3-9.世界平和

 カレヴァンは騒々しい闇夜に沈んでいた。

 激しいスコールは間断なく建物の屋根を打ち、その音は薄膜のように人々を包む。

 大量の雨水が向かう先は地下に掘られた水路だ。濁流は地下水脈へと流れ込み、最後には空の森へ行き着く。

 これほど豊富な水源があって、しかし街の周囲は荒れ果てた平野が続いていた。原因は定かではないが、空の森の樹々が奪い取っているのだろうと考えられている。悩みの種ではあるものの、空の森がもたらす恩恵の前には瑣末な問題でもあった。


「さて、どこから話したものかな」


 高級宿《寝惚けた黒獅子亭》、その一室で口火を切った幼い声は、テオのものだ。何時間も前からずっと身を沈めているソファの上で、気だるそうに伸びをする。

 悩ましいほど可憐な外見で、そこだけ老練したみどりの瞳が、テーブルに広げたカレヴァン周辺の地図をぼんやり眺めていた。


「そもそも、貴様らの目的はなんだ? ここに私達を導いたのはついでだと聞いたが、スバルは違うのだろう」


 窓際で椅子に腰掛けたアリアは、無造作に核心へ言及する。

 テオの対面にいるノーラが、ぎくりと身体を強張こわばらせた。開拓者の目的――それを知る人間は限りなく少ないと見られている。あるいは、知ったが最後、生きては帰れないと囁かれるほどだ。

 そんな噂を知ってか知らずか、スバルは今更思い出したようにぽんと手を打つ。


「あ、そうだよ。結局お前ら、なんでここにいるんだよ」

「はぁ?」


 壁にもたれて立っていたシャルは、きゅっと目尻を吊り上げて凄んでみせる。

 アリアやノーラには意外なほど気さくに接する彼女は、しかしスバルには当たりが強い。それは嫌悪というよりは、慣れのようだった。


「なに他人事みたいに言ってんの。それもこれも、おねえさま……」


 そこで言葉は唐突に途切れた。妙なタイミングと、開拓者の口から発せられるには奇異な単語が、他の面々を唖然とさせる。

 シャルはギリギリと歯を食い縛り、自らの赤毛と同じくらい顔を真っ赤にして、腕をぶんぶん振りながら叫んだ。


「スピカが! 余計なこと! するからでしょ!」

「……なんであいつの名前が出てくるんだよ」


 スバルは苦虫を噛み潰したようにうんざりと言った。

 底知れない空気を持つテオも苦々しげに笑いながら、シャルの言葉を継ぐ。


「まぁ、要するにそういうことだ。あの子が《熱砂の谷》を殺してしまってね。猶予はあるが、じきに魔素の大移動が始まるだろう。おかげで計画を前倒しにするしかなかったのだよ」


 スバルはしばらく固まっていたかと思うと、まさかこの能天気な男が、と驚くほど深い溜息を吐く。


「なにやってんだ、あの馬鹿……」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 開拓者の会話を聞いていたノーラは、頭の整理が追いつかずに声を張り上げた。

 彼らのやり取りは、情報不足のせいでほとんど理解不能だ。だが、それでも聞き捨てならない単語がある。

 ノーラは深呼吸の後、おそるおそる、問いかけた。


「あの、お話されていることの意味がほとんどわからないんですけど、まず確認したいことが。スピカというのは……その、まさか……《魔王アークエネミースピカ》のことでしょうか……?」


 《魔王》――それは最強最悪の冒険者として知られている女の二つ名だ。

 彼女が台頭してきたのは、ここ数年の話だ。その短期間で、もはや知らない者はいないほどに存在感を放っている。

 魔物の群れを指先一つで薙ぎ払った、大規模な戦争を双方の壊滅という形で終結させた、大都市を一日で更地に変えた、魔領域を独りで征服した――――彼女の噂の、ほんの一部に過ぎない。

 荒唐無稽な噂の数々から虚構とされることもあれば、目撃情報の多さから実在が確実視されることもある。探索者ですら全貌を掴めない、どこまでも謎の冒険者だ。

 いずれにせよ、彼女が災害級のトラブルメーカーであることは明白だった。星空を映すような灰銀の長髪、目が潰れるほどの美貌、赤柄のバスタードソード、それらの特徴をあわせ持つ人物に人々は過敏になっている。


 スバルは、ノーラの質問に沈黙で答えた。

 肯定の意味を含んだ、沈黙だ。

 そして、たっぷりの逡巡の後、消え入るような声で呟いた。


「……姉貴なんだ」


 驚愕とは、度を超せば人の思考をき止める。その実例が、眼前で展開されていた。

 ぱん、と軽く手を打つ音が皆を現実に引き戻す。

 一人泰然としていたリュークは咳払いをすると、改めてテオを真正面から見すえた。


「とにかく、スバルの姉君が発端となって開拓者が動き始めたことはわかった。それに、周辺の魔領域で未踏破地区が次々と開拓されているのも君達の仕業だろう?」

「ほう、そこまで掴んでいたのかね」

「ノーラの推測だが、君達は魔領域の攻略を目的……あるいは、それを手段としてなにかを実現しようとしている。一体、なにを考えているんだい?」


 テオは両腕をソファの背もたれに回し、もったいつけるように一息つく。

 そして、愛らしい面を尊大な笑みで彩りながら、言い放った。


「世界平和」


 再び、静寂がその場を支配する。

 皆、その意味を理解することができなかった。というよりは、思考が理解を拒んでいたという方が正しい。

 開拓者とは、すべてを破壊する異分子の代名詞だ。

 言うに事欠いて、世界平和、とは。

 からかわれているのかと、アリアはちらりとスバルを横目にする。見られていることに気づいたスバルは軽く肩をすくめてみせた。肯定ではないが、否定の仕草でもない。


「貴殿、危険地帯というものの意味を、考えたことはあるかね」


 テーブルに広げられた地図、そのいくつかの地域を指差しながら、テオが言う。

 地上の魔界、魔領域――その周囲の魔物の生息地を、一般に危険地帯と呼ぶ。戦闘を生業なりわいとする者でなければ、通り抜けるだけでも多大な犠牲と対価を支払わねばならない鬼門だ。


「危険地帯と魔領域が明確に区別されているのは知っていよう? どちらも魑魅魍魎ちみもうりょう跳梁跋扈ちょうりょうばっこする場所だが、性質がまるで違う」

「魔領域は……魔物が無尽蔵に湧き、人間を特別に敵視している。対して危険地帯の魔物は、魔領域に影響されて動物や無機物が変質したものだと聞いているが」

「勉強家でなにより」


 アリア――そこに宿るクローディアスは、賛辞に特段反応を示さない。

 実際の生活に必要な情報はアリア本人が記憶し、クローディアスがおぼえているのは取るに足らない雑学ばかりだ。それが原因で、アリアとして活動するようになってから苦労の連続だった。


「さて、たとえば歴史ある国ならば既に把握してることだが。リューク、貴殿は危険地帯が徐々に拡大していることを?」

「聞いたことはあるよ。魔物も昔と比べれば手強くなっているらしい。誤差の範囲とも言われているけどね」

「その通りだが、影響が小さいことは、この際問題ではない。魔領域とは世界を蝕む呪いそのものだ。百年先か、千年先か……世界中、魔物の棲まない土地はなくなるだろう」


 テオは地図を示し、その枠外のなにかをなぞるようにぐるりと指を回した。

 この大陸において、陸地の半分近くが魔領域に沈んだままだ。

 残った半分の、更に半分が危険地帯、魔物の生息地と言われている。人が夜を安堵の内に眠れるのは、実に四分の一の限られた地域だけなのだ。

 現在の侵食速度が、このまま続く保証もない。それはリュークがかつて在籍していた騎士団でも危機感をもって議論されていたことだ。


「それに脅威は魔物だけではない。魔領域が周囲の生物、物質を変質させるのだとしたら、人とてその埒外らちがいではないのだ」

「人間の……魔物化が起きるとでも? さすがに、そんな話は過去も現在も、聞いたことはないよ」


 馬鹿馬鹿しいとばかりに手を挙げたリュークは、考え込むノーラに気づく。

 顎に手をやって俯く、その表情は真剣そのものだ。戦慄している、と言ってもいい。

 彼女は顔を上げると、おそるおそる、呟いた。


「異能……?」


 ほとんど反射的に、アリアはシャルを見やった。

 彼女はあらぬ方を眺めて欠伸を噛み殺している。もう話に飽きた、と言わんばかりだ。


「こういう話を聞いたことがあるかね。かつて魔領域が世界を覆い尽くしつつある中、異能者達が立ち上がってそれを退けた……御伽噺、神話、英雄譚だ」

「まさか、逆なのですか? 魔領域が、人々に異能をもたらしたと? いや、でも、では異能に覚醒する者と、そうでない者の違いは?」


 口早にくし立てるノーラを、テオの忍び笑いが止める。


に言わせれば、現代の冒険者は皆、異能者だ。人々の身体能力、魔法への適性は、時を経ることに向上している。太古の英雄も、戦闘能力の一点では今の若手冒険者とそう変わらん。既に侵食されているのだ。知らず知らずの内にな」

「……まるで見てきたように言う」


 鋭いアリアの声は、それでもテオの表情を変えることはできない。

 その少年に抱いていた違和感、脅威は、事ここに至って更に高まりつつあった。


「精霊、気、魔力、魔素、呼称は様々だが、それこそが魔領域が世界を蝕んでいる毒だ。少量では人に異能をもたらし、生活を豊かにするが、それを受け入れる器はいかなる生物にも存在しない。いずれは出生率の低下、凶暴化、異形化を招くと予想される。動物の魔物化と同じようにね。そして最もおそろしいのは、人間社会にそれを解決する見込みがないということだ」


 リュークは頭痛を感じたように眉間を押さえた。事態の閉塞感が否応なく見えてきたためだ。

 魔領域は遥か昔に突然出現し、世界の大半を沈めてしまった。今では英雄と呼ばれる冒険者達がいくつかの魔領域を殺していなければ、既に人間は絶滅していたとさえ言われている。


 同時に、そこで採取できる資源は非常に貴重かつ有用で、それは人々の生活に欠かせないものになりつつあった。今では魔領域の管理を巡って国同士の戦争が起きるほどだ。

 冒険者でなくとも、この世界の人間ならば知らないわけにはいかない常識であり、それが現実なのだ。


「魔領域が世界を滅ぼすことは、各国の重鎮レベルでは把握しているだろう。しかし、それを打開することは誰にもできまい。どうせ遠い未来の話、自分の世代さえ安寧あんねいに過ごせればよい、顕在化したときに動けば十分……そう考えている。愚かしいことだ。そのときには、すべて手遅れだというのに」

「ですが、だからと言って魔領域を消すのはリスクが大きすぎます! 今や魔領域の資源は人間に欠かせないもので、それがなくなればどれだけの人が飢えてしまうか……それに魔領域の死は地殻変動を引き起こし、天変地異にも匹敵する影響をもたらすと考えられています。むしろ、それが人間を絶滅させかねませんよ!?」


 ノーラの懸念を、テオは大口を開けて笑い飛ばした。


「その通りだ。それに、住処すみかを失った魔物達が解き放たれ、いくつもの都市や国、人々を押し潰すだろう。空前絶後の人死にが出ることは間違いない」


 そして、その表情のまま言い放つ。それは天使のように美しく、慈悲深く、同時に酷薄だった。


「必要な犠牲だ。仕方あるまい?」


 言葉を失う皆の前で、テオは身を乗り出し、地図を指した。


「五十年だ。五十年の間に、我らは世界中の魔領域を殺す」


 決然と、少年の声が言う。

 可能なのか――当然の疑問が、誰かの口から出てくることはなかった。

 やりかねない、そう思わせるだけの迫力が、テオにはある。


 それからテオは、少し困った顔でカレヴァンの南を指した。《熱砂の谷》――スバルの姉にして魔王と呼ばれる冒険者、スピカが殺した場所だ。


「死んだ魔領域は、毒である魔素を残す。それは非常に緩慢な速度で、魔素の生成地……つまり他の魔領域を目指すのだ。そして宙に浮いた魔素の受け皿となる魔領域は、大きく力を増すと言われている。それは避けねばならん」

「受け皿となる前に、隣接する魔領域を殺す計画というわけか」

「だから大陸の端から順番に殺していくつもりだったのだがね」


 スピカが殺した《熱砂の谷》は大陸の中心に近い。そこから放射状に魔素が広がるならば、周囲の魔領域を同時に攻略しなければならない。

 ここ最近の変動、魔領域の未踏破地区が次々と暴かれつつあるのは、その前準備だったのだ。

 そこで、シャルがふと口を挟む。詰るような視線が、ばつの悪そうなスバルを射抜いていた。


「私達がここにきたのは、空の森を調べるため。もし森が生きてたら、熱砂の谷の受け皿になりうるからね。それできてみたら、開拓者が荒らしてるっていうじゃない? もうね、なにやってんのかと思った」

「俺だって、すぐに殺す気はなかったさ。まずは調査をだな」

「絶対、スピカも同じこと言うね。賭けてもいい」


 二人を微笑ましげに見ていたテオは、スバルが言い負かされてそっぽを向いたところで、説明を再開した。


「行き場をなくした魔素は漂い、彷徨さまよい……最後に辿り着くだろう。《空》、あるいは《海》に」


 《空》と《海》。それを日常的に見る人々は、まさかその青が魔領域であることを夢にも思わないだろう。

 世界最大の魔領域である二つは、攻略が一切進んでいない場所だ。そもそも人は飛べないし海底にも潜れない。そしてあまりの広大さに心臓のありかがまるで検討もつかないのだ。


「《空》と《海》に魔素が流れ込むのは、危険ではないのか」

「危険だとも。同時に、好機でもある。心臓は魔領域の核だ。急に力を得た魔領域で、最初に影響が強く出るのは、その周囲だと考えられる。それが空と海の心臓がある位置を教えてくれるだろう」

「当てが外れたら?」


 テオは心底楽しげに、くつくつと笑って言った。


「なに、そのときは、いずれ訪れる終焉が、少し早まるだけだ」


 血のように赤く染め上げられた、剣と鉈の装飾。

 テオは首に提げられた飾りを掲げ、ゆらゆらと揺らす。


「我々は、この剣で世界を切り拓くのだ。たとえ、そのために人類を敵に回し、世界を滅ぼすことになろうとも」


 あまりに壮大な話で、皆が皆、大海に放り出されたように不安定な気持ちになる。

 その中でテオの双眸だけが、狂気染みた光を放っていた。

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