3-6.再会
ぱしゃぱしゃと雨水を踏む響きが連続する。スコールは未だ勢力を落とすことなく、雨雲の眼下を一切の感情もなく無数の矢で打ちつけていた。
カレヴァンに降る雨は、ここのところ様子がおかしい。雨量が極端に多い、あるいは少ない日が増えている。数十年同じように続いた日常が、変わりつつあった。
危険地帯の街に住む用心深い人々は天変地異を警戒し、余程の事情がなければ、雨の強い日の外出を控えている。
事情を抱えた人々の一人、赤毛の女は堂々たる足取りでカレヴァンの通りを突き進んでいた。その後ろをアリアとノーラ、そしてリュークが続く。
暗殺者を撃退した三人の前に現れた女はシャルと名乗り、ついてこい、と
彼女を信用する理由は一つもない。だが更なる追っ手の気配を察知した一行に猶予は与えられず、なし崩し的に同行する羽目になっていた。
冒険者ギルドが差し向ける刺客を警戒しなければならない状況だが、三人はむしろ、目の前にある女の小さな背中を緊張の面持ちで見つめている。彼女の耳元に輝く赤い剣と鉈の装飾は《切り拓く剣》――スバルが身につけていたものと同じ、伝説級の疫病神として知られる開拓者の証だからだ。
彼女は現状の説明はおろか、一言も発しようとせずに大股で石畳を踏み締めていく。もっとも彼女はアリアよりも小柄なため歩幅も狭く、進行は意外にゆったりとしたものだった。
「一体どこに連れて行こうというんだい? そろそろ説明してくれないか」
痺れを切らしたリュークが問いかける。
シャルはおもむろに足を止め、ゆっくりと振り返った。
雨を弾くフードの淵から勝気な
それに見つめられるだけで、リュークはびりびりと肌が震える感触を覚えた。数多の戦闘経験が彼女を危険な存在だと叫ぶ。本能が警鐘を鳴らし続ける。心臓を鷲掴みにされたような悪寒が身体を貫き、熱帯気候の蒸し暑さの中で冷や汗を流させた。
ただそこにいる、それだけのことが周囲を威圧する。スバルの研ぎ澄まされた闘志とは別種の、すさまじい気迫だ。
ノーラが苦しげに呻く声が背後から聞こえ、それがリュークを正気に引き戻す。重圧を感じていたのはアリアとノーラも同様だったのだ。そして彼は、自らの手が剣の柄にかかっていることを少し遅れて自覚する。
三人の動揺を歯牙にもかけず、シャルは無言のままで立っていた。
怯え、警戒している様を内心で嘲笑っているのか――戦慄する三人の前で、ふと彼女は、うーん、と小さく呟いた。そして気だるげに髪をかき上げる。
「私、説明するの苦手なんだよね」
そこで、アリアはようやく気づいた。
シャルは、悩んでいたのだ。それが険しい無表情に繋がっていたらしい。
覇王のような鬼気を撒き散らす開拓者が、まさか口下手で困っていたとは思わず、つい絶句してしまう。
「今、私の連れがスバルに聞きたいことがあるからって探しに行ってる。ついでに、あいつと組んでたアリアって子を私が迎えにきただけ。他の二人は、ついでのついで。大まかに言えば、そんな感じかな」
「貴様、スバルを……知っているのか」
「詳しい話は後にして。早く宿に行きたいんだけど」
雨が嫌いなの、と苛立たしげに彼女は言った。あまり刺激してはいけないと、ノーラが慌てて案内の続きを促す。
「彼女は信用できるのか?」
小さな声でアリアが問う。その隣を歩くノーラは、少し強張った顔で頷いた。
「明確な敵ではないはずです。それに、このまま逃げていても追い詰められるだけ……ひとまずは誘いに乗りましょう」
ノーラとリュークが確保した隠れ家は一つ一つを見つけられ、事態は悪化の一途をたどっていた。そこに現れた開拓者は、文字通り道を拓く救いの手なのだ。
やがて、四人は大きな宿に辿り着く。
《寝惚けた黒獅子亭》――以前アリアも宿泊した場所だ。
どこか街外れの廃屋などを根城にしているのだと想像していた三人は、あまりの意外さに彼女を止めることができない。カレヴァンの宿は、おそらく一つの例外もなく、現在は治安維持部隊に監視されている。このままでは見つけてくれと言っているようなものだ。
だがシャルは正面口には向かわず、近くの物陰に躊躇いなく歩を進めた。
すると、そこからコンシェルジュの服装をした男性が姿を現す。
示し合わせていたのかと思うが、彼の顔に浮かぶ戸惑いがそれを裏切っていた。シャルは、まるでそこに人が潜んでいることをあらかじめ知っているような態度だったのだ。
更に彼女は当然のように言う。
「ロビーに傭兵がいるんでしょ」
「は、はい。裏口から案内いたします。こちらへ」
コンシェルジュに先導されて宿を迂回しながら、リュークは眉根を寄せる。
宿に見張りがいることは想定されていた。だがシャルは、まるでそれを自ら見てきたかのような口振りだ。
「邪魔がいるなら、皆殺しにすればよかったんじゃないか。ここまで連中を一掃してきたように」
その言葉に、ノーラとアリアがぎょっとした顔をする。
リュークの鋭敏な感覚は宿に到着するまでの間、多くの追っ手が近づいてくる気配を察知していた。
だが、そのいずれもが、突然にぷっつりと消えている。その場を去ったのではなく、消滅だ。おそらく雨が降っていなければ、遠くから断末魔と血の臭いが漂ってきただろうとリュークは確信している。その現象の正体は不明だが彼女が無関係とは思えず、鎌をかけたのだった。
果たして、シャルの反応は――冷たい視線だった。
「巡回の連中ならともかく、見張りを殺したら、そこになにかがいますって教えるようなもんじゃん……従業員も疑われるだろうし。ただでさえこの宿には無理を聞いてもらってるんだから、これ以上の迷惑はかけらんないの」
隠す素振りすらない肯定よりも、至極真っ当で冷静な返答がリュークを唖然とさせる。
死と破壊の権化だと思われている開拓者が、他者への気遣いまで見せたのは驚愕に値した。スバルの傍若無人さを知る彼らには尚更だ。
その困惑をどう捉えたのか、シャルは呆れを通り越して心配そうに、おそるおそる言う。
「普通わかるでしょ? あんた、ひょっとしてスバルより馬鹿なの? 大丈夫?」
「な、なんだって」
「まぁ、どうでもいいけど」
思わぬ反撃に、リュークは絶句して立ち尽くした。
その背中を気の毒そうに、ぽん、と叩く柔らかい掌はノーラのものだ。
言葉は、ない。
憐憫すら混ざった慰めに情けない顔をしながら、リュークは気を取り直して再び歩を進めた。
◇ ◆ ◇
やがて、ある部屋に四人は案内される。
「ずぶ濡れのところ悪いけど、もうちょっと付き合って。連れに会わせるから」
シャルは扉を乱暴にノックし、返事も待たずに開け放った。
そこになにが潜んでいるのか――緊張していた三人は、その光景に言葉を失う。
カレヴァンで最も豪勢な一室、そこに一つの人影があった。
ソファに座って背もたれに身体を預ける、というよりは身体を預けすぎて
低く震える響きは、
唖然とする三人の前でシャルは外套を脱ぎ、軽く払って水気を切ると、くるくると巻いて小さくまとめ始めた。
「あ、ちょっと」
そしてノーラが制止しようとするのも構わず、それを全力で投擲する。
その人物は喉元を直撃した剛速球に、ふがっ、と間抜けな声を上げ、ソファごと引っくり返った。
突然の凶行に愕然とする三人は、シャルが何事もなかったかのようにクローゼットへ向かうのを眺めることしかできない。
「いてて……なんてことをするんだ。首の骨が折れたじゃないか」
「あっそ」
シャルは文句を素っ気なくあしらうと、自分の着替えを持ち出して脱衣場へと姿を消した。
「よっこいしょ」
やけに年季の入った掛け声を上げて、残された人物が倒れたソファを正常な状態に戻す。
それは綿菓子のようなハニーブロンドと透き通る肌の、美しき少年だ。
彼は再びソファに腰をかけると、繊細な指先を組み、あえかに微笑んだ。
「ようこそ、《黒い剣のアリア》。そしていつか出会った親切な騎士と探索者よ。歓迎しよう」
外見と同じく可憐な声は、同時に偉大な王を想起させる重厚な威厳を備えていた。気を抜いていれば無意識の内に膝を折ってしまう、それほどのものだ。先程の醜態を目撃していなければ危うかったかもしれない。少なくとも見た目どおりの子供でないことは明白だ。
やはり、彼はリュークとノーラには見覚えのある人物だった。スバルらが森から帰還するよりも以前、道に迷っていたという彼らに宿のある区画を案内したことがある。あのときは、まさか彼らが開拓者だとは思いもしなかった。
「
「いえ、彼女からは、なにも。連れが説明をする、と聞きましたが」
「あぁ、その前に、このような
「はぁ……」
そう言って、テオと名乗る少年は豪快に笑い飛ばす。容姿から言動まで、なにもかもがちぐはぐな彼に、リュークは曖昧な相槌を打った。
「もっと早く合流するつもりだったが、貴殿らが
「あ、その、ごめんなさい」
「よい、探索者として優秀である証だ。誇りたまえ!」
萎縮するノーラにテオが答えた直後、小さな悲鳴がかすかに響いた。
リュークらとテオは、同時に同じ方向へ頭を巡らせた。視線の先はシャルの向かった、脱衣場の扉だ。
耳を澄ませば、物音と話し声が聞こえてくる。
「お前、シャルか?」
「いいからとっとと服を着てよ!」
その後、一方的な笑い声と一方的な怒号がしばらく続き、やがて開いた扉が半裸の男を吐き出した。
黒髪黒瞳、どこか間が抜けているが時に刃の鋭さを露わにする奇妙な男。
彼は部屋の入り口付近で立ち尽くしている三人を見つけると、ぽつりと呟いた。
「……なんだ、見たことある奴らが勢揃いだな」
久方ぶりの再会だが、まるで変わった様子のないスバルの姿に、ノーラは気の抜けた笑みを浮かべた。
「スバル!」
ノーラが
雨水を滴らせながら小走りになる彼女を見送りながら、皆、驚愕に目を
一歩、また一歩と走るアリアの髪が、白と黒、明滅するように色を変えている。正面にいるスバルには、彼女の瞳も同じように変化していることがわかった。
「怪我はない? 疲労は?」
彼女自身は自らの変化に気づいていないのか、不安定な色彩のままスバルを心配げに見つめている。かと思えば、スバルが半裸でいることに今更気づいたように顔を赤らめていた。
「見ての通りだ。お前こそ、大丈夫か?」
スバルは一瞬なにかを考える仕草をしたが、すぐに気を取り直した。
アリアの色はそこで再び黒が定着し、皆が知るアリアへと戻る。彼女は頭を振り、困惑と苛立ちが混ざったような硬い声で言った。
「……人のことを心配する立場ではないだろう。治安維持部隊の連中を独りで相手取っていたと聞いたぞ」
そして、彼女は声を低くしてスバルにだけ囁く。
「後で話をしたい」
「あぁ。俺も聞きたいと思ってた」
スバルは肩を竦め、アリアの変化を思い出す。
空の森、ライアン・レッドフォードの猛攻を凌いだ彼女は、髪の色が白銀に、瞳は黄金に変わっていた。
そして今もまた、誰も知らないアリアの姿が垣間見えたのだ。その秘密を、ようやく明かしてくれるのだと予感していた。
「再会を喜ぶのは結構だけど……その前に、言うべきことがあるんじゃないか?」
咳払いと気まずそうな声が、妙な雰囲気を吹き払う。
スバルは顔を上げると、リュークに
「よう。また世話になったみたいだな」
「まったくだ。なんなら報酬でも要求したいところだけど……」
「馬鹿言え。そんなの払えるわけないだろ」
だと思った、とリュークは溜息をつく。
「それより、いい加減に現状を知りたい。君は……テオやシャルと知り合いなんだろう? 彼らは一体何者で、君の目的はなんだ? それを知らないと、俺達も動きようがない」
「話せば長くなる」
答えたのは、テオだ。
彼の翡翠の眼は、雨の降りしきる景色を眺める。
「まだ日は高い、まずは休息を取ることだ。濡れ鼠のままでは身体を壊すだろう」
「いや、しかし……」
「心配かね? だが人の
テオが指差すのは、部屋の壁面に描かれた紋様だ。
当然、ただの落書きではない。
なんらかの文字のようだが、探索者のノーラでさえ見たことのないものだった。
「貴殿らを苦しめた治安維持部隊の不可思議な監視網は、これが弾いている。安心したまえ。ほら、シャル!」
「はいはい、ちょっと待って」
脱衣場の方から声が響き、少ししてから着替えを終えたシャルが姿を現す。
彼女はスバルを憤怒の視線で射抜いたあと、有無をも言わさずアリアとノーラの手を取り、意外な力強さでずるずると引きずっていった。
「この階はテオが貸切にしてるから自由に使っていいよ。でも一応は一人一部屋。場所を教えるからついてきて」
「あ、ちょっと、俺は?」
慌てて呼び止めるリュークに、シャルの冷め切った眼が突き刺さる。
もしかして、スバルより馬鹿だと思われたことが後を引いているのかと、リュークは愕然とする。
「あんたは東側の突き当たり。言っとくけど、西側は女性陣の部屋だから。もし近づいたら痛めつけて殺す」
「あ、あぁ……」
「ほら、行くよ」
ノーラの情けない悲鳴と、アリアの文句が、ばたんと閉じる扉に遮られる。
取り残された三人の男は、嵐の後で軽く吐息をついた。
「相変わらず落ち着きのない奴だな……おい、あいつが殺すっていったら本気で殺しにくるから、覗きはやめとけよ」
「君は俺をなんだと思ってるんだ?」
抗議の視線に、スバルは子供のような笑顔で答えた。
そして、そのままで続ける。
「そういえば、お前はこっちにつくんだな。五分五分くらいで、カレヴァンについて俺を殺しにくると思ってた」
何気ない言葉は、端整な騎士の顔を凍りつかせる。
それが溶け出したとき――現れたのは、柔和な笑みと、瞳の中に輝く興味の光だ。それは
「正直、そうした方が間違いなく楽しめるだろう。けど残念ながら、君を敵に回して生き残るビジョンが見えない。カレヴァン全体に逆らう方がマシだと思うほどにね」
「保身が理由か?」
「当然さ。一番に大事なのは自分の命だよ。死んだら、もう誰も殺せないじゃないか」
雨の音に、幼い含み笑いが混じる。
テオはリュークを見上げると、その碧眼を翡翠の眼で見つめる。毒の清流の底に隠されたものを、暴こうとするように。
「面白い男だ。さすが《白炎の騎士団》団長にして、騎士団を壊滅させた狂人というだけはある」
リュークは動揺に絶句する。
それはスバルの知らない単語だったが、少なくとも聖剣の騎士には知られたくないことのようだった。
「それに、嘘は言っていないが真実でもないな。なにか隠しているようだ。違うかね?」
「……なにもかもお見通しか。あなたは、おそろしい
「なに、年の功というものだ。さぁ、鎧を脱いで楽になってくるがいい。食事も手配してある」
「ありがとう。では、また後で」
リュークは
「これで、また一つ、貸しだ。わかってるな?」
「あぁ。アリアを助けてくれた件で二つ目だろ」
「カレヴァンにきたばかりのとき、俺を
「あれはもたもたしてる方が悪いだろ」
けらけらと笑うスバルに刃のような視線を突き刺し、今度こそ姿を消す。
「まったく、千客万来だったな」
「まぁ、自分で招いたのだから仕方あるまい。それにしても、中々面白い仲間達ではないか。貴殿が独りで冒険者をしていると聞いたときは驚いたが……心配は杞憂だったな?」
「仲間じゃない」
スバルは反射的に否定する。
そう――仲間ではない。
元々は偶然の出会い、あるいは金で雇っただけの間柄だ。
「仲間が、怖いかね?」
重々しい言葉に、スバルは過敏な反応を示した。
視線は鋭く、全身から怒気と鬼気が溢れ出る。
「いや、おそれているのは仲間ではない。その先にある――」
「黙れ」
激昂しかけたスバルは、違和感に気づいて我に返る。無意識の内に伸びていた指が、腰の辺りで宙を掴んでいた。普段ならば、剣の柄がある場所だ。
持て余した手を頭にやり、まだ湿っている髪をかきむしる。小さな恫喝の声は、しかし多少の冷静を取り戻していた。
「……あんまり余計なことを言ってると、今度こそ
「やれるものなら、と言いたいところだが、やめておけ。向こうが寝室だ。一眠りするといい」
険しい顔をしたスバルは、しばらくテオを睨みつけていたが、やがて殺気を抑えて隣室へと向かった。
最後に残されたテオは、ぐったりとソファに身体を委ねる。
天井を仰ぐ翡翠色の瞳が、外見の年齢と不釣合いな老練した眼差しで、どこか遠いところを見つめていた。
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