言葉のないもの
いくら吸うても吸ひたりず芽ぐむ空
「芽ぐむ」は、「木の芽」の傍題。春の季語。
「木の芽」は、春に芽吹く木々の芽の総称。その芽生えは、木の種類や気候によって遅速がある。萌黄色、浅緑色、緑色、濃緑色など、さまざまな色合いに萌え出る木々の芽の美しさは時に花をも凌ぐ。
春。
木々が芽吹く。
木の芽の色は、溢れ出るような生命の色をしている。
鮮烈で、みずみずしく——これから伸びようとする力に漲る色だ。
そんな芽が一斉に動き出す気配が、大気に満ちる。
新しい命が動いていることをありありと感じるその空気を、胸いっぱいに吸い込む。
それは、どれだけ吸い込んでもまだ足りない。
生き生きとした幸福感が、自分の中にも湧き出すことを感じる。
今の私たちは、溢れる情報に常に浸かりながら生活している。
魔法の箱のような通信機器からいくらでも出てくる言葉や数字、音、映像。
私たちはそうやって、さまざまな形で提供される情報を浴びる。
その情報は、どれだけ正確か。それが、受け取る側が見極めるべき重要なポイントだったりする。
そして、それらの「提供される情報」に埋もれて暮らすことが当然であり——情報を得られない状態は、時に大きな不安にすら繋がる。
正確な情報を得ること。それは、自分自身の今立っている位置をはっきり確認するためには、不可欠なことなのかもしれない。
けれど——
何の情報も発しない対象から得られるもの。
私たちは、そういうものの存在を忘れがちだ。
情報を発しないものに、心を傾けること。
例えば——空や、雲、風。
月の光、彼方の星の光。
木々の緑や花の鮮やかさ、その香り。
ざわめく葉擦れの音。鳥の囀り。
風に靡く草のさざめき、雨音。
季節ごとの空気の匂い。陽射しの色。
——そんな、私たちの周りに静かに存在するもの。
それらは、言葉でも数字でもない。何のデータも示さない。
——その色も、音も、何の意味も示していない。
けれど——
意味を持たないものだからこそ、それらは私たちに優しい。
どんな情報も、感情も、私たちに押し付けてはこない。
その時々の私たちの気持ちを、それらは優しく汲み取ってくれる。
喜び、悲しみ、怒り——
人間の心に湧き起こらずにいられない全ての感情を、それらは静かに受け止めてくれる。
そして——
その時々の私たちの心にとって必要な色や音、感触、匂い——そのようなものを、感じさせてくれる。
きっとそれは——私たちの感覚器官が、今自分の心に欲しいものを、無意識に選び出すからなのだろう。
悲しい時は——頰を撫でる優しい風に、心が静かに慰められる。
きらめく木の葉に涙が流れ、胸の痛みが少しだけ流れていく。
苦しい時は——青空を見上げる。星を見上げる。
そうして初めて気付く、限りなく広大なものに包まれた自分自身の小ささ。
力が欲しい時——太陽に顔を向ける。
その他のものからは決して得られない、明るく力強い熱が身体に流れ込んでくる。
幸せの中にいる時。
全てのものが、鮮やかな色を伴って目に飛び込む。
感じられる全てのことが自分を祝福するように、微笑みかけてくれる。
言葉のないものに、心を傾ける。意識を向ける。
そうした途端——さまざまな輝くものが、自分に働きかけ、静かに心を満たしてくれることを感じる。
文字や数字に埋め尽くされた情報から得られること。
言葉も数字もなく、意味を持たないものから得られること。
人間には、きっと、どちらも必要だ。
そして——
文字や数字は、人間の世界の現実を。
意味を持たないものは、心の安らぎを。
私たちに提供してくれる。
時には、スマホを部屋に置いたまま、外を歩いてみたいと思う。
いつもとは違う何かが、きっと得られる気がする。
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