003 16p~33p


003


 朝食の匂いとともに八穂は眼を覚ました。

 一人暮らしの身の上、起きる前から作りたての朝食が用意されているのは贅沢きわまりないことであるにも関わらず、彼女はさも当然であるかのようにゆっくりとシャワーを浴びてから席に着く。

「あー……おはよー」

『おはよう』

 トシユキは苦笑いとともに少し不器用に洗濯物を畳みながら挨拶を返し、コップに麦茶を注ぐ。

「ん、いただきます」

 八穂は手のひらを静かにあわせると、眼ぼけた意識のままにスクランブルエッグを箸でつまんでは落とす。

「スプーン」

『少しくらいは動きなよ』

「とって」

『はいはい』

 トシユキはスプーンを持つ――といっても体はないため、どんな原理か物をフワフワと浮かせてテーブルの上に置いた。

 八穂はもぐもぐと食べて、お茶を飲み干し、きっぱりと一言感想を述べる。

「雑」

『うるさいなぁ。文句言うなら食べないでいいよ』

「別に食費は無駄にできないから食べるけど」

『じゃあ黙って食べなよ』

「んー」

 八穂は適当に返事を返すと最後まで残していた味噌汁をすすり、ほっと一息つく。

 その後しばらくして食事を終えると、食器を侍に片付けさせながら彼女はなんとはなしに語り始める。

「そういえば、さ」

『なんだい?』

「あんたらはさ、あたしより先にこの街にいたんでしょ? ちょっと案内してよ」

『いいけど……その、範囲については期待しないでくれないかな? 僕たちはマヨヒバからあまり離れられないんだ』

 何故か君の近くにいるとどこにでも行けそうな気分になるけど、と付け加えてトシユキは八穂に淡桃色のカーディガンを浮かせて渡した。

『外はかなり冷えているからもう一枚羽織ったほうがいいよ』

「あんがとーん」

 八穂は受け取ったカーディガンを羽織ると、気の抜けた返事を返して街の中へと幽霊を連れて繰り出すのであった。


「ねぇ、「まよいば」とやらを教えてよ」

 一通り駅周辺を散策した後に、人のいない日陰の路地にて八穂はトシユキを見上げて言った。

『あぁ、いいよ』

「ところで、「まよいば」ってどこにあんの? 霊地って話だけど、街を見た限りありそうな場所なんてなったよ? 拓かれきっちゃてるし」

『あー君の想像している霊地とは違うね』

「?」

小首を傾げる八穂に、トシユキはゆっくりと説明を加える。

『由緒正しい山だとかにある霊地というのは、もちろん霊地としてトップクラスのすごいやつなんだけどね、それより下級の、いわば雑魚霊地は、結構いろんなところに点在しているんだよ』

「じゃあ、あんたらの言う「まよいば」って言うのは、その雑魚霊地――つまり、霊地としてちゃんとしたところにある訳ではないってこと?」

『そうだね。それに加えてマヨヒバは色々と変わった性質が合って地図で指すこともできないんだ』

「……? つまり、どういうこと?」

『悪いけど僕にはこれ以上の説明はできそうにないよ。生きている間はオカルト染みたことの一切を信じていなかったんだからさ。……そうだ、幽霊のことや霊地のことについてはマヨヒバの長老にでも聞けばいいんじゃないかな』

「長老? この侍だって昔からいそうだけど、こいつじゃダメなの?」

『……』

 アワモリは八穂にビシッと指を刺されても身じろぎ一つもせず、一言も口を利こうとしない。

「ねぇ、なんか一言くらい喋ったりしないの?」

『やめてあげて、彼は聾唖なの』

 鋭い声でサチコは無遠慮な八穂の言動を窘めた。

『……と、いう訳なんだ』

「あー、ごめん」

 八穂は軽い調子で謝ると、少しモヤモヤとした空気感を感じて、すぐに話題を切り替えるべく口を開いた。

「ねぇ! マヨヒバに連れて行ってよ」

『はいはい。じゃあ着いてきてね』

 トシユキは幼稚さの残る八穂の態度に呆れ顔をしつつ、路地を抜けて遊歩道へと先導し始めた。

「ふーん遊歩道の先にあるのね」

『見てのお楽しみさ』

 遊歩道に入って数分ほどゆったりと歩くと、静かにトシユキは進むのをやめて、樹の枝が何本も絡みついたフェンスの成れの果てを指差した。

『ここから入るよ』

「このフェンスの穴をくぐればいいの?」

『へぇ! やっぱり見えるんだね』

「見えるって……普通にフェンスじゃん」

『霊感がないと見えないんだよ、そのフェンスは』

「え? フェンスって物理的な存在じゃん。それが見えないって視力が悪いだけじゃないの?」

『物理的な存在と霊的な存在は二分できる関係にないよ。両者の間には障子紙くらいのしきりしかないんだ。やろうと思えば互いに行ったり来たりできる』

「……?」

 トシユキはわけのわからないといった表情をしている八穂に対して笑いかける。

『突然だけど、霊感ってなんだと思う?』

「幽霊が見えたり、干渉できたり……とか?」

『そうだね正解だ、でもそれだけじゃない。霊感というのはね、ひらめきとか発見とか、もっと多義的なものなんだよ』

 このフェンスを見てごらん――と言ってトシユキは語り続ける。

『例えば、このフェンス、それ自体はここにある。ここにあるということは物理的なことだよね? でも、遊歩道を歩く人達はこれに気づかない――気づけないんだ。それは霊感がない故に。気づけないのならば存在しないのと同じなんだよ』

「注意力の問題?」

『それもあるかもね、霊感というのは人並み外れた注意力を指して言っているかもしれないね』

「……答えになってないし。だって、今さっきあんたはフェンスを指差したじゃない。指の先を追ってフェンスを発見するのなら誰にだってできるし、それがどーして霊感云々の話になるわけ?」

『君は鈍いなぁ』

「うわうっざ」

 八穂は思わず眉間に皺を寄せてトシユキを睨んだ・

『君が異常なんだよ。普通はこのフェンスに気づけない。「マヨヒバ」を囲む柵、それはつまり、そういうしがらみなんだから』


 樹に喰われたフェンスの穴を潜ると、小さな野原が広がっていた。

 面積こそ違うものの地元で見かけた買い手の付かない国有地に似た光景だ、と八穂は感じ、「都会にもあるのね、こういうところ」と口にした。

 近くで川が流れているのか静かなせせらぎと、野原を囲うようにして生い茂るヘンプの群生がざわざわと風の音を立てて耳に優しい。

 野原の中央には、一つ、ベンチがあった。どこからか勝手に持ってきたものなのか、それとも誰かに打ち捨てられたものなのか、年季の入った木製の椅子はただ静かに陽の光を浴びている。

陽は、たまに雲と手のひらのような葉によって遮られ、その都度に陰と光の縞模様が宙に描かれていた。

神山八穂は、そんなレンブラントの横断歩道をまっすぐに進むと、ベンチに向かって話しかけた。

「あなたが長老?」

『そう言われてはおるがね、しがない地縛霊じゃよ』

 八穂をして目を凝らさないと見えないほどの存在の薄さ。

 存在の薄さとは、力の弱さ、幽霊にとって寿命の短さを表している。早い話が、長老と呼ばれる翁の霊は還りかけていたのであった。

「死にかけじゃん、こいつ」

『なにを言う。先の戦争でもう死んどるわい』

「あ、そういえば幽霊だったっけね。それにしても消えかけているけど……大丈夫なの?」

『大丈夫じゃよ、ここから出ぬ限りはな。しかしいつ消えても悔いはないのう。嬢ちゃんのような別嬪さんに会えたからのう』

「ねぇ、おじ様。死ぬ前にはエ、ロ、オ、ヤ、ジ、とか言われてたんじゃないの?」

『おしいのぅ、正確にはスケベジジイじゃ』

 八穂は腰に回された皺だらけの手を抓りながら眉根を寄せた。

「ヘンタイはこいつだけでじゅーぶんだから」

『え、僕? なんもしてないじゃないか』

『ほほぅ、新入り君は儂の同士であったか』

『勘違いだからね!?』

「おじいちゃーん、こいつ女の子の私生活ずっと覗きたがってるのー」

『やるのぅ』

『やってないっ! それと、君も他人をからかわない!』

 八穂はトシユキに叱責を受けながらもニヤニヤと半笑いに受け流し、翁も呵呵と笑って受け流す。

 そんな二名の態度に少しばかり苛ついたのか、トシユキはむっつりと黙りこんだまま黙りこんでしまった。

『悪かったのぅ、死に入りの霊をみると少しからかいたくなるんじゃよ』

『本当に迷惑なおじいさんだ……』

『まぁ、そうカッカするなて。それにしても、娘さんや』

「ん?」

 八穂はベンチにふんぞり返りながら翁に顔を向けた。

『お主さんは巫女じゃの?』

「え? 巫女? コスプレもしたことないよ」

『ふむ……そんじょそこらのおなごがここまでの霊力も持つとは思えんのじゃがのぅ』

「霊力? もしかして私って不思議パゥワァーつかえたり?」

『こうして儂らと話をしている時点で不思議なんじゃがの』

「? 幽霊見える人なら結構いると思うんだけどなぁ」

 少なくとも地元の方ではみんな見えてたし、と八穂は回想しながら首を傾げる。

『ふむ……その口ぶりからすると、お主だけでなく地域一帯の者が霊感を有しておったのか?』

「うん。幼稚園から高校まで一貫の全寮制女子校に行ってたんだけどね、なんでもそこの立地が地元じゃ結構有名な霊地だったみたいでさ。知り合いの巫女さん曰くね、在校生はみんな霊山で山ごもりしているような状態なんだってさ」

『なるほど、これまた変なところで育ったのう、お主。おまけに処女(おとめ)と見た』

「誰が灰色の青春じゃオラァ!」

 幼稚園から高校卒業までまともに異性と触れ合う機会などなかった八穂にとって、僅かにでも彼氏や恋愛に関するワードについてはアンタッチャブルなものなのであったが、翁はそんなものなどおかまいなしに確信を突いて『なるほどのぅ』と何度も呟いた。

『道理で死に入りたちが着いて行く訳か』

『? つまり、どういうことです?』

 尋ねるトシユキに翁は笑いながら答える。

『お嬢ちゃんの体はの、荒業を積んだ神職さんと同じような状態にあるんじゃよ。しかしお嬢ちゃんは巫女ではないからの、力をすべて外に垂れ流しておるのじゃよ。つまり――動く霊地のようなものじゃのぅ』

 人でありながら霊地、それは神山八穂自身も知らない一つの側面であった。

『じゃからからお主らは誘蛾灯に引き寄せられる蟲共のように吸い寄せられた。証拠は、距離じゃのう。本来、死に入りたちの力ではここから駅までの距離が関の山のはずなんじゃよ』

「んーよくわかんないけど、それは違うんじゃない? だって私が来る前からこいつらいたし」

『……いや、あってるよ』

 トシユキは顎を撫でながら言った。

『僕たちがそこに通うようになったのは、誰かが部屋の下見に来てからだ。今になって考えてみれば、それが君だったんだろう』

「んー……ねぇ、霊力ってさ、残留するものなの? 下見にきてからだいぶ時間がたって入居したんだけどさ」

『それだけお嬢ちゃんの霊力が異常ということじゃよ。範囲こそ嬢ちゃんの体から二間程度じゃが、質としては「マヨヒバ」よりも数段上じゃのう。ほれ見てみぃ、嬢ちゃんの近くにいるだけですっかり元気になったわい』

 そう言って翁は裾から手を出した。その手先は先程まで消えかかっており指の本数すら数えることが難しかったが、今では浮き出た血管や皺の本数まで克明に見て取れるほどだ。

 八穂は翁の変化に少々驚きつつも、すぐに我に返って問いかける。

「ねぇ、そういえば、まよいばってなんなの?」

『おぉ、マヨヒバについてか。久しく聞くものがおらなんだから薀蓄を語れて嬉しいのう』

「あ、短めにお願い」

『……マヨヒバとはの、迷う場なんじゃよ。さて嬢ちゃんや、柳田國男を知っとるかの?』

「んー教科書に書いてあった気がする。遠野物語の人でしょ、日本民俗学とかのすごい人」

『意外と勤勉なんじゃの』

「む、なんか失礼っぽいよ。一応これでも頭いい系で通ってきたんだから」

 八穂の言っていることは決して自惚れではない。

 つい先日に入学式を迎えた大学は、日本でも有数の知名度を誇る国立大。地元ではトップクラスで全国的に見ても、彼女はそれなり以上に頭の出来がいいのである。

 翁は『すまん、すまん』と言って話を続けた。

『その遠野物語に出てくる「迷い家」という話を知っておるかの』

「んー……聞いたことがあるような、ないような。東北とかの話だっけ」

『ふむ、簡単に要約するとじゃな、「迷い家」とは迷い込んだ者に富を授ける不思議な家での、しかし探して見つけることはできない家なんじゃよ』

「ほーん、で、それが一体なんなの? 「まよいが」と「まよいば」名前も似てるし、関係しているのは明らかだけど……もしかして「迷い場」ってこと?」

『察しがいいの、つまり、そういうことじゃ』

 その返事を聞いた途端、八穂はニヤリと笑った。

「じゃあ富ちょうだい。あー三万円からでいいから」

『残念ながらの、お嬢ちゃん。もうここにあるのはベンチと草むらしかないんじゃ』

「ふっけいきー、ちょっとくらい埋蔵金埋まってたりしないワケ?」

『そう苛立たないでおくれ、お嬢ちゃん。なにも富とは触れられるものだけではないのじゃから』

「えー……そういう道徳的なの嫌いなんだけど。自慢じゃないけど物心ついて以来、一回も道徳の授業聞いてなかったし」

『そういうでない。それを言ったら、お嬢ちゃんは迷いこんでおらんじゃろう? 条件があっとらんわい』

「む」

『そういう訳じゃ。お嬢ちゃんの霊力なら好きに来ることが出来るじゃろう? なにかあったら、気軽に寄っていっておくれ。ここでこうしておると暇で仕方ないんじゃよ』

「まぁ、気分が向いたらねー……っと」

 八穂はひらひらと手を振って、そしてベンチから立ち上がった。

『帰るのかい?』

「ん、もうそろそろお夕飯食べたいから帰ろっかなって」

 話しかけてきたトシユキに答え、八穂は伸びを一つしてパキパキと関節を鳴らす。

「じゃあね、長老さん」

『では、また機会があったらの』

 八穂は翁に別れを告げると草原をまっすぐに歩いてゆく。

 入り口のフェンスはヘンプの茂みの中にあったが、彼女はすぐに見つけ出して身軽に穴をくぐり抜ける。その後を追うようにしてトシユキたちも続く。

「なんであんたらまで来るの? 「マヨヒバ」が家みたいなもんなんじゃないの?」

『いやぁ、君の近くの方が楽だし外を見て回れるからね。……長老は地縛霊だから動きようがなかったみたいだけど』

「ふーん、まぁいいけど、帰ったらお夕飯作ってね、居候代だから」

『えー……』

 面倒くさがりはしても嫌がりはせず、トシユキ、アワモリ、サチコは八穂に続く。

 彼女らの背後には、一つの影が夕日に照らされて長く長く伸びているのだった。


 帰り道、八穂は歩きながらスマートフォンを覗き込んでいた。

 ラインではなくメールでのやり取り、彼女にとってそれをする相手と言ったら親以外に他ならない。

 親から送られてきたメールの文面は、初めての一人暮らしに関する心配と気遣いが大量に敷き詰められており、八穂からすれば鬱陶しい限りであったが、彼女は文句を言いそうになる幼さをぐっとこらえて、一言、「ありがとう、大丈夫」とだけ書いてメールを送り返す。

「……」

『どうかしましたか?』

「なんでもない」

 八穂はサチコにそう答えて、スマートフォンをホーム画面に戻す。

「あ……そういえば」

 ホーム画面の右下にある、ひとつのアイコンを視線で追って八穂は思い出したように呟く。

「く、黒歴史はっけーん。こんな目のつくところにあったのにスルーしてたよ……危ない危ない」

 慌ててアプリを削除しようと指を動かす。アプリは、いわゆる出会い系……をマイルドにした友達探し(という名目の)アプリ。要するに出会い系である。八穂は高校時代に出会いがなさすぎて発狂した友人達と興味本位でインストールしていたのだった。

「これからは超出会いあるから、こんなの要らないし。それに、そもそも出会い厨の女ってどうなの、普通逆でしょ、性別とか」

 はいはいアンインストール、アンインストール……と八穂はアプリを端末から消去しかけて、そして動きを止めた。

「んー……」

 立ち止まった彼女が思い出すのは高校時代の思い出。

 女子校で、全寮制で、ど田舎で、山奥だった。娯楽は少なかったが、楽しくないなんてことはなかった。男子の眼がないことをいいことに随分と暴れまわってはしゃぎまわって……。

「これも、また、一つの思い出なのかなぁ、なんて思っちゃったりして」

 八穂は「自分で言っておいてなんだけど馬鹿だよね」と言ってアプリを消そうとしていた指を、ゆっくり画面から離した。

「……彼氏、ううん、欲張らない。男友達とか、できたらいいなぁ」

『どうかしたのかい? 急に立ち止まって』

「なんでもないっ」

 そう言って彼女は自宅への短い距離を走りだした。

 空はどんよりとした紫色の夕暮れで、辺りには居酒屋の焼き鳥を焼く匂いが立ち込めている。空気は冷たく、暖かい。そんな狭い学生通りを、彼女は、笑いながら走ったのだった。

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今は亡きゴーストに捧ぐ。 妹背文目 @imoseayame

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