第5話5
僕は基本的に下校する際は、まっすぐ自宅に帰る事が多い。寄り道することは稀で、どこかに寄り道すると言えば街の中にある大型書店で新刊の漫画を買ったりするだけで、それ以外にどこかに寄り道する用事はほとんどない。いや、全く無いと断言してもいい。
別にこれと言った門限があるとか、夕食は姉さんと二人で必ず食べなければいけないとか、そんな厳しいしつけや教えがあるわけではない。
基本的に僕は自由なのだけれど、理由が無いのだ。寄り道する理由が。友達は当然いないので、ゲーセン寄っていこうぜ! とか、ポテトでもしばきながら
そんな無駄な事ばかりしているリア充が、僕は嫌いだ。大嫌いだ。
そんなリア充を忌み嫌い続けるのはどうしてか。率直に言って、正直に包み隠さず言うと。隣の芝生は青く見えるとか、そんなところか――いや、これは比喩としては適してはいない。だって僕には、芝生どころか雑草さえ生えていないのだから――それは無い物ねだりなだけで、彼ら彼女らリア充達を疎ましく思い、羨ましいだけで、ただの僻みなのだ……。
これじゃあ、僕は自分で自分の事をぼっちだとか、一人で十分生きていけるとか、そんな事を嘯いているけれど。ぼっちのプライドなんてあったもんじゃない。
いつかはああなりたいと気持ちの上では思っている。だけどその前に、まともに他人と会話できるようにならなければいけない。
他人との距離感の取り方。コミュニケーションの取り方。
言わばこれはリハビリ――練習みたいなものだ。
だからと言って、今、僕のこの状況……。
練習と言う意味では厳しい状況にいる。コミュニケーションと言う枠の中で、段位が存在するのなら、まず間違いなく十級に位置しているこの僕が、クラスの女子と――誰がどう見たって、その女子はカースト上位の存在で、おそらくは自他ともに認めるリア充。コミュニケーション段位十段。
そんな怪物と二人きりで、星の名を冠した喫茶店へと赴いているなんて、ついぞ思わなかった。人生何が起こるか分かったもんじゃない……。
放課後、無理やり屋上に連れていかれ、なんの説明も無いまま、半ば強制的に連れ回されたと言う方が正しい。
因みに学校からこの喫茶店までの距離、およそ一キロ半。歩いてきたのだが、歩幅を合わせ、横になって楽しくきゃっきゃうふふしながら歩いてきたわけではない。
ウザ女の――と言うのはもう止めておこう……だけど名前が分からないので、ここは普通に『彼女』と言っておこう。
ここの喫茶店に来るまで、僕は彼女の二メートル後ろに離れて付いていった。そう言う意味では歩幅を合してはいたけれど、隣でぴったりくっ付いていけば、二人三脚なら確実に優勝できる歩幅の合わせ方を僕はしていた。それ以上近づかず、離れずを意識して歩いてきた。当然無言を貫き通して、空気は重く感じていた。
しかしこの喫茶店、いや、この星の名を冠した喫茶店を含め、全国展開している喫茶店って、なぜレジで注文するタイプのシステムなのだ? お洒落の『お』の字も分からない僕だけれど、この喫茶店がお洒落さん御用達のお店なんだろうな、僕みたいな人間が来ていい場所では無い。と言う事くらいはびしびしと周りから伝わってくる。
僕はこのレジで注文するタイプのお店が苦手だ。後ろにお客さんを待たせているという事が、僕には耐えがたい苦痛でしかない。コンビニでさえ僕は混んでいる時は敬遠してしまうのに、こんな場所ではさらにその上、吐きそうになる。野球なら、たとえ満塁の状態でも確実に歩かせるね。
喫茶店だよ? なんで店員が席まで注文を聞きに来ないの? 来る客みんなこのお洒落な空間に酔っていないだろうか? 普通なら聞きにくるよ? ここの店員――否、全国の店の店員に侮蔑した目で言ってやりたいね。お前ら働け! この社畜共が――と。
そんな益体もない事を言っているうちに僕達が注文する番になった。
メニュー表を見ると目が回ってしまった……、いったいコーヒーごときで何種類用意してんだよ馬鹿! と言いたくなってしまう。
ホットとアイスだけで十分だろ……。砂糖とミルク。もしくはガムシロップとミルクは自動で付いてこい! 僕はブラック派だけど。
とりあえず、後ろにもまだかまだかと待ち構えているお客さんもいることだし、待たせて迷惑をかけるのは非常にまずい。あらかじめ、僕は注文を決めていた事はやはり正解だった。
水でいいや。たぶんお代わり自由だろ。
しかし、僕の焦りとは裏腹に、彼女はメニュー表をよく見て。「う~ん……」と、人差し指を唇に当てて、いささか唸りながらもメニューを吟味していた。
……流石である。カースト上位はこんな窮地に立たされても全く動じない。て言うかこの状況で、はらはらどきどきして動揺するのは僕だけかな? 店員さんも余裕な表情でスマイル〇円(それは違う店)をしているけれど、僕が見る限りでは目は笑っていない。もう愛想笑い〇円に改名しちゃえよあの店。
「あ、これにしよ」と彼女はやっとの事で注文が決まったようだ。
「マンゴーパッションティーフラペチーノ。トールで」と言った。
え?
なんて言った? こんな公共の場で、そんな下ネタ言うか普通? これが姉さんなら確実に僕引いてるよ?
そんな下ネタを平然とした表情で言った後、僕の方を向き、当たり前のように聞いてきた。
「あんたは何にするの?」
「……み、水、下さい」と僕が言うと。
「は?」
目を細められ、ジト目になる。店員さんもこれには愛想笑い〇円で対応。
なんでそんな目で見られるの? 下ネタを注文する女子高生は正解で、水を注文する僕は不正解なの? この店にいる奴ら全員腹を殴ってやりたい!
「すいません、同じ物を二つ」
と彼女は店員さんに注文をした。
かしこまりましたと丁寧に店員さんは対応してくれた。
「……ごちそうさまです」ととりあえず会釈して言うと。
「いや、おごりじゃないから! え? なに、お金無いの?」
「……ある、ちょっとした冗談」
「な、なによそれ……全然笑えないんだけど」
と言いながらも、彼女は口を押さえながら笑顔になる。
「普段、全然喋るところ見たことないし、笑っているところも見た事ないから、そういう事言うんだねあんたも……意外」
ロボットみたいな奴だと思ってた。と、そんな事を言う彼女に僕は意外だった。
僕とは違う世界で生きている彼女が、笑顔を僕に向けるものなのかと、僕と会話してくれるだけでも、なんだかありがたい気持ちになる。きらびやかな世界で生きている彼女と、底辺の世界で生きているのか死んでいるのか分からない僕。
そこにどれだけの格差があるのか……。考えただけでも嫌になるけれど、どうやら彼女からしてみればそんな事は些細な事なのかもしれない。いや、考えた事も無いのかもしれない。
注文の品を受け取り、僕達は奥の席へ座った。こんなシュチュエーションをクラスメイトの連中に見られたくないと言う事なのだろうか。それもあるのかもしれないけれど、話があると言う事で連れて来られたので、どうやら赤の他人にも聞かれたくない話らしい。
周りに話声が聞こえない奥の席だった。
席に着くやいなや、飲み物に付いているストローをくるくる回しはじめ、かき混ぜる。僕もそれに見習って同じ事を真似る。初めて飲むものなので、僕はてっきりかき混ぜてから飲むものなのだと思った。高級レストランに行けば、テーブルマナーがあるように、この飲み物にもこうした作法があるのだと思っての事だったのだが。
どうやら違ったらしい……彼女は俯きながら、
「……どうしようかな、この事は誰にも言わないって約束してくれる……かな? もちろん昼休みの屋上の件もなんだけど……」
と恥ずかしそうに、頬を赤くして、上目づかいで言ってきた。気持ち瞬きの回数も多くなっていた。
僕は静かに頷いた。
最初から誰かに言いふらそうとか、弱みを握ったとか、そんな風には思ってはいなかった。むしろ、今彼女にそんな風に言われて気付いたくらいだ。
彼女はほっと胸を撫で下ろした後、鞄から一冊の大学ノートを取り出した。
「さっきの質問をもう一度するわよ。……正直に、私の屋上での行動や発言にどう思った?」
何回も聞かれたところで、僕の答えは変わらなかった。
「へ、変な奴……?」
その答えに彼女はテーブルに突っ伏した。
「ご、ごめん……」
「い、いいわよ……別に。わかってるわよ、自分が変だって事くらいわかってる。変だとか思われても構わない。私の夢だもん……。だけど、ちょっと恥ずかしいかな……見られていた事に関しては……」
そう言って彼女はまた、顔を赤くしていた。
彼女の屋上での奇行は、彼女の夢だと言うけれど。それはいったいどんな夢なのか……。
「これを見て欲しいの」
と大学ノートを見せてきた。それには『ネタ帳』と書いてあった。……ネタ帳?え? 芸人になりたいのか? と思ったけれど、違うらしい。
そのノートの中身の内容は、大きく分けて三つに分類されている。
ラブコメ。
異世界ファンタジー。
学園異能バトル。
その中でも学園異能バトルがほとんどを占めていた。つまりこのノートは。
「……中二病特有の設定ノートかい?」
「違うわよ!」
とテーブルを叩き、立ち上がりながら鋭い突っ込みをいれる彼女。
はっとして、周りのお客さんを気にして、一つ咳払いをしてから座り、彼女は説明した。
「中二病と言えば、中二病かもしれないけれど。違うの、とりあえず私は中二病ではないわ。そこだけは否定させて。このノートに書いているのはネタなの……しょ……小説の……」
「…………」
僕は沈黙する。
これはいつもの僕の沈黙ではなく。呆気にとられ、言葉を失う方だ。唖然――と言った方が即しているかもしれない。
学年カースト上位に位置する彼女が小説? しかもこれって……。
「いわゆる……ライトノベルだよね? これ?」
と言うと。彼女は恥ずかしそうにこくりと頷いた。
「つまり夢って、ライトノベル作家になりたいって事?」
と続けて言うと。彼女はこくこくと二回頷く。なんか可愛いなこいつ。
「中学の二年くらいの時に、友達に進められて読んだのがきっかけ。その時読んだのは乙女系の逆ハーレム物だったんだけど。ハマっちゃったの……それで色んなラノベを読み漁った。で、一番面白かったのがこれ!」
と鞄の中から一冊の本を取り出した。
タイトルからして学園異能バトル臭がぷんぷん臭ってくる本だった。彼女はこのジャンルが好きなんだなあ、と思わせる一冊である。
それから彼女は熱くなったのか。嬉々とした表情でこの本の良さを語り出した。
必殺技がカッコいいとか、主人公がいちいち熱い男なんだけど、それが逆にカッコいいとか、ライバルの敵が皮肉屋で憎たらしいんだけど、実は良い奴で、雨の日に子犬を抱きかかえているヤンキーみたいな奴で胸がきゅんとしたとか、ヒロインは見た目ビッチなんだけど、主人公に助けられたその日から、主人公を一途に思っていて可愛いとか……etcetc。
とにかくその本の魅力を三十分くらい彼女は語っていたのだ。
僕は上手い事、相槌は出来なかったけれど。彼女はそんな事は気にすることなく、のべつ幕なしに捲し立てていた。
一通り話し終え、スッキリした表情になる彼女。学校ではこんな事を話す相手がいないのだろう。楽しそうな顔で、嬉しそうな声で話しているのがよく分かった。
ここで僕は一つ疑問が浮かんだ。
「で、本は書いているの? 一つくらいは自分の書いた本は書き上がった?」
夢が作家と言うならば、中学の頃から夢見ていたと言うならば、書いていても不思議ではない。それが稚拙な文章が羅列されていて、到底人に読ませられる出来ではないにしても、一つの小説として――本として書いているはずだ。
だが――僕がそう質問すると彼女の顔はみるみるうちに、表情は暗くなっていった。
「書いた事がない……」と彼女は言う。
「え?」
「本一冊どころか、一章どころか、一文すら、一文字も書いた事がないの……」
一文字もって……それはあまりにも大袈裟に言い過ぎでは――と思ったが、彼女の表情を見る限り……その話は本気のようだった。
作家を夢見ている人間が、はたして一文字も書けないなんてことがあるのだろうか? だってこのネタ帳のノートにはこんなにいっぱい……。
「ネタ帳は、ネタだから……思った事をただ書きなぐっているだけだから書けるの……だけど、いざ小説を書こうとパソコンの前に座ると、なにも出て来ない……真っ白なパソコンの画面が、頭を真っ白にさせてなにも思いつかない。ライトノベルに限らず、小説って自分の妄想を文字にして表現する事だと思うの。書いた事がないから偉そうなことは言えないんだけれど……最初は私には文章力が無いんだって思って、ネットで文章力を付ける方法とか、色々勉強した。だけど駄目だった……やっぱり、いざ書こうとしたら、なにも書けなかった……一文字も」
彼女の暗い顔がもっと暗くなる。
だけどそれは、彼女の夢が本当に本気だからこそ、余計に落ち込むのだろう。
これをあっけらかんと、笑い話にされては、こいつ本当に作家になりたいのか?と思ってしまう。本当に悩んでいるのだろう。表情は暗いけれど、熱意は伝わってきた。
「そ、そうか……」
としか言えなかった。
僕に何ができる? 僕に何が言える? 彼女の悩み、夢に何を助言できる? 余計な事を言って、彼女が傷付くかもしれない。彼女の本気の夢を諦めさせてしまうかもしれない。しかし、それで諦めてしまうなら、その程度の夢だったんだなあと思ってしまうのも、ひねくれているだろうか?
とにかく、今日は姉さん以外の人と会話しすぎたかもしれない。言葉が出て来なかった。そんな僕の沈黙に、彼女は口を開いた。とんでもない事を彼女は口にした。
「よかったら、私と……組まない?」
僕はその言葉を聞き、目を丸くさせ、頭の中で反芻して何度も咀嚼するが。
「……はい?」
意味が分からなかった。
彼女は落ちつきながら、冷静に言う。
「私がアイディアを考えるの、あんたがそれを本に――形にする……どう?」
「……バクマン?」と冗談っぽく言うが。彼女の目は笑っていない。本気の目だった。
「うん、ああ……たしかに似ているかも! これを題材になんか思いつくかも!」
そんな事を言った。
「いや、それパクリでしょ?」
「インスパイア!」
と、彼女は胸を張って得意げな顔をする。
この僕が彼女の夢に乗っかる? 本当にそんな夢のような事があるのか……。
どう考えたって無理だ、僕に小説なんて書けやしない。
でも……二人で、僕と彼女で必死になって夢を追い続ける姿を想像したら、それは僕の想い描いていた、理想のリア充じゃないだろうか……、一瞬そんな事を想像して。妄想して。妄想の中の自分に嫉妬していた。
そんな妄想を振り払うように、彼女は続けてとんでもない事を言う。
「あんた、携帯持ってる? 持って無いわけないよね。番号教えて」
「え? あ、いや……えっ?」
「番号交換しようって言ってるの。ほら、早く」
と急かすように、彼女はすでに携帯を手に持っていた。
僕は慌てるようにポケットから携帯を取り出し、自分の携帯番号を彼女に教えようとしたら。
「ちょっと貸して」
有無を言わさず取り上げられてしまった。
「あ、ちょ……」
「LINEのIDなら、こうやってふるふるするだけですぐ交換できるの」
と言って彼女は携帯をふるふる振っているのだが……。
「あれ? ちょっと! LINEのアプリ落としてないじゃない! 今すぐダウンロードしてよ!」
無茶苦茶な事を言う。連絡先――電話帳には姉さんの携帯番号しかないから必要ないと思い、LINEなんてダウンロードしてないんだよ。アプリの数はほぼほぼ初期の状態と変わらなかった。それに比べ彼女のアプリの数は、画面いっぱいに所狭しと
僕は渋々LINEをダウンロードした後、彼女の携帯とふるふるした。なんか女の子の携帯とふるふるするという行為に、そこにエロスを感じたのは僕だけだろうか?僕だけだな……。
「今時LINEしていない高校生がいるなんて信じられない……どんだけ友達いないの?」
「必要無いんだよ」と僕がそんな悪態吐いた事を言うと、彼女は笑いながら。
「いるいる、ラノベにもそんなぼっち気取りの主人公が」
「気取りじゃねえよ」
「でもこれでぼっちから卒業だね」
「え? なんで?」
「だって、番号も交換したじゃん」
こいつの頭はお花畑なのか? 携帯の番号を交換するのが友達の定義なのだろうか? 六次の隔たりと言う理論があるけれど、彼女の定義とこの六次の隔たりの理論が合わされば全世界の人間と友達と言う事になってしまう。それが立証されれば戦争なんて起きないよ。と言う事で僕は彼女とはまだ友達では無い。そんな事を無理やりこじつけるが。
でも僕はすぐにはっとする。気付いてしまう。普通に僕達が会話している事に。いつの間にか、僕が話す前の『…………』が無くなり。考える前に口に出している言葉が、自然と出てきていた。
「じゃあ、さっき言った事、考えといて! 私帰るから! じゃあね、また明日!」
彼女は可愛らしく手を振って、店から慌てるように出て行った。
残された僕は天井を見つめた。でもこの店の天井を見つめたところで……なにも無かった。
***
翌日の昼休み、僕は屋上にいた。いつもの事なのだが、今日はそわそわして落ち着かない。その理由は昨日ダウンロードしたばかりのLINEにあった。
授業と授業の間にある中休みの時間。普段は鳴る事のない僕の携帯が鳴ったのだ。LINEの通知だった。僕とLINEができるのはこの世界で立った二人。姉さんと――隣の席の彼女だけ。
LINEに通知された相手は隣の席の彼女だった。
『昨日の返事聞かせて。昼休みご飯食べたらいつもの場所で待ってて』
とのことだった。
彼女は僕が屋上でご飯を済ませているのを知らないのだろう。
緊張していた。別に告白されたわけでも無いのに、なぜか緊張する。LINEの内容がたぶんそうさせるのだろう。知らない奴が見たら絶対勘違いするだろこれ……。
がちゃりと屋上のドアが開いた。今日は、今日だけは隠れなくていいのだろう。僕は屋上の出入り口を見つめると、彼女は立っていた。恥ずかしそうに、両手の人差し指を合わせながら――。
「いや、なんでそんなあざとい仕草なの? いちいちテンプレ過ぎるんだけど」
「な、なにその言い方! いいじゃん別に! ちょっと恥ずかしいんだからさ!」
「今日はなんか必殺技しないの?」
「しないわよバカ!」
本当にリアクションがいちいちテンプレ女子だった。
「あんたもさ……教室でそんな風に誰かと喋ればいいじゃん」
それにたいして僕は考えた。いつもの相手を気遣うような言葉選びではなく。と言っても、会話に気遣う相手は今までいなかったけれど。ともかく、気を使う事なく正直に、誠実に答えると。
「さっき、恥ずかしいと言っていたけれど、僕もそんな感じかな……怖いのかも、人と会話するのが。なにかがあったってわけじゃないけれど……、人と会話する事がトラウマと言う事じゃないけれど、僕が小学生の頃からだったからな。人と会話をする事が無くなったのが。だから……忘れちゃったのかもしれないな、人と会話をする方法が」
彼女は黙って僕の話を聞いていた。彼女からは慈愛を感じていた。
普通こんな事を言っている男子を見たら身を引いてしまいそうな事を言っているのに、彼女はそんな事は無かった。いつも真剣に話を聞くタイプなのかもしれない。僕が話すのをずっと待っていてくれるから、僕は安心して話をする事ができるのだ。
彼女はなにか思いついた顔で口を開いた。
「……普通に人と会話ができる練習になるかも!」と彼女は言った。
「え? どういう事?」
「小説を書くことがよ! ほら、小説って会話文もあるじゃない? これが練習になる! うん、絶対そう!」
ああ、そうか。
なんかわかった気がする。
本当は断る気でいた。
小説云々より、僕は彼女の役になんか立てないと、そう思っていた。
だけど。
本当の本当は、やりたかった、追いたかった、彼女と一緒に夢を応援して、僕自身も一緒になって頑張りたかった。
でも。
それは。
ただ、周りの連中が羨ましいだけで。
妬ましく。
僻んでいるだけで。
そんな悪意のある感情のまま、彼女に協力すれば僕は邪魔なだけなのだ。迷惑なだけだ。
でも、本当は……。
「ほら――理由できちゃったね」
理由が欲しかった……。
利害関係なんて言葉は好きじゃないけれど。この時ばかりはこの言葉に感謝した。
「ああ! そう言えば、まだ聞きたいことがあったんだ。先生に聞けば早かったけれど、直接聞きたかったんだ」
「? なんだ?」
「なんか今更だけどさ……名前。教えて」
と彼女は両手を合わせて苦笑いをする。
「人の名前を聞くときは、まず自分かららしいな」
「あっ、そうか。
「
そう名乗ると、佐々木郁美さんは今まで見た事も無い綺麗な花が咲くような笑顔になり。
「よろしくね! 純君。私の事、郁美でいいよ! いくちゃんって呼ばれると嬉しいかも!」
「…………よろしく、佐々木さん……」
昨日、あの喫茶店の天井を見上げても、何も無かったけれど。
今見上げると、青い空と、白い雲が広がっていた。
毒にも薬にもならない僕だけれど、彼女にだけは薬で居続けたいと心底そう思った。
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