[奮 闘 篇]

序 章 Midnight Ramblers in Hong-Kong 魔都の一夜

序 章 1 奇妙な異邦人

 ブン少年は道中ずっと不思議に思っていた。


 肩に背負わされた麻袋の荷はたいして大きなものでなく、一〇歳の紋でも軽々と片手で支えていられるほどの重さしかない。

 わざわざ駄賃を払って少年を雇うより、雇い主が自分で持てばよさそうなものなのに――。


 その雇い主は黙って横を歩いている。

 背が高く、容貌も肌の色も、今や宙国チュウゴク社会や経済に大きな影響力をおよぼしつつある西洋人にしか見えない。

 しかし、その服装は、宙国風とも西洋風ともまったく違っている。

 西域かどこかの見たこともないもので、足首が隠れるくらい長くたっぷりとした白衣だった。

 旅から旅への生活でホコリにまみれ、あちこち破れたり擦り切れたりしていた。

 頭を布で包んで太くねじったヒモで留めているのは、ターバンというものらしかった。


(もしかしたら、大砂漠だとか高い山脈を越えてやって来たんだろうか……)

 紋はありえないことを夢想しながら考えた。


「わたしの顔に何かついているかね」

 いつのまにかその横顔に見入ってしまっていたらしい。

 こちらに注意を払っていたようにはすこしも見えなかったのに、雇い主は穏やかな笑みを口の端に浮かべてふり返り、少年に問いかけた。

 そうなのだ。異国の旅人にしか見えないというのに、〝彼〟は歯切れのいい宙国語を何の苦もなくあやつる。

 これも不思議だった。


「い、いや……」

「どうしてわたしが君を連れて来たのかと考えていたのだろう?」


 そのとおりだった。

〝彼〟は少年が住む村にたどり着き、泊めてもらえないかといって家にやって来た。

 身なりはひどかったが、その悠然として上品な物腰とていねいな言葉づかいに、親切な親たちは何の疑いも持たずに宿を提供してやった。

 まるで家族が一人増えたにすぎないといった感じですぐになじんで数日を過ごした後、「この子に香孔ホンコン島までの荷物持ちを頼みたいのだが」といって少年を指さした。

 人さらいには見えなかったし、宿泊代もたっぷり気前よく支払ったので、親も「それもいい経験になるだろう」とあっさり承知したのだった。


「君がいつか海のむこうに行ってみたいといったからだよ」

〝彼〟にいわれてドキリとした。


 数年前、歳の離れた兄が移民としてワハイに渡った。

 それ以来、紋はまだ見ぬ大海を越えて外国に行くことに強いあこがれを抱いている。

 だからこそ、うかつにそのことを口にしたりしたら厳しくとがめられそうで、ずっと胸の中に秘めてだれにも話さなかったのだ。

 もちろん、〝彼〟に打ち明けたはずがなかった。


「ただ海を見たいだけさ」

「そうだったかね」

〝彼〟は、あせってごまかそうとする少年の顔を、何もかも心得たような優しいまなざしで見つめた。


 村と香孔はそんなに離れていないが、広い宙国大陸のことだから紋はまだ海も見たことがなかった。

 三日目にようやく大きな港のある街が見えてきた。

 狭い海峡をはさんで海に突き出した半島とその先にある島が向かい合っていて、間には大小の無数の船が浮かんでいる。

 その一帯を合わせて〝香孔〟と呼ばれているのだ。

 びっしり建ち並ぶ西欧風のいかめしい高層建築や舗装された広い道路、ひっきりなしに行き交う馬車や荷車、あふれかえる人の波を眼にして、紋は思わず息をのんだ。


「これが香孔だよ。ちょっと見ないうちに巨大な都市になったものだ」

 広大な宙国のそのまた何倍もある大陸の反対側から徒歩でやって来たばかりのはずなのに、〝彼〟はびっくりするようなことをいった。

「前にも来たことがあるのかい?」

「ああ、悲惨な戦争だったな。イグランドの鋼鉄製の軍艦に、宙国人たちは無数のジャンクに乗って挑みかかっていった。砲弾が発射されるたびに、何十艘もの小舟が木の葉のように吹き飛ばされて海の藻屑となった。あれは戦いなどというものではない。一方的な破壊と殺戮だった。その原因が、多くの宙国人から気力と健康を奪う毒薬をめぐっての争いだというのだからね。悲しい話だよ」


 少年もそのことは親たちから聞かされていた。

 宙国から輸入する茶や絹の代価を支払うために、イグランドはエンディアからアヘンを持ちこんできた。

 宙国側がアヘンの輸入を禁止すると、イグランドは戦争にうったえて近代兵器で圧倒したという。

 戦争は一度きりでは終わらず、数年前には『アルー号事件』と呼ばれる二回目の戦いも起こった。

〝彼〟が目撃したのはそっちのほうだろうと紋は推測した。


「あのころはまだ、ここは小さな漁村のようなものに過ぎなかったのに……」

「エッ?」

 紋はまた驚いて〝彼〟のほうをまじまじと見た。

 香孔が急激に発展したのは、最初の戦争で負けたときに宙国からイグランドに割譲されてからで、もう四〇年近く前のことだ。

 いくら年齢のわかりにくい外国人だとはいえ、今の紋よりずっと幼く、生まれたての赤ん坊くらいのときになってしまうだろう。


「そうか。どうやらうっかり失言したようだね」

〝彼〟はニッコリ笑って頭をかいた。

「まあいい。君は聡明だし、しっかりした意思も持っている。外国に侵略されて奇形的に発展した香孔の眼をみはるようなたたずまいを見せるだけにしようと思ったが、この際もうすこし深いところまで行ってみようか」

〝彼〟はいっそう謎めいたことをいい、少年を連れて街に入っていった。

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