森の秘匿と黒い剣

2-1.空の森を往く

 荒野に陽が昇る。

 産まれたての清冽な光を跳ね返すのは、複雑な波紋の浮かぶ刃だ。かつて騎士がいていたそれは、実用性を損なわない程度に装飾が施されている。既に失われた国のものなのか、肉厚の刀身に刻印された文字は解読することはできなかった。ただ一つ確かなのは、魔物の干渉を受けて肥大化しても、穏やかに湛えた気高さにいささかの陰りもないということだ。

 スバルは得物の手入れを終えると、それを足元に置いて立ち上がり、ぐっと身体を伸ばした。冷たい空気が肺に行き渡り、強張こわばった筋肉がほぐされて熱を帯びる。

 剣と同じく黒い瞳が捉えているのは、眼前に広がる森だ。

 荒れた大地が終わりを告げ、草原が現れたと思えば、唐突に深い森が立ち塞がる。でたらめな光景だが、魔領域を行く冒険者ならば見慣れたものだ。


 カレヴァンの朝は早い。これから《空の森》へ挑む冒険者は多くの場合、陽の昇りと共に活動を開始する。そしてスバルとアリアは彼らを避けるため、より早く森を訪れ、朝を待ち構えていた。


 魔領域に棲む魔物は、基本的には外へ出ない。空の森では、その傾向が特に顕著だ。魔領域の外、一般に危険地帯と呼ばれる場所に現れる魔物は、厳密な定義では魔物ではないとされている。それらは魔領域で生まれ出でたものではなく、魔領域の影響を受けて変質してしまったものだ。もっとも、それを気にしているような者は、ほとんどいない。人間の敵という意味では同じだ。

 太古の冒険者は森の魔物の習性をいち早く暴き、探索拠点を森から徒歩で数時間程度の近場に築いた。他の拠点は魔領域へ向かうために数日間も移動しなければならず、気軽に魔領域へ行けるカレヴァンの事情は特殊だ。これもまた、カレヴァンが早くに攻略された要因の一つであり、冒険者の育成に使われる理由でもある。 


「武具の手入れくらいは、真面目にやるのだな。少し見直した」


 抑揚のない声は、その様子を眺めていたアリアのものだ。岩が喋りだしたのかと思うほどの平坦な口調に、スバルはむっとした顔で抗議する。


「お前、俺を一体なんだと思ってるんだ?」

「さぁな。馬鹿だとは思っているが、どの程度の馬鹿なのか測りかねているところだ」


 アリアは、これまで以上に辛辣だった。もちろん理由もなしに当たり散らしているわけではない。

 事の発端は、昨日に再会したスバルに、何気なく財政状況を尋ねたことにある。

 二人が宿泊していた《寝惚けた黒獅子亭》は、主にカレヴァンに短期滞在する豪商などが利用する高級宿だ。低いランクの部屋は稼ぎの良い冒険者が時々の贅沢に利用することもあるが、スバルが取っていたのは最高ランクの部屋だった。

 開拓者には独自の稼ぎ方があるのかと感心していたものだが、所持金が底を突きかけているのだと聞き出してしまったアリアは、怒りや呆れさえも通り越し、驚天動地の心地で愕然とした。その衝撃は丸一日を経た今日にまで後を引いており、アリアは苦悩し続けていた。


「私は、私自身が大した冒険者ではないことを知っている。その上で、はっきり言ってやるが、貴様の経済観念は壊滅的だ。私は自分よりダメな奴だと確信できる冒険者を見るのは初めてだ」

「失礼な奴だな。自分の金をどう使ったって、俺の勝手だろ」

「だからこそ腹立たしいんだ。貴様、この後、どう食い繋ぐ気だ?」


 どうしようかな、とスバルは暢気に答え、アリアに頭を抱えさせる。

 アリアにも緊急時に備えた多少の蓄えはあるものの、それはスバルが代わりに支払ってくれていた宿泊費を返すには程遠い額だ。

 なにより、スバル自身がそれを望んでいなかった。底抜けのお人好しなのか、馬鹿なのか、あるいはその両方か。


「まぁ、いい。とにかく、今回の案内は無償で引き受ける。それで返せる額ではないがな……」

「いいって言ってるのに」


 アリアは性懲しょうこりもなく呟く馬鹿を一睨みして黙らせ、持参してきた荷物の中から地図を取り出した。

 地図には空の森の大まかな地形が記されている。数世紀もの間に蓄積された情報、そしてそれを定期的に最新のものに更新する冒険者ギルドの働きもあって、それなりに正確な地図だ。


「いいか、私達が今いるのが、この辺り。街がここだ。そして目的地の霊樹……いや、今は《森の天空》と呼ばれている場所が、ここ」

「なんだ、意外に近いんだな」

「地図の上ではな。通れない場所は迂回することになるし、空の森特有の問題もある。一般的な冒険者パーティなら三十日はかかる道程だが、二人で行って帰るだけなら、その半分で十分だろう。素材採取が目的ではないから途中で荷物が増えることもない」


 アリアはふと口を噤むと、地図から顔を上げてスバルを見つめた。黒というより闇の深さを秘めた瞳は悔恨に揺れている。


「……すまないな。貴様の目的地のこと、知られてしまった」

「あぁ、リュークと、ノーラって奴の話か? 別に構わないぞ。隠してるわけじゃないしな」


 あっけらかんと答えるスバルだが、その表情には隠し切れようのない凶暴性が瞬いていた。脳裏に浮かんでいるのは、宿でレッドフォードにしてやられた屈辱の記憶だ。このままでは済まさない、と獣じみた笑みが物語っている。

 ぞわり、と立ち昇る鬼気にアリアは無意識のうちに魔剣へと手を伸ばしていた。リュークや、レッドフォードなどよりも、この男こそ避けるべきだったのではないか――そんな懸念が湧き上がる。

 スバルは軽く頭を振って殺気をかき消すと、おもむろに立ち上がった。太陽は丸い輪郭を明らかにしている。もう動き出してもいい頃合いだった。


「出発しよう。話は、歩きながらでいい」

「そうだな。では……よろしく頼む」


 そして二人は探索のための荷物をそれぞれ担ぎ上げると、道を拓くための鉈を手に取り、木々の隙間へと踏み込んでいった。



 ◇ ◆ ◇ 



 森は、深い。朝の光は細かく編まれた枝葉に遮られ、薄暗くひんやりとしていた。濃い森の臭気が鼻腔を刺激し、靴裏ではぱきぱきと枝の折れる感触が続いている。


「どうしてここは《空の森》って言うんだ? 空の要素なんてないじゃないか」


 アリアに先行して進みながら、スバルが言った。手に持った鉈は間断なく振るわれ、邪魔な枝を切り落としていく。やや大袈裟に道を作っているのは、既に息を荒くしているアリアのためでもあった。彼女もスバルの意図には気づいていたが、文句を言える立場でもないと自覚はあったので、なにも言わないでその背を追いかけている。


「空の森へ踏み入れたことがないのだな。言っておくが、ここはまだ魔領域ではない。危険地帯だ」


 呆れながらも、それも仕方がないことかとアリアは思う。

 二人は、あえてカレヴァンから見て遠い位置から森へ踏み込んでいた。

 空の森には、順路がある。魔領域の貴重な素材を採取できる位置まで続く、数世紀の間に危険をならされた道だ。まともな冒険者なら当然そこを通るが、スバルはギルドに目を付けられる予定だとうそぶいて、以前から順路を避けていた。森の探索に慣れていない者では、方向感覚を掴めずにうまく進めないのもおかしくはない。

 むしろ何度も遭難しながら死に至らなかったスバルのタフさは尋常ではなかった。先に披露したとおり生活能力も絶望的で、持ち前の生命力と戦闘力ですべてを跳ね返してきたのだ。その理不尽さに、アリアの声にはついぶっきらぼうな響きが乗った。


「空の由来は……まぁ、行けばわかるさ。そろそろ見えてくるはずだ」


 スバルの体力はアリアの想定以上で、予定していたよりも早く進めていた。そして彼女の言うとおりに景色が一変したのは、それから間もなくのことだ。

 そこは、森の切れ目だった。

 森の終わりではない。まるで性質の違う、もう一つの森が現れたのだ。


「止まれ。いくら貴様でも、そこから落ちれば命はあるまい」


 感嘆の表情を隠せずに踏み出したスバルの足元で、岩の破片が転がって行く。

 からからという音は奈落の底に吸い込まれるようにして消えた。地面にぶつかる音は、ない。


 二人が立っているのは、断崖絶壁の淵だった。それは左右を見渡す限りどこまでも続き、眼下には深い霧が立ち込めている。世界の果てを訪れた錯覚に陥った。

 そしておもてを上げても視界は開けず、巨大な威圧感が眼前にそびえ立っている。

 それは、樹の幹だ。靄の向こう、遥か崖下より生まれ、頂点が霞むほどの高さまで伸び上がった、塔の巨大さを誇る大樹。小さな集落なら、その幹の中に隠せてしまえそうなほどだ。

 大樹は一本や二本ではない。同じほどの木々が、森を形成している。

 まるで子供が飯事ままごとに使う人形になってしまったようだった。尋常の森を数十倍に拡大した景色が、眼前に広がっている。


 大樹は幹と同じく太い枝を自由に伸ばし、別の樹のそれと繋がる。その上に、風で運ばれてきた土や砂、そしてこれもまた巨大な落葉が乗る。

 空に伸びた枝の道は大地となり、そこに新たな生態系を育む。


 途方もなく巨大な樹による森、その絡み合う枝に生まれた空中庭園群。

 それが《空の森》、名の由来である。


「ここからしばらくは、空中庭園を通ることになる。途中でゴンドラを探して下層へ降りるが、そちらは魔物の分布が……」


 先の展開を考えながら説明していたアリアは、ふとその言葉を切った。傍らを見れば、スバルが荷物を放り出して座り込んだところだ。


「……なにをしている?」

「いい景色だな。少し眺めていこう」

「馬鹿な。森の中は闇の訪れが早い。行動できる時間は限られているぞ」


 若干の不安もある、と口には出さずにアリアは考えていた。

 冒険者ギルドが整備した人工の空中庭園は強固だ。《庭師》と呼ばれるギルドの人員により、大きな枝がり集められ、補強をして確かな道となっている。土を運び入れて地面を作り、手すりを立てるなど転落防止策を取っている。

 しかし天然の空中庭園は非常に不安定だった。手すりなどないし、地面だと思っていた場所が突然に崩れて奈落の底へまっさかさま、ということもありうる。そして順路を使えない二人は、その不安定な道を行くしかないのだ。

 当然、慎重を期すため進行は遅くなってしまう。あまりに探索が長引き、体力と食料が尽きることだけは避けねばならなかった。


 今でこそ初心者用魔領域などと呼ばれている《空の森》だが、道が十分に整備されるまでは世界で最も危険な魔領域の一つに数えられていた。どれほど偉大で、どれほど強い者でも、高高度から落下してしまえば即死は免れないのだ。


「別に急いでるわけじゃない。ちょっとくらい、いいだろ?」


 アリアの懸念を一笑に付し、スバルはあっけらかんと言った。

 その気楽な様に、もはや怒る気も起きず、アリアは彼と多少の距離を置いて腰を下ろす。この男と行動していて、気を張っていても無駄だと思い知ったのだ。


 腰を下ろしたところで、目の前の威容が変わることはない。人間の視点の変化くらいで見え方が変わるようなスケールの森ではなかった。

 巨大な枝葉が屋根のように頭上を覆う、その向こう。今は見えないその場所をアリアは見据える。

 森を形作る大樹、その中でも更に図抜けた巨大さを誇る巨木。その頂点にある空中庭園こそ《森の天空》、かつて魔領域の核《悪魔の心臓》が座していた場所だ。そして、二人の目的地は、その大樹の根元だった。


 そこは、もはや価値なしと判断されて数百年も経った場所だ。今となってはあえて向かう者もいない。

 ちらりとアリアはスバルを横目にする。見えたのは、双眸を見開いて森を見つめる男の姿だ。不敵な様子は鳴りを潜め、ただ黒瞳を少年のように輝かせている。すべてを滅ぼすと言われる不吉さも、隠そうともしていない暴力的な衝動も、そこには欠片も見当たらなかった。

 今ではハイリスクだがハイリターン、経済でも重要な役割にある冒険者は、しかしかつては酔狂な気狂いだけが好んでなったものだという。もしかしたら、彼らもまた、こんな顔をしたのだろうか。


「楽しそうだな……」


 知らず、思いが口をついて出る。それは疲れ切った老人のしゃがれ声にも似た。


「お前は楽しくないのか?」


 スバルは目を森に向けたまま、にやりと笑う。

 だが、アリアは笑い返すような気にはなれなかった。脳裏を、数多の景色が過ぎっては消える。そのどれもが苦悩の記憶だ。自分と――そして彼女の。


「どうせなら、楽しめよ。一度きりの人生だぞ」

「楽しめるはずがない。冒険者など……好きでなったわけではないのだから」


 そう言って魔剣を見下ろす彼女の目には、しかし怒りや憎しみはなかった。

 あるのは慙愧ざんきと悔恨――そして、自嘲だ。己の数奇な運命を呪うには、不適格な感情だった。


「こんなものに魅入られたせいで、まともな人間ではいられなくなってしまった。他に道がなかったんだ」

「冒険者以外には、なれなかったのか」


 スバルは笑みを引っ込め、その独白に答えた。しかしアリアは、首を横に振ることでそれを否定する。


「私の戦いの跡を見ただろう。木々を容易に薙ぎ倒すほどだ、どこにいたって、化物扱いされて疎まれるのは同じこと。それに貴様の言うとおり、これは持ち主を選ぶたぐい――呪いだ。捨てることもできない。だから他人との接触を最小限にできる、冒険者を選ぶしかなかったんだ……」

「本当に、そうか?」


 スバルの問いかけは、決して問い詰めるようなものではなかった。

 しかし、それがなぜかアリアの胸に深く突き刺さる。


「……どういう意味だ」

「戦いを生業なりわいとする職業は、一つや二つじゃないだろ。傭兵もあるし、商人ギルドの用心棒なんかもある。街の警備隊や、国の兵士なんてのもあるな」

「それは、そうだが。しかし魔剣を持っているだけの女など、どこも雇わないのではないか」

「試してみたわけじゃないんだろ?」


 アリアは言葉を失っていた。まさにスバルの言葉通り、冒険者以外の道を積極的に模索したことがなかったからだ。


「道なんて、どこにだってある。それでも、あえて冒険者を選んだんだ。自覚がなかったとしても、冒険を楽しむ気持ちがあったんじゃないか……なんてな。まぁ、俺の勝手な想像だ」


 真に受けるなよ、と笑うスバルの声を、もうアリアは聞いていなかった。その手は無意識のうちに胸元を押さえている。

 懐から取り出したのは、髪留めバレッタだった。彼女の印象からすれば可愛らしすぎる装飾のそれは、長く使われているのか、随分と古びている。


「そう……だったのか?」


 アリアは誰にともなく呟くと、すぐに我に返り、慌てて顔を上げた。


「あ、いや、今のは……なんでもないんだ。すまない」

「別にいいさ。そろそろ、行こうか」


 取りつくろうアリアに苦笑を返し、スバルは立ち上がった。

 街に繰り出すような気軽さの声に頷き、アリアもまた腰を上げる。バレッタで手早く黒髪を束ね、後頭部でまとめ上げた。決然と上げた視線に、もう迷いは存在しない。


「崖に枝が突き刺さっている場所がある。足場として堅固なものを探して大樹に乗り移っていこう」

「なかなか面白い道程だな。魔物は多いのか?」

「いや、少ない方だ。だが悪い足場で有利になるように特化している。突き落とされないよう気をつけろよ」


 足を動かしつつ、先の相談をする。

 言葉が途切れたとき、アリアは先程の疑問が再びわきあがってくるのを感じた。それは、素直に言葉になる。


「下層は……上層と比べて、魔物が大きく強靭だ。そのわりに得られる資源が上層と変わらないから、今となっては誰も好んで行くことはない」

「あぁ、そうらしいな」

「貴様、なにが目的だ。この枯れた魔領域に、なにを望んでいる。カレヴァンに、なにを起こすつもりだ?」


 《霊樹》――スバルは、それが目的だといった。現在では探索者しか知らない古い名称を知り、初心者用魔領域として知られている空の森にあえて挑み、そして誰も訪れない場所を目指している。

 不可解、否、いっそ不穏とさえいえた。なにせ、にわかには信じがたいが、この男は伝承に名を残す開拓者の一人と見られている。

 スバルは、すぐには答えない。間の抜けた唸り声を漏らしていたかと思うと、唐突に、そしてきっぱりと言い放った。


「内緒だ」


 拍子抜けするような返事だった。

 元より素直に企てを聞き出せるとは思っておらず、適当な嘘で誤魔化されるか、濁してはぐらかされるものかと思っていたので、アリアは反応に迷う。

 秘密は、秘密であると知られた瞬間に敵を生む。しかしスバルの回答は秘密を持っているのだという証明に他ならなかった。


「だが、そうだな。俺が目的を達成したら、そのときは」


 そして、スバルは口の端を吊り上げる。獣のような獰猛さと不敵さを併せ持った、凶暴な表情だ。


「カレヴァンは、滅びるかもな」


 アリアは全身が粟立あわだつのを感じる。

 しかし、後悔はしなかった。

 もはや居場所を失った街がどうなろうと知ったことではない、と投げやりな気持ちもある。

 そしてそれ以上に、この男がなにをもたらすのか……それが表面化したとき、自分自身がどうするのか。それを知りたいという欲求が、アリアの中には生まれていた。


 二人は間もなく空中庭園に踏み入り、他の冒険者が利用する順路を避けて深部を目指していく。

 いずれ世界を揺るがす事件の嚆矢こうしとなる、最初の冒険の一つが、ここで幕を開けたのだ。

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