3-7.アリアと黒い剣

 アリアは難しい顔をして扉の前に立っていた。

 躊躇っている様子ではない。その証拠に、持ち上げた拳の甲を打ちつけて、軽やかな音を奏でる。

 室内からの返事はない。

 都合、五度目のノックは変わらず虚空へと呑み込まれていった。


 ふとドアノブに手を伸ばす。それを捻れば、あまりに呆気なく扉は開かれた。鍵はかかっていなかったようで、その無用心さにアリアは呆れ果てる。

 悩んだ末に、アリアはそっと部屋へ踏み入れた。

 彼女を迎えたのはテオだ。シャルに連れてこられたときと同様に、ソファの背もたれでるように寝ている。不規則ないびきがむなしく響いていた。

 他に人の姿は見当たらない。


「こっちだ」


 かすかに聞こえる声は、寝室の方からだった。

 テオを尻目にそちらへ向かえば、スバルがベッドに腰をかけている。

 寝惚ねぼまなこがアリアを見上げ、笑いかけた。


「よう」

「ああ」


 アリアは化粧台の椅子に座り、膝の上に魔剣を置いた。同じ高さになったスバルの、自身と似た色彩の瞳を見つめる。


「すまないな。眠っていたのだろう」

「いいよ。もう十分休んだ」


 その軽い調子にアリアは苦笑した。何日もの間、絶えず襲撃を受け続けてきたというのに、たった数時間の休息で既に全快している。

 それでも喉の渇きは覚えるのか、ベッド脇の水差しからコップに水を注ぎ、一息に飲み干した。眉をひそめたのは、どうやらぬるさが原因らしい。

 スバルが二杯目を用意するのを眺めながら、アリアは過去に思いを馳せていた。

 しくも、ここは以前アリアが宿泊した部屋だ。


 あのとき――スバルに森から連れ出された日、まだアリアはギルドを追われた哀れな弱者でしかなかった。

 アルバートでの凶行を嗅ぎつけられたものの、せめてもの温情か、あるいは大罪人を末端とはいえ治安維持部隊の上層に招き入れたことを恥じてか、ギルドはアリアを追及しなかった。

 思えば、あれが最後のチャンスだったのだろう。

 彼らに従ってカレヴァンを後にしていれば、暗殺者を差し向けられることもなかった。


 スバルもまた、開拓者であることを知られただけで、小国の滅亡に関与したという疑いに気づかれてはいなかったはずだ。

 あれからたった数十日で、状況は一変してしまった。


 追想にふけっていた意識を現実に戻す。どこか遠い眼差しをしていた黒瞳と出会い、互いに目をしばたたかせた。


「さては、同じことを考えてたな」

「たぶんな」


 スバルはおかしそうに声を上げて笑い、アリアもつられて微笑む。


「……後悔してるか? 結局、俺のせいでお前は巻き込まれた」


 やがて、スバルは表情を消して静かに問いかけた。膝の間で空のコップをもてあそび、かすかに残った水滴を見つめている。

 アリアは、すぐには答えない。

 していない、と言えば嘘になる。ジャスティンの用意した支度金を受け取って街を出ていれば、今頃は安全な場所で変わらず冒険者をしていたかもしれなかった。


「さぁ、どうだろう。だが」


 短い躊躇を経て、アリアはぽつりと呟く。

 万感の思いがこもった、暖かな声音だった。


「少なくとも、は息を吹き返した」


 スバルは無言のままで次の言葉を待つ。不可解な内容は、これまで何度か彼女に抱いた違和感と同じものをスバルにもたらしていた。


「貴様に謝らねばならないことがある。私は、アリアではない」


 やがて黒髪の女は、自らを落ち着かせようと魔剣のごつごつとした表面を撫でながら、告白する。


「私の名は、クローディアス。《黒い剣のアリア》が携える魔剣にして、今はアリアの肉体を動かしている意思そのもの……それが私だ」


 スバルは驚愕に目を見開くと、クローディアスを名乗る少女と魔剣を順繰じゅんぐりに眺める。

 剣というよりは、刀剣に似た形に割れた岩というべき塊。魔性の輝きは、なにかをおそれるように曇っていた。


「それか」

「そう、これだ」

「意思を持つ魔剣なんて、聞いたことがないぞ」

「だろうな。私自身、自分と同じか類似した存在を一つとして知らない」


 クローディアスは自嘲気味に笑うと、白い指で剣の表面をなぞった。

 彼女が真実を語っているのだとすれば、まさにそれこそが彼女の本体だということになる。一時も手放さなかったのも当然だった。

 それからしばらく、沈黙が続く。難しい顔をするスバルを、クローディアスは辛抱強く待った。軽く受け止められることだとは彼女自身も思っていない。

 やがて、スバルは躊躇いがちに口を開く。


「お前、男だったのか?」

「……私に性はない。男性名なのは、そうアリアが名づけたからだ。深い意味はないと言っていた」


 彼女は眉間に手をやり、それでも律儀に答えた。このに及んで気がかりなのはそれなのかと、憤りが渦巻く。こういう奴だったと、今更ながらに思い知っていた。

 クローディアスは緩んだ気持ちを引き締めて話し始める。ゆったりとした語調は、自らを落ち着かせるためでもあった。


「私とアリアが出会ったのは、ほんの数年前だ。だがアリアは私の主であり、私はアリアの理解者だった。互いが互いにとって、唯一のだった……」


 伏せた目はいつくしみと愛しさに、長い睫毛まつげは悲しみと憐れみで揺れている。胸を押さえる手は、アリアという少女を思って小刻みに震えていた。

 そこには形容しがたい感情のうねりが垣間見える。クローディアスにとってアリアは特別な存在であるようだった。


「スバル。以前、私が語ったアルバートでの出来事について、おぼえているか?」

「あの胸糞悪い話か」


 スバルは苦々しげに眉根を寄せた。

 都市アルバート、カレヴァンと同じく魔領域攻略のために築かれた街は、アリアの魔剣によって滅んでいる。

 それは魔剣を巡った謀略の末路だ。ある傭兵団が冒険者パーティを陥れて壊滅に追い込み、そこに所属していたアリアから魔剣を奪おうとくわだてた。彼女が怒りに我を忘れた結果、魔剣の暴走を招いた――それがアリアとしてクローディアスが明かした経緯だ。


「あの話には、一つだけ偽りがある。アリアは仲間殺しの罪を着せられたとき……死を受け入れていた。あのときアルバートで活動していたのは、私ではなくアリアだったのだ」

「そんなに危険な状況だったのか?」

「いや、切り抜けることは容易たやすかったはずだ。今の私は人間の身体を操ることに力のほとんどを費やしているが、本来ならば傭兵の百や二百、物の数ではない。それが強者と呼ばれるたぐいであったとしてもだ」


 彼女がなんでもないように語った事実は、スバルを感心させる。黒い剣の暴威は空の森を攻略する過程で何度も目撃してきた。あれを遥かに超える能力があるというのだ。

 同時に、それは疑問を抱かせる。それほどの強さを手にしながら、なぜアリアは諦めたのか。


「彼女は限界だった。度重なる悪意と裏切りにり減った心は、自分の存在が原因となって家族同然の仲間を無惨に殺されたことで、壊れてしまった。憎き仇への憤怒すら絶望が上回るほどに」


 クローディアスは激情を押さえるように魔剣の刀身を掴み、うめくように続けた。

 脳裏に浮かぶのは、夜毎よごとにうなされる最愛の少女の姿だ。何人もの人間を死に追いやり、いくつものコミュニティを破壊してしまった。

 自分さえいなければ。

 そうアリアが零したことは、一度や二度ではない。


「アリアには、その場で殺害の命令が出された。槍が身体を貫き、剣が肉を裂き、銃弾が骨を砕いた。死の苦痛の中で……アリアは穏やかだった。これですべてが終わると、もう誰も傷つけずに済むと、泣きながら笑っていた――――だが、私はアリアにこそ生きてほしかったのだ! 他の誰でもない、あの子に!」


 その光景を思い出したのか、クローディアスは胸元をかきむしった。ひび割れた声音は、悲痛な響きを伴って木霊する。


「私には過去の記憶がない。あるいはアリアとの邂逅かいこうが自我の芽生えだったのか……スバル、私が意思を持った瞬間、最初に見たものがなにかわかるか?」

「ろくでもないことは予想がつくがな」


 淡々としたスバルの答えに、彼女は引きつった皮肉げな笑みを返した。

 ぽつり、と水滴の音がする。それは赤い血だった。魔剣を強く握り締めた手が、鋭利な部分で裂傷を負っている。


「四肢をじ折られ、腹を貫く剣で地面で縫い止められたまま、まさに犯されようとしている少女だ。それがアリアだった。そして、近くにはアリアが共に旅をしていた仲間……彼女の両親が息絶えていた。後から聞いた話だが、野宿のために入った洞窟で偶然に魔剣を発見し、欲に目がくらんだ護衛の者に裏切られたらしい」


 クローディアスは掌についた血を軽く拭う。魔剣の恩恵は、今ついたばかりの傷跡を塞ぎ始めていた。

 その様を見つめる眼は、激しい悔恨を映している。


「あまりにも哀れだった。だから私は男を操り、死にひんしていたアリアの心臓に魔剣を突き立てさせたのだ」

「心臓を……?」

「そうだ。埋め込まれた私の破片が魔剣と強く繋がり、力を身体に供給している。それが失われようとしていた彼女の命を蘇らせたのだ」


 それはスバルに一つの疑問への答えを示した。

 魔剣は強力だが、それでも道具に過ぎない。所持しているだけで持ち主が強化されるというのは考えづらかったが、身体の内部に魔剣の一部があるというなら話は別だ。

 多少の傷は瞬く間に塞がり、どれほどの疲労も一晩で回復する。それだけのことが、冒険者にとってどれほどの恩恵か。

 しかし、それを与えたはずの魔剣は慙愧ざんきに歯を食い縛り、苦痛に耐えるような声で続けた。


「裏切り者を殺して、アリアは生き延びた。だが彼女を待っていたのは地獄だ。この私を手にしていることで、かつて当然のように得られた他者からの愛情は、やがて打算と害意に変貌する遅効性の毒に変わった。肉親を失ったばかりか、世界のすべてが敵と化したのだ。できることならば、私は彼女の元から消えてやりたかった。しかし、最早私達は意識を二つ持った一つの生命といっても過言ではない。離れることすらできないのだ」


 その存在が悪意と争いを招き、どれほど傷ついても癒してしまう。残るのは心に刻まれた激痛だけ。

 まるで呪縛だ、と何度自嘲したかわからない。

 だが、その度にアリアはクローディアスを叱った。


「彼女を生き長らえさせたことを後悔しなかった日はない。あのとき死なせてやれば、苦しませることもなかった。それでもアリアは、ただの一度として私を呪わなかったのだ。それどころか、私を命の恩人と……無二の相棒だと慕ってくれた。いつしか私は、気紛きまぐれで救った少女の幸せを祈るようになっていた」


 あるいは、それが口先だけの言葉ならばクローディアスも嘆くことはなかった。だが深いところで繋がった二つの意識は、互いの思いを筒抜けにさせている。苦難の元凶である魔剣を彼女が心の底から信頼していることは、痛いほどわかっていた。そして、彼女の苦しみも、また。

 クローディアスは吐息をつく。それは疲れ果てた老人にも似て、小さな声はかすれていた。


「あのとき、アリアを守るため、私は怒りに任せてアルバートを蹂躙じゅうりんした。この子を傷つけた連中を一人残らず踏み潰し、すべての追っ手を血の染みに変え、街の防壁を突き破って逃げ出した。だが……アリアは二度と目覚めなかった。肉体は問題なく機能しているというのに、それを動かす意思が抜け落ちてしまったのだ。まるで人形のように」


 スバルの中で、アリアに対して抱いていた違和感が氷解していく。

 時折彼女が見せていた、自分のことを他人事のように語る様子。アリアを動かしていたのは彼女自身ではなく、彼女の得物である魔剣そのものだったのだ。

 心を失った少女の身体を守るため、クローディアスはアリアとして行動することを決めた。いつか彼女が黄金の瞳を取り戻す、一縷いちるの希望に期待をかけて。


 だが、その旅はクローディアスをもむしばんだ。

 かつてアリアが受けた仕打ちを自ら体験することで、気紛れな延命がどれほどアリアを苦しめてきたかを知ることとなった。

 愛しい少女が目覚めるきざしは一向に現れない。

 やがてクローディアスは、彼女に安らかな最期を与えることを望むようになっていた。


 死にたいと思っている――――森で出会った少女が口走ったことを、スバルは思い出していた。

 あの言葉が、その口から生まれるまでに、どれほどの苦難があったか。それは筆舌に尽くしがたいものだったのだろう。

 彼女が平穏な死、意味のある死を渇望していたのは、アリアへのせめてもの手向けを欲していたからだ。


 沈痛な面持ちで黙り込むスバルは、ふと穏やかな笑い声を聞いた。

 驚愕に目を見開く。凄惨な過去を掘り起こし、激情をあふれさせていたクローディアスは、微笑んでいた。今まで見たことがないほどに優しく、そして美しい表情だ。


「貴様に出会うまでは、だ。スバル」

「……俺か?」


 それはスバルを困惑させる。首を傾げる様に、彼女は笑みを更に深くした。


「一体なにが、あの子の琴線に触れたのか、私にはわからない。だがアリアは……ほんの短い瞬間だったが……確かに目を覚ました。レッドフォードと果敢に戦い、失くした居場所を切り拓くと、言ってくれた……」

「俺は、なにもしてないぞ。大体、お前がアリアじゃないってことすら知らなかったんだ」

「貴様の奔放な言動に救いを見出したのだろう。それに案外、惚れたのかもしれん」


 からかい混じりの台詞のあとに、鈍い響きが続いた。それはスバルの掌をすり抜けたコップが絨毯の上に落ちる音だ。


「変なこと言うもんじゃない。冗談にしたって面白くないぞ」


 スバルは転がるコップを拾うこともせず、大袈裟な手振りで否定する。

 ぶんぶんと首を振る様と、切羽詰った表情。一緒に冒険をした男の意外な一面に、クローディアスは唖然とした。


「おい、嘘だろう? やめてくれ。なんだ、その初心うぶな反応は」

「初心とか言うな、気色悪い。お前だって顔が赤いじゃないか」


 反射的に、彼女は自分の頬に手をやる。座ったままで化粧台の鏡を見れば、ほのかに紅色を帯びた少女の顔があった。


「……そうか、私も赤くなっているか」


 クローディアスにスバルに対する恋慕はない。元々が人間ですらないのだから、それも当然だ。

 それならば、なにが彼女に――彼女の身体に羞恥を感じさせているのか。

 淡い期待で、気休めの安らぎであることは分かっている。それでも、クローディアスは自らの中にアリアの存在を確かめて安堵していた。


 妙な空気を払拭するように、咳払いをする。互いに醜態を晒すだけなので、その話は忘れることにした。

 そして、クローディアスは真正面からスバルの目を見据える。

 これまでの話も、それを切り出すための準備に過ぎない。


「頼みがある」

「それは聞けない」


 スバルの答えはにべもなかった。クローディアスの考えを理解した上で、切って捨てたのだ。

 もしアリアの覚醒がスバルをきっかけとしているのなら、同行を求めてくるのは自明だった。たとえ、そのためにどれほどの危険を冒し、どれだけの犠牲を払おうとも、彼女は実行するだろう。


「足手まといにはならない。途中で置き去りにしても構わない。だがそれまでは、共に戦わせてくれないか。私のために……アリアのために」

「悪いが」

「なぜだ。どうして貴様は、独りにこだわる?」


 言い募りながら、クローディアスは椅子を蹴るようにして立ち上がった。大きな音が静かな部屋に反響し、どこに届くこともなく消えていく。

 スバルは口を噤んだ。落としたコップが照明を反射するのをじっと見つめている。その光は彼の瞳を照らすことはできず、その奥に湛えられた暗黒に沈んでいった。

 引き結んだ口元は小さく震えている。

 まるで、なにかを耐え忍んでいるかのように。


 クローディアスの中で、激昂の熱がさっと冷めていく。

 まさか、と自分の脳裏に過ぎった考えを否定し、だが目前にいる彼の姿が現実を明らかにしていた。

 スバルは、怯えている。

 どんな困難にも動じないと思えた、この男が。


「アリアは目覚めたんだろ。それなら、いつかは蘇る。死んでいるのと眠っているのでは、まるで違うからな」


 スバルは弱々しく言った。

 あれほど心強かった戦士が、今では闇夜を恐れる少年のごとくだ。


「それは、そうだが」

「お前をここまで巻き込んだことは、悪かった。一応は先のことも考えてる。心配するな」


 顔を上げ、スバルは小さく笑う。

 同じ表情に見えて、そこには痛々しさが覗いていた。クローディアスには見慣れたものだ。アリアが心をさいなむ激痛をこらえて、平気だと強がるときに、あまりにもよく似ている。


「テオの奴が、夜にでも皆を集めて話をすると言ってた。まだ時間はあるから、ゆっくり休んでろよ」

「……スバル」


 それきり、彼は黙り込んでしまった。じっとクローディアスを見上げ、彼女の答えを待っている。

 黒い瞳のかたくなさに、最早なにを言っても無駄だということを理解してしまった。

 あるいは――と、クローディアスは思う。

 自分の知らないスバルを、あの二人ならば知っているのではないか。テオという奇妙な少年か、シャルと名乗った覇王のような威圧感の女ならば。


「わかった。また後で会おう」


 手を挙げて答えるスバルを一瞥いちべつし、クローディアスは寝室を出た。そこでは、まだテオが変わらずに寝入っている。

 可愛さの欠片もない、けたたましい鼾を聞きながら、閉ざされた寝室の扉を見つめた。

 向こう側にいるだろうスバルが、今どんな顔をしているのか。

 それを想像するのは、あまりにも難しかった。

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