2-5.その剣で、切り拓け

 覚醒は唐突だった。

 揺れる地面、もうもうと立ち込める砂煙。頬に感じる砂の感触は、自身が横倒しになっていることを教えてくれる。

 アリアは身体を起こそうと試み、全身の鈍い痛みに呻いた。

 頭に手をやれば、黒い髪の下にぬるりとした感触がある。べったりとした乾きかけの血。魔剣の恩恵で出血は止まっているが、それが昏倒の原因であるのは明白だった。


 少しずつ身動みじろぎをして、身体に致命的な欠損がないことを確認する。四肢はついているし、捻じ曲がったりしていない。腹腔内にも違和感はない。魔剣を支えに、二本の脚で立ち上がる。

 まだ、動ける。

 だが、動けるからなんだというのだろう。

 頭を打ったせいか、意識が混濁していた。ふらつく足を引きずって、ざらつくもやの中を歩く。ノイズが鳴り響いていた。四方八方から降り注ぎ、酷く不愉快だった。


 砂のとばりを抜ける。

 視界は途方もなく広い。アリアは、そこで初めて、自分の立っている地面が《空の森》空中庭園でないことに気づいた。

 そこには潤沢な水がたたえられている。樹の呑み切れなかった雨が地表を流れているのだ。水は硝子が溶けて流れたように透明だった。その奥に、水草のたゆたい、細かな砂利が躍っている。

 砂は流れに乗り、水底に根を張る大樹に寄って、そこに小島を作る。島は別の島と繋がり、また大きな島となる。

 見渡す限りの透明な水面、そして点在する大樹の幹と島。

 魔領域の中でも美しさで群を抜く、絶景があった。


 だが、その美しさに目を奪われることはない。元より風景などは生活の足しにならず、冒険者の関心を惹かないのも一因だが、最大の理由は別にあった。

 大樹が栄養を吸うため、下層には他に背の高い植物は少ない。その開けた視界に、無数の点が蠢いている。

 安定した足場があるがゆえに、頑強な甲殻と巨大な体躯を持つ昆虫型の魔物達。上層とは真逆の進化の形だ。しかし得られる素材は上層の似た魔物のものと大差がなく、そして手強い者達が、そこにいた。先程から感じていた雑音は、それらの羽音や足音、鳴き声だ。


 アリアは、そこに至るまでの過程を思い出す。スバルを逃がすため、空中庭園を落として囮になったのだ。晴れつつある砂埃は、衝撃に舞い上げられた塵だ。

 結果として、空中庭園が緩衝材となって生きたまま下層へ降りてしまっていた。途中で頭を打って意識を失い、庭園から投げ出されたらしい。

 落ちる庭園に潰されず、また気を失っている間に魔物の餌食とならなかったのは僥倖ぎょうこうといえる。

 しかしそれも無数の魔物を前にした今では無意味な奇跡だ。


 それは明らかな異常事態だった。

 そもそもがレッドフォードに仕掛けられた《虫寄せ》は、甘い臭気で昆虫の魔物を誘引ゆういんするものだといわれている。だが、今まさにアリアへ向かってきている魔物達は、明らかに臭いの届かない彼方から姿を現しているのだ。


 アリアは、そこになんの感慨も抱かない。

 考えるのは、スバルのことだ。

 あの男ならば、この程度の魔物の包囲網など軽々と突破できるだろうと信じていた。ここに魔物達を集めておけば、奴らがスバルを追うことはない。


 彼が、自らの命を賭すほどに大事な人物か。そう問われればアリアは、否、と答えるだろう。開拓者という、アリアにとって少し特別な意味を持つ人物であることは確かだが、それだけだ。

 誰でも良かったのだ。

 誰も信じず、誰からも求められず、疫病神として生きてきたこの命が、最後で意味を持てるのであれば、誰でも。


「意味のある死……これでいいのだろう?」


 虫の羽音の中に、アリアの独白が頼りなく漂う。


 気配の出現は、唐突だった。

 激しい衝撃が棒立ちのアリアを吹き飛ばす。飛蝗ばったの一種に似た魔物が、落下の勢いで体当たりを仕掛けてきたのだ。仰向けに倒れた視界一杯に、牙の生え揃った生臭い口が迫っていた。

 そのまま頭を噛み砕かれるか――というところで、魔物は動きを止めた。柔らかい腹部が爆ぜ、一息に生命を散らしている。

 組み敷かれたまま反撃を見舞い、魔物を仕留めたアリアは、その残骸を押し退けて再度立ち上がった。


 肉食生物には、屍肉食を嫌い、生餌のみを求めるものがいる。ならば、生きたままでいる方が囮になろう。

 アリアは気を失っても手放さなかった魔剣を握り直す。


 アリアが空中庭園ごと墜落した孤島に、一匹、また一匹と魔物が上陸してくる。

 虫寄せに惹かれて上層からついてきたものも見られるが、それでも多いのは下層の巨躯ばかりだ。その中では上層で強力とされているキラーマンティスでさえ有象無象に過ぎない。


 脚の長く、また動きの軽い魔物が先行してくる。

 軽い砂の踏ん張りが利かない地面を、アリアは蹴って駆け出した。


 輪郭のぼやけた黒い魔剣を横一閃に振るえば、無形の衝撃が眼前を薙ぎ払う。剣の長さを明らかに超える、異能にも匹敵する暴力だ。

 上層では足場を気にして使えなかった力の一端は、いまやなんの気兼ねもなく魔物を駆逐していた。動きの速い小型の魔物や、接近することすら危うい凶暴な魔物は苦手な部類だが、それも魔剣の前には無力だ。


 魔剣は軽く、斬り返しは速い。

 恐れを知らずに接近してくる魔物達は、そのほとんどが一撃で絶命し、吹き飛ぶ残骸は他の魔物を巻き込んでいった。


 だが、そもそもの数が多すぎる。

 まるで、なにもない場所から湧いて出てきているのかと思うほどだ。

 横手や背後からも攻撃され、かろうじてかわしてはいるが、いくつもの掠り傷を負う。

 ふと見渡せば、ぞっとするような数の魔物がアリアを取り囲んでいた。無数の複眼が鈍くぎらついてアリアを見つめている。


 激しい衝撃と、重み。少し遅れてすさまじい激痛がもたらされ、アリアの喉を塞いだ。

 身体を締めつけてくる節足は、蜂のものだ。背後の頭上から密やかに接近され、気づくことができなかった。

 脇腹を背後から刺している針が体内に毒を注入してくる。棘だらけの塊が血管に沿って全身を駆け巡るようだった。腕ごと魔剣を抑えられ、身動き一つも取れはしない。

 アリアは、しかし蜂に構わず、死に物狂いで後ろへ飛び退った。

 その直後、今の今までアリアが立っていた場所に、巨大な蜘蛛が跳躍からの突撃を見舞っている。刃状に進化した二本の前脚が、砂の地面に深々と突き立っていた。


 鈍い音。肩が砕けた響きだ。背に取りついた蜂が針を突き刺したまま、大きな顎でアリアに喰らいついていた。

 か細い苦鳴が漏れる。飛びかける意識の中、無我夢中で拘束を振り解き、間近にある複眼を渾身の力で殴りつけた。重い手応えと噴き出る体液。

 反撃に怯む蜂を、今度は逆に捕らえる。はねの付け根を握り込み、先程の蜘蛛へと目がけて思い切り投げつけた。ぶち、と生々しい音はアリアの手に半透明の翅を残し、体の方は狙い通りに蜘蛛の顔面を殴打する。

 金切り声にも似た二つの悲鳴に向け、無事な腕で魔剣を振り下ろせば、黒い衝撃が二体の魔物を大地にこびりつく染みへと変えた。


 荒い息遣い。蜂の劇毒が身体を灼熱させる。

 噛みつかれた肩は骨が砕け、腕を持ち上げることすらもできない。


 だが、アリアは死なない。

 毒も傷も魔剣が治癒していく。割れた骨すら、すぐにぐだろう。

 まるで呪いだと、自嘲した。


 それでも癒しは無限ではない。戦いが続けば損傷は蓄積するし、傷が癒える前に襲われれば一たまりもない。重い一撃で即死してしまうことも十分にありうる。

 同胞の屍を踏み越えて、巨大な甲虫、さそり、百足などが向かってきていた。軽い魔物達の後ろから追いついてきてしまったのだ。その中にはカレヴァンの冒険者に要注意の魔物として知られているものもいる。


「潮時か……」


 このときがきたか、とアリアは理解した。

 だらりと垂れ下げた腕に、傷の鮮血が伝い、ぽつりぽつりとしたたった。


「すまなかった……」


 一体、なにに向けての懺悔なのか――それを知る者はいない。

 じりじりとアリアとの距離を測っていた魔物達は、獲物が戦意喪失したと見るや、勢いづいて攻め寄せた。

 その中に埋もれ、鋭い牙で全身を砕かれる未来を、アリアはただ茫然自失のていで待っている。




 ――それが、どういう理由の行動だったのか、説明することはできない。

 アリアは、こうべを巡らせていた。

 魔物達もまた、一匹残らず同じ方向へと首を捻じ曲げている。

 それは生物としての性質、生存本能によるものだったのかもしれなかった。


 なにかが視界の外からすさまじい勢いで飛来し、アリアの眼前にいた魔物のいくらかを薙ぎ倒していく。

 それは、真っ二つに割れた魔物だ。

 それだけではない。

 死体がどこからか飛んでくる。魔物の群れに隠れた遥か後方で、次から次へと魔物が弾き飛ばされていた。全速力の馬車が魔物達をいているのではないかと思うほどだ。


 アリアの周囲にいた魔物の何体もが、地面を蹴って飛び立った。

 向かうのは、その破壊の中心地だ。目の前にいるアリアよりも、なによりも危険な存在がそこにあると本能で悟っているのだ。


 虫達の耳障りな鳴き声は、いつしか間断なく響き渡る破砕音と悲鳴の合奏へと変わっていた。

 乱舞する虫の残骸と体液、飛び交う断末魔と憎悪の雄叫びの間隙かんげきに、その姿が垣間見える。

 当たるを幸いとばかりに大振りな黒剣を振るい、狂ったように魔物を屠る男。その腕が翻れば死神の鎌が振られたように、頑強な魔物が無残な骸を晒す。

 周囲の魔物達が一斉に殺到し、一つの集合となる。その中に入れば数秒で骨まで食い尽くされるだろう死の霧だ。


 その霧を、一直線に飛び出す者がいる。

 ばらばらに砕かれた魔物達の残骸と体液が、彼の軌跡を彩った。


 まさか、という予感。アリアは衝動に突き動かされ、その名を叫んだ。


「スバル!」


 聞こえる距離ではないはずだが、スバルは確かに振り返り、魔物の体液に塗れた顔をアリアに向けた。

 その目が見開かれる。

 スバルは身体を弓のつるがごとく引き絞ると、巨大な剣を矢のように投げ放った。一直線に突き進む切っ先は、蝿の魔物の羽を裂き、蠍の尾を掠め、そしてアリアに背後から接近していた魔物にどすんと突き立つ。

 息絶えた魔物を唖然と見やり、アリアは我に返った。

 戦いの最中に、まさか得物を投げる馬鹿がいるものか。


「――この馬鹿者が!」


 アリアは慌ててスバルの剣を魔物から引き抜いた。

 おそろしく、重い。

 かろうじて骨を接いだ肩が、激痛を叫んだ。

 持てないわけではないが、まともな人間が武器とするものではない。それを軽々と振り回すスバルの怪力と技量に戦慄した。


 赤い光が視界を照らす。

 スバルの元へと駆け出していたアリアは、空へと吹き上がる幾条もの炎を目撃した。

 それは虫の翅に次々と燃え移り、彼らを地面へと引きずり落とす。直撃を受けたものは激しい音と共に爆裂し、脚や甲殻を撒き散らして絶命した。


 スバルは魔法の成果を見届けることもせず、宙から忍び寄っていた魔物を素手で引っ掴み、地面に叩き落して一息に踏み潰す。

 動きの止まった一瞬は、しかし隙にはならない。

 地面に流れた魔物の体液が刃となって、上空へ噴き上がったのだ。

 運が悪く刃の出現地点にいた魔物は、びくんと跳ねたかと思うと、粗い切断面を見せて大地に沈んだ。


 近接戦闘の最中に魔法を放つ無謀さは、一応なりともどちらもをおさめているアリアは知っていた。

 だからこそ更なる戦慄を禁じえない。魔法は集中力を欠いた途端、最悪の場合は術者をも巻き込むのだ。


 スバルは次々に魔法を発現させながら、自身の身の丈をも超える魔物の脚や甲殻を素手でもぎ取り、それを振り回して暴れ回る。得物もないのに魔物を寄せつけず、苦戦どころか顔には笑みすら浮かんでいた。


「そいつを投げろ!」


 魔物の悲鳴を貫いて、スバルの声が飛ぶ。

 アリアの腕力ではろくな距離を飛ばず、スバルへと届かないことはわかりきっていた。それでもアリアは言われるがままに地面へと剣を放り出す。


 地面が鳴動し、砂の地面が隆起する。

 砂の槍は真上にいた魔物を貫いて形容しがたい色に染まり、宙を舞う魔物を巻き込んで地中へと引きずり込んだ。

 そして、槍の衝撃に突き上げられ、剣が吹き飛んでいる。


 スバルは目の前にいる敵を踏み台にして跳んだ。

 襲いかかる魔物達も、一刹那いっせつな、遅い。

 回転しながら落ちてくる剣の柄を、伸ばした手が空中で掴み取る。


 複雑な軌道を描き、刃の銀光がはしった。

 四方八方から迫っていた魔物達は、ことごとくが斬り砕かれて散る。

 剣を得たスバルは、悪辣あくらつな笑みを浮かべながら周囲を睥睨へいげいした。

 まるで、悪鬼羅刹あっきらせつか死神だ。

 ろくな知性を持たない魔物ですら、剣の間合いを前に二の足を踏んだ。


「貴様、なぜここにいる!」


 傷の痛みに呻きながら、アリアは叫んだ。

 スバルは上層に残してきたはずだった。そのためにアリアは下層へ落ちてきたのだ。


 その声を聞き、スバルはおもむろにアリアの方へと向き直った。

 何気なく一歩を踏み出す。

 そして次の一歩で、その身体はトップスピードに乗った。

 スバルの姿はコマ落としのように魔物の眼前に移動している。剣は、いつの間にか振り切られていた。複数の標的を鋭い一閃がまとめて両断し、斬り飛ばされた死骸の一部が回転しながら宙を舞っている。地面に残されたものは鮮やかな切断面を見せ、思い出したかのようにゆっくりと崩れ落ちていった。


「喋ってる暇があるなら、剣を振れ! まだいけるだろ?」


 スバルはアリアの怪我に気づいている。だが、その身を案じることも、逃げろということもなかった。

 アリアを戦いの道具と思っているような強要ではない。

 まだ戦える。そう信じているのだ。

 冒険者にしてはけっぴろげすぎる、無垢なまでの信頼だった。

 アリアは激しい舌打ちを残し、両手で握った剣を雄叫びと共に薙ぎ払った。忍び寄っていた魔物達が木っ端微塵に砕け散る。塞がったばかりの腹の傷が開き、激痛が全身を貫いて、雑念を吹き飛ばした。


「戦って、どうなる! 周りを見ろ! ここに生き残る道はないぞ!」


 孤島は死体であふれ返りつつある。血と体液が砂地に染み、透明な水にもどろりとしたよどみが溶け出していた。

 それでも、いっかな敵の数は減らない。森中の魔物が集っているかのようだ。冒険者が最も恐れるのは、天然の罠でも、同業者との諍いでもない。群れだ。物量の前では、どれほどの強者でも無力だ。そのはずだった。


「道が、ないなら……」


 スバルは剣を振るのを止めない。

 寄るものを斬り捨て、退くものを魔法で穿うがち、鬼神のごとく暴虐の嵐を振り撒きながら、吼えた。


「――切り拓けよ! そのための剣だろう!」


 それは、思いのほか彼女の胸を打った。

 手に持つ黒い魔剣が脈動する、そんな錯覚が手に残る。


 そのとき地面を衝撃が突き上げた。魔法や魔剣がもたらしたものではない。

 小山のように巨大な虫が、いつの間にか群れの後方に現れている。肥大化した身体は飛ぶ機能を失い、代わりに水底を渡ることを可能としていた。ようやく二人のいる孤島に辿り着いた巨躯が、次々と水中から姿を現したのだ。太い脚が砂を踏むたび、地面が震えた。

 アリアは、その魔物を知っていた。ぎょっとした顔で固まっているスバルに、慌てて呼びかける。


「動きを止めるな、スバル! 狙い撃ちにされるぞ!」


 その魔物の頭部が、ぼこりと膨らんだ。なにが起こるのかわかったわけではないだろうが、動物的な勘で脅威を察したスバルは即座に駆け出している。

 ぼん、と気の抜けた音が空気を震わせる。空気が押し潰される鈍い響きの直後、数秒前までスバルの立っていた場所になにかが炸裂した。

 それはその魔物が体内で生成した砲弾だ。捕食した虫や大樹の皮の不純物を押し固めたそれは、重く、また着弾と同時に爆ぜ散る。その攻撃方法からバレルビートルなどと呼称される難敵だ。


 砲撃は二人のみならず、並み居る虫の魔物達にも牙を剥いた。直撃を受けたものは粉々に砕け、いくらかは破片を受けて行動不能に陥っている。危機を察してか、群れの集中に綻びが生まれた。

 その間隙を、スバルとアリアが駆け抜ける。

 先行するのはスバルだ。一体のビートルに肉薄すると、次弾を用意される前に、その頭部を縦に切り裂いた。

 噴き出る体液と、甲高い悲鳴。

 しかし、頭部を失ったはずのビートルは、なんら痛痒つうようを見せることなく脚で前方を薙ぎ払う。虚をつかれたスバルは、咄嗟に構えた剣ごと一撃を受けた。


 間抜けた悲鳴を残して吹き飛ぶスバルを置き去りに、アリアが前に出る。

 すくい上げる一撃は、不可視の衝撃となって駆け昇った。

 風船が破裂するように胴体が弾け飛び、辛うじて原型を残した巨体が冗談のようにね飛んだ。甲殻の破片が散弾と化して空中の魔物達に襲いかかり、また落下した巨体が更に多くを巻き込んでいく。


「無事か、スバル!」


 問いかけて、馬鹿なことをいたとアリアは苦笑する。

 あの男が、この程度のことでどうにかなるとは思えなかった。


「頭を潰したくらいじゃ、死なないか。俺向きじゃないな」


 してやられた自覚はあるのか、スバルは忸怩じくじたる思いで呟いた。抜き身の剣を抱えて投げ出されたせいで多少の切り傷を負い、あの黒い血を流している。

 安堵する間は与えられない。ビートルが砲弾を放つ音が連続し、二人は慌ててその場を離脱した。


「――頼みがある」


 アリアの提案に、スバルは驚いていた。

 このどこまでも孤独で、人を頼ることを知らないような少女が、頼み事をしてくるとは思わなかったのだ。


「頭でも打ったか?」

「茶化している場合か!」


 今も、ビートルに向かって走る二人の後方では、狙いを逸れた砲弾が次々と爆裂している。破片のいくつかは背中に食い込み、鈍痛を伝えてきている。だが、それでも足を止めるわけにはいかなかった。


「苦手は敵は任せる、と言ったのは貴様だろう。あれらは、私がやる。だから援護をしてほしい」


 返答を待つ間はなかった。会話に気を取られていたせいで、アリアは横手から飛びついてくる影に気づかない。

 接触の瞬間、しかしその魔物は、見えない壁に激突したように爆砕する。

 頬をでたのは不自然な風だ。スバルは空いた手で、なにもない空間を払うような仕草をし、なにかを呟いていた。


「任せろ。お前は、一直線に奴を目指せ。なにがあっても一直線だ」

「……打ち損じは許さんぞ」


 魔物達は二人の目論見に感づき、ビートルを守るように動き出し始める。

 生きた防壁に、スバルが躊躇なく飛び込んだ。

 巻き起こる刃の嵐が、それを鋭く切り崩していく。

 自身の言ったことを実現するため、すさまじい勢いで掃討し始めたのだ。

 黒剣の切り拓いた活路を、アリアが駆け抜ける。視界の隅に映る邪魔者は意識の外に追いやっていた。瞬く間に鋭い剣撃が、雑な詠唱による魔法が、それらをすぐに撃墜すると信じていた。そしてその信頼はすぐに守られる。


 尋常でない攻撃力を持つせいで、厄介な魔物が出現したときはいつも押しつけられてきた。

 ろくな援護もなく傷だらけになって立ち向かっていたアリアの姿は、そこにはない。魔物らの意識を一身に集め、露払いに徹してくれる剣が今はあった。


 噛み合った連携が瞬く間に空の森下層に巣食う魔物を蹴散らしていく。

 二人の攻勢は、大地に流れた血潮が虫寄せの効力をも上回り、多くの同族の死を感じた魔物らが周辺から遠ざかっていくまで続いた。



 ◇ ◆ ◇ 



 ふらふらと近づいてきた、脚のいくつかがもげたマンティスを、アリアの魔剣が薙ぎ倒す。

 思考は既に掠れていた。次の敵を斬らねばならない、それだけが身体を突き動かしていた。しかし疲労は蓄積し、足をもつれさせて転倒してしまう。


 慌てて身体を起こし、震える足で立ち上がる。鉛のように重い腕で剣を振りかぶり、次の標的を探す。

 そこには、なにもいなかった。

 あるのは魔物の屍山血河しざんけつがのみだ。

 かすむ目に空を飛ぶ魔物が映っているが、それらはアリアを遠巻きに監視しているだけだった。


 風景は濃く暗く、しかしぼんやりと光っている。陽光の一切を遮られた下層が夜に光るのは、一部の植物が発光しているからだ。戦いのうち、日没を迎えてしまったようだった。

 夜光の中に戦意を持つ者は誰もいない。ただ一人、そこに立つ男を除いては。


「なぁ、なんとかなったじゃないか」


 さすがに、傷一つないとはいえない。多少は息も上がっているようだ。

 だが黒瞳に宿った覇気はいささかも衰えてはいない。


「どうしようもない、大馬鹿者が。私が囮になったというのに」

「お前な、俺が霊樹まで一人で行けると思ってるのか?」

「なに?」


 へたり込んでいるアリアに、スバルはふんぞり返って尊大に言い放った。


「道がわかったくらいで目的地に行けるなら、はじめから人なんか雇わない」

「……貴様……この……いや、もうなんでもいい」


 文句を言う気力すらなくし、アリアは仰向けに倒れ込む。湿った感触がした。地面も、自身も、どろどろに汚れている。それもどうでもいいことだった。

 遠く見える空中庭園。それらもまた、下層と同じで淡く光っている。虚空にぽつぽつと点在する浮島を下から眺め、ただ深く呼吸をしていた。


「それに、また降りる道を探すのも面倒だし、一緒に落ちた方が楽だと思ったんだよ。途中で放り出されて、水場に落ちたのは誤算だったがな」

「魔物だらけの中を泳いできたというのか? 本当に呆れた奴だな……」


 装備は重く、服は水を吸い、押し寄せる魔物を水中で切り払いながら陸地へ向かう――およそ人間わざではないが、もうアリアにはなにも言えなかった。

 見上げた景色に、差し出される手が映る。

 自分に向けられた掌だとわかっていた。わかっていてなお、それを取っていいものかと躊躇った。

 宙を漂い、迷う手を、逆に掴まれる。力強く引き寄せられ、立ち上がった。足の震えは収まっている。


「休める場所を探すぞ。いくら俺でも、魔物の死体の真っ只中で寝るのはごめんだ。歩けるか?」

「あぁ……大丈夫だ」


 強がりだった。言ったそばからふらつき、腕をスバルに支えられる。

 そして二人は、この冒険が続くことを実感しながら、また歩き出した。


 また生き延びてしまった――そう考えたことは、一度や二度ではない。しかしこのときばかりは、アリアはそうは思わなかった。

 それが疲れによるものなのか、あるいは別のなにかのせいなのか。それはアリアにはわからなかった。

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