黒猫家にて

黒猫家にて

 二人に案内されたのは件のマンション内にあるという食事処の一つだった。マンションの前でひなことふたばはすごーい、と見上げている。

 なるほど、昼間見たときより各々の階に明かりが灯っている今の時刻のほうがより一層ハイクラス感が増すようである。

 昨夜もたしか通ったはずなのだが、しみじみ見上げることもしなかった。そう思うと私は何かひたすら忙しく、急いで生きているに違いない。


 最所と京念は何度かこのマンションを訪れているらしく、戸惑いもなくセキュリティチェックをこなして大きなドアが開いた。

 マンションコンシェルジュ、と今は洒落た名前で呼ばれている受付の女性が立ち上がり、先生方、お待ちしておりました――とにっこり笑いかけた。

「ご希望を伺ってちょっと迷いましたが、個室の方がよろしいかと思いまして黒猫家に予約を入れておきました。亭主が喜んでおりましたよ。ちょうど美味しい地酒の用意があるとかで」

「あ、それはいいなぁ。料理はおまかせで?」

「はい、お楽しみに、ということでございました」

 それはいいそれはいい、と男たちはご機嫌だ。しかし黒猫家、だと? またか......と思いたくもなる。なぜこうも縁があるのだろうか。しかし今は男たちにはぐれぬようついて行かなければ。


 エントランスからの一階フロアがとんでもなく広い。広すぎてウォーキングコースのつもりなのかと毒の一つや二つを吐きたくなる。

 このマンションの住人たちはここのフロアやら施設やらを思う存分活用しているのだろうか。迷子にもならず。すごく脳の活性化になるんだろうな、と埒もないことを考えながらエレベーターホールに着き、一回乗ってからしばらく歩き、もう一回乗ってドアが開くとそこが黒猫家へ続く玉石の道だった。

 面白いことにここは屋上庭園のようになっており、こんもりとした木立の中にまるで一軒家のように造られている。

 森の中には他にももう二、三軒の食事処があるようで、この中屋上ともう一か所、やはりこのような庭園の中に店が配置されている中屋上があるそうだ。

「すごいすごい!」

「噂では聞いてたけどねぇ」

 ひなことふたばは私より情報通とみえ、黒猫家は和食屋であること、京都の有名な料亭の元花板であったこと、リタイア後にマンションのオーナーに口説き落とされた、ということまで知っており、来れるなんて思ってなかったと小声ながらかしましい。


 しかし確かに私も心が浮き立つのを感じた。仕事を辞めて半年、考えてみればちゃんとした場所で会食というのは久しい。

 一人暮らしというのは気軽なのだが一旦手を抜こうとすればとことん抜けるもので、たしか昨日はビールとコンビニのおむすび、あと冷蔵庫に残っていた豆腐を温めて終わりにした。今夜は久々にまともな物が食べられそうだ。あ、昼もそういえばひなことふたばのお弁当をいただいた。二人の手料理もなかなか美味しかった。

 私は確かに人生で色々ぽろぽろと、あるいはぼろぼろと落し物をしてきたらしい。少しは落ち着いて弁当くらいは作ろう。そうしなければ、と密かに決意を新たにしていたのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る