1-7.アリアの困惑

――《開拓者》? まさか真に受けたのか、あの与太話を?


 辛辣な言葉は、笑みと共に投げかけられた。

 そこにあるのは嘲りではなく、親愛の温もりだ。


――信じてるわけじゃないよ。でも、他の人はそうじゃないみたいだし、ちょっと気になっただけ。


 答える不機嫌な声にも、じゃれるような響きがあった。

 声の主は、触れれば抜けそうに白い肌、プラチナブロンドの柔らかい髪をバレッタで後頭部に束ねた、快活な少女だ。普段は舐められないようにと引き締めている面も、他に人の視線がないときは歳相応の柔らかさを取り戻している。

 彼女の頬を膨らませて唸る様を見て、拗ねるな拗ねるな、と思わず苦笑いが漏れた。


――もし実在するというのなら……関わらないことだ。あの飲んだくれ連中の言うとおりに、な。


 時々驚くほど頑迷になる彼女も、基本的には賢かった。その忠告にも殊勝に頷いて見せる。


――開拓者……積み上げられた歴史も、営みも、あらゆるものを切り崩し、薙ぎ払い、無に帰す疫病神……か。


 しかし、仕入れた情報を反芻はんすうする彼女の表情には、隠し切れようのない興味があった。それがあまりにも危うくて、思わず鋭く制しそうになる。

 その言葉は、像を結ぶ前に呑み込まれた。彼女の切ない横顔に、興味の正体を見てしまったからだ。

 それは、共感だった。

 稀代の異常者に、彼女は自らの姿を重ねているのだ。


――どこにも居場所がない厄介者なんて、私達みたいだね。

――……あれほど畏れられているんだ、本当に存在するとしても、まともな奴じゃない。私達とは、根本的に違うよ。

――そうでもないと、強くなれないのかな。

――そんなことはないさ。お前は、まともだよ。そして強い。もっと強くなれる。居場所がないくらいでは揺らがないほどに、強く。


 励ますつもりの文句は、次第に祈りにも似た切実さを帯びた。

 彼女は、ただ微笑むだけだ。その祈りに報いるように、安心させようとするように、気丈に。


――そうだね。いつも、ありがとね。


 その表情に、どうしようもない諦観が滲み出ていることは、お互いにわかっていた。終わりの足音が、すぐ後ろまで迫っていることに気づいていた。

 それでも、気づかない振りをするほかなかったのだ。



 ◇ ◆ ◇ 



 目覚めて見えたのは、灯の落ちた豪勢なシャンデリアだった。

 カーテンの隙間から差し込む薄曇りの淡い光が、部屋を気だるく照らしている。

 身動みじろぎすれば、怖いほど柔らかな感触が全身に感じられた。昨日は凍えていたはずの身体は、ぽかぽかと暖かい。

 眠りに落ちる前の最後の記憶は、スバルに抱えられて部屋に運ばれたあたりまでだ。かろうじて部屋に備えつけられたバスローブを身に着けたが、そこで力尽きていた。外の明かりからして時刻は昼頃、数時間ほど眠りに落ちていたようだった。


 身体を起こして周囲を見渡せば、黒檀よりも黒く、氷よりも冷たい、その魔剣がベッド脇に立てかけられていた。

 名残惜しい気持ちで毛布から抜け出す。手は息をする自然さで魔剣を携えた。


 広い、とても広い部屋だ。それだけではなく手入れも行き届いている。

 何気なく足が向くのは、壁際に鎮座する鏡台だ。

 磨かれた鏡には長い黒髪の女が映った。辛気臭い顔のまま、黒い瞳でこちらを睨み返してくる。


 アリアは自嘲の笑みを漏らし、踵を返した。

 そして、足がもつれる。

 ふらりとよろめき、鏡台に手をついた。がたん、と大きな物音が立ち、それがむなしく部屋を木霊する。どっと押し寄せてくる疲労感に、胸元からせり上がった重みが溜息となって零れ落ちた。


 そのとき、こんこん、と控え目なノックが鳴る。シックな色合いの扉が、向こう側から叩かれた音だ。

 つい扉に歩み寄るが、無防備に開くのははばかられる。躊躇していると、また遠慮がちな音が響いた。


「誰だ」


 掠れた声で問いかけるが、返ってきたのは沈黙だった。

 訝しげにしていると、しばらくしてから、返答が扉を通り抜けてくる。


「俺だ」


 どう反応するべきか逡巡した後、なにもかもが馬鹿らしくなって、結局はノブを捻る。念のため、逆の手はいつでも魔剣を振り切れるように構えていた。

 向こう側にいたのは、渋面をしたスバルだった。初めて会ったときと同じく両腕を挙げ、害意がないことを表明している。


「俺が言うのもなんだが、命を狙われてるんだったら、そう簡単にドアを開けるもんじゃないぞ」


 なぜか説教がましいことを言われ、アリアの中で憤りが湧き上がる。しかし、それをいちいち主張する気にもならなかった。


「鍵がかかっていないことはわかっていただろう。勝手に入ればいいものを」

「見くびるなよ。そんな不躾ぶしつけなことはしない」


 変なところで強情な男は、胸を張って憤然と言い放った。


「そういえば、名乗るのを忘れてたな。俺は……」

「スバル、というのだろう。ジャスティンが、貴様の名を言っていた」


 先んじて言うと、スバルは不思議そうに首を捻る。


「……誰だ、それ?」

「あの優男のことだ。貴様を吹き飛ばしたのは、ライアン・レッドフォード。どちらも、この街では有名な冒険者だ。……本当に、なにも知らないのだな」


 それでよく生きてこられたものだという、一種の感嘆だった。しかしそれもスバルにとっては不本意なことで、ますます苦り切った表情になる。


「誰だって最初は知らないもんだ。知らないことを馬鹿にするのは、よくない」

「無知より、それをどうにかしようとしないのががたいのだ。どうせろくに情報収集していないのだろう」


 ぐっ、と言葉にならない声を吐いて、スバルはむっつりと押し黙る。

 高い戦闘能力と胆力のわりに、性格は幼稚で、要領もよろしくないようだった。妙な男に捕まったものだと、アリアは嫌味ったらしく嘆息する。なんにせよ、このままでは話が進みそうもない。


「用件は」


 顎をしゃくり、話を促す。

 スバルはバツが悪そうに言葉を濁したあと、呟いた。


「いや、物音がしたから、なにかあったのかと」


 鏡台にもたれかかったときの音かと、アリアは理解する。

 同時に、疑問が湧き上がった。理解ができない、という類の疑問だ。


「貴様……まさか、ずっとそこにいたのか?」

「別に、聞き耳を立ててたわけじゃない。本当だぞ」


 慌てて弁解するスバルだが、それはアリアにとってどうでもいいことだった。

 スバルの服装は変わっていない。アリアをここに運んでからずっと、部屋の前で見張りをしていたのだ。濡れた服を着替えることもなく、怪我の手当てすらも後回しにして。


「私を守っていたというのか。なぜだ? まさか、善意とでも言うつもりか?」


 言葉は、警戒心からひどく刺々しいものになる。

 だがスバルはまるで気を害した様子もなく、声を上げて笑った。そして、事も無げに言う。


「善意だと? それこそ、まさかだ。冒険者なんて人種が、そんな高尚なものを持ち合わせているわけないだろう。徹頭徹尾、打算だよ」


 倦怠感に濁っていた意識が完全に覚醒する。今朝の出来事を、思い出したのだ。

 《空の森》の道案内のため、雇いたい。それがスバルの言い分だった。ギルドと敵対するつもりだから、ギルドにかかわりのないフリーの冒険者を雇いたい、とも。

 確かに――それが意図どおりなのかは不明だが――スバルはギルドにマークされることになった。


 一連の事件を追想しながら、アリアの視線は自然とスバルの胸元へと向いた。

 服の中に隠されているだろう、赤い二つの輝き。あれは幻だったのかと、今でも疑わしく思う。

 しかしスバルはアリアの視線の意味に気づいたらしく、首に下げたそれを平然と引っ張り出した。


 響くのは、あの特徴的な音色。

 赤く輝く二つの剣の装飾は、確かにスバルの手の中にあったのだ。


「気になるか? 《開拓者》とかいったか」

「……知らない冒険者の方が珍しい話だ。もっとも、それは伝説や噂、言い伝えと同じ程度のもので、畏れられてはいるが実在も疑われていた」

「つまるところ、なんなんだ、それは?」


 そう問われて、アリアは思わず口ごもった。自分が聞き及んでいるそのことを、当の本人に語っていいものかと迷ったのだ。その逡巡は、言葉よりも雄弁に開拓者のことを物語っていた。


「なるほど。ろくなもんじゃないらしいな」


 スバルは、にやり、と口の端を吊り上げて、不敵に笑う。

 しかし、その表情は一転、気まずそうに曇った。


「となると……そんな奴に雇われるのは、やっぱり嫌かな」


 これまでの危ういほど自信たっぷりな態度とは、まるで正反対の台詞だった。

 ここまで強引に連れてきておきながら、最後の判断は相手に任せる気でいるらしい。それどころか、断られることを心配して気落ちしてすらいる。話に聞いていた開拓者とは随分と印象が違っていた。


 常軌を逸した戦闘能力と、妙な血の色。とても正常とはいえない言動を取りながら、こうして不安の表情を浮かべることもある。

 もし《開拓者》が、アリアの想像していたとおり破壊の権化のような人間だったとしたら、あるいはにべもなく断っていたかもしれない。

 脳裏を過ぎるのは、遠い日の記憶と、微睡まどろみの中で見た痛々しい笑顔だった。

 アリアは、そっと胸に手を当てる。その奥で蠕動ぜんどうするものを、感じ取ろうとするように。


「……二日、待ってほしい」


 やがて、アリアは言った。

 その意味するところを察し、スバルは表情を綻ばせる。


「今日のうちに準備を済ませる。明日は休息にてたい。明後日……森へ案内する」

「たった二日でいいのか?」

「今朝のこともある。できる限り、早く動いた方がいいだろう」


 適切な自己診断による計画だったが、それは一般的には強行軍だ。

 スバルは身を屈め、自分より低いところにあるアリアの顔をじっと覗き込む。初めて間近で見るスバルの顔を、アリアは眇めた目で睨みつけた。


「なんだ」

「無茶をするな、と言いたいところだが……わりに元気そうだな」


 スバルは、その目に映る少女の姿に困惑を覚えていた。

 死人のように蒼褪あおざめていた肌は血色が良く、長い黒髪は夜の闇を切り取ったような艶やかさを取り戻している。しゃんと立つ姿は凛々しくさえあった。

 森で見つけたとき、確かに彼女は死に瀕していた。だが今の彼女は、健康体とまではいかないが、ある程度の力を取り戻している。


「魔剣の力で、回復力が高められている。疲労や体調不良程度ならば、少し休めば問題ない」


 答えるアリアの声には、自嘲が混ざっていた。それが嫌な記憶を呼び覚ましていたからだ。

 見える形で現れた魔剣の利点は、嫉妬や羨望を集める。小さな傷なら瞬く間に塞がってしまう様に、魔物を見るような目を向けられたこともあった。

 それを目の当たりにしたとき、この男はどういう反応をするだろう。魔剣の力の一つを素直に話したのは、スバルの反応を試す意図もあった。

 そんなことを知る由もないスバルは、曖昧な表情を浮かべながらアリアの顔――というより、もちもちつるつる卵肌の頬を見ながら呟く。


「働く女性の味方みたいな剣だな、それ……」

「…………」


 皮肉げな表情を困惑と憤りに歪め、アリアは押し黙った。澱んだ感情を向けられるのも気持ちいいものではないが、これはこれで腹が立つ。


「とにかく、これから街に出て必要な物資を買い集めるから、休んでいろ。肝心の貴様が潰れていては仕様がない」

「一人で大丈夫か?」

「今朝のことは、街中へ知れ渡っているだろう。私を狙うことによって《開拓者》の目に留まるのを嫌うはずだ」


 希望的観測ではあるが、決して根拠のない話でもない。

 当のスバル本人は知らないようだが、開拓者への畏怖は、彼が思っているよりも広く、そして強く根づいているのだ。


「なら、いいんだが。そうだ、念のために、これを持っていけ。これが証なんだろ?」


 そう言って、スバルは《切り拓く剣》を取り、それをアリアに手渡した。

 あまりにさりげなく差し出してくるので、反射的に受け取ってしまい、アリアは目を剥く。


「大事なものではないのか」

「ただのもらいもんだ。気にするな」


 アリアは少し迷った後、それを自分の首に下げる。

 本当は、この装飾の出どころが気になった。しかし、すべてをここで聞くこともないと思い直す。空の森へ行くなら、話す機会はいくらでもあるはずだ。


「じゃあ、悪いが俺の分の準備も頼むよ。金も渡しておく。適当に使ってくれ」

「待て。一体、何人で森へ行くのだ。それを聞かなければ、準備のしようがない。まさか二人きりというわけではないだろう」

「そのまさかだよ。第一、他に雇われてくれるような奴がいると思うか?」


 軽い回答に、アリアは頭痛を感じたようにこめかみを抑えた。

 冒険者のパーティは数人から十数人で組まれることが多い。冒険者とは、なにも魔領域へ戦いに行くわけではないのだ。

 人外魔境にある貴重な物資を金に換える、それが冒険者の生計を立てる手段であり、この時代に存在する冒険者の意義だ。

 そのためには、パーティの中に物資の運搬をする者を組み入れなければならない。


「二人では、行って帰ってくるくらいのことしかできないぞ。貴様、一体なにをしにいくつもりだ?」

「あぁ……そうか、それを言い忘れていたな」


 スバルは得心が行ったという顔で、頷いた。


「《霊樹》の根元へ行きたい。とりあえずは、そのあたりを見て、そのまま戻ってくるつもりだ」


 アリアは再び顔をしかめる。今度はスバルに呆れているのではなく、その単語を記憶の中に探しているためだ。


「霊樹……聞いたことがないな」

「本当か? ここじゃ有名な名前のはずなんだが」

「私も、この街のすべてを知っているわけではない。探索者にでも聞けば、きっとわかるだろう」


 そう結論付けたところで、二人の今後の予定が確定する。

 スバルは懐から金の入った袋を取り出すと、それをアリアに手渡した。その妙な重みに眉根を寄せるが、そのときには既にスバルは大欠伸をしながら踵を返している。


「気をつけて行ってこいよ。俺は寝る。さすがにくたくただ」


 まるで覇気のない後姿を見送り、アリアはしばし呆然とする。あのどこまでも適当で中途半端な男が本当に《開拓者》なのかと、今更ながら疑問が湧き上がってくる。

 しかし、それもどうでもいいことだった。

 少なくとも、この剣の装飾があるならば、有象無象の冒険者崩れに襲われる恐れも少ない。奪われ、いたぶられ、尊厳を踏みにじられた上で殺される――そんな最悪の未来だけは逃れられる。

 二人では、行って帰ってくることしかできないと言った。しかし、アリアにはもう、帰ってくるつもりなどなかったのだ。


 ふと、先程受け取った金のことが気になり、袋を開いて中を覗き見る。

 そして、仰天した。

 そこに納められていた額が、想像以上のものだったからだ。


「羽振りのいい男だ……」


 案外、ずぼらなようでいて儲ける術を心得ているのかもしれない、とアリアはスバルのことを見直す。

 もっとも、アリアが手にしているそれはただの臨時収入で、しかもスバルの全財産だ。そのことを知り、彼女が心底呆れ果てるのは、ほんの少し先の未来のことだ。

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