振ることで問いかけに答えた。もはや自らの素性が知られていることへの動揺もない。決然とした表情は、普段の柔和なノーラとは異なっていた。
「いいえ。これは、ただのエレオノーラとして」
偽名ではなく、家名を名乗ることもない。それはあらゆる身分を取り去った、彼女個人としての問題だという宣言だ。
「私とあなたが初めて会ったときのことを、おぼえていますね。あのとき、あなたはレイヴンの名を出しました」
「はて、そうだったかな」
「とぼけないでください」
ノーラの詰問には鋭い棘があった。悪意ではなく、焦燥から生まれた脆い棘だ。
「あなたは知っているのですね? 《白鴉》と呼ばれた男、最初の
硬い声の問いかけに返ってきたのは、含み笑いだ。
テオは俯き加減で身体を震わせ、衝動に身を任せていた。ノーラへの揶揄や、はぐらかすための時間稼ぎではない。ただの思い出し笑いといった風で、目尻に浮かんだ涙を拭っていた。
「もちろん、知っているとも。実にユニークな男だった。彼について、なにか聞きたいのかね?」
その短い返答は、ノーラを硬直させる。厚いローブに隠された素肌は
レイヴン――それはまだ探索者が探索者と呼ばれる以前に現れ、探索者ギルドの創立に携わったといわれる人物だ。探索者が
それをまるで昨日会ったばかりのように語るテオに、ノーラは底知れぬものを感じたのだ。
反射的に湧き上がる疑問を、歯を食い縛って堪える。テオの存在は恐ろしくも興味をそそるものだが、それでもノーラにとっては瑣末事に過ぎない。
「その生き様、そして死に様を」
「ほう?」
「レイヴンは尋常ではない洞察眼を持っていたといわれています。彼の《鴉の眼》は未来予知をすら実現したとも。私は、全知全能に最も近づいたとされる彼の人生を知りたい」
切迫した頼みを受けて、テオは追憶に浸るように遠い彼方へ視線を飛ばした。まだ十代前半の少年の外見をしながら、それはあまりに年老いた目だ。
「レイヴン……およそ荒事に関わる人間で、あれほど虚弱な者は他にいまい。
小馬鹿にした口調は嘲りではなく、友人への軽口にも似る。しかしその声音よりも、その内容がノーラを驚かせた。
白鴉と呼ばれた男は、探索者の中では神にも等しい。最初にして至高の存在とされているのだ。
「屈強な英雄だとでも思っていたかね。それとも、冷静沈着な暗殺者とでも?」
「伝え聞いた人物像とかけ離れているだろう、とは覚悟していました。それでも……少し意外でしたが」
そうだろう、とテオは言う。レイヴンが英雄と同列に見られていると知ったとき、笑いが止まらなかったとも。
手に持っていた果実汁を飲み干し、テオは話を続ける。湿った口元は、一転して真摯さを取り戻していた。それは、敬意の表れだ。
「非常に弱いレイヴンは、《鴉の眼》……超人的な勘を持っていた。それもすさまじく強力なものだ。彼は魔領域の攻略を目指して、独りで挑み続けた」
「探索者が、魔領域に?」
「当時は探索者の概念もなく、冒険者と呼ばれる存在だったがね。彼が活動した十余年で、一体どれほどの魔境が不可侵の難所を暴かれたと思う? あの男がいなければ、この大陸の安全地帯は半分ほどになっていたはずだ。そしてその間、レイヴンが戦闘に至ったのは、ただの一度だけだった」
からかっているのではないかとノーラは猜疑の視線でテオを見る。だが、そこにあるのは真剣な眼差しだけだ。
今も数多の冒険者を飲み込んでいる魔領域、それを戦うことなく独りで侵し続けた探索者。その功績は英雄の名を冠せられるに十分なものだ。
もしテオが真実を語っているのであれば――ノーラは、話の一部分に強烈な興味を惹かれる。それは、まさに彼女の人生を左右するものだからだ。
「彼は、その一度の
「なぜ、そんなことを気にするのかね」
急に、問いを問いで返される。苛立つノーラを見透かすように、テオが小悪魔のように口で綺麗な孤を描いていた。
「私は……一度だけ、間違えました。《鴉の眼》が導く未来に逆らい、すべてを失って、すべてを捨てて、そしてここにいます」
初めて、テオが好奇心に満ちた顔で身を乗り出した。
テオは長い旅の中、この近辺で公国と呼称されている大国を通っている。
その途中で見た人相書きに、彼女がいた。エレオノーラ、高貴な身分の令嬢が姿を消したのだという。国の未来を視るとされる占星術師の末裔、エレオノーラを保護した者に、一生を平穏に暮らせるほどの賞金が支払われることになっていた。
その額は、歴史ある騎士団を全滅させ、とある大貴族を一族郎党皆殺しにした大罪人、リューク・レヴァンスの懸賞金と並ぶほどだったのだ。
「私は知りたいのです。この人生の続きは、失敗の延長でしかないのか、残りを生きる価値が存在するのか否か……そればかりは、私の《眼》も教えてくれなかった」
ノーラの双眸には狂気が浮かんでいた。自らの生すら遠いところから
テオは前のめりになっていた身体を引き戻し、ふむ、と声を上げる。そしておもむろに、語り始めた。
「いいだろう。確かにレイヴンは《眼》の導きに逆らって戦闘に挑んだ。それは人を守るための戦いだ。決して敵わないとわかっている魔物を相手に、大切な者のために剣を取ったのだ。陳腐な物語だろう」
「……それで、彼は?」
「生と死の瀬戸際で、他人に命を救われた。初めて未来を見誤ったと愕然としていたよ」
探索者の神とされるレイヴンが、一度だけ見誤った未来。固唾を呑むノーラを前に、テオはゆったりと話を続ける。
「聡明な貴殿ならば想像はついているだろうが、《鴉の眼》、そう呼ばれる勘と洞察力は、異能だ」
「やはり……そうでしたか」
「そして聞いたことはあるだろう。異能は異能と拮抗する。それは《眼》も例外ではない。レイヴンを救ったのは、とある強力な異能者だったのだよ」
それは、光明だった。ノーラはレイヴンの人生を追い求めて祖国を飛び出したことが、ついに報われたことを悟っている。
この眼が
しかし、ただ一つ。
この眼でも見透かせないもの。あるいは視たものを覆す存在がある。それが真実だった。
「ありがとうございます、テオドリクス卿。私の進むべき道が見えました」
「おかしなことを言う。
「道が見えても、踏み出す心を持てないなら壁に遮られているのと同じです」
ノーラがそういうと、テオは驚愕に目を丸くし、次の瞬間には豪快に笑い出した。奇妙な反応に戸惑っていると、テオは震える声のままで言う。
「やはり、貴殿はレイヴンと似ている。彼も同じ例えを出していたからね。そして命を拾った彼は、こうも言っていた。道を遮る壁に、手と足をかける
「……レイヴンを救った異能者というのは、やはり……いや」
言葉を途中で飲み込んで、ノーラはおもむろに立ち上がった。そして、深々と頭を下げる。それは彼女の国では相手に敬意を払う最上級の礼だった。
「私は、もう行かなくてはなりません。短い間でしたが、お世話になりました」
言うが早いか、早足で部屋を飛び出していく。その奇行は、しかし《鴉の眼》――ノーラの持つ異能を知っていれば不思議なものではない。
残されたテオは、天井を仰いで目を閉じる。まるで瞼の向こうに、いつかの記憶を見るかのように。
「生きたまえよ、エレオノーラ嬢」
含み笑いが、いつまでも木霊していた。
◇ ◆ ◇
闇夜に紛れて、一つの人影が《寝惚けた黒獅子亭》を後にした。未だ降り注ぐ雨が、彼を外套の上から打ちつけている。
ふと、人影は足を止めた。
その目の前に、しなやかな獣が姿を現したのだ。全身を黒く染めた獅子は不遜な眼差しで、その人物を責めるように突き刺していた。
「言いたいことがあるなら、言えよ」
やがて、ぶっきらぼうに人影が呟く。
フードから覗くのは、黒髪黒目の男――スバルだ。
「弱虫」
容赦のない女の声。それは、獅子の口から漏れ出していた。
スバルは獣の言葉を不思議がる様子もなく、苦虫を噛み潰した顔で押し黙る。皆に黙って単独行動を始めた以上、言い訳できようはずもなかった。
獅子は地面に座り込んだかと思うと大きな欠伸をし、スバルを横目にして寝そべる。左右に揺れる尾が、雨水を弾いて遊んでいた。
「アンテロの話、聞いた。革命軍の幹部やってたんだって? どうせ、おだてられて、成り行きで変な組織に入れられた挙句、くっだらない裏切りにでも遭ったんでしょ」
スバルは答えない。ただ引きつった目元、震える口の端が如実に真実を明らかにしていた。
やがて、観念したように深く溜息を吐くと、地を這うように低い声で言う。その落ち込みようは、心から気を許した相手にしか見せられない弱気な姿だ。
「親父と母さんが、どこにも属さないようにしてた意味が、よくわかった」
「そういう風に生まれついてないの。私達みたいなのはね」
獅子の声には、強い諦観の響きがあった。そして、それはスバルへの共感でもある。
「アリアのことは、いいの?」
スバルは、少しの間だけ目を伏せた。まるで、親を見失った幼子のような痛々しげな姿は、獅子の喉を唸らせる。
やがて顔を上げると、スバルは静かに言った。
「お前ら、すぐにカレヴァンを
「……まぁね。あんたがいるとわかってたら、こんなところにはこなかった。あんたやスピカなら、どう転ぶにしても最終的には魔領域を殺すって、テオも信用してる」
「テオには話を通してある。アリアを連れて行ってくれ」
想定内の言葉だったのか、獅子は鼻を鳴らした。荒々しく身を
「いいよ。テオとの二人旅も飽き飽きしてたし、戦力としても十二分だし」
それから、しばらく獅子は口を噤んだ。遊ぶように振られていた尾は、ふらふらと不安定に宙を漂っている。それは声の主の躊躇いを表しているようだった。
「本当に、それでいいの。あんたは」
「それでいいんだよ」
スバルが思い出すのは、白銀の髪、黄金の瞳をした少女の姿だ。
どこか張り詰めた表情をしているが、その奥に痛みと哀しみを湛えている。
力を持つ以上、闘争から逃れる術はないだろうが、開拓者へのコンタクトを目的とするテオと行動するならば平穏な時間も与えられるだろう。
そう、これでいい。
スバルは自分に言い聞かせるように繰り返した。
獅子は彼の様子を黙って見ていたかと思うと、おもむろにその足元へ歩み寄り、そこに小さなきらめきを吐き出す。
鍵束と、羊皮紙の切れ端だ。それを拾い上げたスバルは、怪訝そうに眉をひそめる。紙切れに書かれていたのはいくつかの住所だった。
「それ、この宿が所有してる倉庫と、その鍵。自由に使っていいってさ」
「どうなってるんだ? どうしてそこまでしてくれる。いくら金を積んだからって、変だろ」
「さぁね。テオが偉い人と話し込んでたから、知り合いなんじゃない?」
「……まぁ、なんでもいいか」
テオドリクス――そう名乗る開拓者のことを、スバルですら深くは知らない。だが少なくとも、今は敵ではないとわかっている。
それに補給線を断たれて苦労していたのは事実だった。スバルはそれを懐にしまい込み、ひとまず安堵の吐息をつく。
スバルは獅子の頭を乱暴に撫でつけ、どこか幼い笑みを浮かべた。凶悪な面構えの獣も、気持ち良さそうに目を細める。
「俺は、もう行くよ。じゃあな、シャル。お前が元気でやってるのがわかって、よかった」
「……ばいばい、兄貴」
手応えが、急に消える。獅子は溶けるように原型を失うと、影に沈むように消滅した。
独り残されたスバルは不意に視線を感じて、背後の《寝惚けた黒獅子亭》を振り仰ぐ。
最上階のテラスに、白銀の色彩が風に
その美しさに少しの間、
そしてそこから視線を引き剥がすように、スバルは身体ごと闇へ向き直り、その中へと姿を消した。
遠ざかっていくスバルの背中を、黄金色の双眸がいつまでも追いかけていた。
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