第13話 本好き×本嫌い

心配事

空いたままの予定

磁石


 冷蔵庫にマグネットで貼られた予定表。今月最後の週には「締め切り」の文字が、その翌日は空白になっている。

 佐尚(サナオ)は小説を書いていた。

 佐尚は高校の時から本を読むのが好きで、姿が見えないと思うと図書館か本屋にいる。歩きながら、登下校の途中、授業中、昼休み、本を読まない時がなかった。

 本を取り上げたら呼吸も出来なくなるのでは。そう思ってしまうほど、佐尚は本に夢中だった。

 佐尚が読むのはファンタジーやSF、ミステリーや探偵物を手広く読んでいた。図書館の蔵書を片っ端から読んでいたようにも思う。

 俺が読むのはもっぱら漫画ばかりで、文字だらけの本のなにが面白いのか俺には理解できなかった。


 ある日佐尚に聞いた事がある。今まで読んだ中で、一番好きな本はなにか。

 佐尚は少し考えて、口元に微笑を浮かべた。

「銀河の黒」

「ふうん?聞いた事ないな。どんな本?」

「ぼくも、よくはわからないんだ」

 よくわからないのに好きだなんて。けれども佐尚は、どこか嬉しそうに言うのだ。

「宇宙の話なんだ。不思議で、悲しくて、心がじんわりくるような」

「今も読むの?」

「そういえば最近は読んでなかったかな」

 久しぶりに読もうかな、と言う佐尚に無理を言って、俺はその本を借りて読んだ。

 その本の事を語る佐尚の雰囲気が俺はなんとなく好きで、その本を読めば佐尚の事が少しわかるんじゃないか、そう思った。

 結果は散々だった。

 「銀河の黒」という本はベストセラーどころか、殆ど売れなかった本らしい。ネットの評価によれば、作者の文章は「下手くそ」らしい。

 開いて一ページ目から、次々と溢れるように難解な言葉が並び立つ。俺は一行を理解するのに30分、一時間かかった。だから読むのを止めた。

「佐尚、俺には読めなかったわ」

「そっか」

 本を佐尚に返す時、俺の言葉に怒るでも笑うでもなく、そうだろうな、という反応を示した。

「佐尚はそれ、意味わかるのか?俺は一行目からさっぱりだったんだけど」

「ぼくもわからないよ。でも、最後まで読んで、こんな感じかな、とは思う」

 佐尚は本を受け取ると、表紙を手で撫でた。

 俺には本の中身を理解出来ない。佐尚も完全には理解出来ていない。

 けれども本を持つ佐尚の様子が、俺にはなんとなく、宇宙の銀河を抱いているような、そんな風に見えた。


 佐尚に小説を書いてみるよう言ったのは俺だった。高校最後の夏の事だった。

 俺も佐尚も無難な大学に進学を決めていて、勉強をする傍ら、佐尚は本を読み、俺はそれを横で眺める毎日を送っていた。

「そんなに本が好きなら、佐尚、書いてみたらいいんじゃないか?」

 俺がそう言うと、佐尚は驚いた顔をしていた。俺にはそれが意外に思えた。

 好きなものを仕事にする、一瞬でも考えた事はないのだろうか。

 そう持ちかけた理由は、佐尚が最近は同じ本ばかり読んでいたからだった。「銀河の黒」、そればかりを読んでいた。

 その理由は明確にはわからない。佐尚自身もなぜ銀河の黒ばかり読んでいるのか、わかっていなかった。

 俺の推測によれば、佐尚は本に飽きていた。なにを読んでもつまらないのだろう、銀河の黒以外は。そう思った。

「小説なんて書いた事ないし、書けないよ」

 佐尚はそう言ったけれど、完全に否定しているわけではなさそうだった。きっと今まで少しも考えていなかっただけで、その選択肢を示された時、考えた筈だ。

 小説を書いてみる。佐尚の目が好奇心に輝いて見えた。


 それから佐尚は夏休みいっぱいをかけて小説を書いた。

 それは、「銀河の黒」を読んだ佐尚の感想文だった。


 なにを書いたらいいかわからないと言う佐尚に、俺はリクエストをした。

「じゃあさ、佐尚にとっての「銀河の黒」がなんなのか、書いてみてよ。まあ、練習だと思って気楽に」

 俺の提案は、ほんの読書感想文程度のものを想像していた。

 けれども、夏休み最後の日に佐尚が持ってきたのは、俺の想像をはるかに超える、ファンタジックでロマンスに溢れた、SFストーリーだった。

 同年代が書いたからか、それとも俺が読むことをわかっていたから噛み砕いたのか、佐尚の文章はわかりやすかった。

 丁寧に、ちみつに書かれた文章は俺を銀河の中心に連れて行く。

 宇宙の黒い世界の中に点在する星を追うように、あるいは煌々と輝く恒星に照らされるように。

 時には凍りつく寂しい惑星の上で、時には分厚い霧に覆われたミステリアスな星の下で。

 最後にたどり着いたたった1つの惑星で、俺はついに、涙した。

「なんだ……これ……すごい……」

 なんと形容していいのかわからなかった。この感情がどんなものなのか俺は知らなかった。

 佐尚にとっての「銀河の黒」はこんなにも美しいのかと、俺は心を揺さぶられるようだった。


 佐尚はそれから、少しずつオリジナルの創作を始めた。

 佐尚にとってそれは困難な事だったらしい。机に向かう佐尚は頭を抱えて思い悩んでいる。

 上手く書けないと言う佐尚に、俺はつい言ってしまった。

「大丈夫だよ、だって、あんなに凄い話が書けたんだから」

 それは佐尚にとってプレッシャーになっていたに違いない。ますます思い悩む様子に、俺は的外れな慰めの言葉をかけていた。


 予定表の締め切りは迫る。雑誌の小説募集の締め切りだった。

 佐尚は焦っていた。せっかく書き進めては、丸めてゴミ箱に捨てた。書いては捨てて、遂には書く事を止めた。

 佐尚は泣き噦る。

「佐尚」

 隣に座り名前を呼ぶと、佐尚は肩に頭を乗せた。

「嬉しかったんだ」

 佐尚の声は消え入りそうに小さい。

「志島(シジマ)に読ませたあの感想文、志島が楽しそうに読んでくれるのが嬉しかったんだ」

「楽しかったよ。凄くて、上手く言えないけど、頭の中で銀河が弾けたんだ」

 佐尚が初めて書いた小説は衝撃的だった。情景が目に浮かんで、飲み込まれそうな程だった。

「ぼくも、そうだった」

 佐尚が少し嬉しそうに笑う。ここ数日で久しぶりに見た佐尚の笑顔だった。

「銀河の黒を読んだ時、ぼくの脳内で銀河が弾けた。文章は、本当はよくわからなかったんだ。作者がなにを言いたいのかとか、なにを思ってるのかとか。国語のテストみたいに読み解けるような文章じゃない」

 俺には国語のテストだって読み解けはしないけれど。

「だけど、不思議とぼくの中に宇宙が生まれて、銀河が輝いた。時々寂しくて、温かくなる」

「わかるよ、俺も佐尚の小説読んだ時、そうなったから。佐尚の、「銀河の黒」を好きだって気持ちが、すごい伝わった」

 佐尚の小説は、佐尚の心のありのままだった。

 きっと佐尚の心が俺の心にぶつかったんだ。

 きっと銀河の黒の作者の心も、佐尚の心にぶつかったんだろう。

「初めて書いた小説は、ぼくにとって衝撃的だった。すごく楽しくて、心臓が早くなるんだ。続きを書いているのはぼくなのに、早く続きが読みたいって」

 嬉しそうに語る佐尚は、次の瞬間には表情を暗くした。

「でも今はなにを書いたらいいのかわからない。書いても書いても、違う気がして。書いては捨てて、それを繰り返していたら、ぼくは、本が嫌いになっていたんだ」

 佐尚の言葉に、俺は思い至る事がいくつもあった。

 佐尚は小説を読んでいなかった。佐尚が愛して止まない「銀河の黒」さえ。

「ぼくは世の小説家たちに嫉妬していたんだ。手が震えて目をそらして、ぼくはぼくの文章の事ばかり考えてしまう」

 楽しくない、辛い、佐尚の唇は音を出さずにそう動いた。


「もう二度と、ぼくは小説を読めなくなるかもしれない」

 そんな心配事を口にする佐尚に、俺は悪い事をしたと、後悔した。

 佐尚はただ純粋に、小説を、物語を、読むのが好きだったんだ。

 俺が追い詰めたばっかりに、佐尚は、自らの愛した本さえ手に取れなくなっている。

「佐尚、ごめん。俺が余計な事を言ったから」


 佐尚はそれから書くのをやめた。

 本も少しずつ読めるようになっていった。

「またいつか書きたいと、思わないこともないんだ」

 佐尚は銀河の黒を手に言った。

「いいんじゃん?また書いたら、読ませてよ」

 俺が言うと佐尚は少し恥ずかしそうにした。

「次はもしかしたら恋愛物かも」

 ドギマギしている佐尚の次回作に、期待大。


終わり

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