珈琲とオレンジ
「あんたはいつも迷ってばかりね」
そう言って彼女はゴールデンバットに火をつけた。
足を組みなおしたのか、テーブルがガタっとなって、彼女のコーヒーが零れそうになった。
僕はメニューを睨みながら、紅茶にするべきか、オレンジジュースにするべきか迷っていた。
そこはカフェの窓際の一番端の席で、外は突然降りだした酷い夕立だった。
窓の向こうは大通りから少し入った小さな路地で。
傘を差した人たちが前屈みになりながら歩いていた。
「煙草、止めときなよ。一応制服着てんだからさ」
「大丈夫よ。ここなら外からも見辛いし。それにマスターも知っているし。こないだなんて、褒められたのよ。中也みたいだって」
「後で、マスターに注意しとかなきゃ。うちの姉をそそのかさないで下さいって」
「その姉っての止めてって言ってるでしょ。所詮、生まれた時に母さんの股から出た順番でしかないんだから」
「股とか言うな。生々しい。煙草止めてくれたら考えるよ」
そう言って、カウンターの奥に居るマスターに声をかける。
「オレンジジュースで。あと、うちの姉をそそのかさないで下さい。」
読んでいた新聞を横に置き、マスターが顔を上げる。
「やっと坊の注文が決まったか。退屈で干からびる所だったぞ。それに煙草なんてのは自己責任で楽しむもんだ。何より、女でそこまで煙草が似合う奴なんぞ珍しいぞ」
「その坊ってのも止めてください。それに、似合う似合わないの問題じゃないです」
坊はまじめだな、と呟きながらマスターは奥の冷蔵庫からオレンジを取り出した。
そのやり取りを彼女は煙草を吹かしながら楽しそうに眺めていた。
「で、珍しいじゃない。あんたがあたしをお茶に誘うなんて。何か相談でもあるの」
「相談じゃないよ。いい加減家に帰って来いよ。母さんも心配してる」
言ってからしまった、と思った。思ったが遅かった。
みるみる内に彼女の顔は険しくなり、みるみる内に煙草が燃焼していった。
「母さんは、私たちを生んでくれた母さんだけよ。アレはお父さんの女。それだけ」
「わかってるよ、そんなことは。僕だって家族って認めた分けじゃない。でも、親父がこれから先独りで人生を送ると考えても忍びないんだ。だったら、女を作る事くらい許してやってもいいじゃないか」
彼女は黙って僕の言葉を聞いていた。
煙草は根元まで燃えてしまっていて、彼女の細い指が火傷するんじゃないかと冷や冷やした。
「はいよ。オレンジジュース。それと、テーブルに灰を落とさないでくれ」
と、マスターがオレンジジュースと換えの灰皿をテーブルに置いて、カウンターの奥に戻っていった。
「それに、いつまでもおじさんの家に居るわけにもいかないだろ」
彼女は煙草を灰皿に押し付けて、二本目を取り出した。
おじさん、と言っても本当に僕の叔父という訳ではない。
父の学生の頃の後輩で、僕らが小学三年生の頃、家の近くに引っ越してきた。
特に、彼女はおじさんによく懐いていて、たまに僕を放り出して、おじさんの家に遊びに行っていた。
今の母と大喧嘩してから、彼女はおじさんの家で寝泊りしているのだった。
おじさんは結婚していて、子供は居ない。
父も、「まあ、あいつなら」と両人の頭が冷えるまで、彼女の事をおじさんに頼んだ。
それが、夏休みに入る頃の話。
僕はそれらが全て、面白くなかった。
「大丈夫よ。後、半年もしないで卒業でしょう。その後は一人暮らしするつもりだから。その為にわざわざ大学も遠い場所を選んだんだし」
「それまで、家に帰って来ないつもりかよ」
「あのね。そっちの方が良いの。どうしても合わない人って居るのよ。これ位の距離の方が家族にとって良いと思ったから、そうしてるの」
「そんなの、屁理屈だろ。家族だって所詮他人だろ。他人に自分にとって何が良いとか決められたくない」
「だったらこれから家に帰って、私が卒業して家を出るまで毎日ケンカの声を聞きたいの。そんなギスギスした空気の中で生活するなんて、嫌よ」
「仲直りすれば良いじゃないか」
「あんたは男だから簡単に言うけどね。女同士ってのは、そう簡単には行かないの」
彼女はそこで一旦、大きく深呼吸した。窓の外は何時の間にか晴れ間がさしていて、僕が飲んでいるオレンジジュースみたいな夕陽が器用にビルの間から、二人の間に落ちていた。
「……正直に言うとね。あの人が来るまで、私お母さんの代わりになろうと頑張ってたんだよ」
それは、知っている。物凄く知っている。一番近くで見ていたのは僕だったから。
「だからね。悔しいけどね。ある日突然、家族の中のそのポジションを奪われた気がしたの」
そう言って彼女は二本目の煙草を揉み消した。
前の母が亡くなったのが、僕らがちょうど中学校に上がる春だった。
あと、もう少しで入学式のある日の夕方。母はキッチンで倒れていた。
見つけたのは彼女で、遊びに出ていた僕と、仕事だった父が病院に着いた時には、母はもう事切れていた。だから、僕と父は母の最期の言葉を聞いていない。
母の最期を看取れたのは彼女だけだった。
それから、彼女は母の様に、母以上に率先して家事をこなす様になった。
元々、よく手伝いはしていた方だったけど、料理、洗濯、掃除と部活もせずに取り組む彼女を見ていると、僕は居たたまれない気持ちになった。
彼女のコーヒーから湯気が立ち上らなくなった。
「あのさ。普通に姉になれば良いじゃん」
「だから、姉って言うの止めてってば。一緒に生まれて来たんだから」
窓の外が次第に藍色になってきた。このままじゃ拉致があかない。
「分かったよ。止める。止めるから、もう腹割って話そう。だから、一緒に生まれてきたとか、そういうのも言うな」
彼女は大きく目を見開いて、それから俯いた。
「……どうして、今そういうこと言うの」
それまでの強気な彼女とは打って変わって、弱々しく呟いた。
僕らは、世間的には双子という事になっている。
でも本当はそうじゃない。
母は事切れる前、彼女に本当の事を打ち明けていた。
彼女は、血縁上は、おじさんの子供だった。
学生結婚したおじさん夫婦は、所謂出来ちゃった婚という奴だった。
周りから、特にお互いの両親からは強い反対にあい、勘当されてしまった。
しかし、彼らは生まれてくる子供を中絶で殺す、という事も出来なかった。
でも、学生だった二人は子供を養う余裕は無かった。
そんな時、僕の両親が彼らに申し出をした。
「丁度、同じ時期に俺たちも子供が生まれるんだ。一人も二人も変わらない。お前らが落ち着くまで、俺たちがその子を育てる。時期が来たら、本当の事を教えてやろう。なに、親が四人になるだけだ。多いほうが子供も嬉しいさ」と。
でも、おじさん達は両親からの支援もなくなり、大学を辞めざるを得なくなった。それから生活が落ち着くまでには十年近くかかる事になる。
その頃にはもう、彼女は僕らの家族の一員だった。その姿を見た両親達は、長い話し合いの末、僕らが成人するまでこの事を打ち明けない事に決めた。
おじさん達は僕らの家の近所に引越し、彼女の成長を静かに見続けていた。
亡くなった僕の母は、そんなおじさん達を見て、死の間際に彼女に本当の事を伝える事にしたらしい。
母の葬儀後、彼女からその事を聞いた時は僕も耳を疑った。色々なことが一遍に起こって、子供部屋で二人で泣きじゃくりながら、「今日から、姉弟じゃなくなろう」と決めた。「姉弟じゃなくて、家族になろう」と。
すっかり冷めてしまったコーヒーの脇にあるゴールデンバットから、一本取り出して火をつけた。彼女が「あっ」と声を出した。マスターが「ほう」っと笑った。深く煙を吸い込んでから、大きく吐き出す。
「そうだよな。姉じゃダメなんだよな。でも、母親でもないんだよ。じゃあ、ただの家族で良いじゃないか。血のつながりだとか、戸籍上だとか、どうでもいいよ。もし、そんなのが欲しいんだったら、僕の嫁になれ」
「えっ」
彼女の顔が困惑で一杯になる。
「あの日、二人で泣いてから、姉として見てないから。ずっと、どうすれば本当の家族になれるのか考えてた。一人で頑張ってたのも知ってる。でも、どんだけ家事をやったって母親の代わりになんてなれないから。ならなくて、いいから。僕と家族になって」
そこまで一気に言い切って、また煙草を深く吸い込んだ。
「いやなら、いいけど」
「い、嫌じゃないけど、いきなりすぎて頭が」
「返事は今じゃなくていいよ」
そういって顔を背ける。窓に真っ赤な自分の顔が映っている。
テーブルの向こうから、コーヒーを飲む音と、深呼吸する音が聞こえる。
「煙草、止めたんでしょ。私、煙草吸う人と一緒になる気はないよ」
顔を戻すと、いつも通りの彼女のからかう様な顔があった。
「自分だって吸ってるくせに」
「私は良いのよ。中也みたいだし」
「中也は男だろ」
「いいのよ。何より煙草の似合う女の子なんて珍しいのよ」
と、足を組みなおしたのか、テーブルがガタっとなった。
「それと、やっぱりまだ家には帰らない」
「……どうして?」
「先ずは彼氏を両親に報告しなきゃならないでしょ」
「……。」
「これから、大変だね」
「……分かってる」
「そもそも順番がおかしいのよ。プロポーズが先だなんて」
「ごめんなさい」
「それと」
そう言って、彼女はテーブルに頬杖をついて。
「学生結婚は嫌だからね」
と、笑った。
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