表初恋さくら通り.3

「一体どこの猫なんですか?」

 恐る恐る頭を撫でようとした最所に情け容赦なく猫パンチを繰り出した平蔵を見て京念はまたガチガチに固まった。

 思わず私も吹き出して、

「塀のむこうの猫さんとその兄弟の黒猫屋さんとこの猫さん。さあ、あなたたちもそろそろ帰らないとお母さん心配するよ」

 と二匹の黒猫に声を掛けた。

「塀のむこう?」

「塀のむこうって、なんです?」

 どうやら二人はその店も裏木戸の存在も知らないようだった。猫たちを送り届けがてら二人を連れて行ってあげようという相談はあっという間にまとまり、久しぶりに裏木戸を開けて塀のむこうへと向かった。


 奥方が奥方でないとわかった時の二人の表情は見もので、特に最所は開いた口がしばらく閉じず、彼のこめかみが心配になったくらいである。

 あとでこっそり聞くと、奥さんではないとは調べてわかっていたのだが、なんとなく――いわゆる「内縁の」という類いのものと理解していたのだということだった。

「改めて……」

 奥方は

「私、刑部佐月と申します」

 と名乗り、続けて髭のマスターが笑いながら

「私がこの人の本当の旦那です」

 と言ったところを見ると、どうもこの二人は最所と京念の驚きぶりを始めから楽しんでいたようだった。

「いよいよ明日からだって?」

 ひとしきり猫の苦手な二人を肴に賑やかな会話が続いた後にマスターがさり気なく言った。

「ええ、明日から。え? でもなんでご存知なんですか? 逢摩堂さんから?」

 夫妻は顔を見合わせて首を振った。

「逢摩さんはこちらには来られないよ」


 私たちはこのことを誰にも知らせていなければ、ましてや広告なども出してはいなかった。逢摩堂の主と話し合い、以前と同じように密やかに、ひっそりと店を開けようということにしていたのだ。

 リニューアルオープンなどという言葉とは所詮無縁の商売なのだし、気が付く人もいないだろうが気が付けばそこにある……という店で、それで良いと。

「ん……。最近ちょっとざわついてるからね」

 誰に言うともなくさり気なく語ったマスターには、なんとなくそれ以上聞くことができず、またそのとき平蔵に尻尾で頬を叩かれ、再びガチガチに固まってしまった京念に吹き出したことも手伝ってその後の宴はことさら賑やかだった。

 幼馴染だという刑部夫妻は音楽好きで、しかも腕前はプロ級だという。奥方はピアノ、マスターはサックス。二人の奏でてくれるジャズを聴きながら私たちはゆっくりとワインを飲み、ふたばもいつものジンジャーエールから、こちらの方がややお酒に近い気持ちになれる、と本人が曰くカシスソーダに替え、心ゆくまで一つの仕事の区切りを楽しんだのだった。

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