第六話 おばあさんとゴン太

 前略

 お父さん、お母さん。お二人の送ってくださった般若心経が、今は唯一、心の支えです。


 おばあさんは何百回、いえ何千回、この手紙を読んだことでしょう。手紙は手垢で真っ黒になり、角はすり切れて白かった紙は黄色くなっていました。いくら読みかえしても帰ってこない一人息子、一夫の最後の手紙でした。その一夫は特攻隊員として、今も南の海に眠っています。


 私は、死を恐れる者ではありません。同僚も、またそうです。祖国にこの身を捧げることに、私たちはなんのためらいも持ってはいないのですが、しかし・・・。

 しかし、この心のうずきはなんでしょうか・・・。限られた時間、限られた命を考えるとき・・・。私は、ただただ神をも恐れぬ者のように、そしてまた信仰を忌み嫌い恥ずかしいものとして、意に介さぬ態度をとり続けてきました。

 それは、なぜか・・・。どのような経典でも、それをつらぬくものが愛であり、その愛は生身の人間にはあまりにも大きすぎたからです。漠然とした愛を信じ思う者は、この状況下においては軟弱で卑怯者とさえなりかねません。

 ああ、死は霧の向こうで、黙って座っています。そして何も告げずに、突然やって来るものなのです。

 昨日は、中野少尉が帰らぬ人となりました。多くの尊い命が、次の瞬間、この世から旅立っていくのです。あの笑い声・・・、凛々りりしかった面影が・・・、今はもののように海の底でしているはずです。

 お母さん! お母さんの作る大きな団子の入ったあったかい団子汁を、もう一度食べたいものです。食べられないのが、残念でなりません。

 私の前には、美しい夕焼けが広がっています。雲が茜に燃えて、青い空の中を風が低く低く歌っています。もしかしたら、泣いているのでしょうか。

 国境をはさんで何万もの瞳が、この夕焼けを見ているに違いありません。私たちは、みな人間です、人間なのです。肌の色や瞳の色が違っても、なんの違いがありましょう。

 時間が来ました。お父さん、お母さん、先だつ不孝をお許しください。


 おばあさんは何度読んでも、いつものように長い長い息を吐いていました。もう流し果てて枯れてしまったと思う目から、また涙がひとしずく畳に落ちていました。

「ゴンや、ゴン。」

 雨にも風にも、そして焼けるような日差しにも長い間頑張った赤黒い手で、顔をクシャクシャッとぬぐい鼻をすすると、読んでいた手紙をていねいに仏壇にしまい込みます。そうして背骨の曲がった小さな体で辛そうに立ち上がると、さらに折るようにして皿を手に玄関を出ていました。

「ゴン。これは、石山のかみさんにもろうたもんじゃ。ほれほれ、早うお食べ。」

 それは、一盛りの鹿の肉でした。

「ババは鹿も馬も、もう欲しゅうない。お前には、不十ふじゅうさせるでのう。」

 そう言っておばあさんは目を細めると、ゴン太が喉を鳴らしながら食べるのをじっと見ていました。

「戦争は悲しいもんじゃ、むごいもんじゃ。ババは一夫に団子汁を食べさせてやれんかったことが、つろうてつろうてのう。おじいさんとも、よう話したもんじゃ。」

 食べ終えたゴン太は、おばあさんの顔をじっと見つめます。それから大きな体をのっそりと動かすと、甘えるように前足を突き出していました。

「そのおじいさんも、もうおらん。」

 さするように握るように、おばあさんはゴン太の前足に手を置いていましたが、

「ババも、年だで。この体では、もうお前の体を支えられんようになったわい。どれ、今日も疲れたのう。ババも寝るから、お前も早うお休み。」

と言って、小さくなった体を起こすと力のない様子で家の中に入っていきました。

 その夜、ゴン太は夢を見ていました。

 お母さんの匂いです。乳を飲み、お母さんのあったかい体に触れていると自然と睫毛まつげが合わさっていきます。ゴン太がゆっくりと深い眠りに落ちていこうとした、その時です。

 何かが、ゴン太の首をつかんでいました。つかんだのは、大きな手でした。その大きな手は自転車の荷台に積んだ箱にゴン太を入れると、どこまでも走って行きました。

 赤く大きな夕日が、静かに沈もうとしています。遠く波の音が、ささやくように聞こえていました。どこまでやって来たのでしょうか、ゴン太には分かりません。

 見知らぬ場所に来ると、大きな手はゴン太をつかんでそっと地面に下ろしていました。しかし、何かをためらっているようです。でも小さく、

「ごめんな。」

と言うと、急いで自転車に飛び乗り走り去ってしまいました。ゴン太は、無我夢中で追いかけます。いくら走っても、小さいゴン太は追いつくことができませんでした。

 あきらめて草むらに寝そべったゴン太は、時折前足に乗せた顔を上げると自転車が走り去った方角を見つめ鳴き声を上げていました。泣くだけ泣いたゴン太は、泣きつかれて目を閉じようとしています。その時でした、ゴン太は何かが触れるのを感じて、またもや小さな悲鳴を上げていました。しかし、その何かは大きな手ではなくて、細く温かい手がゴン太を優しくつかんでいたのです。

 お母さんの匂いがしています、ゴン太は鼻を鳴らすと足をばたつかせ切ない声を上げていました。それが、おばあさんとゴン太の出会いでした。

 ゴン太は目を覚ますと、じっと闇を見つめます。心の奥に、今まで感じたことのないキュンとした痛みが走っていました。ゴン太は闇を見つめたまましばらくの間じっとしていましたが、突然唇をとがらせのどの奥からしぼり出すような細く高い声を上げていました。

 ゴン太の鋭く矢のような声が、幾重にも闇に放たれます。ゴン太は、知ったのです。大好きなおばあさんが、おじいさんや一人息子の一夫のところにいったことを・・・。

 夢中でおばあさんを呼ぶゴン太の叫びは、矢となって黒い影と化した家を山を越えて、遙かな星たちの元へと消えていったのです。


 おばあさんは目を覚ますと、大きな畑の真ん中に立っていました。それはそれは美しい、お花畑でした。色とりどりの花たちが、遠く遠く丘の上まで続いていました。

 おばあさんが手をかざして丘の上を見ると、なつかしいおじいさんの姿が見えます。そして、小さな一夫も手をひかれて立っていました。

 いつもの癖で握りしめていた手をほどくと、おばあさんは夢中で手を振ります。丘の上でも答えるように、おじいさんと小さな一夫が手を振っていました。二人を見たおばあさんは、履き物が脱げたのも気づかずにかけだします。おばあさんの足下に咲いている小さな花が、走るとサクサク、サクサクと音を立てていました。

 すぐに丘の上にたどり着くと、おばあさんは幼い一夫をしっかりと抱きしめます。それから、そっとおじいさんと顔を見合わせていました。

 見つめ合った三人の上を、白く淡い雲が一つ流れていきます。そして黄金色に輝く風と共に、花たちの歌う楽しげな声が丘を野原を、そして三人を包み込んでいました。

 いつまでもいつまでも、終わることのない日々を約束するように・・・。

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