2-7.森の秘匿
スバルは、げんなりとして溜息を吐いた。
底なしのスタミナと魔領域への好奇心を持ち合わせた男が、疲弊し切って蒼い顔をしているのである。荷物を担ぎ直す動作の一つにも、疲労感と機嫌の悪さが滲み出ていた。
「なんて様だ。さっきまでの威勢はどうした? ようやく霊樹が見えてきたと、はしゃいでいただろう」
辛辣な揶揄に、スバルは傍らを歩くアリアを恨めしげに睨みつけた。しかしその眼光に覇気はなく、吐き出される文句にも張りがない。
「お前こそ、段々さっきから口が悪くなってないか?」
アリアは目を瞬かせると、シニカルな笑みを浮かべて、ぼそっと呟いた。
「気が立っているのは、貴様だけではないということだな」
「不毛だ……」
二人は疲れた牛のように唸りながら、重い足を引きずって進んでいく。
二対の黒い瞳に映るのは、樹だ。
ただの樹ではない。空の森の大樹でもない。それを樹と言われなければ、世界の果てに建った壁ではないかと誤認しかねない、それほどまでに巨大な樹だった。あまりに巨大すぎて遠近感が狂い、行けども行けども辿り着けない砂漠の蜃気楼を見ている気分になる。
霊樹――《森の天空》と呼ばれる場所を
見渡す限り、おそろしく広大な空間が広がっている。カレヴァンの街が丸々そのまま入るのではないかと思うほどだ。霊樹は生命の維持に莫大なエネルギーを必要とし、その周囲から他の植物の気配を奪っていた。
遮蔽物の一切が存在しない地形は生物の本能が避け、魔物の姿も見当たらない。しかしそれ以上に、アリアは魔物が畏怖しているのではないかと感じていた。この偉大な樹を前に、恐れをなしているのではないかと。
しかしそのような思索にスバルは無縁で、むくれた面には苛立ちしかない。スバルには険しい魔境や手強い魔物より、平坦で退屈な道の方が強敵だった。
「くそっ、最後の最後で、こんな罠があるなんてな。帰りのことを考えると気が滅入る」
「同感だ。貴様、これでろくでもない用事なのだとしたら、承知しないぞ」
アリアの恨み節に、スバルは曖昧な相槌を打つ。そしてそれきり、口を
この冒険の目的を、アリアは未だに知らない。森の案内に影響することであればスバルが言わないはずはないので、それほど真剣に問い質さなかったこともある。しかし興味本位で
スバルは人を食ったような男だが、もったいつけた態度は取らないし、腹芸もできない。目的を口にしない理由があるのだ。
事ここに至り、アリアは一つのことを悟っていた。
スバルは、なにかを警戒しているのだ。
広大な森の中心ですら、それを話せないほどに。
いずれにせよ、その疑問もすぐに解ける。目的地は、もう見えているのだ。
二人は気を取り直し、また気だるい一歩を踏み出していく。
◇ ◆ ◇
霊樹は巨大さに比して根も広く張っており、二人がその根と
他の大樹などは根に魔物の幼虫を飼っており、近くに行けば戦闘となるが、やはり霊樹にはそれがいない。波打つ根、その下を潜り、隙間をすり抜け、二人は少しずつ霊樹へと近づいていく。
距離が近づくにつれ、霊樹の圧迫感は増していた。見上げれば天を衝かんばかりに幹が伸び、枝が絡み合って庭園を築いている。
空の森の面積は、他の魔領域と比べて狭い。しかしそれでも過酷といわれるのは、空中庭園を上へ下へと渡り歩くためだ。下手な山より余程高い樹々の中を移動するため、単純な移動距離はむしろ長いといえた。
「……まったく、どうなっているのだろうな。物理法則を
アリアの感想は、空の森を訪れた冒険者ならば必ず一度は考えたことだ。霊樹以外の大樹も同様だが、ここまで巨大化すれば、自重に耐え切れず途中で
それになにより、魔領域の出現から数百年が経過しているというのに、空の森を構成する巨木は枯れるような気配を見せず、ただ悠然と
アリアは霊樹の根に近づくと、めくれた皮を力任せに剥ぎ取った。茶けた色の堅い表皮は老木のようだが、すぐ下には若木のように
「魔領域ってのは異世界に片足を突っ込んでる空間だからな。そういうこともあるだろ」
先を進んでいたスバルが、アリアの独り言に
魔領域や魔族について人類が解明できたことは少なく、今も学者達が多くの仮説を打ち出しては議論を交わしている。スバルの話したのはその一説だが、アリアにとってはあまりに意外な反応で、返す言葉は
「それを信じているのか? そんな与太話を?」
真実がどうであれ現実は変わらない、そもそも真実などに意味はない、というのがアリアを含めた冒険者や傭兵達の意見だ。
スバルの無駄を削ぎ落とした――努力することを放棄した――思考形態を鑑みて、自分達と同じ意見であるとアリアは疑っていなかったのだ。
「信じるというか、事実らしいぞ」
「なんだと? 貴様、それは……」
「詳しくは
語尾には、軽く力がこもった。低い位置の根に足をかけ、一息に登ったのだ。
根の密度が増し、もはや地面の方が見えなくなっている。そこからは根の上を歩いていくらしく、スバルは時折アリアの方を振り返りながら、霊樹へと更に近づいていった。
ここまで迷いなく進んできた足の、その歩調が落ちたのは、根の上に移ってしばらく経った後のことだ。
スバルは足元を注意深く観察していた。そこになにかを探しているようだが、これだけ広大な場所で、物探しとは考えづらかった。
「目当てのものが見つからないのか? はっきりとは言わずとも、手がかりだけくれれば、私も手伝うが」
「……そうだな。ちょっと待ってくれ」
スバルはアリアを制止すると、おもむろに掌で前方の根を示し、呟く。
「炎鎚」
短い句の詠唱。
急激な熱に陽炎が生じたかと思えば、虚空に炎が現れた。
スバルが拳を握り込むと、それは爆音を轟かせて炸裂する。
その威力と速度に、アリアは度肝を抜かれていた。魔法とは、詠唱が長く、壮大であるほど強いとされているのだ。
スバルに魔法を教えた親というのは魔法に精通した人物、あるいは正統な魔法の伝道者なのではないかとアリアは想像している。既に失伝した魔法は、その秘儀をも大半を忘れ去られてしまった。
根は
しかし、それだけだ。
煙を立て始めた根の辺りから、どっと樹液が
空の森の木々は、まるで熱に対処する手段を知っているかのように、火に大して強い。そもそも、燃やすことで大樹を滅することができるなら、太古の冒険者が既にそれを実行していただろう。
この魔領域で火を当たり前に使えるのは、そういう背景があってのことだ。スバルもそれを承知していたのか、効果がなかった魔法に対する苛立ちはない。
「やっぱり無理か」
スバルは独りごちると、今度は背負った剣を鞘ごと手に取る。鞘を身体に固定していた革のベルトも外し、剣が鞘から抜けないよう柄に巻きつけ始めた。
困惑するアリアを尻目に、その鞘を軽く撫でる。
なにをしているのか、という疑問に答えを出したのは、淡い光だった。森の薄暗さを弾くような、謎の発光。それがスバルの剣を取り巻いている。
足元の木っ端が巻き上げられ、その光に沿って回り始めた。アリアは、それが風に属していることを察する。
「それも……魔法なのか? いや、だが、それは……」
まるで異能――その言葉は、激震に奪われる。
スバルが振り下ろした光る剣が、根を打ち据えたのだ。突風にも似た衝撃に、アリアは目を庇ってじっと耐えた。
しかし、スバルは失望の吐息を漏らしている。
炎の魔法が抉ったその場所を、更に得体の知れない魔法で叩いたというのに、やはり根が損傷しただけで、なにも変わりはしない。
「なかなか派手だが、威力はいまひとつだな」
「うるさい。お前の魔剣と一緒にするなよ」
むっとして言い返したあと、スバルは眉根を寄せて天を仰いだ。
珍しく、なにかを迷っている様子だった。剣の縛りを解き、背負い直したあとで、諦めたように呟く。
「ここまできたら、もう同じことか」
空気が変質した、アリアはそんな錯覚に襲われる。ほとんど無意識の動きで、魔剣に手を伸ばした。不穏な雰囲気が、そう駆り立てたのだ。
「俺が探しているのは、入り口だ」
そして、スバルは静かに語り始めた。
開拓者が、なにかを警戒して閉ざしてきた重い口を開く。それは、なにかよからぬことが起きる前兆だった。アリアは息を呑み、ゆっくりと問いかける。
「入り口……とは?」
「魔領域の、入り口だ」
怪訝な面持ちのアリアを誘導するように、スバルは空の森を見渡した。
かつて最も危険な魔境といわれ、そして遂に《悪魔の心臓》を奪われて死んだ世界。その雄大な景色を、鋭い目で睨みつける。
「不思議に思ったことはないか? 死んだ魔領域の話は、眉唾物の伝承だが、一応は今の時代にも伝わってる。どれも心臓を抜かれれば死んで、最後には消滅してるんだ」
「あぁ、そうでなければ、この大陸は丸ごと魔領域に沈んでいただろう。太古の冒険者達の偉業だ」
「そうだ。だが、《空の森》は今も健在だ。その理由は誰も知らない」
その議論は、決して行われなかったわけではない。森の大樹が魔領域と尋常の世界の垣根を超え、地上に定着したのではないか、などという説が有力だ。
スバルは、当然のように定説を否定する。
「簡単な話だ――空の森は、死んでない。だから残ってるんだ」
「それは……心臓が二つ以上ある、ということか? それとも、攻略されたというのが《
「いや、それはない。心臓は、一つの魔領域に一つだ。それに心臓を抜かれたというのも、嘘じゃない」
矛盾したようなことを言いながら、スバルは足元を軽く蹴りつけた。
先程から
「魔領域さ。空の森の地下に、もう一つの魔境がある。森が死んだあと、地下の心臓が空の森を引き継いだ……ってところだろう。それが森の秘匿。俺の目的は、隠された魔領域を見つけ、殺すことだ」
突拍子もない告白に、アリアはしばらく言葉を失った。
驚愕の後に湧き上がってきたのは、否定だ。
「馬鹿な。そんな話、聞いたこともない……それに森が死んで何十年が経ったと思っている? いくら滅多に人の訪れない下層とはいえ、誰も気づいていないなど考えられんぞ」
「そこだな」
スバルは、顔を歪めて吐き捨てる。竹を割ったような性格の男が見せる、鬱屈した怒りだ。
「下層は上層に比べて険しい上に実入りがない、だから誰も下層に行かない。確かに、理に適ってる。でも、おかしいだろ。ただそれだけで、冒険者連中が下層の探索を諦めるか?」
「リスクを避けて稼げる場所を狙うのは自然なことだろう。ましてや下層が
そこで、アリアは絶句した。気づいてしまったのだ。
スバルの言うことが真実だとは思えない。だが、仮にそれが間違っていないのだとしたら、必要なものがある。下層の探索を冒険者に思い止まらせる説得力と権威――それを
スバルは決然と、言い放った。
「森を管理し、情報を操り、冒険者を下層へ行かないよう誘導する。それでも下層に向かう目障りな連中は治安維持部隊が秘密裏に排除する。森の秘匿を司っているのは、冒険者ギルドだ。空の森の資源が生み出す利益を守るためにな」
その、直後――。
頭上に気配が生じる。今の今まで、スバルすら気づかなかった気配だ。
慌てて見上げた二人の視界には、一つの空中庭園が映る。それが、激しく
森の主とも言える霊樹が意思を持ち荒れ狂っているのか。
その想像が、誤りであることに二人は気づいた。
空の森の魔物の多くは、昆虫を模している。そして昆虫の一部は、自然の姿に擬態する性質があった。枝や葉に擬態して冒険者を襲うものも少なくない。
だが、まさか空中庭園に擬態するものがいるとは想像だにしなかったのだ。
じっとしていればわからないが、動き出せば姿が浮かび上がる。森の虚空で足を伸ばし、大樹達と繋がって、おそらくは長い時を静謐に過ごした巨躯。ぎょろりとした八目が、庭園の底で赤光を放った。
しかしアリアが戦慄したのは、その途方もない巨体でも、そんな化物の下を暢気に歩いていた事実への恐怖でもない。
二人を遥か高みから見下ろす目には、知性の光が瞬いていた。
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