3-8.祈り

 熱い湯が白い肌へ伝い落ちていく。

 暖かい感触は、ほっそりとした首筋、なだらかな双丘の合間を通り、かすかに残る腹の傷跡をでた。レッドフォードが長剣で貫いた痕跡だ。それも今夜の内に消えてなくなるだろう。

 自らの鼓動を感じながら、彼女は長髪の色を眺めていた。忌まわしい色だ。闇を煮詰めて影の糸に吸わせたような、重々しい漆黒。

 それは浴室の壁に立てかけている、黒い魔剣と同じ色彩だった。

 いつか、本来の輝きはよみがえるだろうか。ついえたと思われた道の先を、まだ拓くことができるだろうか。

 熱にぼんやりとした思考が同じところをぐるぐると巡り続けていた。


「声を聞かせてくれないか。アリア……」


 切なげな願いが零れ落ちる。

 彼女の肉体には現在、意思ある魔剣クローディアスが宿っていた。

 身体を乗っ取っている影響か、髪や目は暗黒に染まり、人相まで変わっている。好ましくない状況にあることは彼女も自覚していた。

 すべては、愛しい少女が息を吹き返す、そのときのためだ。


 長い苦難の旅を越え、幾度も心が折れた。諦めに終焉を求めたことすらある。

 その果てで、ついに希望を見つけた。物騒で、死より濃厚な危険を招く刃だが、それは確かに未来を拓いたのだ。


 だが希望は、儚く消えようとしている。

 あのときスバルが浮かべた、怯えの顔。それは絶望の表情にも思えた。

 あれほどの武力を持つ彼を、なにがそこまで打ちのめしたのだろうか。


 アリアはシャワーを終えて髪を絞り、タオルで身体と魔剣を拭う。晴れない気分をそのままに、バスルームから一糸まとわぬ姿のまま部屋へ戻った。

 雨は熱帯夜の暑さを和らげるどころか、高い湿度をもたらすことで不快感を引き上げている。乾いた肌に、また薄く汗の膜が生まれていた。喉の渇きを覚え、キャビネットの方へ頭を巡らせる。


 その途中、信じ難いものを目撃してアリアは硬直した。

 シャルだ。

 テーブルに突っ伏して頬杖をつき、大欠伸おおあくびをしている最中だった。

 鍵はかけていたはず――そんな困惑に足を縫いとめられる。


 見つめられていることに気づいたのか、シャルはアリアを横目にした。

 目尻に浮かんだ涙を拭い、首を傾げる。


「服、着れば?」


 アリアはそこでようやく、自分が全裸でいることを思い出す。

 なぜ人の部屋にいるのか、勝手にくつろいでいるのか、びの一言すらないのか……理解不能なことだらけの中、一つだけわかった真実がある。

 やはり彼女は開拓者。

 つまり、あのスバルと同類であると。


「なんの用だ」


 着替えたアリアは、やや疲れた様子で言った。

 シャルは彼女の憔悴しょうすいを不思議そうに見つめたかと思うと、まぁいいかと独りごちる。


「おなか減ってるでしょ。食事の準備ができたから呼びにきたの。ついてきて」


 それは更にアリアを困惑させる。テオとシャルを除く四人は指名手配されており、宿のレストランは利用できない。宿にいられるのはテオが財力に物を言わせて最上階を丸ごと貸切にしているからだ。

 しかし質問を差し挟む猶予すら与えず、シャルは部屋を出て行こうとしている。

 どこまでも唐突な彼女を追いかけようとして、はたとアリアは手にしている魔剣を見やった。


 魔剣は、アリアの心臓に埋め込まれた破片と強く結びついている。たとえ遠く離れたところにあろうとも、望めばすぐ手元に出現させることができた。アリア以外では力を振るうこともできないため、突発的な襲撃がないだろう現状では肌身離さず持つ理由も薄い。それでも、自室に置いていくのは収まりが悪かった。


「持ってくればいいじゃん」


 逡巡していると、まるで曇天どんてんに傘を持ち出すことを勧めるように、シャルが言った。


「……いいのか。たかが食事に帯剣するなど」

「細かいこと気にするなぁ。好きにすれば」


 なぜ躊躇しているのかわからない、と彼女の顔には大文字で書いてある。

 魔剣は高価で強力なものなので、アリアのように湯浴みのときですら手の届くところに置くのも当然のことだ。

 だが、仲間と共にいるときにも武器を持ち続ける態度は、時に不和を招く。それを受け入れられるのは理解がある真の仲間か、開拓者のような図抜けた強者だけだ。


 部屋を出た二人は、隣室の前に立つ。ノーラに割り当てられた部屋だ。

 小さな拳で扉をノックし、入るよ、とシャルが声をかけた。

 その手が、闇を纏う。

 不定形のもやが鍵穴に潜り込み、かちゃ、と軽やかな音を立てるのをアリアは驚愕の面持ちで見つめていた。自らの部屋に侵入した彼女の手口は、想像以上に異常なものらしい。

 疑うまでもなく、それは異能の一種だ。

 それがどれほどのことを実現できるのか、底は知れない。あるいは彼女をアリアの元に導いた黒い獅子、あれもまた異能なのかもしれなかった。


「な、なんですか!?」


 遠慮というものを遠い過去に置いてきたような足取りでシャルが踏み入れると、悲鳴が二人を迎え撃った。

 ノーラは肌着姿だった。普段の厚いローブ姿ではわからなかった、意外なほど肉感的な身体のラインに、二人の視線は一瞬だけ捉われる。

 そして、彼女が前にしている机を見て、ぎょっとして固まった。

 そこには所狭しと無骨なものが広げられている。棍、銃、短剣から針金、用途不明のものも多数。油紙に包まれた塊は、あるいは爆薬か――――。


「歩く武器庫みたいな奴」

「探索者のたしなみです」


 シャルの感想に胸を張り、ノーラは自慢げに言った。

 なお、今の時代の探索者は武器など所持しないし、護身術程度の戦闘能力すら持ち合わせないことも多い。ノーラは時代遅れな探索者だった。


「まぁ、いいや。それより、食事に誘いにきたんだけど」

「え? 部屋に届けられるんじゃ……」

「あんたらの分も私の部屋に運んでもらってるから」


 何気ない一言は、二人の困惑を更に加速させた。

 聞き間違いかと自らを疑ったが、彼女に案内された部屋には確かに三人分の食事が存在した。

 ご丁寧に調度を移動して十分なスペースを確保し、どこからか椅子と大きなテーブルを運び入れた入念さだ。


 促されて席に着きながらアリアは、どこにあるかわからないシャルの苛立ちのきっかけを避けるように、おそるおそる口火を切る。


「わざわざ集まる必要が? 各々おのおの、自分の部屋でれば……」

「皆で食べた方が楽しいでしょ?」


 当たり前だと言わんばかりの言葉に、二の句を継げない。

 別段、その内容がおかしいわけではなかった。だがそれが開拓者、稀代の異常者と囁かれている人間の口から出てきたと思うと混乱せずにはいられない。

 シャルは戸惑うアリアらに止めを刺すかの如く、質問を投げかけた。


「二人とも、食前の祈りみたいなのはしないの?」


 祈り――それもまた、開拓者のイメージとはかけ離れたものだ。そもそも貴族などでない限り、宗教や祈りに触れることはない。


「あんた、エレオノーラだっけ? なんか知らない?」

「……私のことは、ノーラと。公国の作法でよければ教えられますけど……」

「それでいいよ」


 話を振られたノーラは、幾分顔を強張らせて言った。

 そのやり取りは、アリアの興味を引き立たせるに十分だ。


 謎の多い女、ノーラ――なぜスバルやアリアに手を貸すのか。探索者にして探索者らしからぬ言動と能力、その出自。エレオノーラというのが彼女の本名らしいが、それすらアリアは知らなかった。

 だが、なぜそれをシャルが知っているのか。

 困惑しているうち、ノーラはシャルに聖句を教えていた。成り行きでアリアも教わり、生まれて初めて、今日の糧を神に感謝することになる。


「急にごめんね。いつもは適当に祈ってるんだけど、ちゃんとした作法も習った方がいいと思ってさ」

「普段から食前の祈りを捧げているのか?」


 アリアの質問には、つい疑わしげな響きが混ざった。気分を害してしまったかと焦るが、シャルは神妙な顔で頷く。


「親……血縁じゃない親だけどね。その人に、なんでもいいから事あるごとに祈りなさいって言われてんの」


 なんでかわからないけど、とシャルは肩を竦める。

 さっさとナイフとフォークを手に取る彼女の、アリアは正体を垣間見た気がした。

 圧倒的な威圧感と傍若無人な立ち振る舞い、赤い剣と鉈の恐ろしさに、彼女を見誤っていたのだ。


 そこにいたのは、アリアとそう年頃の変わらない女だ。

 家族を語るときに柔らかな目をして、その教えを律儀に守ろうとしている。

 アリア――その中に宿るクローディアスは、シャルにアリア本人と似た部分を見出していた。

 だからか、彼女に対する態度は、少し軟らかくなる。


「祈りとは、無から生じる唯一の感情だ。最も無垢で、真摯で、決して枯れることはなく、そして何者にも侵されない。それは人の心を強くするだろう」


 言葉は、それが当然のように滑り落ちてきた。それを話した後で、アリアはふと疑問を抱く。そのような説を聞いた覚えはなかったからだ。あるいは、それは魔剣として本能のレベルで理解している真理なのかもしれなかった。


「へぇ……面白いね。それ」


 そして、何気なく投げかけられた真理は、シャルを感心させている。瞳が零れんばかりに目を見開き、ナイフは皿の上で静止していた。

 彼女はしばらく考え込むように固まっていたかと思うと、不意にアリアを見つめて、破顔一笑する。

 剣呑な光は鳴りを潜め、そこにはただ屈託のない笑顔があった。


「なんか掴んだ気がする。ありがと」

「……参考になったなら、なによりだ」

「もっと強くなれるかも。異能と魔法には、心の強さが影響するらしいから」


 鼻歌でも歌いそうなほど浮かれながら、シャルは食事を再開する。

 その呟きを聞きつけたノーラは、思わず硬直していた。

 戦士でない彼女には、他人の戦闘能力を看破するほどの力はない。だが《鴉の眼》と呼ばれる感覚が告げている。シャルは、スバルやアリアの魔剣と比べても遜色のない、おそるべき力を秘めていると。これ以上強くなってどうするのかと、空恐そらおそろしくなった。


「そういえば、シャルさんに聞きたいことが……」

「シャルロッテ」


 出鼻をくじかれて、ノーラは目を白黒させる。


「私の名前、シャルロッテ」

「あ、えっと……格式高いお名前ですね」

「そうでしょう。愛称で呼んでもいいけど、そういう名前だってことは知っておいて」


 シャルは余程自身の名を気に入っているのか、ふふん、と鼻を鳴らした。

 もっともシャルロッテとは、悪く言えば古臭い響きだ。ノーラの感想は濁したものだったが、あるいは一つ反応を間違えていれば機嫌を損ねていたかもしれない。

 背中に冷たいものを感じながら、ノーラは気を取り直した。


「テオさんの部屋に、文様が描かれていましたよね。あれは異能なのですか?」


 テオは、その文様が治安維持部隊を遠ざけると言っていた。だが、当然のこととして、ただの塗料にそのような力があるはずもない。あれこそがテオの異能なのかとノーラは疑っていた。

 シャルは食事の手を止めると、なんでもないように言い放つ。


「いや、魔法」

「魔法……とは、随分違うようだが」


 世間で知られている魔法の概念を思い出しながら、アリアは否定を口にする。

 魔法とは、詠唱で精霊に語りかけ、なにもないところから火や水を生むものだ。少なくとも、その認識が一般的なものであるはずだった。


「私も詳しくは知らないんだけど、本来の魔法ってのは異能を再現する技術の総称だって話みたい。あの模様はウルフっていう人から最近教えてもらったものね」

「異能を、再現?」

「そう。ただ、そのやり方を教えられるのは、当の異能者本人だけらしいよ」


 初めて聞く話は、ノーラを興奮させる。それはどの文献にも残されていない、貴重な証言だった。

 シャルの言葉が正しいのであれば、現在の魔法は、森羅万象を操る異能を持った人物――おそらく魔法ギルドの創始者が編み出したものなのだろう。それを再現する手段が詠唱だったのだ。

 しかし異能という、自分だけの強みを他人に伝授する物好きなど滅多にいない。

 いつの日か本来の意味は失われ、それこそが魔法と呼ばれるようになったのだと考えられた。


「なるほど……以前、スバルが不思議な魔法を使って、異能と渡り合っていた。それは、そういう原理だったのだな」


 風の糸を纏う魔法――それを目撃したのはアリアの主人格だったが、魔剣クローディアスも彼女の目を通して確認していた。

 異能は物理法則をも超え、一部の魔剣と異能のみが拮抗する、というのは戦闘を生業とする人間には常識だ。

 魔法が異能の一種であるならば、スバルが淡く光る剣でレッドフォードに対抗できたのも頷けた。


「なにそれ。不思議な魔法? どんなの?」


 アリアの納得を余所よそに、シャルはその一言に食いついた。

 以前からの知己ちきならスバルの力を理解していると思っていたので、アリアは少し驚く。


「確か、風糸、と詠唱していた。剣が光り、刀身が伸びたり、重い衝撃を生み出したりしていたようだ」

「……あー、あいつかなぁ」


 心当たりがあったのか、シャルは難しい顔をして黙り込む。どうやら、スバルがあの魔法を身につけていたことをシャルは知らない様子だった。

 奇妙な沈黙の中、ふとノーラは目をみはる。

 彼女から得られた事実は、ある一つの可能性を示唆していた。


「つまり……あの模様が魔法で、治安維持部隊を退けているのだとしたら……彼らもまた、異能か魔法で街を監視しているということですか?」


 カレヴァン、その街の特殊性は情報を扱うものならば誰でも知っている。

 冒険者の街にあらざる平穏を実現しているのは、冒険者ギルドが中心となって組織している治安維持部隊の優秀さだ。

 まったく人気のない場所での犯行をも見逃さず、未然に防ぐことすら珍しくない。スバルが起こした森の中での虐殺を、当人が森から帰還する前に把握していたのは、その異常さを端的に示していた。


 シャルはノーラの疑問に、口をつぐむ。

 その態度を二人は知っていた。宿に連れてこられる途中、説明を求めたときと同じ顔だ。


「どこまで話していいんだっけ……」


 懊悩おうのうするシャルを助けるように、扉がノックの軽やかな音を立てた。

 そして、返事を待つことなく開かれる。どこかで見たような遠慮のなさは、やはり見覚えのある男のものだった。


「あ、悪い。飯食ってたのか」

「ちょっと、ノックしたんだったら返事待ってくれない?」


 不機嫌なシャルを、アリアとノーラは愕然と凝視した。果たして彼女は、自分の言動の矛盾に気づいているのだろうか。

 しかし現れた男、スバルはシャルの文句を意に介した様子もない。


「テオが呼んでたぞ。大事な話があるらしい。落ち着いたら部屋にきてほしいそうだ」


 わかったから、とっとと出てけ、とシャルがスバルを手で追い払う。

 その様を眺めながら、ノーラは少しの緊張を覚えていた。


 カレヴァンの秘匿。

 開拓者の目的。


 大きな謎に答えが出される、その気配を確かに感じていたからだ。

 だが彼女の勘を持ってすら、察することはできなかった。

 この街で起きている出来事が、いずれ世界を巻き込む大事件の嚆矢こうしになるなど――――この時点では。

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