第5話
熊。クマ。出会ったときは死んだふりをするといいと、か、山を登る時は腰に鈴をぶら下げると近寄ってこないとか、蜂蜜が大好物だとか……。色々話には聞くが、熊と出会うかもしれないなんて言われてもいまいちピンとこない。
「……都会からすぐってわけでもねぇけど、おかしくねーか?いくら腹が減ってて山を幾つも超えてきてたって、こんなとこまでくるか?」
「来ないな。」
食い気味に答え、だけど、と続ける。
「今の時期、食べ物に困ることは無いはず。あるとすれば迷い込んだか、追い出されるようなことが立て続けに起こったか……。日本にいるのは主にツキノワグマだし、主食はタンパク質が多い木の実とかだし、人を怖がるから見たらまず逃げていく。」
「ふぅー」と息を吐くと、身体から力が抜けていく。いつの間にか強張っていたらしい。
「じゃあ、なんだ。一応は襲われることはない、のか?」
「残念だけど、熊って雑食なんだ。肉も食べる。もちろん、人を食べることもある。」
「……。」
「まぁ、たぶん大丈夫だよ。ばったり出会うことはあるかもしれないけど、食べられることはまずないさ。それに、それよりもずっと恐ろしいことがある。僕はどっちかというと、こっちの方が怖い。」
熊と鉢合わせするよりも恐ろしいことがあるのかよ。クゼは嫌なもの見るようにクルスを見る。クルスは真っ直ぐ前を見たまま(運転中だし)言った。
「水だよ。その子、何も持ってないらしい。」
みず、とつぶやく。
人は水がないと三日生きるのが精々だ。二日目にして強い渇きに襲われ、幻覚を見始める。幻聴を聴くこともあり、誰かに呼ばれる声や、水欲しさに川のせせらぎのような音を聴くこともある。命を捨ててでも水を飲もうと、高いところから落ち大怪我をすることも……。運良く沢を見つけて水を飲んだとしても、蝿の卵が混じっていて腸で孵化し、肛門から出てきたり想像したくないことが––。
ぞわり、と背中に虫が這ったような気持ち悪さを身震いで誤魔化す。
「……。」
エンジンの音と風がガラスにぶつかる音だけがきこえる。
早く着け。早く、はやくと気が
急いているのは気だけで、キャンピングカーの速度は先ほどから変わらない。随分郊外の方に来たからか、他の車があまりないのが救いだ。ぎゅっと手に力が入る。
(頼むから、生きててくれよ。)
12時を少し回った頃、一台の白いキャンピングカーが山中の道を半分塞ぐように止まった。このまま上にあるキャンプ場に向かうならまだしも、パトカーが何台も止まっている緊迫した雰囲気の中では場違い極まりなかった。そんなキャンピングカーを見て、二人の警察官が声を掛けてくる。
「すみません。ちょっと今取り込んでおりまして、申し訳ないですけどこのまま上に進んでもらってもいいですか?」
「ええ。知ってますよ。子供が一昨日から山の中で行方不明なんでしょう。責任者の方は居ますか?」
運転席から降りてきた若すぎる男を見て、少し驚く。見た目と言葉遣いのアンマッチに、変な気分になる。「ちょっと待っててね」と背を向け捜索本部に無線で連絡を入れると、目と鼻の先にあるテントから40代くらいの男が出てきた。日に焼けたように黒い顔と、ギラリとした目をしている。
「ここの責任者ですが、どうされましたか?」
近寄ってきた男性の顔を見て、チッと舌打ちをする。面倒くさいやつが来やがった……。クゼに装備一式を押し付け、早く付けろと急き立てながら"請負書"と書かれた一枚の紙を引っ張り出す。
「どうも、近藤さん。ご無沙汰しています。便利屋です。」
「何しに来やがった。」
「依頼を請け負いましたので。」
クルスが"請負書"をぴらぴらと挑発するように見せ付けると、引ったくるように受け取った。一番下に依頼人である「丸山」の判子が押してある。胡散臭そうに何度も表と裏をひっくり返したり、判子の印影をじっと見たりしている。
「近藤さんっ。喜んでご協力させて頂きますので、捜索範囲を教えて下さい。」
普段の固まった顔からは想像もつかないとろける笑顔である。無線で"近藤"を呼び出した警察官も咲き誇った芍薬を見るように「ほぅ」と見惚れている。
「お前ら!何騙されてやがるっ!」
畜生!とつばを吐き、さっさと地図持ってこい!走れ!!と部下二人を走らせた。以前この笑顔に騙されて、近藤は酷い目に合ったことがある。それ以来、「便利屋」は絶対信用しないと心に決めているらしかった。
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