第13話 鬼の目に涙
人を愛することを忘れた時代に、僕たちは生きている。
見ず知らずの人を助けるために、自分の生命を削るようなことは、決してしないのだ。
だから、自分を虐げた者さえも、命懸けで助けようとした、キミの記憶を、どうしてもここに刻みたい......
お店の掃除が終わると、オバさんがいれたお茶をすすりながら新聞を読むのが、おじさんの朝の日課だった。
だが今日は様子が少しおかしい。
新聞紙に隠れて顔は見えないけれど、腕も身体もさっきから微動だにしないのだ。
——脳梗塞でも起こして動けないのだろうか?
僕は心配になってきた。
新聞紙を下ろしたおじさんの顔を見た時、僕はビックリした。両方の眼から滝のような涙が流れていたのだ。
おじさんは、そばに来たオバさんに、黙って新聞を渡した。
「ウッウッウッ......」
それを手にとってしばらく読んでいたオバさんは、同じように涙を流して、エプロンで目を拭った。
その後の2人の会話から涙の理由が分かったので、ペットショップにいるイヌの僕からみなさんに伝えさせてください......
レトリバーのブチは、何年も前にこの店にいたイヌでした。
ゴールデンと呼ばれるように、ベージュ色をした毛並みは光っていて美しいのですが、ブチくんの顔にはひとつの特徴がありました。
それはレトリバーでは大変に珍しいことなのですが、片方の目の周りが、黒い毛で覆われていたのです。
店のおじさんは、その『パンチをくらったボクサー』のような顔が気に入って仕入れてきたのですが、なかなかブチちゃんは売れませんでした、
彼は血統書付きの、家柄も立派なイヌだったのですが、目の周りにブチがあるから、きっと雑種に違いない、とお客さんは思ってしまったのです。
おじさんは毎月ブチちゃんの値段を下げていきましたが、それでも売れずに、6ヶ月が経ちました。
最後にはおじさんも、タダでいいからブチちゃんを誰かにあげたいと思いましたが、1度でもそんなことをすれば、買い手のお客さんは売れ残るまで待つようになり、イヌが高値で売れなくなってしまいます。
大きくなったブチちゃんは、よくご飯を食べました。お店の負担も大きいのです。
特徴のある顔なので、売れ残りがいることが、お客さんにも分かってしまいます。
おじさんはお店を潰すわけにはいかないので、泣く泣く知り合いに頼んで、ブチちゃんを保健所に連れて行ってもらったのでした。
おじさんは、本当は優しいところもある人でした。だから脱サラして好きなペットを扱うお店を始めたのですが、その優しさがアダになり、店の経営が傾き銀行からの借り入れもかさんで、オバさんと無理心中を考えるところまで行ってしまっていたのです。
しかしドン底まで行ってから、おじさんは人が変わりました。鬼になったのです。店を守り、家族を幸せにするために......
——オレは店の経営を守らないといけないんだ。
ブチは確かに可愛いイヌだけど、商品だ。
私情をいれるわけにはいかないんだ。
オレが死ぬか、ブチが死ぬかだ......
おじさんは自分に言い聞かせるようにして、ブチちゃんを見送りました。
このくらいの非情なことができなければ、経営は立て直せないと思っていたのです。
それは自分自身への踏み絵であり、これができなかったらお店はダメになってしまうと感じていました。
おじさんは保健所に送られたイヌの末路を、よく知っていました。この地域の保健所では、1週間の保護期間があり、そのあとにはガス室で殺されます。
運よく引き取り手があれば、生き残れるのですが、実験用に使われるなら、ガス室のほうがまだマシなのです。
その後、おじさんは日にちを数えていました。
1日目、2日目......6日目になると、もう居ても立っても居られなくなり、おじさんは保健所にブチを見に行きました。
そこに着くと、おじさんはペットを探すふりをして、ケージの中をひとつずつ、注意深く見て回りました。
——ブチがいない......よかった。きっと誰かにもらわれたんだろう。
おじさんは少しホッとして、帰路につきました。
たぶんおじさんは、お店の経営がうまくいっている今のような状態なら、ブチを手放さなかったかも知れません。お客さんの愛玩用に置いておくことも出来たでしょう。
しかし、『あの頃』は、そんなゆとりはありませんでした。
——ペットフードって、人間も食べれるのかな?
お店のイヌやネコが美味しそうにエサを食べているのを見て、いつも羨ましいと思っていたのです。
実は、おじさんは、自分の食べるものを減らして、ペットフードを買うお金にまわしていました。
ペットは、必要な栄養分が欠乏すると、健康や毛並みに影響します。
おじさんは歯を食いしばって、お店の経営を続けていました。
そしてブチちゃんは居なくなってしまったのです。
......育成所の朝は早い。
うっすらと空が明るくなった頃から活動が始まる。
初春とはいえ、ここは北海道だ。
ブチは、運よく災害救助犬としての第一歩を踏み出していた。
あれは、保健所での6日目のことだった。
頻発する災害への対応から、救助犬のリクルーターが適性のありそうなイヌを増やそうと探している時に、ブチが目に留まった。
首のヒモには『ブチ』と書かれた紙切れがついていた。
ケージの中のブチをリクルーターが呼ぶと、素直に近寄ってきた。
——指示に対する反応はイイな。
そして、リクルーターはポケットからペット用のビスケットをひとつ取り出すと、ブチに見せた。
それは宝物のように光って見えたが、ブチは、ヨダレを垂らしながら我慢していた。
——よし。合格だ。
お腹が空いていてビスケットに飛びつきたいのに、ブチは動かなかった。そんな天性の才能を持ったイヌはそうはいないのだ。
救助犬としてもっとも必要な資質は、食物よりも人命を優先できるかどうかだった。
リクルーターは、ブチの食物反応をみていたのだ。
そしてブチの適性は見出された。
ブチはまず訓練士の家で愛された。
暖かいストーブの前で眠り、花や蝶をみながら散歩した。そうして養われた、人間への愛と絆を土台にして、長い3年間の訓練が始まる。
それはまさしく、特殊レンジャー部隊に入隊したようだった。
ガレキ捜索は狭い場所をホフク前進していく。
遠隔操作対応は、離れた場所にいる訓練士のスピーカーからの指示に従うことだ。
また、水難、雪難訓練は、文字通り、水の中、雪の中の訓練だ。
そしてヘリコプターからの降下訓練もあった。
これらの訓練を毎日繰り返して、ブチはついに現場派遣の日を迎えた。
突然に襲ったマグニチュード7.0の大地震の災害は、特に山間部の被害が酷かった。
道路は遮断され、水や食料の供給は途絶えていた。
ガレキの下の不明者の生存確率は、72時間を過ぎると急速に下がる。
ブチは隊員と共に現場に向かった。
聴覚に優れたイヌにとって、ヘリコプターの音は凶器のように耳に突き刺さる。
しかし3年間の訓練は、ブチを強くして弱音をはかせなかった。
やっとヘリコプターが着陸すると、そこは想像以上の惨状だった。
まるで悪魔がなぎ倒していったように、家々が倒れていて、そこに土砂が流れ込んでいた。
人間の目には、生存者がいるとは信じがたい光景だ。
だが、ブチはそのような先入観に捕らわれることはない。
彼は訓練のとおりに、隊員の指示に従い、ターゲットの屋根だけの家の中にもぐり込み、ホフク前進を続けた。
——元は台所だった場所だろうか?
おいしそうな匂いが充満していた。
ひしゃげた冷蔵庫から転がり出てきた食べ物のせいだろう。
ブチはそれには見向きもせずに、人の息に耳をすませて、匂いを嗅ぎ分けようとしていた。
その時、暗闇の中で『カチ......』と金属音がした。
生存者の手か足が、ナベなどの音のする物に触ったのかも知れない。
ブチがさらにホフク前進で近づくと、かすかな人の匂いと息の音がする。
「ワン!ワン!ワン!」
ブチはチカラの限りに叫んだ。
そしてまた明かりを頼りに来た道を戻り、崩れた家の外に出ると、4つの足をシッカリと踏みしめながら吠え続けた。
数時間のガレキ撤去の作業の後に、女性が担架にのせられて運び出された。まだ息がある。
長い1日をブチは働き続けた。
その日は数人の生存者を発見して、夜になりオレンジ色の担架をベッドにして眠る時には、ブチはぐったりしていた......
消防士や自衛隊員と同じように、緊急出動はめったにないので、ブチの毎日はほとんどが訓練だった。
できれば災害など起こらない方がいいのだ。
そしてあっと言う間に数年間が経ち、ブチが8歳になるとリタイアワーカーの家に引きとられた。
彼の足裏には、ガレキを踏みしめてできた数々の傷跡が残っていた。
彼は人間に殺されそうになったくせに、なぜ人間を助けるのだろうか?
それはイヌの性(サガ)であり、数千年をかけて築かれてきた、人間とイヌの『キズナ』のなせる業だった。
普通に飼われたイヌよりも、救助犬の寿命はずっと短い。訓練に明け暮れ、災害現場で神経と身体をすり減らして、自分の命を縮めながら人命を救っているからだっだ......
その朝、おじさんが読んでいたのは、救助犬についての新聞記事でした。
目のまわりにブチのあるレトリバーの写真があり、イヌのとなりには『功労動物賞』と刻まれた盾が置いてあります。そして、ブチにより災害現場から救出された数々の生存者の方々の感謝のコトバが、宝石のように散りばめられていました。
『ありがとうございます。あなたのお陰で、私はいま家族の顔を見ています。たいへんなお仕事ですが、命を救う以上に尊いお仕事がこの世にあるでしょうか?どうぞ身体に気をつけて下さい』
みんなの願いも虚しく、ブチは、昨日息を引きとっていきました。
もう彼は、切り立ったガレキの上を、痛いのをガマンして歩く必要はなくなりました。うるさいヘリコプターとも無縁なはずです。でも救助隊員は、何故かブチがまだ傍らにいて、いつでも出動できるようにスタンバイしているような気がしていました。
ブチはそんな奴だったのです。
おじさんは新聞紙で顔を隠しながら、いつまでも泣いていました。そして何度も、ブチの葬式の日を確かめていました。
(すべての救助犬に心からの感謝を捧げます)
🐶ペットショップ💖ダイアリーズ😺 Ⅰ(ワン) 乃上 よしお ( 野上 芳夫 ) @worldcomsys
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