第5話 袋小路

 糸杉がれていた。糸杉がれている。見上げるような糸杉が、音も立てずに“サワサワ”とれていた。

 糸杉は、坂を登りきったところの法務局にあった。家からはかなり離れていて通りすがりの道というわけではなかったが、近くに用事があるとき、また仕事のときに遠回りをしてでも法務局の前を通っていた。

 どうして、法務局の糸杉にきつけられたのか・・・。当時、私は絵が好きで自分でもつたないが描いていたし見るのも好きで、ゴッホの絵もその中の一つだった。でも、なんでゴッホがと言われれば、単に渦巻く空に糸杉、そして麦畑が私の心をわしづかみにしたとしか言いようがなかった。

 

 当時も今も、私は暑さに弱かった。時は、六月。六月のねっとりとした大気が、私をつかんで離さなかった。この息の詰まるような湿度、実際の測定以上の蒸し暑さが、以前からちょくちょく起きる衝動に火をつけたのか、額の汗腺という汗腺がふくれ上がると大粒の汗がれ出して、結露のように首筋を流れ落ちた。

 衝動はあせりなのか、それとも劣等感なのか、予期せぬ時にそれはわき上がる。まさしく今日も、それだった。今日の私の心情を表すとしたら、ゴッホ意外にないかもしれない。この日も暑さに正常な意識が吹っ飛んでしまったのか、自分がまるで青空の中に彷徨さまよい込んでしまったような感覚に、私はおちいってしまった。

 

 ・・・目の前を、一人の男がオガライトをかついで坂道を登っていく。どこの従業員だろうか、それとも個人商店の店主だろうか。どちらにしても、この蒸し暑いさなかにご苦労様なことであった。

 だが、よく見ると・・・、どこか見覚えがあるのだ。どこで・・・? 錯覚なのか、それとも、もしかして・・・。そう、なんと男は私であった。私は私を・・・、自分を見ていたのだ。

 

 気がつくと、くねくねとした狭い坂道をオガライトをかつぎうつむいて登っていた。登りながら、考える。あの頃、あの時、そして今の自分はいったい何をしているのかと・・・。これでは、まるであの日の私と同じではないか?!

 

 その頃の私は、さる会社で店長見習いをしていた。小さな店舗で人数も限られていたので、品出しから配達までなんでもやらされる。だが、そこは若さゆえで、苦痛に感じることなどなく特に配達は店舗から離れると一人なので、楽しい部分が多かった。配達は午後が中心だが、場合によっては夕方にも発生していた。

 

 私は、配達が好きだった。人の気配が閉ざされた、家また家。古い長屋もあれば新築の家もあるが、どの家もこの時期はめったに窓が開かれることなく、中で何が起きているのか、私を妄想がとらえる。だが、この辺りは留守を守る老人か、専業主婦と幼子おさなごがほとんどだった。

 

 その水の底のような住宅地で人の姿を見ることは滅多になく、通る人の五感に訴えるのは二つの音しかなかった。一つは誰がいるにせよ姿がないままにささやくように漏れ聞こえるテレビの音、もう一つは思いだしたように溝を流れる生活排水の音だった。ウナギの寝床のような質素で地味な長屋では裏庭に、それ以外の家では二階か庭に洗濯物が干されているが、日中は風にはためいているばかりだ。

 

 住宅地の水分が抜けて白く乾ききったコンクリートの道を歩いていると、あの六月のムッとするような風が流れてきて私を抱きかかえる。風は吹くでもなく止まるでもなく、赤レンガのすすけた壁と細い側溝の間に設けられた路地を歩くように抜けていった。通りの至る所に生えた雑草が蒸した空気を抱きかかえたまま、歩く者の鼻を叩き何ともいえない草っぽさを漂わせる。

 

 路地はわびしい冒険の第一歩で、飽きることなく次から次へと新しい発見を私に見せた。静かな住宅地に突然甲高い声がわき上がると、鼻を垂らし泥だらけのちびっ子ギャングが意味不明の言葉を口にしながら、不器用な足取りでかけていく。と思うと、限られた時間の残り少ない時を惜しげもなく失っているような老婆たちが、何を話すでもなく家の角で孫の手をしっかりと握ったままうずくまっていた。

 

 そんな住宅地だが、民家と民家の間の驚くべき場所に連れ込み宿があったりする。これでは、よく知っている人か、よほど観察力のある人にしか分からないだろう。これで成り立つのか? その連れ込み宿はこじんまりとした玄関に体裁ばかりの植え込みを施し、さらに小さな看板が休憩・泊まりを訴えていた。

 利用したことのない私の頭の中は真昼の情事という妄想で、すぐに埋め尽くされる。白い肌、弾力のある胸と腰。得体の知れぬ欲望。あやしき幻影に反して、少しばかりの自制心と潔癖ゆえに、遊んだことのない私は吐き気を覚えていた。

 

 だがあやしき幻影は私を執拗に離さず、情事の情景と共に学生時代の一瞬をよみがえらせた。保健室、オリーブの並木、その褐色の果実、女生徒、小柄な肢体、ショートカット。遠慮がちに咳きする声、カーテン、カーテン越しの指のじゃれ合い。

 ああ、なんと重みのない私の過去だ! 人間、何でもかんでも経験できるわけではないが、気楽に恋愛できる人間がうらやましかった・・・。私の前を行く、もう一人の私がひどく見窄みすぼらしく可哀想に思え、どこまで行っても悲しいほどに重みのない私の人生を感じずにはいられなかった。

 

 仕事をいくら変えたとしても、結果は同じことの繰り返しに過ぎなかった。いつも同じことをして、いつも同じように時を失う。自分にとって、私は何なのだろう。人生を深く考えることなく、いつも不平と不満が車輪のように音を立てながら、同じ道の同じところで止まってしまっていた。

 

 くねくねとした狭い坂道を、オがライトを担ぎうつむき登っていく私。オガライトはいつもより重たくのしかかり、巻いている細いビニール紐は女の歯のように指に食いこんでいた。重く鈍い痛みが切れない出刃のように、私の肩を、指を切り裂いていく。今、この瞬間から逃避したいという衝動が私の心に火をつけ、頭の中ではたまらないようにサイレンが鳴り響き、鼻の奥で泣いていた。

 何が悲しいのだろう、なんて弱い人間なのだろう・・・。仕事のこと、ましてやお客さんのことなど、もう頭にはなかった。オガライトのごつごつした感触が薄いシャツを通して肌に火をつけ、ビニール紐を握った指は血の気を失い白く死にかけていた。重い荷を担ぎおぼつかない足取りで走る私を、忌まわしい影、女体に媚態、家に女に子供に老人、真昼の家のテレビの音が、どこまでも追ってきていた。

 

 その時である。私は、突如しがらみから解放されていた。すべての感覚がなくなり、自由を覚えたのだ。苦痛もうれいも、しかし喜びもない周囲に張りめぐらされた幻のカーテン。高さ一メートル七十、横幅七十、縦五十センチの幻の空間。れようと、ねじれようと体積が、すべてが保証された鉄壁の空間なのだ。

 私は、その中にいる。これこそが、私のあかし。強制もなければ抵抗もない、ああ私の空間。なぜ私は生きているのか、なにゆえに生き続けるのか、それはこの空間があるからなのだ。この空間がある限り、生あるものとして私は生き続けるのだ。

 

 糸杉がれるのを見た。法務局の糸杉が、いっせいにうごめきだし揺ゆれるのを私は見ていた。それは、ゴッホの糸杉だった。私はゴッホの糸杉を手に入れたのだ、もっと正確に言うならば、あの空間と表情が自分のものになったのだ。糸杉や麦畑が、どうして球心円運動を描き、なにゆえにあれほどまでの固く青い空が描けられたのか。

 ああ、糸杉がれている、糸杉が燃えている。見上げるような糸杉の一本一本の腕がねじれ波打ち、奇妙にゆがんだ形を作っていく。無痛、無知の極限がやってきたのだ。

 

 この0,595トンの、私の空間よ。なんと0,595トンの空間こそが私の命のあかしであって、生き続ける理由だったのだ。焦りも、劣等感も抱く必要はないのだ。「アッハッハッハ」、これが笑わずにいられようか。私の前を、もう一人の私がオガライトを担いで登っていく。あの頃、あの時、変わるべきすべもない私がいた。

 糸杉がれていた。そして、燃え尽きようとしていた。緑の炎に焼かれた固く真っ青な空が溶けて、私の瞳にガラスのように貼りついた。なんとお笑いぐさだ、私は0,595トンの袋小路に彷徨さまよい込んでしまったのだ。

 


 

 

 




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