1-4.《黒い剣のアリア》

 カレヴァンの街は《魔領域》の探索拠点として築かれた。

 魔領域とは、かつて人類に仇なした《魔族》の名残だと言われている、ある種の人外魔境の総称だ。


 数百年も前に突如として表舞台に現れ、その出自や目的も不明なままに人類と敵対した強大な存在、それが《魔族》だ。一切の対話を拒否して一方的に戦いを仕掛けてきたということ以外、彼らについて伝え残された記録はない。あまりにも長く激しく続いた戦いは、歴史を後世へ残す余裕すら人類に与えなかったのだ。

 残された数少ない文献によれば戦争の中盤、人類を蹂躙していたはずの魔族は思いもよらない反撃を受けたとされる。非力にして脆弱、小さな獣にすら劣る能力しかなかったはずの人間から、生まれながらにして戦闘に特化した者達が現れたのだ。やがて冒険者の祖となる彼らは少数ながらも驚くべき異能をもって魔族達に対抗していった。


 互いの勢力をすり減らしながら続いた戦いは、空間を切り拓くようにして現れた別次元が世界を分断したのを境に突然の終焉を迎える。

 人知を超えた自然環境が広がり、野生のようでいて時折不自然な生態を持つ魔物達が跋扈する――後に魔領域と呼ばれることになる地域だ。

 ある場所は森林、ある場所は荒涼とした死の大地、中には高い技術で建造された迷宮なども存在する。それは魔族達が命と引き換えに発動した世界を破壊する呪いとも、人間との戦いに敗れた魔族達が魔界に逃げ帰る際の置き土産とも言われている。

 確かなのは魔族が去ったことと、世界の一部が魔領域に沈んで数百年経った今でも交流を断たれたままの地域があるということだ。それは神話であり、眼前にある現実でもあった。


「参ったな……」


 スバルは溜息混じりに呟き、羅針盤を見下ろした。

 先程から数分おきに、何度も繰り返し確認している。

 時間を置いても壊れたものは直らないのに、だ。


 ぐるぐるとでたらめに回転する羅針盤の針に気づいたのは、森に踏み入ってから数時間が経った頃だ。いつ買ったのかもわからない安物は、最悪にして致命的なタイミングで寿命を迎えていた。

 自分の位置を完全に見失ったスバルには、もう進むべき道を示してくれるものはない。端的にいえば、遭難したのだ。

 これが普通の森ならば、まだ救いはある。

 だが、スバルがいるのは魔領域――そこで遭難するくらいなら荒野の中心で寝転がって偶然の助けを待つ方がまだ生存率が高い、とさえ言われている場所だ。入り口付近とはいえ、その脅威は危険地帯の比ではない。


 かさかさ、と草を分け進む、無きに等しい音。

 スバルは鞘ごと背負った剣を一息に抜くと、そのまま足元へと振り下ろした。本来は森の中で振るうべきでない長大な剣は、一切の迷いもなく木立の合間を縦に裂き、ひっそりと忍び寄ろうとしていた魔物の頭部を一撃で断ち割った。

 百足に酷似した魔物は、きぃ、と断末魔を漏らして絶命する。もし人間の身長ほどもあるそれに接近を許していたら、脚部に深い傷を負わされていただろう。最悪、足首から先を持っていかれてもおかしくはない。そうなれば、もはや命を落としたも同然だ。


 冒険者でなければ大人が数人で立ち向かわなければならないモンスター。しかしそれすらも、ここでは魔物と呼ぶことさえはばかられる小物だ。

 スバルは剣を納め、腰に提げた鉈を手に取る。とにかくじっとしていられない性分の男は、行く手を遮る枝葉を切り落としながら、のそのそと歩みを再開した。


 初心者用迷宮とさえ言われる《空の森》は、普通ならば迷う場所ではない。カレヴァンの冒険者ギルドが拓いた順路があり、それに従っていけば森の資源が豊富に採取できる深部へと容易に到達できるからだ。

 あえてそれを避ける理由は通常、ない。

 その普通の範疇から外れた結果が、今の遭難であった。


 溜息をつくことすら億劫になってきた頃、スバルは奇妙な痕跡を見つける。

 それは草木が押し退けられ、踏みつけられた跡だ。スバルと同じく、森の道無き道を人間が進んだ跡だが、その幅から十人前後の行軍だと推測された。冒険者パーティとして標準的な人数だが、こんなところに迷い込んでくるとは考えづらい。

 スバルのように、なにか目的か事情があるのでない限りは。


「……まぁ、ただ迷ってるよりはましか」


 独りごちると、スバルはその足跡と同じ方向へと歩を進めた。



 大勢の通った跡をなぞったためか、それまでとは段違いの速度で先へ進むことができる。

 途中、スバルは鼻先を掠める水滴に眉根を寄せた。

 羽織っている外套のフードを下ろすと、まさにその直後、猛烈な雨が降り始める。

 空の森は熱帯に近い気候であり、雨季にはすさまじいスコールが降る。カレヴァンを拠点とする冒険者が金属鎧を好むのは、革鎧ではカビが生えたときの手入れが厄介だからだ。その点、金属ならば多少は処理しやすい。

 熱帯に似ているとはいえ、そもそもが異常な領域であるためか、乾季と雨季が短いスパンで入れ替わる。どうやら今がその変わり目であるようだった。


 幸いにして、雨に人の痕跡を塗り潰される前に、スバルは道を作った集団を見つけることができた。

 鬱蒼とした森の景色が、突然に開ける。

 そこでスバルを迎えたのはむせ返るような生臭さと、空に広がる曇天。


「動くな」


 そして、低い恫喝と、やじりの鈍い煌めきだった。

 スバルは足を止め、雨に煙る広場を見渡す。

 そこにいたのは、森に残った痕跡から読み取ったとおり、十名ほどの集団だ。ほとんどが広場に散らばり、なにかを探っている。

 スバルに武器を向けているのは三名。彼らの構えているのはクロスボウと呼ばれる武器の中でも比較的小型のものだ。小型とはいえ、弓と比べて習熟が求められず、しかも高い威力の矢を放つという性質に変わりはない。


「一歩でも動いたら、撃つぞ。俺が許可するまで、黙ってじっとしてろ」

「まぁ、別に構わないけどな」


 リーダー格と思しき男の声に肩を竦め、スバルは嘆息した。こんなことなら、足跡を逆に辿っていくべきだと後悔しているのだ。

 大体のところ、スバルは運と勘がそれほど良くなかった。二択を選んだとき、多くの場合は悪い事態に直面する。それは冒険者として最も大事な資質を欠いているということでもあった。


 スバルは敵意というには剣呑過ぎる気配を感じながら、眼球の動きだけで広場を観察する。

 どうやら、それは自然が生んだ空間ではないようだった。多くの木々が、まるでマッチ棒を圧し折るかのように半ばから薙ぎ払われている。

 足元を見れば、下生えの中に魔物の残骸が転がっている。それも夥しい数だった。土には粘着質な体液が染み付いていることだろう。

 まるで巨躯の魔物が暴れ回ったあと――小型から中型の魔物が大半を占めるここでは、ありえないはずの光景だ。


 スバルが怪訝な顔をしていると、散開していた冒険者達が倒木を乗り越えながら戻ってくる。どこか気が急いている様子だ。


「思ったとおり、向こうに人の通った跡が残ってるぞ。つい最近の跡だ」


 その言葉に、リーダーは厳つい面を笑みの形に歪めた。


「森に目をつけたのは正解だったな。それなら、雨に跡を消される前に辿れば……」

「黒い剣のなんとかって奴に追いつける、か?」


 最後の言葉は、スバルのものだ。


 本来、冒険者が飛び道具を用いることは少ない。それらは押しなべて矢や弾の消費が激しく、かさばり、そして安価とはいえないからだ。

 それでもなお彼らがそれを持ち出すことがあるとすれば、それは狙う標的が定まっている場合だ。


 そしてカレヴァンの冒険者が狙う、接近することすらはばかられる獲物といえば、強力な魔剣を持つというアリア以外の他にはいない。

 彼らは街に見切りをつけ、探索場所を森に移したのだ。そして、その判断は正解だったらしい。


「人を殺して物をるなんて、ろくなことじゃないと思うぞ、俺は」

「黙れ」


 男は吐き捨てるように言うと、これ見よがしにクロスボウを構え直した。ひとたび引き金が引かれれば、鉄板すら貫く速度で矢が放たれるだろう。


「この折れた木を見ろ。あの魔剣さえあれば《異能》に近い力を得られるんだ。そんなものを持ってのこのこ街中を歩いてりゃ、狙われたって当然だ。いや、案外、殺されても構わないって思ってるのかもしれないぜ。あの生気のない眼を見たことはないか」


 完全に油断しているためか、リーダー格の男は饒舌だった。血走った目にはうんざりしたスバルの姿は映っておらず、あるいは《黒い剣》を手にした自分すら見えているのかもしれない。

 アリアの魔剣を狙う者は、大半が冒険者としてまともに活動することもできないおちこぼれだ。今日まで生き延びられただけでも成功者といえないこともないが、それだけだ。希少な魔剣を手に入れられればすべてが変わる、という幻想に縋るしかない弱者だった。


「自分より弱いやつを狩って、なにかを得る。弱い奴は死んで、強い奴がその屍を踏みつけて嗤うのさ。それが真理だ。――おい、アリアにはどれくらいで追いつける?」

「今日中には、おそらく」


 部下の男が答える。直後、彼らの視線が一斉にスバルに集まった。

 彼らの思惑は、あえて推察するまでもない。

 冒険者の中でも殺人はご法度だが、それが建前だということは誰でも知っている。人間を縛る法も、人外魔境の深奥ではなんの効力も発揮しないのだ。


「となると、こいつが邪魔だな」


 冷たい呟きが男の口から零れ落ちた。

 そして、引き金を引く。

 雨音に紛れて弦の張る振動音と、矢の空を裂く音。

 しかし、それに続いたのは鏃の鎧を貫き肉に食い込む響きでも、苦鳴でもなく、殷々と木霊する鉄と鉄の残響だけだった。


「真理か。それも一理あるな」


 剣を突き出した格好のまま、スバルは変わらない口調で言い放った。

 男達には、なにが起こったのかがわからなかったに違いない。ただ呆然と、なぜか健在でいる目の前の男を凝視している。

 矢が放たれたのと同時に、矢よりも速く剣を抜き、それを受け流してしまったのだと、彼らの常識では理解することができなかったのだ。


 矢を放ってしまった男は慌てて後退し、クロスボウの次の矢を番え始めた。クロスボウの欠点は威力と取り扱いの容易さの代わりに、矢を装填するのに時間がかかることだ。

 彼は、せめて矢を捨て剣を抜くべきだった。

 フードに隠れたスバルの口元が歯を剥き出しに笑む。それは冒険者というよりは――獣の笑みだ。


「だったら、まずお前らがを味わえ」


 スバルが、クロスボウを構えたままの男の一人に向かって一歩を踏み出した。

 そして次の瞬間に、その姿は雨の帳に紛れて消える。


 たとえ視界が悪くなかったとしても、男は自分の懐に飛び込んでくる姿を視認することはできなかっただろう。彼がスバルに気づいたのは、低い姿勢から繰り出された蹴りにクロスボウを跳ね上げられたときだ。弾みで引かれたトリガーが矢をあさっての方向へ撃ち出し、手からもぎ取られたクロスボウが宙を舞った。

 振り上げた脚は、そのまま斬撃を放つための踏み込みに変わる。

 無造作な横一閃の斬撃が炸裂し、およそ剣が生んだとは思えない轟音が響いた。見開いた目、半開きの口、信じ難いものを見たような表情の顔を乗せた上半身が、冗談のように吹き飛ぶ。残された下半身がゆっくりと倒れ、濡れた森に赤黒い血と内臓をぶちまけた。


 一人の人間を真っ二つに両断したスバルは剣から手を離し、空に伸ばす。掴んだのは今しがた蹴り上げたクロスボウだ。それを力任せに、目の前の光景を理解できずに立ち尽くすもう一人の男へ投擲した。

 顔面に機械弓の直撃を受けた男は、悲鳴を上げて転倒する。顔を覆った手の間から血が噴出し、口からは意味を成さない声が漏れ出た。

 取り落としたクロスボウを探して手を伸ばしたのは立派だった。しかしその手は、一瞬の間に駆け寄っていたスバルに踏みつけられて土を掴む。彼の血塗れの視界が最後に見たのはスバルが振り上げた剣で、その耳が最後に聞いたのは自分の首に刃が食い込む響きだった。


「てめぇ、よくも!」


 仲間を瞬く間に二人屠られ、リーダー格の男が吼えた。ようやく次の矢を番え終えたクロスボウを持ち上げたところだった。

 同時に、スバルは魔法の詠唱と共に男を指差す。

 動きは同時だが、そこからの速度は雲泥だ。

 男がクロスボウの照準を合わせる前に、スバルの唱えた魔法がその顔面に直撃した。魔法の炎は雨を受けて消えるどころか、それを触れたそばから蒸気に変える。男は皮膚と眼球の焼かれる激痛に悶え、絶叫する口から入り込んだ高熱の空気が喉をも焼き潰した。

 リーダーを失った男達は一足遅れて武器を構えるものの、明らかに腰が引けている。

 しかし、だからといって見逃す理由もない。


「せめて、全員がクロスボウで武装するべきだったな」


 蒼褪めた顔の男達を前に、スバルは凶笑を浮かべる。

 その場に血煙が奔騰し、血塗られた広場に新たな屍が生まれるまでに、時間はかからなかった。



 ◇ ◆ ◇ 



 森は、深い闇に覆われていた。

 カレヴァンの冒険者は朝早くに活動を始め、陽が沈む前に撤退するか野営の準備をする。陽の光は森の中には届きにくく、夜になってしまえばまともに活動できなくなるためだ。


 スバルが辛うじて歩けているのは、冒険者崩れの男達から奪ったカンテラがあるからだ。それと一緒に羅針盤も手に入れており、街に戻ることもできたが、スバルはアリアの痕跡を追うことを選んだ。

 ついでに言えば、その頭には、物を奪うことを咎めた自分の言動など残ってはいない。


 やがて人の通った跡は途絶え、代わりに小さな影が現れた。


 雨具もなにも身につけず、ずぶ濡れのまま微動だにしていない。木の根に背を預けたまま、息絶えてしまっているようにも見える。


 なにより異質なのは、抱え込んでいる剣だ。

 剣というよりは、剣の形に割れた黒曜石とでも言うべき代物だった。ごつごつとした表面には刃らしい刃もなく、鞘もなければ鍔もない。厚みも幅もなく、子供の力でも容易に折れてしまいそうに見える。柄には革が巻かれているが、人の手が加えられているとわかるのはその部分だけだ。言われなければそれが剣とはとても思えなかっただろう。


「《黒い剣のアリア》か?」


 スバルは、ついに見つけた渦中の人物に声をかける。

 カンテラを掲げれば、アリアの姿が小さな灯りに浮かび上がった。


「近づくな」


 震える警句にスバルは戸惑いを隠せなかった。

 思ったよりも、ずっと若い。いっそ幼いと言った方が適切かもしれない。しかし同時に、疲れ果てた老人のような枯れた響きもある。それが目の前の女の声であることは明白なのに、そこにはなにか違和感があった。


 アリアは、ゆっくりと面を上げる。黒かったはずの瞳は、今はなぜか薄く金色に輝いている。ぞっとするほどに感情のない眼だ。ひんやりと冷たく、しかし無気力とも違う強い眼。とても人間のものとは思えない不気味な眼だった。


「貴様は……」

「何日か前、カレヴァンの門で会ったな」

「あぁ……あのときの、考えなしの馬鹿者か」


 かすかに含まれる揶揄に、スバルは頬をひくりと引きつらせた。もっとも、それは一分の反論すらできない事実ではある。

 スバルは片手にカンテラ、もう片手を開いて掲げ、害意がないことを彼女に示した。


「他に私を追っていた奴らがいたはずだ。貴様は、その一味ではないのか」


 アリアの詰問に、スバルは笑みを返す。愉悦の余韻に浸った、凄絶な表情だ。


「連中は、途中でリタイアだ」


 返り血は雨に流されたはずだが、アリアは鼻をすんと鳴らし、鉄の臭いを嗅ぎ取ったように鼻面に皺を寄せた。

 もはや魔剣を狙うハイエナを威嚇する気力もないのか、アリアは目を閉じて膝の間に顔を埋める。呻きにも似た声が、雨音に紛れてスバルに届いた。


「……一晩、待ってくれないか。明日の早朝に、ここにくるがいい。そのときは大人しく魔剣を譲り渡そう」

「あと一日って、お前、それまで持たないだろう」


 スバルは暗闇に目を凝らし、アリアの顔を観察する。

 形のいい唇は低下した体温の影響で紫色に変じ、零れる吐息は弱々しく震えている。医療の心得がないスバルにも、彼女が酷く衰弱していることは理解できた。そこにある少女の面には、死の陰が濃い。


「死にたいと……思っている。だが、惨めな死に方はごめんだ」


 少女らしからぬ口調と声音以上に、そこに含まれた感情はスバルの困惑を深める。

 それは――――哀れみであった。

 死を目前とした当事者が抱くには不可解な感情だ。


「最期くらい、安らかに迎えさせてくれないか……」


 スバルは彼女の悲痛な願いを鼻で笑い飛ばすと、ずかずかと彼女の間合いに踏み込んだ。

 反射的に魔剣の柄を握るアリアだが、既に体が言うことをきかないのか、動きはひどく緩慢だ。

 しかし、彼女に与えられたのは無慈悲な暴力ではなく、胸元に落ちてくるカンテラと、羅針盤だった。


「落とすなよ。それがなくなったら、一巻の終わりだからな」


 スバルはカンテラをアリアに預けると、彼女の身体を一息に担ぎ上げた。

 元々小柄な少女だが、それ以上に体が痩せ細っている。スバルはその軽さに眉根を寄せ、しかし今は幸いだったとばかりにきた道を戻り始めた。


「貴様、なにを……」

「勘違いしてるみたいだが、俺は別に魔剣なんかほしくない。というか……どう見たって、持ち主を選ぶたぐいじゃないか、それ。俺には自分から好んで呪われる趣味はないぞ」


 アリアの持つ、艶やかな黒の剣を一瞥し、スバルは目元を引きつらせた。そこには、傲岸不遜な男にしては珍しく畏怖にも似た感情がある。


「……では、なんのために……」

「お前、ギルドを追い出されたんだろ?」


 スバルがあっけらかんと言うと、アリアは複雑な表情で押し黙った。配慮という言葉を知らない無神経な態度に憤りを感じていたのだが、それを指摘するのも馬鹿らしい、という表情だ。


「都合が良いと思ってた。まさか、俺が一番に見つけられるとは思わなかったけどな」

「都合が良いだと……?」

「《空の森》の道案内を雇いたかったんだ。だが、これから冒険者ギルドに目をつけられる予定だから、普通の冒険者には頼めなかった」


 スバルは絶句するアリアを面白がるように、口の端を吊り上げた。


「街の方角を指してくれ。とにかく、話は宿に戻ってからにしよう」

「……嫌だと言ったら? この灯りと羅針盤を、私が破壊したらどうするつもりだ」


 アリアは溜息混じりに言った。命綱ともいえるものすべてを、他人に預けている間抜けさに心底呆れているのだ。

 すると、スバルは突然に足を止める。そして神妙な顔でアリアの双眸を見返すと、ぼそりと答えた。


「困る」

「…………」

「困るから、やめてくれ」


 アリアはもう一度深い溜息をついたあと、震える手で暗い木立を指差した。偽りなく、冒険者ギルドが拓いた順路へと出る方角だ。

 それは、一種の諦めだった。スバルが街でごろつきを叩きのめした手腕を見ていたので、アリアはこのでたらめな男が最終的にはなんとか森を脱出するだろうということを察したのだ。どうせ結果が変わらないのなら協力してやってもいい、という極めて消極的なものだった。


 その縮こまった身体が、突然に小さく跳ねる。

 今になって寒さを感じたように、身体が激しく震え出したのだ。

 筋肉が収縮し、寒さから身を守ろうと熱を生んでいる。それは彼女の心と裏腹に、身体が生きることを望んでいるようだった。それを自覚しているかのように、彼女はもう抵抗する気配も見せず、スバルの腕の中で身体を小さくしていた。

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