2-8.終着点

 空中庭園の一部が剥がれ、塊はスバルとアリアの立つ地上へ落下を始める。

 それが樹の枝などでないことは、すぐにわかった。庭園の底に張りついていた塊には八つの目が光り、八本の脚は着地に備えて眼下へ伸びる。動作や落ちる速度が緩慢に見えるのは、あまりの巨大さのせいだ。


「なんだ……あれは。あんなものがいるなんて、聞いたことがない」


 アリアは掠れた声で呟いた。空の森に分布する魔物は、上層は小型が多く、下層でも中型が大半だ。超大型の魔物が目撃された例はなく、これは明らかな異常事態だった。

 なにより、その魔物は空の森の秘匿をスバルが口にした途端に現れたのだ。

 まるで、それが動き出す合図だったかのように。


「なんだっていい。敵なら、やることは同じだ。そうだろ?」


 アリアに答えるような、鞘走りの音。

 そうするだろうと思いながらも、アリアは嘆息せずにはいられなかった。彼女のかたわらには、目を爛々らんらんと輝かせた、魔物よりも魔物じみた男の姿があるだけだ。駆け出したその背を、アリアは強張こわばる身体を突き動かして追いかける。


 根が絡み合ってできた足場を飛ぶように渡り、地上へ降り立とうとする魔物へと向かう。

 突き上げる衝撃。杭のごとき脚が地面を穿うがち、その巨躯を受け止めた。

 それは感触を確かめるように、小刻みに震え始める。身体に堆積たいせきした土、根を張った草木がぼろぼろと振り落とされた。余程長い時間を庭園と同化して過ごしていたのか、動くたび全身が異音を鳴らしている。


 そして、蜘蛛はえる。

 次の瞬間、すさまじい轟音を伴って、それは猛烈な速度で疾走を始めた。


 赤く光る目は一切の迷いなく二人の姿を捉えている。たとえ二人が逃げることを選択していたのだとしても、追撃を振り切ることは不可能だっただろう。アリアはこうして立ち向かうことが最善だったのだと悟る。

 だが、真正面からぶつかって勝ち目があるかといえば、それは別の話だ。

 土埃を巻き上げて突撃してくる姿は、大陸最大の都市で実用化されているという蒸気機関車を思わせた。まともに衝突すれば、それだけで粉々だ。


「奴の頭を、かち上げる! 下をくぐって後ろへ抜けるぞ!」


 アリアが叫ぶと、スバルは速度を落として並走を始める。アリアの方を横目にして、にやりと不敵な笑みを浮かべた。


「名案だな。それで行こう」

「貴様、無策であれとやりあうつもりだったのか……」


 呆れながらも、アリアは魔剣を手に取り、切っ先を後ろに回して引きずるように構えた。スバルを揶揄やゆしながら、それも勝算が高い手ではない。じっとりと手が汗ばんだ。

 彼我の距離が急激にせばまり、ただでさえ巨大に見えた蜘蛛の魔物が、より圧迫感を持って迫ってくる。せわしなく蠢くあぎと、てらてらと濡れた牙が、秘匿を暴く愚か者を噛み砕かんと激しく打ち鳴らされていた。


 失敗すれば即死――歯をぐっと食い縛り、アリアは大きな根の足場が確かな場所で立ち止まり、それを待ち構えた。

 心音すら聞こえる集中、そこでアリアは、蜘蛛の牙の辺りから粘つく液体がどっと溢れ出たことに気づく。

 逃げなければいけない。

 反射的な思考を、肩に置かれたスバルの手が押さえ込んだ。


「起きろ!」


 呼びかけ、スバルは根を蹴りつけた。

 板を割るようなけたたましい響きが連続する。

 足元の根が轟音を上げて隆起するのと、蜘蛛の魔物が牙の毒腺から毒を噴出したのは、ほぼ同時だ。

 毒はスバルが呼んだ根の防壁に防がれ、周囲に飛び散って白煙を上げた。


 刺激臭が鼻をつき、目がみて涙がにじむ。蜘蛛の姿は壁の向こうに隠れ、アリアに届くのは足音と気配だけだ。

 焦りが心を支配し、急かされた心地のまま、剣を振り上げようとする。


「落ち着け、まだだ」


 肩を押さえたまま、スバルが言う。

 それだけで、力んでいた腕から震えが消えた。


「――行け!」


 スバルが身を引いて合図を出す。

 直後、根の壁を押し潰し、蜘蛛の頭部が現れた。

 その瞬間、アリアは剣を振り上げる。

 吹き上がる黒い衝撃。それは絶妙のタイミングで顎を捉え、その巨体を跳ね上げた。湿った音が鳴り、砕けた肉片、圧し折れた二本の脚が吹き飛ぶ。


 想定を遥かに上回る重い手応えに、アリアは膝を折った。

 重量以上に、蜘蛛の肉体は強靭すぎた。頭部ごと吹き飛ばすつもりが、破壊できたのは下顎だけだ。魔剣から伝わる衝撃が全身に負荷をかけ、すぐに身動きが取れない。

 疲弊ひへいした身体を、後ろから軽々と抱きかかえられる。

 急激な加速は、アリアの意識をなかば吹き飛ばした。気がついたときには既に魔物の背後に回っており、頭を激しく揺さぶられた魔物が沈んで静かに蠢いているのが見える。


「……貴様に運ばれてばかりだな、私は」

「運賃は取らないから、安心しろよ」


 スバルはアリアの自責を軽くあしらった。その意識は既に、くずおれた超大型の魔物、ただそれだけに向けられている。

 千切れた二本の脚、その断面が泡立って白煙を上げていた。

 まさか、と思う間もなく、断面を内部から突き破るようにして新たな脚が生え出る。枯れ木のような質感ではない、真新しい質感の甲殻を備えた脚だ。隣でアリアが息を呑む気配がした。


「アリア、お前の魔剣で、あれを殺し切れるか」


 こうした異常な再生能力を持つ魔物は、時折現れる。

 対処方法は、ないことはない。再生する暇を与えず殺し尽くすか、再生できなくなるまで殺し続けるか、あるいは尻尾を巻いて逃げ出すかだ。

 大体において逃げ出すことが最善だが、地形と相手が悪すぎた。るべき方策は多くない。


「やれる」


 即答だった。

 スバルは思わず魔物からも意識を逸らし、アリアを見つめていた。駄目で元々、という程度の問いかけだった。慎重で理性的、悪く言えば悲観的なきらいのあるアリアが、こうも力強く反応するとは思わなかったのだ。

 しかし、なぜかアリアは、目を丸くして自らの口を押さえていた。自分の口から出た言葉に驚いているかのようだった。


「やれるのか?」


 スバルが問い直すと、アリアは我に返った風に目をしばたたかせ、咳払いをして気を取り直す。

 眉根に皺を寄せた、しかつめらしい表情は、普段のアリアと変わりない。


「――やれる、が、少々……る。その間は動けないし、仕掛けるときも同様だ。それでもいいなら、やれないこともない」

「無理難題だな」


 その意味するところを理解したスバルは、さすがに苦い表情を隠せなかった。

 あの巨体を相手に、アリアを狙わせないよう足止めし、最後には逆にアリアのいる場所まで誘導しなければならないのだ。暴走する馬車を身一つで止めろと言われた方がまだ現実的だった。


「やれないのか?」


 意趣返しのように、アリアがにやりと笑みを浮かべる。

 スバルは、むすっと顔を歪めると、腕まくりをし、剣をぐるりと振り回した。


「やるだけやってみるさ」


 その眼前で、遂に蜘蛛が立ち直る。八本の脚が体を器用に方向転換させた。アリアが砕いた顎は完全に修復され、傷跡すら残されてはいない。

 戦況に関わらず、圧倒的な巨躯はそれだけで脅威だ。その上に手傷を負わせられないとくれば、絶望的な相手と言っても過言ではなかった。

 しかしスバルは躊躇わず、蜘蛛の足元へと躍り出る。


 頭上から幾度も振り下ろされる脚の猛攻を駆け抜け、咆哮と唾液を吐き散らす頭部へと肉薄した。

 迎撃するように、牙の毒腺から毒液が放たれる。圧縮されて撃ち出されたそれは矢の速度にすら匹敵した。

 それが貫いたのは、スバルの残影に過ぎない。

 飛び散った毒の飛沫ひまつが肌に触れ、白煙を上げる。スバルは皮膚の焼ける痛みを噛み砕くと、突進の勢いのまま刃を叩きつけた。一撃は牙を数本まとめて叩き折り、腐臭を放つ口腔を横に裂く。


 二度の負傷に悲鳴と怒声を上げ、蜘蛛は滅多矢鱈めったやたらに暴れ回った。横に振るわれた脚は、ただそれだけで木々を薙ぎ倒すほどの威力を秘めている。

 鋭く息を吐き、霊樹の根を踏み締め、スバルは渾身の力で剣を振り上げた。

 ごきん、と鈍い音。

 さすがに踏みとどまれず、スバルは真横に吹き飛んで根の上を転がった。だがすぐに体勢を立て直すと、痛みにもがく魔物の姿を見て瞳をぎらつかせる。

 スバルの剣に弾かれた蜘蛛の脚は半ばまでが切り裂かれ、そこから止めなく血を吐き出した。悲鳴とも怨嗟えんさともつかない金切り声が響き渡る。


 しかし、それも強烈な再生能力の前には掠り傷だ。頭部の傷も、いつの間にか消えてなくなっている。

 ちょこまかと鬱陶しい目の前の敵を排除すべく、その規格外の魔物はじりじりとスバルへとにじり寄った。


 蜘蛛の動きが、止まる。

 昆虫特有の唐突さで、その身体はあらぬ方向を目指した。


 八目が捉えているのは、アリアだ。

 剣を構えるでもなく、目を閉じて、ただそこに立ち尽くしている。

 魔物は、そこに脅威を感じたのだ。果敢に攻めて幾度も傷を与えてきたスバルよりも、その華奢な少女こそが危険なのだと。

 ごう、と音を立て、強靭な脚が動き出す。得体の知れぬ黒い剣の少女を止めなければならないと、本能が知っていた。


「風糸」


 スバルは、既に動いていた。

 放った言霊は風を呼び、り、そして紡いで糸にする。不可視の力がスパークし、それは淡い光を放った。

 糸を剣にまとわせるよう意識しながら、スバルは口の端を歪める。精度が、低い。この魔法の完成形を知っているスバルには屈辱的な出来映えだ。制御し切れない糸が飛び散り、き消え、あるいはスバルの肌を裂いて鋭い痛みを与えた。

 それでもなお重宝するのは、強力さゆえだ。

 初速に乗り出した蜘蛛の側面に飛び込み、スバルは剣を上方に薙ぎ払った。


 風の糸は指向性を持った嵐、空間ごと両断しかねない刃となり、蜘蛛の脚、狙い通りにその関節を捉えた。固い甲殻のない部分は脆く、一息に一本、ついでとばかりに更に一本を切断する。

 いかに多脚とはいえ、疾駆の始まりに二本脚を失えば、身体を支えることなどできはしない。蜘蛛はがくんと体勢を崩すと、根の上を激しく横滑りした。


 スバルは脚の再生を待たない。

 木々の幹に似た質感の甲殻の凹凸おうとつに足をかけ、跳ねるようにして駆け上がる。蜘蛛のもがく動き、揺れる足場をものともしなかった。更に、弾む息のまま詠唱を始める。

 スバルの最も得意とする、炎の線条が無数に生み出された。ろくな狙いもつけてはいないが、巨体を相手に精密さは不要だ。それは次々と魔物の背に着弾し、甲殻を貫いて、体内を焼き尽くす。


余所見よそみをするから、そうなるんだ」


 嫌味の毒をたっぷりと塗りつけた舌鋒ぜっぽうを放ち、スバルは剣を突き下ろした。剣は蜘蛛の胴体と胸の間、甲殻のない箇所に根元まで埋没する。

 柄を握る腕が、ぼこりと盛り上がった。

 スバルは刃を力任せに滑らせ、蜘蛛の背を横に大きく切り開く。噴水のように血が吹き出し、スバルの全身をおぞましい色に染め上げた。

 あまりの激痛に暴れ回る巨体を、スバルは軽業師のように駆け下りる。


 蜘蛛は視界一杯に、その男の姿を見た。

 少し触れただけで全身を砕けそうな矮小わいしょうさで、しかし笑みを浮かべながら自らを蹂躙じゅうりんしてくる、おそろしい男の姿だ。


「そんなにあっちが気になるなら、好きにしろ。お前があいつに辿り着く前に、俺がお前を殺してやるよ」


 蜘蛛は刹那、動きを止めていた。

 それは、一つのだった。

 スバルの姿に別の光景を幻視したかのような、恐怖、そして驚愕だった。


 蜘蛛のを知りながら、スバルは瞳の一つを重い斬撃で叩き割る。

 何度目かになる絶叫を浴びながら、更に別の目をぞんざいに踏み砕いた。


 だが、その魔物は怯まなかった。

 いつの間にか、叫びの質が変わっている。痛みと恐怖の叫びではない。怒り、恨み。およそ魔物が抱くとは思えない、虐げられた者の哀れな激情だった。


「どうした? 俺に親兄弟でもなぶり殺されたような顔だな」


 めちゃくちゃに暴れ出した蜘蛛の頭部を蹴り出し、霊樹の根に覆われた地面へと飛び降りる。

 全身を血に濡らした魔物を嘲笑ったスバルは、ふとその笑みを引っ込めた。代わりに出てきたのは、やり場のない苛立ちと呆れだ。


「それとも、か……尻拭いはごめんだな」


 呟きは誰にも届かず、聞かれていても意味を理解できる者はいないだろう。それでもスバルはなにかを納得したように、激昂する蜘蛛と再び相対した。


「まぁ、なんでもいい。どっちにしても引導は渡してやる」


 そう言って、しかしスバルは、素早く後退した。もはや正気をなくしているのか、蜘蛛の魔物はスバルを追うように地面を這う。

 再生を果たした八目が見ているのは、スバルだけだ。そこにどういう理由があるものか、因縁に結ばれたようにスバルに執着している。だからこそ、蜘蛛は気づかない。


 後退しながら、スバルは振り返った。

 膝から崩れ落ちているアリアが、そこにいる。立ったまま眠るように、その体には力が感じられない。だた、だらりと垂れ下げた手が握る剣――黒い魔剣から闇が溢れている。

 合図も、掛け声もない。しかし剣に呼ばれたように、スバルはアリアの元へと蜘蛛を誘導していた。


 脇目も振らずスバルに迫っていた蜘蛛は、だが最後に本能の危機感だけは生きていたのか、急制動をかけた。自分より巨大な生物と相対してしまったような威圧感、それをぎ取ったのだ。

 スバルは、ちっと舌を打つ。

 アリアの様子からすれば、二度目はない。

 仕損じてしまえば、一巻の終わりだ。

 意地でもアリアの間合いに引きずり出すべく、剣を握り直して反転する。


「下がって!」


 合図が出たのは、そのときだった。

 スバルは蜘蛛へ向かおうとした体を、あらぬ方向へと逸らした。全力で根を蹴り、蜘蛛とアリア、両者を結ぶ線から逃げ出す。

 アリアの声に、かすかな違和感を覚えていたが、それどころではないほどの悪寒がスバルを突き動かしていた。


 アリアは片膝を立て、剣を肩に担いだ。閉じていた目は見開いている。

 黒かった瞳は、今はなぜか、金色に輝いた。

 捉えているのは、理性も憤怒もかなぐり捨てて逃げようとする蜘蛛の姿、の範囲を離脱したスバルの姿だ。


 そして、彼女は雄叫びと共に剣を振り下ろす。

 空間ごと押し潰される気配。

 不明瞭な影が頭上に招来され、振り下ろされたのだ。

 それはあまりに巨大で、この蜘蛛ですら小さく思えるほどだ。


 悲鳴は、一瞬だ。

 意思を持った影は逃げる蜘蛛を追い、その身体を捉えると、ぐしゃりと音を立てて地面に叩きつけた。

 痛みを感じる間もなく、一撃で魔物は破壊され尽くされていた。蜘蛛の胸と頭部は完膚なきまでに潰され、放射状に伸びた五つの鋭い斬撃が八本の足のほとんどを切断している。

 固い甲殻が割れ、表皮が裂け、中に詰まった臓器や血液が噴出する。

 まるで蟻を靴裏で踏み潰すがごとくだ。

 スバルの決死の攻勢でも足留めがやっとという怪物が、魔剣の一撃で文字通り虫の息に陥っていた。


 轟音と衝撃波が周囲を席巻せっけんし、腕で顔を庇ったスバルの体が木っ端のように吹き飛んだ。

 霊樹の根がばきばきと軋みを上げ、粉塵が舞い上がり、それも突風に吹き散らされて消える。


 異様な再生能力は即死することを許さないのか、蜘蛛は千切れた脚を悶えさせた。再生の兆候を見せるが、ダメージが許容量を凌駕したのか、その速度はあまりに遅い。

 仕留めたか――そう二人が確信した、そのとき、蜘蛛の姿が突然に沈んだ。

 影が落ちた場所が陥没を始めたのだ。

 霊樹の根、それが衝撃に耐えかねたのか沈み落ちていく。


 そして、限界が訪れた。

 蜘蛛の巨躯が、なんの前触れもなく視界から消えた。足元のすべてを覆いつくしていた霊樹の根がぽっかりと穴を空け、その中に呑み込まれてしまったのだ。


 穴は激しい振動と共に拡大し続け、それは数分も続いた。

 けたたましい音が止む頃、後に残されたのは底が知れぬ暗黒の入り口と、異質な魔物が残した数本の脚だけだ。


「そういうことか」


 ぽっかりと空いた穴の淵に立ち、スバルは苦々しげに呟いた。


「根が地面を覆ってたんじゃない。大穴を枝で覆い隠して、偽装してたのか。そりゃ入り口を探してもないわけだ……中途半端な情報を掴ませやがって」


 スバルは周りに広がる霊樹の根の風景を一瞥いちべつする。

 そのすべてが大穴の上だとしても魔領域としては小さいが、深い。

 縦に長い魔領域の中心を霊樹が貫き、空の森下層の地表の辺りで枝を伸ばして、穴を塞いでいるようだった。

 根だと思っていたのは、霊樹の枝だ。真の根は大穴の奥、隠された魔領域の更に最深部にあると思われた。


「……いい加減、降ろせ」


 耳元で言われ、スバルは我に返った。

 肩に担ぎ上げたアリアは、力を出し尽くしたせいか立ち上がることすらできなかった。剣を振り切ったところで倒れていたのをスバルが回収し、崩壊から逃げ出したのだ。

 地面に降ろされたアリアは自身の剣が開けた大穴を眺め、深く溜息を吐いた。なにかとんでもないことに巻き込まれた、その実感が今になって込み上げてきていた。


「行くのか?」

「まさか」


 スバルはあっけらかんと言った。この男ならば、見つけた魔領域にそのまま突入していってもおかしくないと思っていたので、アリアは肩透かしを食らった気分になる。


「言ったろ、今回は霊樹の根元に行って戻るだけだってな。穴を降りる手段がないし、準備もできてない」

「では、なぜここまできたのだ。魔領域の存在を確かめるためだけなのか?」

「それもあるが……」


 言葉を切り、その横顔が不敵に笑った。飢狼ですら浮かべない、殺戮と闘争への渇望、その笑みだ。


「不意討ちじゃ、つまらない。教えてやりにきたんだよ。秘密を暴きにきたんだってことを、奴らにな」

「奴らとは……誰だ?」


 アリアの疑問に、スバルは答えない。肩を竦め、目を逸らす動作が、それを明かす気はないと主張していた。

 その態度はアリアのかんさわった。ここまで付き合わされて、け者にされるのは気分が悪い。


「答えろ、スバル。秘匿とは、なんだ。あの魔物も偶然に現れたわけではないのだろう。魔領域とは、なんなんだ。貴様……一体、何者なんだ?」

「知ったところで、どうしようもないってことはあるもんだ。知る必要がないこともな」


 スバルは取りつく島もなかった。

 なおも食い下がろうとするアリアを、同じ黒い瞳で見下ろす。

 そこにあるのは、拒絶だった。

 ここまでアリアを導き、守り、優しくさえあった男が見せる、隔絶の感情だ。

 そしてスバルは、決然と言い放った。

 有無をも言わせぬ、厳しい声で。


「アリア。森を出たら、カレヴァンに戻らないで別の街へ行くんだ」

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