第一章 6 ベルリエンの地球儀

「ほんとにこんな無人島でいいのか?」


 島の風景が見えてくると、船長のほうがむしろ不安そうにリョウマにたずねた。


 ボコイが生まれた火山島と比べればずいぶん大きく、まだ夏の名残りの時期で、全島が眼にしみるような緑の草におおいつくされていた。

 しかし、立ち木は一本としてなく、たしかに人や動物の姿はまったく見えなかった。


「捕鯨船の補給地になっている島まではそんなに遠くない。人家もあって、頼めば泊めてもらえる。なんなら、サンフランチェスカまで乗せてってやってもいいぞ。追加の船賃はいらん。あそこからは日ノ本ヒノモトへの定期航路がある」

「サンフランチェスカまで行ってしもうたら、また出発点にもどっちまう。あの港は、わしがラメリカ大陸に第一歩をしるした地じゃき」

 リョウマは笑って、エイブラハム船長の親切な申し出をあっさり断ってしまった。


「ワハイで日ノ本に手紙を出したんじゃ。この島に迎えに来てくれるように頼んでおいた。無人島とはいえ、ちゃんと海図に名前がのっちょる島じゃからな。先方にも都合があろうから、どれくらい待つことになるかわからんが、それまでここで暮らすつもりじゃ。なあに、それほど長くはなるまい」


 船長は首をかしげた。

「どうしてそんなめんどうなことをするのだ?」

「まあ……今だからいうが、実は、わしは正々堂々とは帰れん身なんじゃ」

「あんた、ウォンテッド(おたずね者)だったのか!」

 エイブラハム船長はびっくりして、リョウマの顔をまじまじと見つめた。

「似たようなものじゃな。とっくに死んだことになっちょるんだ」

 リョウマはヘラヘラ笑いながらとんでもないことをいった。

 船長はドングリまなこをギョロリとむきだし、リョウマのほうへ向き直った。


 この話にはおいらも驚いた。

 温泉旅行のこととか、艦隊を持っていたなどということもそうだが、リョウマの話の中では、断片的に日ノ本でのことが触れられるだけで、どういう身分に生まれ、何をして生活していたのかとか、どういう人間関係があったのかというような、核心にせまる事情がちゃんと語られたためしはまったくなかったのだ。


 今の日ノ本では、まだ移住や海外渡航するような者がほとんどいないことは容易に想像できる。

 リョウマ自身、「しばらく前までは外国に行こうとくわだてただけで打ち首獄門じゃった」といったことがある。

 それにもかかわらず、リョウマが国外脱出しなければならなかったのには、たしかにそれ相応の重大な理由があるはずだった。


 リョウマが日ノ本でのことを語りたがらないのは、そういうことを何もかも忘れてしまいたかったからではないかと思う。

 長い旅が突然終わることになるまで、おいらはずっとそう感じていたものだった。


「旅はええもんじゃな。わしは毎朝、起きるたびに生まれ変わっちょる。新しい街で、新しい自分になるんじゃ」


 リョウマがさわやかな笑顔でそういったのは、忘れもしない、パレのモンマルテルの丘にある眺めだけはいい安宿でだった。

 リョウマに肩車されて屋根裏部屋の小窓からやっと顔を出すと、世界一の花の都のにぎわいが一望できた。


 ラメリカから大陸間航路でイグランドへ渡り、そこに数か月滞在した後、ようやくユーロピア大陸の土を踏んだばかりのころのことだ。


 それからフランセ、ヒスペニア、イタレア、アウストリアからドーチェスへと、ユーロピアの国々をぐるりとめぐり歩いた。

 けっして贅沢な旅ではなかったが、リョウマは見たいと思い立ったものを見るためには、なけなしの金も手間も惜しまなかった。

 壮大華麗な建築物や美術品の数々はもちろんのこと、息をのむような美しい風景から、雄大な景観を呈する大自然、轟音の渦巻く最新の工場、庶民でごった返す市場まで、ありとあらゆるものの中を、吹きすぎる一陣のつむじ風のように二人は軽やかに移動していった。


 リョウマとおいらが最後にたどり着いたのが、当時アウストリアとフランセをあいついで撃破し、統一ドーチェス帝国を打ち立てたばかりのユーロピア最強国プルシアの首都、ベルリエンだった。

 その地でリョウマの顔に憂愁の影がさしはじめ、そしてあきらかに何かが変わってしまったのだった。


 きっかけは、街角で一人の日ノ本人の若者と出会ったことだった。

 格好はみすぼらしかったが、眼は生き生きとして何冊もの本を大事そうに小脇に抱えていた。


坂元サカモト龍馬リョウマさんですね?」


 リョウマは警戒するように眼を細め、すぐには答えようとしなかった。


「あなた宛の手紙を預かっています。あなたを見つけしだい、お渡しするようにと」

「……わしがベルリエンにおると、ようわかったな」

 青雲の志を感じさせる実直そうな青年の表情に、リョウマはいつもの人懐っこい笑みをとりもどしていった。

「いいえ、小生だけではありませんよ。パレやローモなど、あなたが立ち寄りそうな都市に在住している何人かの学生の元に、おそらく同様の依頼が届いていることでしょう」

「おおげさなことじゃなあ。そんなに大事な用件なんかのう」

「手紙の中身は知りません。でも、とにかくお会いできてよかった。なに、すぐにあなただとわかりましたよ。見まちがえるはずがありません。そのう……通知にあった人相書きそのままでしたから」

 青年は口ごもりながらいい、リョウマも人相書きのことはそれ以上追及しなかった。

 どうせろくなことが書かれていなかったにちがいないし、リョウマの特徴というのはまさにそういうものなのだ。


 大学の図書館に調べものをしに行くという若者について重厚な石造りの建物に入った。

 二人はテラスの片隅に置かれた長椅子で長いこと話しこみ、おいらは無数の革張りの本をおさめた見上げるばかりの書架の間を歩き回っていた。


 通路の途中に差し渡し一メートルもある大きな地球儀がすえられているのを見つけた。

 南北のラメリカ大陸、ユーロピア、アルジア、アフロカ……ぐるりと回りながら記憶にある地名をつぎつぎたどっていると時間を忘れて見入ってしまった。


 何かの拍子に手を触れてしまったらしく、いきなり地球儀がすべるように回転した。


(そうか、地球は回るものなんだ)


 そのことに気づくと同時に、ちょうど眼の前に来た海の中のひとかたまりの島々に眼が止まった。


 HINOMOTO――


 心臓が跳ね上がるようにドキンと鼓動し、身体じゅうが得体の知れない熱をおびてくるのを感じた。

 甘ずっぱいような愛しさがこみ上げてくるのと同時に、自分が生まれたという土地のあまりの小ささに愕然とする思いがした。


 いたたまれない気持ちになって広い海をさ迷うように指でたどっていくと、ワハイと書かれた群島が見つかり、地球儀を半周したころになってようやくラメリカが現れた。

 なんだか妙にホッとしている自分を見出したとき、これは海を渡ろうとしたリョウマが感じた気持ちとたぶん同じようなものなんだと直感した。


「あいつは留学生じゃ」

 ホテルにもどると、リョウマはいった。

「りゅうがくせい?」

「日ノ本ではまだちゃんと学べないことがいくらでもある。そういう先進の学問を勉強するために、向学心に燃える青年たちがぞくぞくユーロピアへ渡航してきちょるという。あいつは奇妙なものを研究しているらしい。フィロソフィアというんじゃ」

「どんなものなんだい?」

「森羅万象、この世にある、ありとあらゆるものについて考える学問なのだそうじゃ。およそ、すべてのものには、それが存在する理由がちゃんとあるという。それを解き明かしていくんじゃ。空気に浮かぶ眼に見えないようなちりから、われわれ人間の一人一人にいたるまで、等しい重さのそれ相応の意味がある。どう見ても馬鹿げた行いや、とんでもない妄想にまで――やつはそういった。おもしろい考え方じゃろうが」

 リョウマは、いいながら自分の言葉に納得したように何度もうなずき、また珍しいものを見つけたぞと自慢げに高笑いした。


 おいらは地球儀を思い浮かべた。

 地球をあれだけの大きさに縮めても、まだ世界は大きくて広い。

 それに対して、日ノ本は悲しいほど小さくて遠かった。

 しかし、だからといってそこに住むさらにちっぽけな人間たちには存在する意味がないなどということになったら、いたたまれない気持ちになる。


 若者がどんないきさつでその学問を学ぶことになったのかは知るよしもないが、彼を突き動かしたものがリョウマと同じだということはなんとなくわかった。


「手紙は下宿先に置いてあるというので、明日も図書館で会う約束をした。それに、フィロソフィアの話につい夢中になって、日ノ本の近況とか、まだいろいろ聞きたいことが残ってしもうたんじゃ」

 おいらは眼を輝かせてうなずいた。

「また地球儀が見られるんだね!」

「ほう、地球儀か。じっくり見て、世界じゅうの国を憶えちまってくれ。これからはおまえに案内してもらうことにするけんな」


 久しぶりに日ノ本人と話したせいか、その夜のリョウマはすこぶる上機嫌だった。

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