第5話 袋小路
糸杉が
糸杉は、坂を登りきったところの法務局にあった。家からはかなり離れていて通りすがりの道というわけではなかったが、近くに用事があるとき、また仕事のときに遠回りをしてでも法務局の前を通っていた。
どうして、法務局の糸杉に
当時も今も、私は暑さに弱かった。時は、六月。六月のねっとりとした大気が、私をつかんで離さなかった。この息の詰まるような湿度、実際の測定以上の蒸し暑さが、以前からちょくちょく起きる衝動に火をつけたのか、額の汗腺という汗腺が
衝動は
・・・目の前を、一人の男がオガライトを
だが、よく見ると・・・、どこか見覚えがあるのだ。どこで・・・? 錯覚なのか、それとも、もしかして・・・。そう、なんと男は私であった。私は私を・・・、自分を見ていたのだ。
気がつくと、くねくねとした狭い坂道をオガライトを
その頃の私は、さる会社で店長見習いをしていた。小さな店舗で人数も限られていたので、品出しから配達までなんでもやらされる。だが、そこは若さゆえで、苦痛に感じることなどなく特に配達は店舗から離れると一人なので、楽しい部分が多かった。配達は午後が中心だが、場合によっては夕方にも発生していた。
私は、配達が好きだった。人の気配が閉ざされた、家また家。古い長屋もあれば新築の家もあるが、どの家もこの時期はめったに窓が開かれることなく、中で何が起きているのか、私を妄想がとらえる。だが、この辺りは留守を守る老人か、専業主婦と
その水の底のような住宅地で人の姿を見ることは滅多になく、通る人の五感に訴えるのは二つの音しかなかった。一つは誰がいるにせよ姿がないままにささやくように漏れ聞こえるテレビの音、もう一つは思いだしたように溝を流れる生活排水の音だった。ウナギの寝床のような質素で地味な長屋では裏庭に、それ以外の家では二階か庭に洗濯物が干されているが、日中は風にはためいているばかりだ。
住宅地の水分が抜けて白く乾ききったコンクリートの道を歩いていると、あの六月のムッとするような風が流れてきて私を抱きかかえる。風は吹くでもなく止まるでもなく、赤レンガのすすけた壁と細い側溝の間に設けられた路地を歩くように抜けていった。通りの至る所に生えた雑草が蒸した空気を抱きかかえたまま、歩く者の鼻を叩き何ともいえない草っぽさを漂わせる。
路地はわびしい冒険の第一歩で、飽きることなく次から次へと新しい発見を私に見せた。静かな住宅地に突然甲高い声がわき上がると、鼻を垂らし泥だらけのちびっ子ギャングが意味不明の言葉を口にしながら、不器用な足取りでかけていく。と思うと、限られた時間の残り少ない時を惜しげもなく失っているような老婆たちが、何を話すでもなく家の角で孫の手をしっかりと握ったままうずくまっていた。
そんな住宅地だが、民家と民家の間の驚くべき場所に連れ込み宿があったりする。これでは、よく知っている人か、よほど観察力のある人にしか分からないだろう。これで成り立つのか? その連れ込み宿はこじんまりとした玄関に体裁ばかりの植え込みを施し、さらに小さな看板が休憩・泊まりを訴えていた。
利用したことのない私の頭の中は真昼の情事という妄想で、すぐに埋め尽くされる。白い肌、弾力のある胸と腰。得体の知れぬ欲望。
だが
ああ、なんと重みのない私の過去だ! 人間、何でもかんでも経験できるわけではないが、気楽に恋愛できる人間が
仕事をいくら変えたとしても、結果は同じことの繰り返しに過ぎなかった。いつも同じことをして、いつも同じように時を失う。自分にとって、私は何なのだろう。人生を深く考えることなく、いつも不平と不満が車輪のように音を立てながら、同じ道の同じところで止まってしまっていた。
くねくねとした狭い坂道を、オがライトを担ぎうつむき登っていく私。オガライトはいつもより重たくのしかかり、巻いている細いビニール紐は女の歯のように指に食いこんでいた。重く鈍い痛みが切れない出刃のように、私の肩を、指を切り裂いていく。今、この瞬間から逃避したいという衝動が私の心に火をつけ、頭の中ではたまらないようにサイレンが鳴り響き、鼻の奥で泣いていた。
何が悲しいのだろう、なんて弱い人間なのだろう・・・。仕事のこと、ましてやお客さんのことなど、もう頭にはなかった。オガライトのごつごつした感触が薄いシャツを通して肌に火をつけ、ビニール紐を握った指は血の気を失い白く死にかけていた。重い荷を担ぎおぼつかない足取りで走る私を、忌まわしい影、女体に媚態、家に女に子供に老人、真昼の家のテレビの音が、どこまでも追ってきていた。
その時である。私は、突如しがらみから解放されていた。すべての感覚がなくなり、自由を覚えたのだ。苦痛も
私は、その中にいる。これこそが、私の
糸杉が
ああ、糸杉が
この0,595トンの、私の空間よ。なんと0,595トンの空間こそが私の命の
糸杉が
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