1-5.寝惚けた黒獅子亭
《寝惚けた黒獅子亭》は、騒然とした。
スコールが止んだ頃、雨具も身につけていないずぶ濡れの男が、ぐったりと動かない少女を横抱きにして現れたからだ。
もちろん、冒険者御用達の宿を運営している者達はトラブルに慣れている。カレヴァン随一の高級宿《寝惚けた黒獅子亭》も例外ではなかったが、抱えられている少女が特徴的な黒い剣を持っているのであれば話は別だ。
彼女の姿は、ぶかぶかの雨具に覆われて窺い知れない。しかしその奇妙な得物が少女の正体を明らかにしていた。
「もう一部屋、借りたいんだが」
《
時刻は明け方、朝の早いカレヴァンの冒険者が活動を始めた頃だ。宿のロビーには出立の準備をする冒険者が大勢いる。つまり、スバルが現れたのは最悪のタイミングといえた。
「しょ、少々お待ちいただけますでしょうか。諸々準備がございまして……」
「そうなのか? 俺のときは、すぐに案内してくれたんだけどな」
スバルは心底不思議だと言わんばかりに首を傾げた。その仕草に、受付をしている男の額から冷や汗が噴き出る。
「治安維持部隊に……報告するのだろう」
その声は、スバルの腕の中からだ。
スバルの雨具を着せられたアリアは顔を上げ、その
「私の立場が微妙なことは知っているな。泊めてくれと言って、すぐに認めるわけにはいかないんだ」
図星を突かれて口ごもる男をじろりと睨み、スバルは軽く肩を竦めた。
そういった政治的な事柄に、まるで興味を示さない男なのだ。なぜすぐに部屋を貸してくれないのか、スバルには不可解に映っていた。
「まぁ、いい。なんでもいいから早くしてくれ」
いずれにせよ、カレヴァンにいるならこの展開は避けられない。それだけはスバルにもわかっていたので、顎をしゃくって男を急かした。
スバルはロビーの片隅に向かい、そこにアリアを降ろす。たっぷりと水を吸った軽鎧を適当に脱ぎ捨て、乱暴に頭を振って水滴を散らした。
「お前も脱いでおけよ。濡れて気持ち悪いだろ」
タオルを借りてくる、と言い残し、スバルは駆け足で去っていく。足取りは非常に軽く、まるで疲労を感じさせない。
アリアはその背を呆然と見送った。足元すらまともに見えない暗闇の中、森からここまで、スコールの中を数時間も走り通してきた後なのだ。その間、休憩どころかペースを落とすことすらなかった。その底なしのスタミナに感嘆を通り越して呆れていた。
震える息を吐きながら、アリアは緩慢に行動を始める。しかし白く冷え切った指は思うように動かず、鎧の留め具すらも外せない。
なにより、周りの冒険者が遠慮もなく視線を寄こしてくる。
好奇、嫌悪、敵意、獣欲。
どこに行っても付きまとってきた感情の奔流。それはいつまで経っても慣れることはなく、ぞわぞわと不快感が募るばかりだ。スバルに着せられた雨具さえ、脱ぐのは身の危険を感じた。
そして今に限っては、アリアは抵抗すらできないほど弱り切っている。
好機と見たか、二人組の若い冒険者がアリアへと向かってきた。その目はアリアの傍らに放られた《黒い剣》に吸いついている。
だが、彼らが剣を奪うより前に、大量のタオルと毛布を抱えたスバルが戻ってきた。
男達はスバルの姿を認めると、急に走り出した。剣さえ奪えばどうとでもなると思っていたのだ。
しかし、彼らが剣に辿り着くことはない。
スバルは持っていたタオルを足元に落とすと、おもむろに背負っていた剣を鞘ごと手に取った。
そして、投擲する。
激しく旋回する大剣は先を走っていた男の腹部に直撃し、その体を木っ端のように吹き飛ばした。
床に投げ出された男は激しく咳き込むと、赤黒い血を吐き出し、その血溜まりに突っ伏して動かなくなる。飛来した打撃は男の内臓のほとんどを破裂させ、背骨すら圧し折っていた。紛れもなく、致命傷だ。
スバルは一人の若者の命を絶った手でタオルを拾い直すと、立ち尽くすもう一人の男に詰め寄る。
「ま……」
言葉が像を結ぶ前に、スバルの蹴りは男の股間を蹴り上げていた。その威力は、武装をした男の体が浮き上がるほどだ。
男の逸物はぐずぐずの肉塊に変わり、骨盤に大きな亀裂が入る。待ってくれ、とでも言おうとした口は代わりに泡を吹き、男は白目を剥いたまま頽れて痙攣を始めた。
あまりにも苛烈で容赦のない応酬に、薄ら笑いを浮かべて傍観していた連中の表情が凍りつく。
スバルは今しがたの凶行などなかったかのように、タオルをアリアの傍らに放ると、膝をついて目線を合わせてきた。
「誓って、なにもしない。だからじっとしてろよ」
真面目くさった声音でそういうと、アリアの雨具を剥ぎ取り、手早く鎧の留め具を外していく。
その様を見ていた冒険者達は、先程までとは違う驚愕に言葉を失っていた。
アリアは常に大きなマントで容姿を隠しており、彼女の姿を自分で確認できた冒険者は少ない。今まで化物のように畏れ忌み嫌っていた《黒い剣のアリア》の姿を、彼らは初めて目の当たりにしたのだ。
震える横顔は、彼らの想像以上に若い。夜を映したように黒い髪の、蒼褪めた肌を這う様は、いっそ官能的でさえあった。
着込んでいた鎧は鉄板を布に縫い合わせただけの簡素なもので、安価なはずの
最初の驚愕が去ったあと、彼らが抱いたのは《黒い剣》への更なる欲求だった。
このような華奢な少女をすら、第一線の冒険者に押し上げる魔剣の力。それは財宝や名誉にも勝る代物に映ったのだ。
熱に浮かされた冒険者達――しかし、そこに冷や水が浴びせられる。
「女の着替えをじろじろ覗くもんじゃない」
それは、怒気だった。
スバルはアリアの鎧をすべて脱がすと、その身体に毛布を被せ、ロビーに屯する冒険者達を睥睨する。先程、男二人の未来を奪ったときさえ見せなかった殺意が、突風のように噴き出ていた。
巨大な魔物と相対したときに匹敵する鬼気に、彼らは思わず目を逸らしている。それは戦いを生業とする彼らにとって、敗北宣言に値した。
「服も脱いじまえ。ずぶ濡れのまま着てるより、裸の方がいくらかましだ」
「…………」
「おい、誤解するなよ。やましい理由から言ってるんじゃないぞ。それに、絶対に覗かないし、覗かせない。安心しろって」
忙しなく手をぱたぱたと振り、スバルは必死の形相で言い募る。
だがアリアの沈黙は、目の前にいる男の行動原理がまるで理解できない困惑からだ。第一、スバルは魔剣を手に入れる絶好の機会を自らふいにしている。それだけでも奇特な男ではあった。
アリアが毛布に身を隠し、もぞもぞと服を脱ぎ始めると、スバルは慌てて顔を逸らした。
代わりに、周囲を殺気立った視線で睨みつけ始める。
そもそも彼らは空の森への出立の準備をしているところだ。怪我でも負わされて活動できなくなれば稼ぎもなくなり、死活問題になる。
よって、触れれば切れる刃のような男を前にして、彼らは視線を落とすことを選択した。それは情けない姿だが、賢明な判断でもあった。
べしゃ、と湿った音と共に服が投げ出される。
ややあって、スバルは躊躇いがちにぼそぼそと言った。
「終わったか?」
「……あぁ」
「そっちを見るぞ。いいんだな?」
「くどい」
夜のスコールよりも冷たい声に口をへの字に曲げ、スバルは恐る恐るという様子で振り返る。
アリアは大きめのタオルと毛布で全身を覆っていた。濡れた服を脱ぎ、屋内は室温も高いのでこれ以上の体温の低下は防げる。体の震えも止まっており、ひとまずは危機を脱しているようだった。
スバルは安堵の吐息を漏らすと、先程放り投げた自らの得物を回収し、アリアの隣にどっかりと腰を下ろした。
「具合が悪いなら早く言えよ。風邪でも引かれたら、俺が困るからな」
猜疑心に細められた目が、ちらりとスバルを横目にする。そこには感謝や親しみはもちろん、敵意すらもない。すべての感情が死に絶えた空虚さだけが残っていた。
「……私は、貴様とパーティを組む気などない」
「勘違いするな」
静かな否定に、スバルは即座に言葉を返す。
かなり、強い口調だ。
アリアに対しては比較的に穏やかな態度を取っていたスバルが初めて見せる、強硬な態度だった。
それはアリアを少なからず驚かせたが、最も狼狽していたのは、スバル本人だ。
危ういほど
スバルは自らの感情の動きを忌々しく思うように舌打ちをすると、殊更にゆっくりと言った。
「恒久的なもんじゃない。森の案内をして、戻ってきたら、終わりだ」
冒険者業界において、雇用関係とパーティは大きな違いがある。
雇用においては、ギルドを通した手続きを経ることがほとんどだ。一時的に共同で依頼や戦闘をこなし、対価を支払うという形が多い。
パーティは、財産を共有し、長い間を共に過ごす関係だ。長く続けば、家族よりも密接な関係になる。だからこそ、加入にしろ脱退にしろ覚悟が必要だ。冒険者間の諍いの大多数は、そこに起因する。
冒険者は独りでは生きていけない。それはあえて語るまでもなく、常識だ。
「……貴様、軽い思いつきで誘っているようだが、私が災禍を招くと知っても同じことを言えるか。半端なことでは、ギルドを追放されることなどない。そうだろう」
長い沈黙のあと、アリアは静かに言う。
「人を雇うならギルドを頼れ。道端で拾うこともない」
「言ったろ、ギルドに目をつけられる予定だってな。第一、俺はフリーランスだ」
事も無げに返された言葉は、この人形のような少女をさえ嘆息させる。
《魔領域》より貴重な物資を手に入れてくる《冒険者》、その存在は世界にとって欠かせない存在だ。
冒険者を束ねるギルドは相応の権力を持つが、冒険者を育む街カレヴァンは、その傾向が特に顕著だ。それに歯向かうというのは、自殺行為に他ならない。街そのものと敵対するようなものだ。
冒険者である以上、どんなに愚昧であっても、それを知らないはずがない。
だからこそスバルは、切れそうなほど鋭い目をしたまま挑戦的に笑っているのだ。
「災禍、結構じゃないか。そういうものを叩き潰して突き進んでこそ、冒険者だろ」
「あえて厄介を背負うことはない、と言っているのだがな……」
アリアは少女らしからぬ特徴的な口調で呟くと、おもむろにエントランスへ目を向けた。
今まさに出立しようとしていた若いパーティが、慌てて道を空ける。その中を、二人の男が足音高く突き進んできた。
一人は、かなりの大男だ。獅子を思わせる褐色の髪に、厳つい面をしている。
もう一人は細身の優男で、一見荒事慣れしているようには見えない。しかし周りの冒険者達は大男よりも、むしろ彼の方を畏怖の視線で追いかけていた。
ちぐはぐな印象の二人組みだが、共通しているのは同じ意匠が施された鎧と、その肩に刻まれた紋章だ。
二つの剣が交差しているエンブレムはパーティの象徴なのだろう。二人の腰には、これもまた同じ二振り一対の双剣が差されている。
彼らの目は一切の迷いもなく、ロビーの片隅で座り込んでいる二人を見据えていた。あえて言うまでもなく、友好的とはお世辞ともいえない剣呑な雰囲気だ。
「叩き潰すのか」
「……向こうの出方次第だな」
揶揄、というにはあまりに淡白なアリアの当てこすりにスバルは肩を竦める。しかし仕草の軽さとは裏腹に、その手は自らの得物であるデュラハンの剣に伸びていた。
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