2-10.暁
荒い息遣いが森の下生えに零れ落ちていく。
アリアは、まだ生きていた。
丸く見開いた目には、かたかたと震えるバルディッシュが映っている。
断頭の一撃を受け止めたのは、黒い魔剣だ。
剣を握るのは、他でもない、アリア自身の手だった。
地面に投げ出された無様な姿勢で、異能を帯びた必殺の刃を防いだのだ。
レッドフォードは、その必死な姿に欠片ほどの感慨も抱かない。
小さく鼻を鳴らすと、あっさりと得物を引いた。
そして、また振り下ろす。
薄幸の少女への同情など存在しない、無造作で残酷な追い討ちだった。
それもまた、魔剣の刀身が受ける。
「往生際の悪い……」
悪態は、ぐるりと反転する長柄の空を裂く音に
レッドフォードはバルディッシュを持ち替えると、切っ先を下に向ける。
それが突き下ろされる瞬間、アリアの身体が躍動した。
半月の刃に脇腹を削られながら、柄を握るレッドフォードの腕にしなやかな蹴りを見舞う。同時に反動で逆へ転がり、跳ねるように立ち上がった。
追撃は、ない。鋭く構えた魔剣の切っ先が、レッドフォードに不用意な攻勢を躊躇わせたのだ。
予想外の反撃に、肉食獣を思わせる獰猛な顔が忌々しげに歪む。
一時は死を受け入れたと見えたアリアの抵抗。それに最も驚愕しているのは、彼女自身だった。
信じ難い事態に直面したように足を
剣を握る手は震え、自らの身体を見下ろす視線は揺れていた。
切り裂かれた肩と腹の傷より、折られた肋骨の痛みより、その驚愕に彼女は打ちのめされていた。
「――――アリア?」
呟きは小さく、狼狽から掠れている。
戦いの最中にあることも忘れて愕然としたかと思えば、苦悶の表情で額を押さえた。尋常でない状態にあることは明らかだ。
「気でも
相対しているのはそれを黙って見逃す男ではなかった。
今にも倒れかねない様子のアリアに、一足飛びで間合いを詰める。
斜めに斬り下ろされるバルディッシュは異能を差し引いたとしても苛烈に過ぎ、魔剣ごと彼女を両断する気迫に満ちていた。
それが迫りつつある中、閉ざされていた目が見開かれる。
空気を張るような
強引に振り上げた魔剣が、竜巻の如き半月斧の一閃を弾き上げた。
仕損じたとはいえ、異能を持ってすれば巨大な武器でも切り返しはナイフのように早い。しかし、レッドフォードは後退を選んだ。
その鼻先を、逆袈裟の一閃が駆け抜ける。
レッドフォードのこめかみを冷たい汗が流れ落ちた。あるいは彼の中にアリアへの油断や侮り、慢心が欠片でもあったならば、この瞬間にも頭を吹き飛ばされていただろう。
更に飛び
その姿が、一瞬で消失する。
あまりの速さに目で追えなくなった――――わけではない。
右足に左足を引っかけて、万歳の格好で転倒したのだ。
レッドフォードは唖然として立ち尽くした。あるいは、それは戦神の申し子のような男が見せた初めての動揺だったかもしれない。
自失は、ほんの短い時間だ。レッドフォードはすぐ我に返ると、滑稽な少女に止めを刺すべく踏み出した。
だが、音を立てそうな勢いで身体を起こした彼女の視線に
強い瞳。その色は、鮮やかな黄金だ。
まるで伝承に現れる怪物が持つという、宝石の眼のようだった。
緩慢な動作で立ち上がるアリア。その脚が酷く震えていることにレッドフォードは気づく。
脚だけではない。息は浅く速く、魔剣を杖にして身体を支える腕も頼りなく揺らいでいた。
一年ぶりに
ただその眼だけが、対峙する男を力強く睨めつけている。
「てめぇ、一体……」
レッドフォードは
問うまでもない。それは《
魔剣を持つがゆえに狙われ、街を一つ滅ぼし、その
しかし、レッドフォードの目に映っているのは、金の色彩を持つ瞳に、意思の強さを感じさせるものの柔和な目元。
常に一文字の形をしていた唇は開き、あえかな吐息が零れ落ちていく。
姿形は彼の知るアリアそのものだというのに、それが同一人物だとは信じられなかったのだ。
「……いや、どうでもいい。始末することに変わりはねぇ」
レッドフォードは
武人の
視認すら難しい速度の斬撃を、しかしアリアは捉えていた。
咄嗟に屈んだ頭頂のすぐ上を鋭い刃が通り過ぎる。
ぞっとするような音を聞きながら、アリアは剣を構えて体ごとレッドフォードに突進した。
まともに戦えなくとも、一度でも魔剣を叩き込めればいい。ただそれだけを目的とした、
巨躯と重装の鎧からは想像もできない軽やかなフットワークで、レッドフォードの姿が横に流れる。相手の異常を知りながら、彼に油断はなかった。
狙いを外したアリアが転倒し、剣が地面に叩きつけられた瞬間、途轍もない衝撃が足元を突き上げる。地は割れ、陥没し、空中庭園を支える大樹の枝が軋んだ。
アリアは突進の勢いのまま前転し、素早く立ち上がると、音と気配を頼りに魔剣を送り込む。
そこには、回避と同時に死角へ回り込んでいたレッドフォードがいる。既に振り下ろされていたバルディッシュに、魔剣が喰らいついた。
防がれた半月の刃は攻撃と同じ速さで退き、鋭い
アリアの目は攻撃を捉えていたが、身体が追いつかない。受け流しきれなかった巨大な
レッドフォードは更に踏み込むと、バルディッシュを構えたままぐるりと旋回し、金属で補強された柄でアリアを打ち据える。
手に伝うのは、直撃を受けた彼女の肩が砕けた感触だ。
しかし、それ以上の深追いはしない。レッドフォードは彼女の魔剣に治癒の力があること、ただの一振りで勝敗を引っくり返す力があることを知っていた。
獲物を狩る獅子の眼は、痛打を与えたというのに歓喜の色はなく、むしろ不快げに歪められる。
「なんだ、その眼は。気に入らねぇな」
アルバートでの咎を知られ、ギルドを追い出されたときのアリアを、彼はおぼえている。
失意と絶望の底に叩き落された顔――傑作だった。
だが今は、何度も斬りつけられ、骨を砕かれながらも倒れない。気丈な面はいささかも
これほど痛めつけられていながら、一切の
「気に入らねぇから、とっととくたばれ」
無慈悲に宣言すると、渾身の力でバルディッシュを斜めに切り上げる。
単純な軌道の攻撃は真正面から受け止められるが、構わず更に間合いを詰め、得物から離した手を拳に変えて振り下ろした。
ごっ、と鈍い音を立ててアリアの頭が揺れる。
普通の人間なら
だがアリアは倒れるどころか、闘争心に満ちた表情でレッドフォードを睨み返した。
やはりその顔はレッドフォードの知るアリアではなかった。別人のよう、という印象は
困惑は一瞬の隙を生み出した。
アリアは血の伝う頬をそのままに、握った手を振りかぶる。
愚直な軌道の拳打は、ガントレットを装備した掌に容易く掴み取られた。
拮抗は一瞬だ。
レッドフォードの
拳は勢いを
よろめくレッドフォードを突き飛ばし、掴まれた腕を振り
切っ先は、ほんの少しの距離を詰められず、後退するレッドフォードに届かない。
あと一歩――踏み出す足は、先程自身が打ち砕いた地面に引っかかり、また受身も取れずにつんのめる。
レッドフォードは、今度こそ機会を逃さない。
大上段からの一撃は、天を裂き地を割るべく、唸りを上げて打ち下ろされた。
「がァッ!」
獣の咆哮が上がる。
地に伏せったアリアは、砕かれた肩にも構わず腕を振り上げると、
どん、と火薬が炸裂したような轟音。
地面がぐらりと揺れ、バルディッシュの斬撃もまた、勢いを失う。
宙を漂った半月状の斧を魔剣が打ち払えば、二人の間を遮るものはなにもなくなる。戦慄する獅子の眼と、金色の瞳が、真正面から激突した。
「――クソが!」
反応の速さは、レッドフォードが上回る。不安定な姿勢で繰り出した蹴撃が、立ち上がろうとするアリアの首元を直撃した。
壊れた人形のように吹き飛ぶアリアを、レッドフォードは息を荒くして見送る。困惑が追撃を躊躇わせたのだ。
立っているのがやっとという有様で、勝ち目など万に一つもないというのに、なぜここまで喰らいついてくるのか。なぜ立ち上がるのか。魔剣のものだけとは思えない、先程からの妙な力はなんなのか。
魔剣だけが取り得の
その事実は彼のプライドを刺激し、冷静さを失わせた。
「舐めやがって……!」
彼が不用意に踏み出した瞬間、アリアは魔剣を振り上げる。
切っ先は、地に触れていた。
足元で爆弾が炸裂したような衝撃と共に、
顔を腕で庇うレッドフォードは、首筋が
直後、今まさに彼が立っていた場所を、黒い剣撃が縦に斬り砕く。
刀身の突き立った場所を中心に地面が
降り注ぐ土砂を突き破り、アリアはレッドフォードを追う。
魔剣の軌跡は黒く
絶好の機会を得た魔剣は、しかしやや大振りだ。
レッドフォードは剣線を見切ると、その下を掻い
空振りに揺らぎ、隙だらけになった姿が目前にある。
勝負が決まるときの手応えが彼を高揚させた。
その足場を揺らがせたのは、やはり魔剣だ。
アリアは空振りのまま剣撃を流し、足元にそれを突き立てた。秘められた力が炸裂し、踏み込む足を不安定にする。
バルディッシュの切っ先は狙いを
そして、地面を叩いた反動で切り返す魔剣の一撃は素早かった。
これまでにない激しい衝撃が発生し、その中心からバルディッシュが弾き出される。
アリアは、吼えた。
更に反転する剣は、よろめくレッドフォードを確実に捉えている。
レッドフォードは咄嗟に、腰に残していた長剣を引き抜いた。
《
甲高い軋みは、刀身の悲鳴だ。
異能と魔剣を受け入れるのに、その造りは貧弱すぎた。
このまま砕く――渾身の力を込めるアリアは、真正面からの打撃に気づくのが遅れる。
大きな靴裏が、その腹部を激しく蹴り飛ばした。
苦鳴を残し、小柄な身体が宙を舞うほどの勢いで吹き飛ぶ。魔剣が手からもぎ取られ、あらぬところへ投げ出されていった。
強い衝撃に、刹那、意識が飛ぶ。
背と頭が痛み、アリアは自分が木に叩きつけられたことを知った。
そして、目を見開く。
ダメージで
必死に身体を
冷たい切っ先は脇腹を貫通して、背後の木にアリアを
苦痛に喘ぐアリアに、容赦なく拳が振り下ろされる。
眉間を打ち据える打撃は、反動で彼女の頭部を木に叩きつけ、脳を激しく揺さぶった。がくんと細い首が前に倒れ、ぼたぼたと足元に血が滴り落ちる。
血と共に落ちるのは、小さな破片だ。
後ろで髪を留めていたバレッタが破損し、豊かな黒髪がふわりと広がった。
「いい加減に、死ね!」
レッドフォードは手甲に包まれた拳を硬く握り締め、更に振り上げる。
しかし、それを振り下ろすことも忘れ、驚愕に硬直した。
目の錯覚かと、自らの正気を疑ったのだ。
アリアの髪が、さっと色を変えていく。
夜の黒が、明け方の地平線を思わせる白銀へ。
まるで深い
プラチナブロンドの髪を振り乱し、アリアは
宝石の色彩の眼を見開き、歯を剥く様は獣のようだ。
今度こそ打ち下ろされる硬い拳に、アリアは裂けた額を叩きつけた。
頭突きの動きが腹に刺さった剣の傷を広げ、血が噴出す。額の傷が更に裂け、彼女の顔を真っ赤に染め上げる。
反撃は鉄球の如き拳を軋ませ、レッドフォードを怯ませた。
その一瞬でアリアには十分だ。
駄々っ子のように振り上げた二つの拳が、その胸を殴打し、アリアより遥かに大きい巨躯を吹き飛ばした。
倒れたレッドフォードは苦鳴を漏らし、全身から脂汗を流す。衝撃は心臓に達し、全身の血流を狂わせて、彼を一時的に麻痺させていたのだ。
苦悶する彼を
それが木から抜けないことを悟ると、刀身を素手で掴み、ぐっと力を込める。ばきん、と音を立て、それは半ばから圧し折れた。
傷ついた手に構うこともなく、緩慢に前進する。
剣が身体の中を通過する激痛に呻きながら、一歩、また一歩と脚を進めた。体中の血が流れているのではないかという
ずるり、と剣から抜け出し、アリアは前のめりに倒れるところを踏み止まった。
「この、死に損ないが!」
「でも……生きてる」
立ち直ったレッドフォードが、バルディッシュを拾って立ち上がる。
怒り狂う獅子に真正面から向き合いながら、アリアは言った。
穏やかな声だった。
だが、決して折れない強情さが垣間見える。
「生きてるから、なんだ。少し生き長らえたところで、居場所もなく、独りで朽ち果てるだけだろ!」
魔剣を手放したアリアなど死に体に過ぎない。
なにより、彼女の身体は既に限界を迎えていた。
失った血は白い肌を蒼くさせ、何本もの骨を折られて、立っていることが奇跡という有様だ。
もはや逆転の目などないということは、アリア自身が最も理解していた。
無駄な足掻きを続ける少女に、レッドフォードは
「どうせ死ぬなら、今ここで死ねよ!」
「いやだ!」
絞り出すように叫ぶと、アリアは血に塗れた手を空に伸ばした。
そこに
「《クローディアス》!」
その言葉に、なんの意味があったものか。
ただ確かなのは、靄の中から魔剣が出現し、アリアの手に収まったということだけだ。
「居場所が、ないなら……」
かすかに震え、しかし恐怖に立ち向かう強い声で、アリアは言い放った。
「この剣で、切り拓く!」
二人が地を蹴り出したのは、同時だった。
異能の陽炎と、魔剣の影が、鏡写しの軌道で激突する。
力の奔流、その衝突は魔物すら付近から遠ざけさせ、遠くにいる冒険者も、なにか妙な事態が起きていると悟って身を潜ませていた。
そして――。
「うおぉ! ……あ、危ねぇ!」
間の抜けた場違いな悲鳴が、かすかに聞こえた。
アリアとレッドフォードは刃を合わせた格好のまま、同時に同じ方向へ頭を巡らせていた。
木々の薙ぎ倒され、すっかり見通しのよくなった景色の奥。ゴンドラが吊り下げられていた穴が、よく見える。
その淵を掴んでいるのは、人間の手だ。
先に反応したのはレッドフォードだった。
魔剣を力任せに押し退けると、長剣を納めていた鞘をベルトから取り外し、異能を纏わせる。
しかし、それが狙い通りの軌道を進むことはなかった。
投擲されたそれを、アリアが叩き落としたのだ。
最後の気力だったのか、アリアは剣を構えたまま膝から崩れ落ちた。
忌々しげに悪態を吐くレッドフォードは、しかし彼女を無視して走り出す。
初めから、アリアはそれを信じていた。
「スバル!」
必死の思いで、アリアは警句を叫んだ。
庭園を貫くゴンドラの穴、その淵からひょっこりと顔を出したスバルは、レッドフォードが迫っていることに気づくと慌てて身体を引き上げた。
しかし長い
「苦労して登ってきたところ悪いが、今度こそ――死ね」
スバルは、それを涼しい顔で待ち受けた。
「風糸」
小さい呟き。
同時に、スバルは剣を抜刀の勢いで振り抜いた。
そして、金属同士をぶつけたとき特有の、甲高い音が響く。
「え?」
レッドフォードは、気の抜けた声を漏らしていた。
その得物は弾かれ、あらぬ方へ向いてしまっている。
それをなしたのは、淡く光るスバルの剣だ。
「死ね、だと? お断りだ」
悪辣な笑みは、剣撃を伴う。
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