命の色
雨風に存分に散る花の美し
「花」といえば、平安時代以降、桜の花をさすのが一般的である。「花見」も、「花=桜」という観念のもとに広く使われている言葉だ。
「花」は、春の季語。
桜は、美しい。
咲き始めの姿、満開の姿、散り際……陽射しの中、雨の中。
どんな場面にあっても、それぞれに深い趣がある。
夕暮れの桜や夜桜にも、日中とはまた違った妖艶さが漂う。
そして、散った後に地面や水面を艶やかに染めるその花びらまでもが、見る者の心を捉え、離さない。
桜にまつわる季語には、「
「桜蘂降る」は、花が散った後に落ちて地面を紅色に覆う桜の蘂の趣をいう。そして、「花筏」は、水面を美しく染めて流れていく桜の花びらの塊を、筏に見立てて表現した季語だ。
散った後にさえ、これほどに私たちの心を惹きつけ、全ての瞬間を見逃したくないと思わせる花はないだろう。
その一方で……ほとんど人の目を引かずに、ひっそりと咲く花々も無数にある。
例えば、ナズナの花。
「ぺんぺん草」と言えばイメージできる人も多いかもしれない。
幾筋にも枝分かれした、か細い茎の先につく、小さく目立たない白い花。
目を凝らさなければ、気づかないまま足の下に踏みつけてしまうほどの、その密やかな佇まい。
桜のように艶やかで美しいか——そう聞かれたら、頷くことはできない。
だが——
桜も、ナズナも、全く同じように春に花をつける。
次の春に、また花をつけられるよう——それぞれに必死に、全力で咲き、散っていく。
この二つの花は、どこが違うのだろう。
違うのは——ただ、花の形と色だけだ。
命は——そのどれもが、間違いなく必死で、全力で、真剣だ。
その大きさや美しさなどは、命の意味の重さとは全く関係がない。
そして——桜もナズナも、お互いを比較はしない。
自分の勝ちだと驕り、自分が劣る惨めさを味わったりはしない。
けれど——
人間という生き物だけは、それを比較する。
あくまで勝手な主観や判断基準で、こっちの方が良い、こっちが劣る……そうやって、優劣をつけずにはいられない。
無意味な順位づけをする。
それは、一体どれだけのものをもたらすのだろう。
そうやって常に何かと競り合い、自分が勝ったという満足感——それは果たして、自分自身の大切な宝物になるだろうか。
自分と全く同じように必死に生きる自分以外のものを指差し、軽視する。自分より下だと嘲る。
そうやって笑った後——そこには、何が残るだろう。
そんな不毛な格付けをして自分を満たそうとする虚しさが、ひたすら自分自身を寒くはしないだろうか。
その意味や重さは全く同じ、命というもの。
それに上や下という無意味な色をつける生き物は、人間だけだ。
人間のこの悪癖は、どんな生き物にも劣る。
——そんな気がする。
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