第一章 7 旅は終わり、旅がはじまる

 しかし、翌日図書館から出てきたときのリョウマの表情はさえなかった。

 黙りこむ時間が長くなり、何もない壁や、高い窓のむこうの雲などを眺めては、ため息をもらすようになった。


 それまでもリョウマがじっと考えこむことがなかったわけではないが、そんなときはきまって眼が輝き、くるくるといたずらっぽく動いていた。

 つぎに何をしようか、どこへ行こうかと、好奇心とあこがれに満ちた表情をしていたものだ。


「ベルリエンはたしかに都会だが、しょせん田舎の新興国の都にすぎん。戦勝国だと居丈高にたぎっちょるのも気にくわん。わしにはどうもここは陰気すぎる」


〝たぎる〟というのは「自慢する」とかいう意味らしい。

 リョウマのほうこそ陰気な顔をして、そんなわかるようなわからないような理由をつけ、ベルリエン滞在を早々に切り上げることにするといった。

 ユーロピアではもう鉄道網が四通八達している。

 二人は列車に乗りこみ、ヴェネツェラで知り合った親切な王子を訪ねて、北方のデンマールへ向かうことにした。


 夜汽車の中でふと眼を覚ますと、常夜灯のうす暗い明かりの下で、リョウマは漆黒に塗りこめられた板にしか見えないガラス窓のほうをじっと見つめて起きていた。


日ノ本ヒノモトからの手紙は何か悪い知らせだったのか?」

 そうではないといってほしいと願いながら、おいらはたずねた。

 リョウマは、うなずくわけでも、首を振るわけでもなかった。

「わしは……できればずっと旅をつづけていたかった。ここで旅をやめてしまったら、わしはただ逃げ回っていただけということになりそうな気がするんじゃ。日ノ本での時間を途中で止めて、長い休暇をだらだらと意味もなく過ごしていたにすぎなくなる」

 リョウマは、独り言をいうようにつぶやいた。


「……そんなことはない。リョウマが見たいと思い、おいらに見せてくれようとしたものは、何もかもすばらしかったよ。日ノ本にいたら、絶対に見たり経験したりできなかったものばかりだ。けっしてむだなことをしていたわけじゃない」

 おいらは心の底からそう信じていた。


「おまえにとってはそうだな。……だが、きのう図書館帰りに見た勇壮なバランデンブルク門も、ニューオークの無数の摩天楼も、ローモの古代遺跡も、ウェンナのシェーンブラン宮殿も、どれひとつとしてわしの造ったものじゃない。それができた由来もろくに知らぬし、ましてやその歴史にはかすかな関わりすら持っとらん。ただそこを眺めて通りすぎただけじゃ。わしらは、どこに行っても異邦人にすぎんのじゃ」


 おいらは自分のほおに涙がつたうのがわかった。

「帰るのか、日ノ本へ……?」


 リョウマはしばらく黙りこみ、ようやくポツリといった。

「どんな扱いを受けるやら、どんな風に見られるやら……いや、だれ一人ふり向いてさえくれんかもしれんな。もはや過去の人間じゃ。今さら帰ったとしても、何ができるとも思えん。それこそ、結局そこでも異邦人になるかもしれん……」


「リョウマ――」

 涙声で呼びかけると、リョウマはうつむけていた顔をゆっくりもたげた。

「何じゃ?」

「日ノ本では、たしかにリョウマは過去の人になってるかもしれないよ。その日ノ本も、リョウマには見慣れたみすぼらしい国かもしれん。でも、おいらにとっては、新しい国じゃ。初めて見る国なんじゃ。もどると思うのがイヤだというなら、おいらに生まれた国を見せてくれると考えればいい。おいらを連れてってくれ、日ノ本の国へ」


 あんまりリョウマらしくない、小さくて優しげな笑みが返ってきた。

「行ってみたいか? 日ノ本へ」

 うなずいてから、おいらははじめてわかった。自分が日ノ本へ帰りたいのだと。


 デンマール行きは途中で取りやめ、ファンブルクの港からイグランド行きの船に乗船した。

 いったんロンデンにもどり、日ノ本までの船便を見つけるつもりだった。


 当初リョウマが考えていたのは、地沖海チチュウカイを行く航路だった。

 わざわざアフロカ大陸をぐるりと迂回しなくても、イディプトとオラビアの間の砂漠を掘り進んで開通したばかりだというスゥイーズ運河を抜け、いきなりエンディアの近くまで出ることができる。


 地球儀をすみからすみまで調べたおいらには、その新航路がいかに画期的なものであるかがよくわかっていた。

 エンディアはアルジア大陸の南端である。

 そこから東へ東へと進めば、どこを通るより最短距離で日ノ本に到達することが可能だった。

 時間も節約できるし、リョウマには、大型の蒸気船が楽々と航行するという人工の巨大水路を最後の記念に見てみたいという興味があった。


 ところが、船便の予約をしようという寸前になって、リョウマがまたとんでもないことをいい出した。

「見てないものがひとつあったのを思い出した。捕鯨船じゃ」

「日ノ本には、クジラがいないのか?」

「いる。わしが生まれた土左トサでも、沖合いに浮かぶクジラが高々と潮を吹き上げるさまが、たまに浜辺から眺められたものじゃ。無数の小舟で取り囲み、手槍を針山のようになるまで投げつけてようやく仕留める。だが、ラメリカの最新の鯨捕りは、大の男が数人がかりでやっと持ち上がるほどの鋼鉄のモリを大砲でぶっ放し、太いロープでクジラを引きずり回して捕獲するんだそうじゃ。まさに勇壮無比、血沸き肉躍る光景じゃろう」

「はあ……まあ、そうじゃな」

 おいらはいやな予感がして、顔をしかめながら聞いていた。

「どうせ日ノ本に帰るなら、ついでに捕鯨船に乗ってみんか。大海原をクジラを求めてどこまでも航海し、できればこの手で仕留めてみたいんじゃ。いいか?」


 やっぱり、だった。

 リョウマがいったんこうといい出したら、だれも止められない。

 それはおいらがいちばんよく知っていることだ。

 数分後には、リョウマはラメリカ東海岸にあるプレマスの港へ向かう切符を二枚、まるで幸運のお守りでも手に入れたみたいにうれしそうに握りしめてもどってきた。

「プレマスはな、ラメリカを建国したイグランドからの植民団が、勇躍して最初に上陸した地じゃという。〝ラメリカ人の故郷〟ともいうらしい。捕鯨の基地として名高いナンタケール島は、そのすぐ沖合に浮かんどる。無数の捕鯨船が、そこから世界じゅうの海へむかって旅立ってゆくんじゃ。これぞ、わしらがとるにふさわしい道筋じゃぞ!」


 リョウマはすっかり元気を取りもどしていた。

 それはまたリョウマが矛盾にみちた勝手なことをいい出し、気まぐれな行動をとりかねないことを意味したが、おいらはもうそれでもかまわなかった。

 だいいち、いったん捕鯨船に乗船してしまえば、泣こうがわめこうが、船の上から逃げ出すことはできない。

 行く先は決まってしまったのだ。


 こうして長い長い〝帰郷の旅〟が始まった。

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