第六章 6 日ノ本の旅路

 後部座席に設けられた小さなのぞき穴に眼をくっつけていると、夜通しともされているガス灯に浮かび上がる東亰トウキョウの夜景が眺められた。

 秋が深まってきた証拠に、紅葉した沿道の並木の葉がチラホラと舞いはじめている。


 ヒジカタが引く人力車は、ほとんど無人の大通りを悠然と進んだ。

 横を行くカワジは、規則正しく運ぶ足の動きが見えるだけだが、ちゃんと礼儀をわきまえて一定の距離をとっている。

 しかし、コツッ、コツッと響くその着実な足音は、いかにもしつこい性格を表しているような気がした。


北海堂ホッカイドウから船で墺州オウシュウに渡り、官軍に頑強に抵抗した愛津アイヅ藩が新政府に強制的に入植を命じられたっちゅう十南トナミを訪ねました。聞きしにまさるひどい土地でしたな。火山灰地で作物はろくに育たぬし、気候もそうとうに厳しい。だれもがやせ細っちょって、餓死者も出たらしい。彼らが事前に聞かされた三万石という収穫高は実質何分の一もなく、『薩潮サッチョウ政府にだまされた』と恨みの声があちこちで上がっちょりました。先生の手紙にあった名賀岡ナガオカ久茂ヒサシゲっちゅうお人とは、政府に救済の嘆願をするために上亰ジョウキョウ中ということで会うことができませんでしたし、他の重役の方々も一様に意気阻喪しちょって、とても日ノ本ヒノモト全体の情勢や未来のことまで語り合えるような雰囲気ではありませんでしたな」

 リョウマの声は暗く沈んでいた。


 本州の最北端に位置する十南の荒涼とした風景は、今でもおいらのまぶたの裏に鮮明に焼きついている。

 荒々しいといっても北海堂の大地のような雄大さはなく、どんよりとした雲がつねに重く垂れこめ、およそ人の住む土地とは思えない寒々しさだった。


 人々の表情には生気がなく、壮年の男たちにも、数年前まで日ノ本最強の武士団だったという面影など、どこを探しても見当たらなかった。

 おいらと同年代の子どもたちはといえば、サムライの子どもらしく礼儀正しくて、少々のことでは泣きもしないかわりに、めったに歯を見せて笑うこともなかった。

 言葉もろくに通じないユーロピアやアインの子どもたちより、彼らのほうがよっぽどとっつきにくかった。

 子どもの性格まで暗くさせる境遇というのは、ろくでもないものにきまってるし、それが貧しさやひもじさのせいだけでないこともわかった。

 世の中がはらんでいる矛盾が、あきらかに彼らの心をむしばんでいたのだ。


 リョウマはつづけた。

「愛津はキョウの都の守護を幕府からまかされ、薩磨サツマ潮州チョウシュウの志士とさんざん衝突をくり返した過去のいきさつがありますからな。懲罰としか思えぬ十南への移封もまだ理解できんことはない。しかし、おとなしく新政府に従った墺州の他の諸藩が置かれている状況も、悲惨なことでは愛津の人々とたいした違いはないと感じられました」

「そうだろうな。廃藩置県で藩による支配は終わったが、税金を取り立てるのが国に変わっただけのこった」

「それどころか、もっと厳しいことになっちょりますぞ。藩なら率先して産業を振興させたり、公共事業を起こしたりして、領民と苦楽を分け合ったもんじゃ。今の役人は国の権威を振りかざすばかりで、日照りだの川の氾濫だのといった個々の事情などまったく考慮してくれんそうじゃ。おまけに徴兵令によって若い男子が兵隊に取られ、大切な働き手を失ってしまった家がたくさんあった。文明開化や新政府に変わったことの恩恵は、中央から遠い墺州などの地方では、まったく受けていないというのが実情じゃ」

「今の国家の状況では、軍隊の増強や電信、鉄道といった西洋流の近代的産業の基盤づくりでせいいっぱいだからな。殖産興業といっても、やはり列強に対抗するための軍備や国策的な工業、産業の育成にかたよらざるをえねえんだ。富を得るのは政府につながりを持つ者に限られ、栄えるのは一部の大都市や港湾などにすぎん。一般の国民の生活をうるおすまでには、まだまだ時間が必要なのさ」

「わしらが新しくつくろうとした国は、このようなものではけっしてなかったはずなんじゃ。たとえ列強のように富み栄えておらんでも、国民一人ひとりが明日への希望に満ちあふれて、自分たちは素晴らしい国に住んじょると、誇らしげに思える国を目指したのではなかったんですかいのう」

「そういわれると返す言葉もないよなあ」

 カイシュウ先生は腕組みをして、うめくようにつぶやいた。


 人力車は日ノ本橋ヒノモトバシからまっすぐ江渡エド城のお堀端に出た。

 リョウマの気まぐれな散歩にさんざんつき合わされたせいで、東亰のおもな地理はもうだいたい頭に入っている。

 カイシュウ先生の屋敷は山の手の赤阪アカサカにあるし、警視庁はその途中に位置している。

 カワジに怪しまれないためにも、千波道場のある金座キンザ界隈を通るわけにはいかなかった。


「そういえば、墺州を南下してきたなら、恵智後エチゴ河合カワイ継之助ツグノスケには会えたのかい?」

「ええ。十南に見切りをつけて故郷にもどることにした家族といっしょに、愛津にたどり着きました。維新戦争で官軍に敗れた河合さんは、同盟を結んだ愛津に落ちのびる途中の村で死んだことになっちょるそうですな。その村からいくらも離れていない深い山の中で、今もこっそり悠々自適に隠れ住んじょりました。河合さんは象山塾の先輩じゃから、わしらをこころよく迎えてくれましたぞ」


 カワイという男は、名前とはまるで反対に怖い顔をしたオッサンだった。

 聞けば、ショウザン先生と意見が合わずにけんか別れしたらしい。

 そういう強い気性は健在で、リョウマよりいくつか年上のはずだが、枯れた感じはまったくなく、戦争で負傷した足を引きずっている以外は元気はつらつとしていた。

 おいらたちが訪ねると、近くの渓流でイワナを釣ってきてごちそうしてくれた。


「そうか、そうか。幕府側についた大藩がいくつもあったのに、官軍をおびやかすほどのめざましい戦いぶりだったのは、河合が率いた長丘ナガオカ藩だけだった。愛津のように幕府に忠義立てして戦ったというより、薩潮の強引なやり方に反発して、恵智後一国を独立国にしようという壮大な気概で戦いを挑んだんだ。薩潮に対する河合どのの批判は、まさに現政府の欠陥を鋭く予見したものだったといっていい。あの人が生きとってひそかに手紙をくれたときには、おれは驚いて狂喜したもんだよ。これはもしかすると、西豪サイゴウ大久穂オオクボを押しのけて、日ノ本ヒノモトの指導者になれる人物かもしれんと思ったくらいだ」

「ええ、ぜひ上亰して太政官政府に出仕してほしいと、海舟先生から熱心な誘いがあったといっちょりました。ですが、本人には政治ごっこなんぞに夢中になる気はまったくないそうじゃ。そんなことをしとるひまがあったら、恵智後と墺州をまとめて独立国となし、自分たちのほうから日ノ本を見捨ててやると息巻いちょりましたぞ」

「まさにそういう発想さ。薩潮の不平士族らには、逆立ちしてもできん考え方だ。しかも、そんな荒唐無稽な話が、ひょっとしたら現実になるかもしれんご時勢だ」


「いや、あながち荒唐無稽ともいえんかもしれませんぜ。わしらの滞在中に、恵智後との国境の山を越えて、ひょっこり古林コバヤシさんが訪ねてきたんじゃ」

「おお、あの古林虎三郎トラサブロウか。象山の門下生の中では、潮州の革命の志士たちを育てた芳田ヨシダ松蔭ショウインと〝両虎〟と並び称された長丘藩士だ。象山もあの男の才覚をそうとう高く買っておった。なんでも、維新戦争で疲弊した長丘藩に送られた一〇〇俵の米を食いつぶしてしまわず、将来の人材を育成する学校をつくるために投資したというこったな。それが『米百俵』って逸話になって、東亰にまで聞こえとるぞ」

「そうじゃったんですか。わしは古林先輩とは塾で面識もあった。あん人も、廃藩置県以後は長丘では役目を解かれて気ままな身分になっちょるそうで、その夜は三人で、ホラ話というか、夢物語ちゅうか、酒を酌みかわしながら好き勝手放題なことを一晩じゅう語り明かしたんじゃ。藩を背負っちょった当時は、たがいの立場があってお二人は疎遠だったそうじゃが、今となれば共通した日ノ本という国の未来しか頭にない。象山門下らしいとんでもない理想像を描き合っちょりましたぞ」


 そういえば、おいらも、いい年した三人がいつまでも大声でわめくように議論していたのを憶えている。

 幕末の若い革命の闘士たちはきっとこんな風だったにちがいないと想像させる激しさだったが、見ればボウボウのひげはかなり白く、額は広くなり、目尻のシワも隠せない。

 やつらのたわ言においらはとてもつき合いきれず、小さな庵の隅でボコイを抱いてさっさと寝てしまった。

 どういう結論になったのか知らないが、どうせ夜が明けてしまえばひどい二日酔いしか残らなかったにちがいない。


 そんな話をしているうちに、人力車がゆっくりと止まった。

 カワジが停止するようにヒジカタに命じたらしい。

カツどん、警視庁に着きもした。おいはまだ仕事がある。ここでお別れしもそ」

「天下の大警視に見送っていただけたとは、じつに光栄至極ですな。せいぜい東亰市民の安全のためにつくしてくだされ。……だが、こんな波乱ぶくみの世の中だ。なんでもかんでも政府が正しくて、異議申し立てする者がすべて邪悪なやからとはかぎりませんぞ。忠実なだけが取りえの、凶暴なイヌコロにならんようにしてくだされよ」

 カイシュウ先生は、笑いながら強烈な皮肉をこめていった。

「真理でごわすな。きのう政府の要人だったお方が、今日はもう反政府の旗をかかげて動乱を起こそうとくわだてもすご時世じゃ。もはやだれを信用してよかか、かんたんには判断できもさん。まずは人に疑われるようなまねをせんこつが、いちばんでごわすぞ」

 カワジは顔色ひとつ変えず、したたかに反撃してきた。

「ご忠告痛み入る。せいぜい気をつけるようにしよう」

「じゃっどん、克どんの後ろにどなたか乗っていらっしゃるようでごわすが、そのようにコソコソしちょっと、おいはどうしても疑いたくなりもすな」


 おいらは心臓が飛び上がりそうになった。

「はて、この人力車は一人乗りだがな」

「いやいや、本官の眼は節穴ではなか。車夫はなかなかよか体格ばって、ずいぶん重そうに引いちょりもした。車体の形もすこし変わっちょりもんど」

「ああ、実は大砲を積んでんのさ」

「大砲ですと? それは聞き捨てなりもさんぞ」

「しかも生きた大砲だ。外に放したら東亰じゅうを火の海にしちまうかもしれんぜ」

「ワッハッハ。克どんな、ご冗談がきつか」

 きわどいセリフの応酬においらがハラハラしているうちに、真夜中にもかかわらず煌々と明かりがともっている警視庁の玄関から、制服警官がばらばらと飛び出してきた。


「くそっ。やばいことになってきよった」

 リョウマがつぶやき、狭い座席の中で剣を引きつけた。


「大警視!」

「静かにしやんせ。こんお方は元海軍卿の克どんじゃ。怪しい者ではなか」

 カワジはふり返って、血相を変えた部下たちをたしなめた。


 呼びかけた警官は首を振った。

「そういうことではござらん。たった今、玖州キュウシュウから緊急の電信が入りもした」

 興奮で鼻の穴を大きく広げ、カワジと同じ薩磨弁でいった。


「玖州から?」

熊元クマモト城に駐屯する政府軍が、何者かの激しい攻撃を受けとる模様。反乱です!」

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