第四章 プロジェクト・アスタリスク

 何度通ってもここは好きになれない。胎児として耐える十ヶ月少々は本当に地獄だ。覚悟はできていても決して慣れる事はないだろう。それにこれが最後だ。本人から確認を取り、事故ならば防ぐためのアドバイスをする。俺はその為だけに再び生を望んだ。戻ろう。元の場所へ。 

 俺は再び笹川家の第五子、楓として生を受けた。波風立てぬよう、普通の子供として生きていく。四度目となる幼少期、何もかもが何故か目新しい気がする。いや決してこれは気のせいではない。知らない事が多すぎる。

 自分が誰でどういう人生を歩み、今なぜここに居るのか?自分が生まれてきた理由くらいは「知っている」のだが、記憶の大部分が欠落している事に気がついた。忘れたのなら思い出す事もあるだろう。しかし「知っている」「知らない」の二択で言えば「知らない」事の方が多い。200年近く過ごしたこの街の事を何も知らない。この家の事は今回生まれてから「覚えた」物であり後天的な記憶だ。隣の家にも俺の家族が住んでいる事は知っている。知っていて当然のハズの細かい部分を一切知らない。もちろんこれは以前にも「危惧」はしていた部分だ。脳の容量不足で記憶の一部が欠落するという危惧だ。しかしそれとは少し違う。言うなれば「無意識」を全て置いてきたような感覚だろうか?これまでは人から人へダイレクトに生まれ変わっていた。そういう意味では肉体を喪失した事は一度もなかった。普段見る「夢」であれば肉体は別の場所に確かに存在しているし、目が覚めれば「脳」に蓄えられた記憶を元に再生される。しかし、肉体を失った上で俗にいう「あの世」に行けばどうだろう?持って行けるのは僅かばかりの「有意識」と言う事にもなるだろう。もちろん、それでよかった。美咲さえ居れば他には何も要らない。そう言ったは他でもない俺と美咲なのだから。

 今の俺は例えるなら「自分が主人公の小説」を「ここまで」読んだ程度の情報しか持っていない。俺の記憶は自身の経験と言うには余りにも儚くか細い情報に過ぎない。しかし「やるべき事」はしっかりと魂に刻まれている。「その時」が来るまで、神奈に俺の正体を悟られてはいけない。美咲と同じだ。俺は俺を救いに来た。ここで全てを神奈に説明して俺が光一だと言えば、神奈をかっさらう事は簡単かもしれないが、残念な事に今の俺は美咲と共に歩んだ光一だとは言い難い。この時代の神奈はこの時代の俺と一緒にならなければ意味が無い。そういう意味でも大地として生まれ変わり「やり直し」を選択しなかったのは正解だ。取るに足らない些細な出来事の積み重ね。しかしそれは凄く大切な物だ。その大部分を失った今の俺に美咲を愛する資格はない。

 数年後、俺は神奈と再会する。そして幼馴染として獅庵も加えて懐かしい幼少時代が再び訪れた。神奈に悟られぬよう無理に子供を演じようとする必要もなく、今の俺にとっては幼少期の全てが新体験だ。知り尽くしているハズのこの街の何もかもが初めて見る物かのように目に映る。何もかも忘れている訳ではない。この商店街の事ならある程度は知っている。なのに絶対知っているハズの「あの角」を曲がった先がどうなっているのかは知らない。「作中」で描かれていなかった部分を「読者」が想像でしか補えない感覚に似ていると言えるだろう。もちろん、俺は今ここで生きている。知らないなら調べて知ればいいだけの話だ。今なら獅庵の想いがこっちに向いているのも良く分かる。俺はきっとこの子を幸せにしてやらなきゃいけないんだと思う。美咲が生前ずっと気にかけていたのは我が子よりも獅庵の方だった。まぁ我が子の事はその目で確認して大丈夫だと知っていたのだから当然だろうか。

 それから十数年、俺は高校の入学式の後、下校せずに生物準備室の前でチャイムが鳴るのを待っていた。この学校に通うのも4度目のハズなのに「生物室」の場所が分からなくて学校を歩きまわるハメにもなったが「時間」には間に合った。そう、この景色は今も俺の根幹としての部分に残っている。この窓から外を眺めながらアフロと与太話してたんだよな。今頃中では神奈とアフロがよろしくやっている所だろう。暫くすると二人だけの時間に水を差すチャイムが鳴り響く。それから少ししてカチャリと鍵の開く音がして中から神奈が出てきた。

「な、何してんの」

 俺の顔を見るなり慌てて取り繕う神奈。

「いいから中に戻れ。お前とアフロに話がある」

「わ、私、もう帰る所だから」

 珍しくうろたえている。こんな姿は滅多にお目にかかれない。

「こう言った方がいいか?俺の目の前にいる美咲と中にいる楓に話がある」

「あ、アンタ…」

 足早に立ち去ろうとしていた神奈は俺の言葉に慌てて振り返るも言葉を失っている。

「聞こえてんぞ、中に入って鍵かけろ」

 中からアフロの声がした。

「失礼します」

 俺はそう言って扉を開けて神奈に入るよう促す。神奈とアフロが並んで座り、俺はその正面のソファーに腰を下ろす。

「一体、何の話だ」

 アフロが口を開く。詳細は理解しているハズなので単刀直入に話す事にした。

「永遠の愛を誓い合ったばかりのお二人には申し訳ないが、結論から言うと失敗した。ここにいるのは妻に先立たれた上に少しボケちまった哀れな老人の成れの果てだ」

「どういう…事だ?」

 アフロの表情がいつになく険しい。まぁ当然だろう。

「行った通りの意味さ。俺の美咲は死んだ。もうドコにもいやしない。消えちまったんだ。パッ!とね」

 俺は胸の前で手を開くジェスチャーを交えてさらりと言い放つ。実際気がついたら居なかったんだ。アニメや映画なんかじゃ、そういうシーンだと光りに包まれて天に召されるっていうのかね?粒子状になって消えていくとか、だんだん薄くなっていくとか、そんな演出一切無しにいきなり消えてたんだからな。

「だから、何があった!」

「先に確認しておきたい。美咲、お前の望みは何だ?」

 声を荒げるアフロの問いかけを無視して神奈に話を振る。

「コーちゃんと、永遠に一緒に居る事だよ。聞かなくても知ってるでしょ!」

 困惑した様子が神奈の声にも現れている。いつものような強気な口調ではなく、恐れにも近い震えが声に混ざっている。俺は少し沈黙してからゆっくりと口を開いた。

「なら、あれは不幸な事故と言う事でいいんだな?」

「だからアレって何!」

 不安そうな顔で問い詰めてくる神奈の顔を見て俺はゆっくりと話し始めた。

「俺と美咲はアッチに着いて、互いの顔を見て…喜んで泣いた。互いに強く抱きしめ合った。凄く幸せだった。ここが俺達の目指していたゴールだと確信した。永遠にこの幸福だけを抱きしめていられると思った。本当に、もう、それ以外は何もいらないと思った。だけど…美咲はすぐに消えてしまった。何事かと思ったよ。恐らくだが、美咲は満足してしまったんだ。本当に満足して…もう何も要らないと…前にも何度か話したろ?このまま死ねればハッピーエンドだって…お前はそれを体現しちまった。俺はそこに一人残され…途方に暮れたって…お話さ」

「やだよ、やだよそんなの。私だけ消えちゃったら…コーちゃんが…」

 そう言って美咲は俺とアフロの顔を交互に見る。

「言ったろ。ここに居るのは妻に先立たれた哀れな老人だと。そしてそれがお前の望んだ結末で無いなら…修正できる。お前達を救う方法はある。それで俺は俺を、お前たちの未来を救いに来たんだ」

 俺はそう言って静かに目を閉じた。

「一体…何を…どうすりゃいい」

 アフロは若干不機嫌だ。わからんでもない。行けると確信していた計画に穴があいていた事を認めざるを得ない状況だ。

「最初に作るのは真っ白な空間でも水平線でもない。時間だ」

 俺はこれまでに考え尽くした「美咲を救う方法」をゆっくりと話し始める。

「時間?」

「そうだ。時間の概念を最初に適応しろ。それさえやっておけば…最悪の自体に陥っても時は戻せる。神にも等しい力があろうとも、無い袖は振れないんだ。「もしも」に対する備えとしては当然の概念だ。その結果として、美咲が来るまで暫く待つ事にもなるがな」

「どれくらい待つんだ?」

「知らねえよ。俺の方が先に死んだし、その後、神奈が何年生きたかなんて知らない。時間の概念が無かったからこそ、すぐに会えた。それ故に、大きな喜びが全てを飲み込んだ。土台を疎かにした結果、美咲を失った。お前が、いや俺が最初すべきだったのは文字通り「世界」を作る事だ。新しい星を作り物理的な、物質的なルールを可能な限り適応してそのルールに従って永遠に生きる事だ」 

「物質的なルールってーと…」

「食わなきゃ腹がへる、起きてりゃ眠くなる。動けば疲れる。そんな当たり前のルールだよ。物質としての肉体を持て。ただ死なない。歳も取らない。子供も作らなくていい。多少不自由で、この世界の延長みたいな場所だが、そういう特別ルールで妥協しろ。永遠を望むならな」

「十分だよ…それで」

 泣きそうな顔をして神奈がそう呟いた。

「ああ、そうだな」

 状況を察したのかアフロもそう返して神奈の肩に手をおいた。

「貴方はどうするの!私、私は…」

「お前のコーチャンはソイツだろ?俺じゃねえ。俺はもう別の俺なんだ。妻とは死別した。それともう一つ、大事な事を伝えなきゃいけない」

「大事なこと?」

 俺の言葉にアフロは「まだあるのかよ」といった怪訝な表情を見せる。

「ああ、当然と言えば当然だし、さっきまでお前たち、話、していただろ?記憶とニューロンの事。肉体あっての記憶だ。人から人へダイレクトに生まれ変わる過程では肉体の消失はないが、行き先があの世って事だと話は違う。無意識下の記憶は持っていけない物と考えろ」

「…て、事はお前…」

「ああ、記憶の大部分が欠落している。お陰で三度も通ったハズのこの学校がまるで迷路だよ」

「…そう…だよな…肉体と言う器を失っちまったら…深い場所の記憶にはアクセスできなくなる。当然の事だわな…」

「だがお前さんの危惧していた事も事実だろう。ここで生き続けるには限界もある。一番大事な事さえ忘れてんきゃ、再び歩む事もできるさ。もちろん、そこが永遠である事が前提だ。だから…しっかり土台を固めるんだ。永遠に比べれば百年や二百年程度の記憶が朧になっても取り返せるさ」

「私は…捨てたくない…コーちゃんと歩んできた…全部、全部大切な想い出だから…一つも捨てたくないよ!」

 神奈は涙ながらにそう訴えるが、それは無理な相談だ。

「何、全て忘れて記憶喪失になる訳じゃないさ。俺にだってお前と歩んだ大切な想い出は残ってる。魂に刻まれていると言っても過言じゃない。ただ、細部が思い出せない。そういう事があったという事は知っているが、自分が体験したという実感が乏しいんだよ」

「そんなの嫌!」

「心配するな」

 そう言ってアフロは神奈を優しく抱きしめる。

「そういう事があったって事だけでも覚えていられるなら…また…同じ事をやればいいだけだろう?一緒に海行って、花火も見に行こう。他にも一杯あるだろう?あの幸せをもう一度味わえるんだ。むしろ…楽しみじゃないか。スゲー面白かった映画をまだ見てないって話を聞いて…ソレが逆に羨ましく感じる事もあっただろ?」

 絶望的な顔を見せる神奈にアフロが優しく声をかける。その通りだ。俺の美咲が無事なら…俺だってそうしただろう。色あせた想い出を再び体験していた事だろう。気が済むまで何度でも。

「まぁ、そういう事で俺はその事を伝えに来ただけだ。ここから俺に出来る事と言えば…美咲、お前の気がかりだった事を一つ潰してやる」

「獅庵のこと?」

「ああ、俺に任せておけ。必ず幸せにする。その件なんだが…ソッチに邪魔してもいいか?世界の安定には人は多ければ多い程いいと思うんだ」

「少しくらい…賑やかになってもいいよね?」

「ああ、むしろ来るもの拒まずだ。新しい天国ってのを作ろうじゃねえか」

 涙目の神奈の訴えにアフロも否定的な意見は返さなかった。

「えっと、楓君。獅庵のこと宜しく。本当の貴方を愛した、たった一人の女なのかもしれないんだからね」

「解ってるよ。それよりお前ら、アッチじゃその格好でいろよ。楓が二人になっちまうと獅庵が混乱しちまう」

「確かにそうだな。獅庵から見れば旦那と同じ姿の男がイチャイチャしてるのは親友のオカンって事になるもんな」

「その死生観を子々孫々語り継げ。望むものだけ来ればいい。死んだ後にどこへ行くのも自由だし、そこから別の場所に巣立っていくのもアリだ。望む者には夢の操り方を教えてやればいい。一人一人が神になればいい。世界を、星を作ればいい。お前らにゃ今さっきの話にもなるが、これが俺達の希望の星だ。アスタリスクだよ。これをプロジェクト・アスタリスクと呼ぼう。よし、今決めた」

「お前さん、今年で延べ何歳だ?」

「183歳かな」

「いい歳こいて中二こじらせてんじゃねえよ…でもまぁ…悪くねえ」

「お前さんならそう言うと思ったよ。俺の知る範囲じゃお前さんが最初に死ぬ。まぁ年齢的にも当然だ。土台しっかり固めて待っててくれ」

「俺、また光一より先?」

 俺の言葉にアフロがげんなりした顔でそう返す。

「あ、忘れてた。確かに最初に死ぬのは光一だ」

「だったら光一に頼むべきだろう。大丈夫、俺なら出来る」

 安堵の表情を浮かべながらアフロは自分に、いや他人だが、自分を信じると言い聞かせている。

「そうだな。今度雁首揃えて説得しに行こう。あの夫婦も二人だけの世界でいいと思ってるクチだ。このままだと多分俺と同じ失敗をする」

「同じ失敗してりゃお前の前に光一がなんとかしに来てたんじゃねぇのか?」

 アフロの問に対して「確かに」とも思ったが、そうはなっていない。そう考えれば光一は「そうならなかった」のか「そうしなかった」のか、それとも「そうできなかった」かの何れかだ。

「どうかな?今いる楓の中じゃ光一は一番若い楓だ。嫁さん消えたショックで消えちまってるかもしれねえ。俺だってあのまま消えちまいたいと思ったよ。昔の俺はそんなに強くないのかもしれない」

 想像でしか無いし、賛同してくれるという保証もない。しかし、こういったリスクがあるという事はあの夫婦にも伝えておく必要があるだろう。

「ほれ、宗教は良くわからんが、聖書にも書いてんだろ?最初に光あれってさ」

「なおさら光一が適任だな」

 アフロの言葉に俺はそう返して軽く笑う。俺も詳しくはないが、聖書の一節だったろうか。最初に「光」があったとかそんな。

「光を目指せ、か。ますますそれっぽいじゃないか」

「赤いアフロのほうが目立つと思うけどな」

「悪いが光ったりはしねえぞ。知ってんだろ」 

「一番若いのに一番つらい仕事押し付けちまうのもなんだが、こればっかりは仕方がないな。今度3人で行こう。美咲に状況理解させるのには手間取ったようだからな。その方が多分早い」

「みんなでご飯食べればいいんじゃない?赤の他人が揃いも揃って真似できないような変な箸の持ち方してれば話は早いわ。ついでに言うとペンの持ち方も変よ」

「知ってるよ」

「今更直んねえんだよ」

 神奈の言葉に俺とアフロがそう返す。あって七癖とは言うが、こればっかりは何度死んでも直らないモンだ。まぁ、箸やペンの持ち方くらいなら今からでも直せなくも無い…と思うが。

「こっちから見てりゃお前も癖っていうか、なんかもう次の展開が読めるオーラ出てるぞ。怒ってる時の笑顔とか喋りの速さとか、首傾げて口だけ笑ってる時は余計な事考えてる時だとか」

「あー、あるある、オイラさっきも反射的に床に正座しちまったからな」

「それは条件反射だろ…」

 アフロの言葉に俺はそう返して肩をすくめる。まぁ神奈が怒鳴りこんできたら俺もきっとそうする。っていうかそうなる。これも魂に深く刻まれている部分だろう。

「他にも一杯あるよ。コーちゃんの変な癖。私も最初は信じられなかった。生まれ変わって今ここにいるなんて話。でも、娘は私の過去を全部知ってるし、自分の事を光一だと名乗る変なアフロは家の事なんでも知ってるし、癖まで全部同じ。誰にも話してない子供の頃の事まで出されたら認めるしかなかったよ」

 そう言って神奈は少し涙ぐんでいる。前世として生きた美咲の「末路」に関する苦い記憶が呼び起こされたのだろう。

「バカが早死にしたせいで苦労かけたな…」

「テメエだよバカ、毟るぞこのクソアフロ!」

「よせよ、やめろ!これもう生産してねぇんだぞ!」

 アフロの労いの言葉に神奈は半ギレで文字通りアフロに掴みかかる。その勢いで瞳に溜まっていた涙が飛んだ。でも少し元気が出たようにも見えた。

「あっち行ったら…コーチャン三人になっちゃうね」

「お前が別ルート作っちまったんだろ」

 神奈の言葉にアフロはそう言って頭の後ろで腕を組んでソファーに深くもたれかかって背伸びをする。

「…そう…だよね。私が…ワガママ言ったせいで…貴方から…一番大切な物を奪っちゃったんだよね…」

 そう言って神奈は本当に泣き崩れた。俺に対する罪の意識のような物を感じているのだろう。

「美咲、それは違う。全ては俺の認識の甘さが招いた事だ。それに消えちまったのは俺の美咲だ。お前じゃない。まだやってもいない、しかも防げる未来の事でお前が気に病む必要はない。これは…ちゃんと考えていれば防げた事なんだ。俺だって救えるなら救いたい。俺が今ここにいるのもその為だ。これは俺のワガママなんだ。お前らは幸せになれ。大切な物はまた見つければいいし作ればいい。…お前が大切に思っている獅庵を、俺に任せてくれればいい」

 泣いている神奈に俺は精一杯の言葉をかけた。実際、コイツは悪く無い。祖先の悪事を責める事すら筋違いなのに、未来で起こり、しかも防げる内容で当人を責める事はできないしそのつもりもない。   

「そうか…苦労をかけたな」

「何、最後に丸く収まりゃそれでいいのよ。次来る時はマグカップ持参するよ」

「マグカップ?」

 労いの言葉をかけてくるアフロに俺は精一杯の虚勢を張って余裕ですって顔でそう返す。そのやり取りに神奈が少し疑問を感じたようだ。

「ああ、ここはそのうち馬鹿共の溜まり場になって喫茶店状態になるのさ」

 そう言ってアフロは肩をすくめて苦笑いする。

「エッチしたけりゃソイツのボロアパートまで行くんだな。まぁ俺達三人の時なら、目の前でやってくれても俺は一向に構わないがな」

「え、ちょ…」

 神奈は泣いていたかと思えば顔を真赤にして…否定する意味が無いと悟り気まずそうに黙ってしまう。

「お前にゃ隠し事はできねぇわな」

「ああ、全部とは言わんが大筋の事は知ってる。むしろ隠し事が多いのは俺の方だ。別に何も隠すつもりは無いし、知りたきゃ何でも教えてやるが、未来の事なんてのは解かんねえ方が面白いってモンだろう?」

 諦め気味に笑うアフロに俺はそう答えて、そろそろお暇しようと席を立つ。 

「ウチのコーちゃんは…父はいつまで生きてる?」

「アンタらの娘が高校二年になるまでは元気だったぜ。実際に死んだのは下の子が高校に入った年の秋だ」

「そう、まだまだ時間ありそうね。禁煙させて正解だったわ」

「こっちみんな」

「あー、そうそう、ソイツも肺癌患うけど、気にすんな。その頃には癌は治る病気になってる。ちっとばかし高くは付くけどな。100歳手前までは生きるぜ」

「マジか。ありがてぇ」

 そう言うなりアフロは現状で一番安い銘柄のタバコを懐から取り出して火をつける。

「受動喫煙反対!窓開けなさい!」

 俺はそんな仲睦まじいやり取りを背にその場を後にした。


 それから数ヶ月が経った。もうすぐ夏休みだ。セミの鳴き声も日に日に大きくなっていく季節だ。来週からは一学期の期末テスト。これも終われば…何度目だ。俺の高校生活における夏休みは…そんな蒸し暑い夏のある日、放課後の校舎裏にできた日陰に呼び出された俺は神奈と二人で会っていた。

「まだなの?」

「どうすりゃいいのか解かんねぇんだよ!」

 ジト目で催促する神奈に俺はそう答えて頭を掻きむしる。神奈の催促、それは言うまでもない、獅庵への告白の事だ。

「獅庵に脈あるって言っちゃったじゃないの。早くしてくれないとあの子が可哀想だし、期待させちゃった親友としての私の立場も考えてよね」

「よく考えたら俺…自分から女に告白した事なんて一度もねえ!」

「まぁ、そうでしょうね」

 かなり重大で衝撃的な事実を口にするも、神奈は真顔でサラリと返す。

「教えてくれ!どうすりゃかっこ良く決まるんだ!」

「183年も生きてそのザマなの?」

 元嫁に女の口説き方を聞く元バカ亭主に神奈も半ギレ気味だ。

「バカ、声がでけえよ!あー。畜生、楓か獅庵に馴れ初め聞いときゃよかったぜ」

「大丈夫、無言で押し倒しても泣いて喜ぶから。好きに行け」

「マジで?」

 割と大胆な手法を提案する神奈の言葉に俺も思わず真顔で聞き返す。

「マジマジ。解ったらさっさと行きなさい」

「え、今から?ちょっと、そのこっちも心の準備が…」

「今日は水曜でしょ?私今から空手に行くから、獅庵は今日は一人で帰るはずよ。そこを狙いなさい。ガーっといってバシーンと決めりゃいいのよ」

「来週…じゃダメかな?」

「今すぐ!」

「サー!イエッサー!」

 とりあえず走りだしたはいいが、流石に無言で押し倒すのは問題あるだろ。とはいえ、このまま何も無かったとなると次こそ拳が飛んできそうだ。それにまだ高一の夏だぞ。来年でも良いんじゃないかとも思えてくるが、元鬼嫁が怖いので急ごう。

 とりあえず体育館の前までは来たが、獅庵はまだ部活の最中だ。とりあえず部活が終わるのを待とう。うん、校門前で待機だ。校門の入口側を背もたれに下校する生徒を見送りながら獅庵が出てくるのを待った。暫く待っていると獅庵の後ろ姿が見えた。

「よう」

 俺は後ろから少し遠慮気味に声をかける。

「か、楓君…神奈ちゃんなら…今日は空手だから…一緒じゃないよ」

「知ってる。伊倉、お前に、その、話があるんだ。少し、時間いいかな?」

「うん…」

 恐らく察したのだろう。神奈から何を吹きこまれていたのかは知らないが、明らかに何かを期待している目に、耳も真っ赤になっているのが解る。鼓動も早まっているのか呼吸数も増している。これはイケる。ゴーサイン出てる。この赤は行けの赤だ。ここで決めるしか無い。

「カラオケ行かないか?二人で」

 あー違う、そうじゃないだろ。アホか俺は!また先延ばしにしちまったよ!

「いいよ。行こ」

 期待していた物とは違ったようだが獅庵は少し嬉しそうだ。個人的に遊びに誘うのもこれが初めての事だ。そう考えれば小さな一歩だが大いなる一歩だ。本当に他愛のない雑談で間を繋ぎながら駅前まで歩く。正直何を話したのか覚えていない。ウチの猫の話とか、姉ちゃんのバイクが放置されてて勿体無いとか、オヤジが最近抜け毛を気にし始めたとか…そんな自分の事ばかり話していた。

 カラオケ店の部屋に入るも特に会話がない。俺達はテーブルを挟んで正面に座ったまま選曲用の端末に触れることも無く押し黙っていた。

「歌わないの?」

 長い沈黙を当然の質問で獅庵が打ち破る。

「すまない。その、カラオケは嘘だ。大事な話だから、その、静かで邪魔の入らない場所が…」

 俺は慌てて申し訳無さそうに本来の目的の「片鱗」に触れるような発言を口にしたが…隣の歌声がモロに聞こえてくる。凄え大切な場面なんだ。横でアニソン熱唱してんじゃねえよ!しかもヘタクソで女性ボーカルの曲を無理やり男が歌ってる系の結構痛いBGMが雰囲気をぶち壊してくださる。これならまだ家に招いた方がマシだったか。いや、家だと確実に桜姉が邪魔しに来る。多少の雑音は我慢だ。

「全然静かじゃないけど…邪魔は入らなそうだね」

 そう言って獅庵は少し笑って見せる。あ。やばい、可愛い。獅庵は目を伏せてソワソワしている感じだ。耳が真っ赤だ。

 ここでまたボカしたらヘタレの極みだ。今度こそ嫌われる。行くしか無い。

「その、俺、不器用だからさ。気の利いた事も言えねぇ。カッコ良く決めたいのは山々なんだが、どうすりゃいいのか解かんねぇ。ただ、その……お前が好きだ。付き合ってくれ」

 多分だけど…今俺も真っ赤になってる。死ぬほど恥ずかしいし、人生で最大の勇気を振り絞った。獅庵は下を向いたままだ。むしろ、泣いている。

「俺、なんか悪い事言ったか?泣かせるつもりはなかったんだ。許してくれ」 

 俺は慌てて獅庵の横に駆け寄って釈明する。

「逆だよ。嬉しいの!」

 号泣だ。超泣いてる。涙か鼻水か良く分からない液体で顔がびしょ濡れだ。

「私ね…強くなろうとした。辛くても…絶対に泣かないようにした。楓君が、強い女の子が好きだって…そう言ったから…私…強くなれたの?神奈ちゃんより…強くなれたの?私…私…」

「強いってのは、その、喧嘩に強いとか、力が強いってだけじゃ無い。強くなろうと努力している姿が…お前のその…なんていうか、気持ちが十分に強いんだ。伊倉、いや……獅庵、お前はその強さは凄く…美しいと思う。お前は何よりも真っ直ぐで…凄く強いと思う。俺の知る何よりもずっと強いよ。俺と…俺とずっと一緒に居てくれ…お前が好きだ。お前だけが欲しい」

 俺はそう言って獅庵を強く抱きしめた。獅庵はわんわん泣いている。こんな獅庵を見たのは小さな子供の頃と…俺の葬式の時くらいだ。俺にはもうこの子しか居ない。「ごっこ」じゃない。残りの人生、いや残りの「永遠」を獅庵の為に使おう。美咲を失って以来、すっぽりと抜け落ちていた何かが、綺麗に埋まったような気がした。どういう訳か俺も泣いていた。涙が止まらなかった。

 それから暫くの間、俺は無言でただ泣きじゃくる獅庵を抱きしめていた。カラオケのモニターに「残り時間10分です。」の表示が出たので何事も無く「延長」のボタンを押していた。

 翌日以降、神奈の機嫌はすこぶる良かった。既に話は伝わっていたのだろう。邪魔しちゃ悪いとは思いつつも、俺も獅庵待ちだ。放課後は生物準備室で過ごすようになった。そこに愛美も加わり、部活が終わった後の獅庵も下校時間ギリギリまで生物準備室でコーヒー飲みながらは談笑するようになった。なんだかんだで全員、後の家族だ。この幸せな談笑の時もまた、永遠にできるだろうか?忘れていた。ここの噂を聞きつけ神奈に密かな想いを寄せる片桐少年もまたここの仲間だったな。神奈にフラれるまでは…

 翌日もまた放課後は生物準備室でコーヒーを飲みながら携帯端末触ったりしながら過ごしている。先日、椿姉が新機種に買い換えたのでお古を貰ったばかりだ。キャリアも同じなので中のカードを入れ替えればそのまま使えた。

 GH440、懐かしい端末だ。今時こんなゴツいのは流行んねえんだが、俺はコイツを気に入ってる。アフロがかけているのもフレームレスのメガネ型端末だし、神奈は最新のコンタクトレンズタイプだ。新機種はどんどん出るが性能的には既に頭打ち状態どれも中身に大差はない。同じ性能でも小型軽量化、低時間充電、長時間稼働への道を辿っている。時代は繰り返すってヤツかもな。数十年後には眼球内に直接インプラントし瞬きで十分な電力を供給できる物も生まれるが、こちらとしちゃ古い機種でも十分にバージョンアップに耐えられ、ソフトウェア的な部分では時代に取り残される事もないので助かっているとも言える。

「で、アンタ将来の事ちゃんと考えてるの?」

「なんだ?進路相談か?まだ高一の夏だぞ」

 生物準備室でコーヒー飲みながら真面目な話を切り出してくる神奈に俺はそう答えて笑ってみせる。日直が日誌を持って来てから愛美が来るまでの数時間は現状での身内だけによる「ぶっちゃけトーク」の時間でもある。

「どうせ何の備えも無いんでしょ?アタリくじ持ってく?」

「なんだ?アタリくじってのは」

 神奈の言葉にマグカップを持ったアフロがそう返しながらソファーに腰を下ろす。俺は端末を額の上の定位置に戻して座り直す。 

「アンタの奥様は抜け目なくてね、今世で楽して稼ぐために宝くじのアタリ番号暗記してきてるのさ。キャリーオーバー発生期間中の一等八億円」

「マジか?いや、それ譲っちまったらコッチは、その…どうすんの?」

「ご心配なく。株や為替の動向もある程度は覚えてる。宝くじのアタリが無くても稼ぐ方法はいくらでもあるわよ。それに一等が二枚あっても困らないでしょ?」

「有り難い申し出だが遠慮しておくぜ。俺は俺でちゃんと稼ぐ。前世ではバカ旦那がロクに働きもせず嫁さんに苦労かけたみたいだからな。ここは俺がなんとかしなきゃ男が立たねえ」

「随分立派になったモンねぇ」

「悪かったな。安月給で」

 感心した様子で満足そうに俺を見る神奈に横からアフロが不貞腐れた様子でそう言いながらケツをボリボリと掻いている。

「具体的には何するつもりなの?」

 不安と不信の入り混じったような味のある表情で神奈が俺に問う。

「小説家にでもなろうかと思う」

 俺はテーブルに肘をつき指を組んで得意気にそう言い放った。一瞬だが時を止めてしまったようだ。次のセリフが中々飛んでこない。

「小説家って…簡単に言うけど、アンタ文章とか書けんの?」

 神奈は怪訝な表情でそう言ってカップのコーヒーに口をつける。

「得意ではないさ。でもネタならある。自分で言うのもアホみたいだが、俺って割と数奇で悲劇的でありながらハッピーエンドに向かってる人生送ってると思うワケよ。この経験を元に小説書いてみよう思うワケだ」

「仮にソレで当たったとして以後小説家続けていけるだけのネタ出せるの?」

「出せないと思う。でもお前なら未来の名作、ヒット作の内容少しは覚えてるだろ?そいつをチョイと分けてくれれば助かるかなーなんて思ってたりして」

「結局私をアテにしてんじゃないの!」

「仕方ねえだろ。俺だって一杯映画も見たしゲームでも遊んだけど肝心の内容を覚えてねェんだからよ。何なら原案近藤神奈って名前入れてもいいからさ」

「いいからアタリくじの番号持って行きなさい。アンタが獅庵に対して本気なのは分かったし、その気持だけで十分だからさ。何より私も獅庵が苦労するのはできれば避けたい。コレは私の望みでもあるワケだし、ソッチもウチみたいにお店やさんごっこでもしながら趣味で小説書いたらどう?」

「そうだな、そうすっか」

「はやっ」

 俺の決断とその言葉にアフロが間髪入れずに突っ込む。

「大丈夫だよ。過去四回アタリの出てないタイミングだからアタリ二枚出ても八億ずつ入るから」

 そう言って神奈は素早く指を動かし虚空を叩く。親指と薬指のタッチが端末起動のサインで、その後は他人には見えないキーボードを打っている。その直後には俺の端末からメール着信を知らせる地味な電子音がピッと鳴った。

「買う日は解ってるよね?」

「ああ、自分の命日くらい覚えてるさ」

 俺はそう言いながら端末を装着し、再来年のカレンダーを表示、俺が死んだ週の月曜日の予定の項目に神奈から送られてきたメールを添付して保存した。そして再び端末を頭の上に戻す。

「それ、不便じゃないの?」

『これがいいんじゃないか』

 端末を付けたり外したりしている俺の姿をみて神奈がそう言うと同時に俺とアフロの声が完全にハモった。

「オイラも本当はソイツが欲しいンだがな。お前と被っちまうから譲ってやってんのよ。数年前に出た初期モデルも買おうかどうか悩んでたんだぜ?って、お前さんにこんな話しても仕方がねぇよな」

「ああ、知ってる。俺もそうしたからな」

「その重厚感と、未使用時のさり気ないアクセサリー感、さらには本来のライダーゴーグルとしての機能も備えている。素晴らしいじゃないか。なぁ楓、お前さんもこの夏で16だろう?一緒に教習所行かねえか?よくよく考えたら、オイラ、憧れるだけで実際バイクに乗ったことがねぇわ」

「いや、俺もバイクの免許取ろうとした事はあったんだがよ…その、怖い嫁さんがバイクは危ないからってお許しくれなくてさ。まぁ、チャリで事故って死んだって前歴もあるしな。二輪は止めとけ」

「さい…ですか…」

 俺の言葉にアフロは力なく悲しげな表情で神奈の方を見る。精一杯の懇願だが神奈はニッコリ笑っている。怒鳴る手間が省けたって顔だ。て、事は…だ。俺は別にバイクの免許取りに行っても良いって事にもなるな。ここで口に出すのは避けた方がいいとは思うが…

 誠にもって不本意ではあるが(嘘)、これで将来的な収入の心配は無くなった。自分の力でなんとかしてやりたいが、四の五の言っちゃいられない。俺のワガママで獅庵に苦労かける訳にも行かないしな。(言い訳)

 そもそも、神奈にネタを貰ったとして、未来の大ヒット作が今の時代に受け入れられるという保証はない。天才ってのはタダの才能の塊じゃない。その才を活かせるタイミングを天から授かって初めて天才足りうるのだろう。仮にエジソンが現代に蘇ったとして、あの時代に電球を生み出した事に匹敵するような「世界を変えるような大発明」を今の時代でも行えるかと言うと怪しい話だろう。俺も生まれる時代が違っていれば、未知のスポーツでスター選手になっていたかもしれない。

「失礼しまーす」

 ノックもせずに勢い良くドアが開く。もう愛美のくる時間か。

「笹川君、なにそれ。旧式の端末?」

 俺の額に乗っかっているGH440を指差して愛美が口を開く。

「お前は、何それ、デカくね?だっさー。と言う!」

「何それ、デカくね?だっさー」

 愛美はハッとした顔でこっちを見ている。アフロは必至に笑うのを堪えているようだ。実際に過去に言われて割と凹んだのは事実だ。

「オマエハココロガヨメルノカー」

 愛美は軽くパニックで変な抑揚で喋っている。

「言われなくても解ってんよ。このダサカッコ良さはお前さんにゃ理解できまい」

 俺はドヤ顔でそう言った。

「何してんの?」

 そんなやり取りの中、開いたままの戸口に獅庵が立っていた。愛美との時間差が少ないって事は今日は少し早く終わったのだろうか?

「どうよこれ?イケてるだろ。ライダーゴーグルタイプの情報端末、GH440だ。旧式だが性能面に問題はないし、実用性も兼ね備えてる。耐衝撃性にも優れていて凄く丈夫だ。もちろん完全防水」

「うん、いいと思う」

 俺の言葉に獅庵はそう返してニッコリと笑ってみせる。

「アンタ、彼氏に甘すぎだよ。ダサいモンはダサいって教えてあげるのも愛情ってモンなんじゃないの?」

「ホントにいいと思うよ。私も同じの欲しいなー」

「駄目だこのバカップル、早くなんとかしなきゃ!」

 屈託のない笑顔でそう応える獅庵を見て愛美が頭を抱えている。そんな様子を見て皆も笑っている。登山部は今日も平和だ。初代の楓に比べれば今の俺は学業優秀、期末テストの結果も良好だ。特に生物のテストは満点だった。当たり前といえば当たり前だ。記憶の大部分が欠落しているといは言え、俺は元生物教師でもあり、何よりこの問題作ったのは俺だもんな。問題の内容を覚えていた訳ではないが、結局の所、どこまで行っても俺は俺だ。ヤマをかけた所がドンピシャ。

 成績表を見た両親も満足そうだったし、夏休みにバイクの免許が取りたいと言ったらすんなり認めてくれた。椿姉は数年前に大型に乗り換えたが、初めて買ったバイクに愛着があったのか下取りには出さす倉庫でシートを被ったままだ。俺がソイツを譲ってもらう事になった。

 夏休みは教習所に通いながら、獅庵とあちこちデートにも行った。中古で同じ端末を買ったし、バイトして稼いだ金でお揃いのハーフヘルメットをプレゼントした。獅庵は凄く喜んでくれたし、俺が免許を取る日を楽しみに待っていてくれた。試験には一発合格。晴れて中型電動二輪の免許を手に入れた。

「楓、ちょっと来い」

 帰宅するとタバコを咥えたままの椿姉に呼ばれた。電動二輪免許試験の数日前から車庫の隅でシートに包まれてホコリを被っていたバイクを椿姉が夜遅くまで手入れしていたのは知っている。

「これ、もう動くのか?」

「当たり前よ。新車同然、隅々までメンテしておいてやったぜ」

 嬉しそうに聞く俺の言葉に椿姉は得意満面、誇らしげにそう言って俺にバイクのキーを投げてよこした。この趣味の悪いシルバーの髑髏のアクセサリーは後で外しておこうと思った。

「スイッチ入れてみな」

 これがジェネレーションギャップという奴だろうか。オヤジの時代ならこういう場合、エンジンかけてみな、とか、火ィ入れてやんな、って事にもなるんだろうが、コイツにはエンジンも無ければ点火プラグも爆音を放つマフラーも無い。完全な電動。

「あ、ああ」

 俺はキーを差し込み電源を入れる。モーターがアイドリングを始める。本当にスイッチが入っているのかどうか不安になるくらい静かだ。椿姉が横についてアクセルを捻る。スーンスーンと軽い音が響く。

「いい声で鳴くだろ?大事に乗ってやれ。アタシんとってもコイツは思い出深い子だからね」

 そう言って椿姉は俺の肩をポンと叩いて家に戻った。今の時代は叶わぬ事だが、やっぱりガソリン車、乗ってみたかったな…今や車もバイクもガソリン車は公道を走れない。愛好家がサーキットで走らせる娯楽の品となった。とは言え、乗り物の免許を取ったのはこれが初めてだな。今までは美咲が車の免許持ってたってのもあるが、さて、俺はコイツでどこへ行こうか。

 翌日、俺は早速バイクで遠出した。獅庵と一緒に。ド定番ではあるがとりあえず海だろ。夕日を見に行こう。道はゴーグルが教えてくれる。バイクは凄く静かだが、ある程度の速度が出ると風圧の影響もあって会話はできない。接触回線で通話可能なフルフェイスヘルメットにしておけば良かったが、結構高い。まぁそこはゴーグルの通話機能で解決だ。多少雑音は入るが、コイツは元々「電話」の進化版なんだからな。この夏は色々な場所に行ってみた。ドコへ連れて行っても獅庵は喜んでくれた。正直な話、俺もどこでもいいし、どこにも行かなくていい。獅庵がそばに居てくれればそれでいいんだと思った。

 夏も終わり新学期に入る。いつものように放課後は生物準備室で談笑だ。

「テメー、聞いたぞ。バイクの免許取ったってぇ?この夏はソイツをブイブイ言わせてたってのか?汚えぞ、自分だけぇ」

 部屋に入るなりアフロが嘆き悲しみ羨望の眼差しで訴えかけてくる。

「あー、ウチの嫁さんは俺のする事に理解示してくれてるからな。それに自動車バイクの整備工場の娘だぞ反対する道理がねぇ」

 他人事のように言って目をそらす。もちろんまだ嫁さんではないが、ここでは便宜上獅庵の事は嫁さんと呼ぶようにしている。もちろん三人でいる時だけの話だ。そんな話を聞きながらも神奈は無言でコーヒーを飲んでいる。

「オメエも何か言ったらどうなんだ?バイクは危ねぇ乗りモンなんだろう?他人事みてぇによぉ、獅庵から聞いた話を一々メールで、楓バイクの免許取ったんだって、とか、獅庵と海行ったんだって、とか、大阪の水族館凄く良かったんだってとかぁ!そんな報告する前に元亭主に言う事あんだろうよぉ」

「他所は他所、ウチはウチ。昔から言うでしょ?それに彼、別に私のじゃないし」

 不満気に嘆願にも近い訴えを繰り返すアフロに神奈はサラリと「母ちゃん」な口調でそう返す。うん、他所は他所、これはオカンの鉄板ワードだ。

「冷てえなぁ、同じ楓の木だろぉよぉ」

「同じ木でも別の枝だ。むしろ株分けした別の木だと思って俺のことはソイツから切り離して考えろ」

 納得の行かないアフロの言葉を遮るように俺は神奈に向かってそう言った。むしろ有り難いお言葉だ。俺と俺の美咲の末路に今を生きるお前が縛られてはいけない。

「言われなくても解ってる。貴方は笹川楓、親友の伊倉獅庵の恋人。私は近藤神奈、そしてその恋人は西岡大地、それだけハッキリしてれば十分でしょ」

「乗りてぇなぁバイク」

 未練たらたのアフロは肩を落としてそう言った。そもそも大学の時にでもお前が免許取っときゃよかったんだよ。と思ったが、アフロへの非難は自虐にしかならない。

「あの世で好きなだけ乗ればいいさ。ソイツは俺が持って行ってやるよ」

「そうだな、その手があったな。しっかりと魂に刻み込んでおけよ!ああ、今から死ぬのが楽しみだな。お前、サーキットでガソリン車にも乗っとけよ。ソッチのほうが絶対面白いって」

 俺の提案にアフロは嬉しそうにそう提案してくる。確かにまぁ…経済的に余裕もあれば趣味でガソリン車のオーナーになる事も可能だろう。もしかしたらそのうち子孫の誰かがSF映画に登場するような小型の飛行機だって持ってくるかもしれないし、想像から創造する事も不可能ではない。

「死ぬのを楽しみに生きてる人間がいるかっての!」

「よせよ、やめろ!、凹むだろ!」

 神奈はアフロのコメカミを両側から拳でグリグリしている…ように見えるが完全にアフロに埋まっていて手は見えない。なんだかんだ言いながらも…鬼嫁の尻に敷かれている時、俺は確かに幸せだった。些細な幸せだが、それを永遠にできるなら、何日でも繰り返したい。永遠に終わらない日常、それを天国と呼べるのか、それとも無間地獄と呼ぶのかは当人次第だろう。

 獅庵が俺と同じ端末を首に下げているの見ては愛美には救い難いバカップルと呼ばれるが、それもまた何故か嬉しい物だ。俺はオデコの上辺りを端末の定位置にしているが、獅庵は首にかけている。それもアリだな。似合ってる。うん。

 

 一年が過ぎ、二年が過ぎた。高校三年の夏。一般的には三年生は部を退いている時期だ。野球部が弱小だった事もあり、応援に駆り出される事もなく、高校生活最後の夏休みは部活に捕らわれること無く全員が自由な夏を満喫できる。まぁ進学する生徒はそうとも言えないが。

 この夏は「登山部」の合宿という名目でキャンプに行くことになった。メンツはいつもの五人に加え、新一年生の純も加わっている。

 この夏以降、愛美と純が妙に親密なのは友人としても親としても多少気にはなる部分ではあるが、個人のプライベート的な部分でもあるので、なるべく触れないでおこうと思った。

 思っただけ。聞いてもいないのに、事の詳細が神奈からメールで送られてくるのだから仕方がない。

 暗がりの茂みでよろしくやっている所を暗視機能付きの双眼鏡でガン見していたというのだから仕方がない。むしろ暗がりでイチャコラしてたのは俺と獅庵も同じで、それをのぞき見していた若い二人に火が着いたようだ。ってこっちも超見られてるんじゃんか。で、結局そっちもよろしくやってたのは知ってる。夏はみんな馬鹿になる。これは人類共通のアビリティーなのか?


 そして季節も変わり卒業の近づいた3月。それは凄く寒い朝だった。吐く息を白くしながら徒歩で登校する。店先の雪を片付けている光一の姿が目に止まった。本来ならば今日が楓の命日だ。まだ何も知らされていないのであれば、過去の自分でもあり、親しい友人の息子の死を、知っていながら見殺しにする日でもある。自転車ではなく徒歩を選んだのも「違う」って事を光一に見せるためだ。

 当時はまだ「世界の仕組み」に対しても確信が持てず、ここで楓を救う事で自らの存在を消してしまう事を懸念していたのも事実だ。そして死んだ後の姿が自分であるという部分も加え、死んだ方が幸せなのだと自分に言い聞かせていたって部分もあるが、結局の所、自身の保身のために未来を変える勇気が無かったのだ。もちろん俺は死ぬ気は無いし、今週の金曜が当選日となるアタリくじも先日買っておいた。

「おはよう楓君」

「おはようございます」

 過去にも見た光景だ。こっちの視点からも、そっちの視点からも。こっちの視点からは二度目になるが。

「いや、いいんだ。敬語は使わなくていい。全部聞いたよ。むしろ敬意をもって接するべきは私の方なのかもしれないな」

「え?…ったく、俺抜きで話進めてやがったのかよ」

「許してやってくれ。君を切り離しておきたいのも娘、いや…彼女なりのケジメなのだと思う。その、奥さんの事は気の毒だった…とでも言えばいいのか、正直自分でもわからんのだよ…過去の自分を見ていた気でいたのが、まさか人生の大先輩だったとはね」

 そう言って光一は作業の手を止め、申し訳無さそうに軽く頭を下げる。

「ああ、それは…いいんだ。事の顛末だけで言えば、それは俺の美咲だ。その事で今の美咲、いや、二代目の美咲である神奈が、起こってもいない未来の事故で俺に負い目を感じる必要は全く無いんだから。神奈は神奈のままで居てくれないと俺が困る。それより…話を聞いているなら…あの件は任せて大丈夫か?」

 俺は話が全て伝わっているという前提でプロジェクト・アスタリスクの肝となる最初の土台作りについて質問する。

「光一号作戦か?任せておけ。光一だけにな」

「そんな作戦名じゃ無えよ!プロジェクト・アスタリスクだ」

 胸を張ってドヤ顔でそう言い放つ光一に俺は素早く突っ込んだ。

「冗談だ、冗談。それに知ってるだろう?花見の場所取りは得意だ」

「そりゃそうだ。ありゃ俺の仕事だったな。花見の時も運動会の時も、花火大会の時もそうだったな…」

 そう言って二人で笑った。同じ楓であり違う楓だ。彼の過去なら俺の過去でもある。しかしそれは途中までの話だ。神奈の救った光一の未来はこの光一の物だ。今日この瞬間にも既に光一は俺が生きた光一とは随分と違う道を進んでいる。

 俺が死なない事で今夜の通夜にも明日の葬式に出る事もなければ、嘆き悲しむ自分の家族や友人の姿を見る事もない。肺癌で倒れ妻を残して早々と逝くこともない。かと言って俺や神奈の中からその苦い記憶が消える訳でもないが。

「むしろ…巻き込んでしまったかな?俺も美咲も…ただ、ワガママなだけなのかもしれない。ワガママでお節介で、自分が傷つきながらでも、自分と自分を愛した者を救おうとしている。揃いも揃ってバカだったのかもしれない」

「少なくとも…私と私の美咲はそのワガママなバカに救われたのは事実なのだろう?」

 そう言って光一は空を見上げて呟いた。

「君が生きている事で私は悲しむ友人、いや、両親の姿を見ずに済む。私が病に倒れる事もなければ、それで美咲を泣かせる事も苦しめる事もない」

 光一は真っ直ぐに俺を見て話を続けた。

「今こうして孫の顔が見られる日を楽しみにしている。そんな当たり前の余生を与えてくれた君達には…いくら感謝しても感謝しきれない。本当に…ありがとう。ありがとうございます」

 そう言って光一は俺に向かって深々と頭を下げる。

「全部、自分の為にした事だ。自己満足の、自己救済だ。この先がどうなるかなんて誰も知りゃしねぇ。全員が知らねぇ道を歩き出したんだ。それに覚えておくといい。年老いた者が常に賢いとも言えず、年長者が常に正しいとも限らねぇ」

 俺はそう皮肉っぽく言っては不敵に笑って見せた。

「君にこんな事を聞くのも野暮だと思うが…楓の花言葉を知っているかね?」

 光一は深々と下げていた頭を戻し、いつもの口調でそう質問してきた。昔、花言葉なんての流行った時に自分の名前位は調べた事もあったかな。

「忘れちまったよ。でも色々あったな。調和とか約束とか…」

「有名な物は二つ…美しい変化と大切な思い出だよ。君達に苦労をかけた結果として私達夫婦の人生は美しく変化したのだろう。そして君達の苦労もまた、大切な思い出なんじゃないのかね?」

「大切な思い出か。むしろ戒めにも近いが、絶対に忘れちゃいけない物だ」

「今、君が上げた調和と約束に加え…確保、保存、そして制約もまた楓の花言葉だ」

「確保に保存、そして制約もアスタリスクには織り込み済みだろ?」

「その通りだ。本当に恐れ入る。それもまた年の功って奴かな。何度でも言う。何度言っても私の気が済まない。本当にありがとう」

 そう言って光一は再び深々と頭を下げる。

「よせやい、むしろこれからお世話になるのはコッチの方だ。全部アンタにかかってるんだ。若いのに全部押し付けちまって悪ィが…場所取り、しっかり頼んだぜ」

 俺はそう言い残して学校へ向かった。恐らくだが…俺の姿が見えなくなるまで光一は深々と頭を下げたままだった事だろう。俺なら多分そうしている。とは言え、アイツラには文句の一つも言ってやりたい所だが…今回は手間が一つ省けたと思えばいい。て言うか、知ってんなら徒歩で来た意味ねぇだろ。かと言って引き返して光一の前をもう一度通るのもバツが悪いので…結局歩いた。

 そして土曜の午後、獅庵を人の居ない校舎裏に呼び出した。さて、大一番だ。なんとか上手く立ち回らないとな。

「ど、どうしたの…こんな所に。…ここで…その…するの?」

「ち、違うって、いや、そりゃしたいけど、違う。性的な話じゃない。いいか、落ち着いて、落ち着いて聞いてくれ。あと、あー、絶対に大きな声は出すなよ。絶対だ」

 俺は意識して大きな声で早口に獅庵を指差しながらそうまくし立てた。早足でその場をウロウロしたりしながらとにかく「テンパってる感」を醸し出す事に注力した。

「え?なに?楓君、ちょっと落ち着いて」

「今メールを送った。そいつのアドレス先に飛んでくれ」

 獅庵の首元にかけられた端末からメール着信を知らせる電子音が鳴り、獅庵は端末を装着し、メールの内容を確認し、添付したアドレス先を確認している。

「え?うん…宝くじの当選結果?」

「俺も既に百回は確認した。落ちついてコレを見て欲しい」

 そう言って先日購入したクジを獅庵に手渡す。ゴーグル型の端末越しに獅庵の目が左右に動いている。何度も確認している。

「これ…あれ?え?…あ、あ、あ、あた…あた…あたたたた」

「静かに。静かに。誰にも言うんじゃない。いいね」

 俺は少し大げさなくらいに声を震わせながら人差し指を立ててそう言った。獅庵は無言で何度も首を縦に振る。

「地元の会社に就職も決まっている所、大変申し訳無いが、それどころじゃない。非常事態なんだ。わかるね?」

「…うん」

「後でゆっくり考えよう。これからの事、二人の事」

「…うん…うん」

 落ち着いて二人で話せる場所、俺達にとっては思いでの場所でもある駅前のカラオケ店。ここで話し合う事になった。相変わらず周囲の部屋の歌声が駄々漏れではあるが気にしない。最悪ゴーグルの機能で文字チャットも可能だ。

 俺はここで色々案を出しながらも…上手く誘導して「近藤家スタイル」に持ち込む算段だ。もちろん獅庵は近藤家のカラクリは知らないし、普通の自営業だと思っている事だろう。

 ウチは自営業の真似事でいい、贅沢もしなくていい。ただ子供達に怠けている親の姿は見せたくないし、ずっと一緒にいられる。この自営業もどきで残りを余生にしよう。と、初代美咲の打ち立てた幸せ家族計画を提案した。これぞ「近藤家スタイル」。何のお店にするかは後で考えよう。そういう事で一旦保留。

 獅庵は就職の決まっていた地元の広告代理店の内定を辞退した。高校卒業後は逃げるように街を出て隣町でそこそこ良いアパートで生活を始めた。まだ慣れないようだが獅庵は俺の事を楓と呼び捨てるようにしてもらった。

 卒業から概ね一ヶ月が経過した5月。とりあえず「自営業」の形を成してからでないと親に合わせる顔がない。周辺の空き物件なんかを物色しながら、ネットで商売を始める為に必要な情報を集めている。その辺全部美咲任せだったので一から手探りだ。まぁ、神奈に聞けば早いんだけど。

「そうだな、古本屋とかどうだ?」

「古本屋?」

 俺と獅庵は食事をしながら今後の事を話していた。

「そんな大きな豪邸建てる訳でもないんだ。むしろ小さいくらいでいい。そんな小さな店先に大きな商品、家具や家電なんかをゴロゴロ置くわけにも行かないだろ?」

「そうだね。本なら…あんまり場所取らないもんね」

「古物商許可証ってのは割とスグ取れるみたいだからな。いい場所みつけてそこに店を構えよう。誰も買いに来ないような文字ばっかりの本並べてさ…」

 今二人で同じネット上のページを同時にシェアして眺めている。

「趣味のお店なら自分の好きな物でいいんだよ?」

「うん、好きになりたいんだ。本ってヤツをさ…実は…」

「あ、ちょっとまって、着信だ」

 本題を切り出そうとした時に着信を知らせるメロディーがゴーグルから流れている。このメロディーは神奈用の物だ。

「あ、神奈ちゃん。どーしたのー。え?え?マジ?何言ってるのか良く解かんないんだけど。え、ちょ、そんだけ?ちょっとー」

「どうした?」

「要件だけ言って切れちゃった。神奈ちゃん…西岡先生と結婚したって」

 知ってはいたし今更驚くことではないが、ここは驚いておいた方が無難なので盛大に茶を吹いてむせ返っておいた。

「ちょ、大丈夫?」

「ど…どういう事だよ!何が起こったんだよ!」

「こっちが知りたいよ。式の日取りが決まったら教えるからここの住所、メールで送っとけってそれだけ言って切れちゃった」

「結婚するじゃなくて、結婚したって言ったのか?」

「うん、もう結婚して西岡先生、近藤先生になってるみたい」

「よく親が許したな…卒業して一ヶ月の元教え子だぞ」

「私ら駆け落ち同然で怖くて家に近づけないもんね」

 そう言って獅庵は困り顔で笑ってみせた。

「だから早く形を作らないとな。ちゃんとやってます。って」

「うん、そうだね…さっき、何か言いかけてたけど、何?」

「ああ、うん、笑うなよ」

「うん」

「俺さ、小説家になりたいって思ってる。時間はたっぷりあるんだ。目指してみるだけならいいかな?」

「うん、応援する。でも楓、お話とか書けるの?」

「ああ、書きたい話はもう出来上がってる。後は書けるかどうかだ。いや書くけど」

「どんなお話」

「秘密だ。だけど世界で一番最初に読ませてやるよ」

「あー楽しみー」

 そういって獅庵は笑顔を見えてくれる。

「そこで一つ問題があってな。ペンネームをどうしようかなって」

「ペンネーム?適当にカッコいい感じのでいいんじゃないの?」

「ほら、こういうってさ、なんか深い意味があったり、大事なキーワードの空耳だったり、著名人とか尊敬する人の名前を捩ったりって…色々拘りが大事な部分だと思うわけだよ。もしかしたら一生背負っていく俺のもう一つの名前なんだぜ?」

 既に背負った名前が三つあるとは「まだ」言えない。

「本名バラバラにして並び替えてみる?」

「アナグラムか、定番だな、試してみよう、笹川楓…さわ、ささ、さがわ…」

 で、数時間議論した結果、ネット上のアナグラム作成ソフトの力もかりつつ、無理という結論に達した。

「お世話になった人達から一文字ずつ貰うとか?」

「お世話になった人が多すぎるよ。全員から一文字取ったら婆ちゃんの戒名より長くなりそうだ」

「じゃあ一番お世話になった人は?」

「お前は神奈って言うんだろ?じゃあ俺は一応…先生にしておくよ」

「そうだね、えっと近藤神奈と西岡大地っと、あ、先生は近藤になったんだった」

 獅庵は神奈とアフロの名前を横書きにして紙に書きながら、さっき受けた結婚の連絡を受けて書きなおそうとしていた。

「まて、それでいい。近藤大地にはまだお世話になってない。お世話になったのは西岡の方だ。それに…そこ縦に読むと藤岡になるよな?」

「あ、ホントだ。凄い普通の苗字」

「普通でいい。名前は一の字一つで「はじめ」でいいな。藤岡一。これが俺のペンネームだ」

「一の字?」

「近藤家の男は名前に一の字が入るらしいぞ。神奈の弟は純一だしお父さんは光一だっけ?他は知らんが、二人揃って近藤家って事ならそこもお借りしよう」

 本当は知っているが今はまだ知らない事にしておく。よくもそんなにネタがあるものだと感心するくらいに子々孫々1の字だらけだ。

「今時そんなのまだあるんだ」

「…ウチも一応そういうのがあってだな、笹川家の子供は全員、漢字一文字で木へんで統一されてるんだ」

「伝統って大事だよね!うん!」

 俺の言葉に獅庵は慌てて取り繕う。

「いや、いいんだ。一族における命名規則なんてのは半ば信仰、バカげた伝統だ。いや迷信めいたオカルトみたいなモンだ。ずっとこうしてるし、それで一族滅びてないんだから、縁起が良いって言うよりは、逆にソイツを崩すと良くない的な」

「そうだよ、それでいいんだよ。凄く大切な事だと思う。その…私達の子供も木へんの漢字一文字の名前にしよう」

「ああ、ありがとう。実は一つ考えてる」

「何?」

「梛って名前なんだ」

「梛?かっこいいね男女兼用できそうだし」

「ああ、実は俺の名前の候補に入ってたらしんだが、その中から楓が選ばれたって後で聞いてな。梛がよかったなーって今も思ってる」

「…ペンネーム梛にしたら?」

「それはいいアイデアだが、後で俺が困る」


 そして翌年の6月、神奈とアフロの結婚式に招待された。この1年で俺は車の免許も取ったし、新車も納車されたばかりだ。外は生憎の大雨だが。獅庵と暮らし始めて1年と少し。これだけ一緒にいれば色々と見えてくる。

 神奈に昔言われたっけな。光一、大地、そして俺、揃いも揃って箸とペンの持ち方が変だって。俺も気付いた事がある。無意識だろうが、美咲と神奈、そして獅庵の「本気のキス」が完全に一致している。何か企んでいる時の顔も同じだ。前世では想定でしか無かったが、今では確信している。今までは俺を中心に物語の歯車が回りだしたと思っていたが、発端は幼い獅庵が俺に惚れた所だろう。俺が今もこうして生きているのも獅庵に誘われた結果なのかもしれない。だが、それでいい。自分で言ったはずだ。どんなに底辺を這いずり回ろうと…どんな地獄を見ようとも…最後の最後にに幸せなら「勝ち」だと。俺は今、こんなに…幸せだ。

「いいなー、6月の花嫁は幸せになれるんだよ」

 移動中の車内、ワイパーが左右に往復する音の中、獅庵は式の招待状を眺めながらそう言って少し嬉しそうな顔を見せる。事前にあれこれ調べてからネットで買ったパーティードレスがよく似合っていると思う。セオリー通りに、白はダメだとか黒もダメ、肩出すのも良くない…これ凄くいいけどサイズがない、と消去法で残った青いワンピースだが悪くない。これも巡りあわせって奴か。実際、俺と神奈の結婚式でも獅庵が来ていた物だ。

「昔のヨーロッパじゃ3月から5月は農作業が特に忙しい時期でな、結婚式なんてやってる余裕は無かったんだ。地域によっちゃ結婚式禁止月間だったりもしたらしいぞ。それで愛しあうカップルからすれば、6月は結婚解禁の月でもあったのさ。それで流行ったというよりは溜まってた式が一気に吹き出したのさ」

「そうなの?詳しいね」

 仕事柄、古書を読みまくっているせいもあってか、ここ1年でまた余計な知識が増えているのも事実だ。実際、雑学ってのは読んでいて楽しい物だ。

「あとアッチじゃ6月は最も天気のいい季節なのさ。式自体が野外でやる事も多いから6月は好都合なんだよ。日本じゃ元々梅雨時は結婚式が少ない時期だったのを、西洋の風習持ち込んで販売促進に使ったのさ」

「じゃあタダの客引きなの?6月の花嫁が幸せになるって嘘なの?」

「まるっきり嘘ってワケじゃないさ。あくまで西洋の風習で、6月の花嫁が幸せになるって迷信も残ってる。でも西洋の風習がそのまま日本でも通用するかどうか。まぁ、本来なら割引してでも客取らなきゃ行けない季節を予約待ちの結婚シーズンに置き換えたんだ。中々に商魂たくましいじゃないか」

 俺はそう言って笑う。光一として生きていた時代にゃハロウィンパーティーなんて無かったもんだ。何でも取り込んで商売にしちまう。ホント、日本人てのは節操無く商魂たくましく、信仰の薄い民族だと改めて感心する。

「日本なら何月がいいのかな」

「日本でも6月さ。統計上は結婚後に幸せだと回答したカップルが一番多いのが6月なんだよ」

「ホントに?」

「6月に結婚する夫婦が多いから単純に回答数が多いだけの話だよ。だから離婚する夫婦が一番多いのも6月って事になるし、割合で見ればどの月も差はないよ」

「ただの笑い話じゃない」

 そう言って獅庵は笑ってみせる。先日読んだ「人に話したくなる雑学」という本が役に立ったようだ。

「日本人として日本の神様信じるんなら10月の出雲じゃないのか?」

「いずも?」

「島根県の出雲市さ。お前、神奈の誕生日は知ってるな?」

「うん10月の15日」

「神無月に生まれたから神奈ってのも近藤家的な命名規則なんだってさ」

「うん、それで?」

「神奈の奈の字とは違ってな、神無月ってのは神が無い月って書くんだ。日本中から神様が居なくなっちまう月って意味さ」

「縁起悪そうだけど」

「居なくなるっても消えてなくなるワケじゃない。神様もちょっとした小旅行でな。行き先は今言った島根県の出雲、出雲大社ってでっけえ神社だ。だから出雲では神無月じゃなくて神有月って呼ぶんだ。日本中の神様がそこに集まってるんだってよ」

「一気に縁起良さそうになった」

「出雲大社は縁結びでも有名な神社だしな。でも出雲で結婚式ってのも予約待ち凄まじそうだし、第一遠いわ。身内や親戚呼ぶ事考えれば地元がいいよな」

「うん、どっちかっていうと神社より教会ぽい所が良い」

「よし、着いたぞ。足元気をつけろ。濡らすなよ」

「大丈夫だよ、そんなに長くないから」

 車を止めて助士席側に回り込んで傘をさす。受付で手続きを終えた俺達は新婦側の友人席に向かった。

「おーい!」

 元気に手を降っているのは愛美だ。神奈の友人として他に招かれたのは、みゆきちにちかぽん、おりねあ、りえにゃん辺りか。当然全員が俺のクラスメイトだし教え子でもある。柏木美雪に木暮千佳、絹織音亜子と伊藤里恵。

「なんだ?野郎は俺だけか?」

「普通は新婦の友人席に野郎は居ないでしょ」

 俺の言葉に愛美がそう返す。圭吾も自爆して無ければ部のよしみでココに居たかもしれないな。まぁ代わりと言っちゃなんだが、兄貴の大吾が来ているから問題はないだろう。

「お前の彼氏は親族席だもんな」

 そういって俺は式場の前方に位置度って居る親族の席に目をやる。その手前くらいに笹川家が揃っているのは気のせいか…そういや来てた気もする。お隣に住んでる大親友の娘の結婚式だもんな。知らない仲でもねぇし、家族総出でもおかしかねぇわ。

「愛みん彼氏いんの?」

「親族って神奈の弟?」

「食っちゃったの?」

「現役の高校生に手を付けたら犯罪だよ」

 愛美は友人周りに質問攻めにあっている。とは言えいい機会だ。話をつけておこう。

「獅庵、一緒に来い。家族に紹介しておく」

「え?今?」

「むしろ都合がいい。一応人格者気取ってるオヤジだ。例えブチキレられてもこんな場所で怒鳴ったりはしないだろう」

「おおーー?」

 女子共の視線が一斉にこっちに移って変なゴーサインが出ている。俺は獅庵の手を引いて両親と4人の姉の座る席に向かった。

「いいか、ビビるな。真顔でいろ」

「う、うん」

 徐々に距離を詰めていく。丸いテーブルを囲むように座っており、オヤジの背中が正面に見える。斜め正面にいた桜姉がこちらに気づき驚いた顔を見せる。それに釣られてオヤジが後ろを振り向いた。

「オヤジ、話がある」

「楓!無事だったのか。あんなメールだけじゃなくて偶には顔見せに帰って来い。心配で死にそうだわい」

「まだ1年ちょっとだろ。いい加減に子離れしろよな…」

「アンタ、言うようになったねぇ」

 俺の言葉に榊姉さんが満足そうにそう言って鼻で笑う。

「楓君、元気そうで何よりだ」

「義兄さんこそ」

 真樹さんに軽く挨拶してから俺はオヤジの正面に立って獅庵をスグ横に引き寄せる。

「オヤジ、俺、この人と結婚するつもりだ」

「伊倉獅庵と申します。どうぞ宜しくお願い致します」

 そう言って獅庵は深々と頭を下げる。そこまでしなくていい…

「えー!えー!」

 オロオロしているのは桜姉だけだ。桜姉と獅庵は初顔合わせではないハズだ。小さ頃は一緒に遊んだ事もある。そう考えれば…うん、色白でお嬢様タイプだった獅庵の変貌ぶりにパニくっているのかもしれない。他の姉さん達は「そうか」という顔で見てくれている。

「獅庵って言ったね。コイツはバカだから。アンタがしっかりするんだよ」

「はい、頑張ります」

 椿姉の激励に獅庵は嬉しそうにそう答えた。

「いや、今日は目出度い事が重なったな。具体的にはいつの話だ?まさか今月とか言うなよ、出費が重なりすぎて唯でさえ6月は厳しいんだからな」

 そう言って親父は笑っているが嬉しそうだ。瞳に溜まった涙が輝いている。

「いや、その、まだ彼女の両親の所には行ってないんだ」

「ハァ!順番逆でしょ!なんでコッチから先に来んの?」

「アンタ、やっぱバカでしょ!」

 申し訳無さそうに言う俺に榊姉と椿姉が次々にまくし立てる。

「しょうがねえだろ。もうちょい先に話すつもりだったんだけど、神奈の式に来てみりゃみんな揃ってるし、素通りもできねえからついでに言っとこうかと」

「ついでに言うような事じゃないでしょ!」

「貴方達静かにしなさい。みっともないでしょ」

 母さんがボソリとそう言うと、とりあえず榊姉はぐぬぬって感じで静かになった。桜姉はオロオロしてるし椛姉は呆れて言葉も出ないようだ。

「ま、まぁ、今日の所は紹介しに来ただけだから。話まとまったら必ず家の方に帰るから。それまでもう少しだけ待っててくれよな」

 俺は申し訳なさそうに愛想笑いしながら謝る仕草で何度か軽く頭を下げてから獅庵の手を引いて自分の席に戻った。席に戻ると今度は俺達が質問攻めにあっていた。そうこしていると式場の照明が落とされ、アナウンスと共に定番のBGMが流れ始め新郎新婦の入場となった。うん、料理は一級品だ。これ食いに来たとだけ考えても3万包んだ価値もあるというか、完全に元をとった気分だ。引き出物も高価な置き時計だったと思う。

 壇上では新郎の友人代表スピーチが行われている。大吾のヘタクソだが心のこもったありがたいスピーチだ。獅庵も神奈の友人代表スピーチの為に既にスタンバってる状況だ。

「なんで私指定してくんないかなー」

 愛美が不満そうにぽつりと漏らす。

「しょうがねえよ。俺も獅庵もアイツとは幼馴染だ。付き合いの長さで言えば俺がやってもいいくらいだ」

「案外、アンタの初恋、神奈なんじゃないのー?」

 ニヤニヤしながら愛美が俺にそう言ってくる。他の女子も割と興味深そうに俺の方を見ている。とりあえず口の中の物を飲み物で流し込む。

「ああ、そうだよ。子供の頃からずっと神奈が好きだった。それは否定しない。ついでに言うと今からソイツも獅庵のスピーチで全部バラされる」

「マジで?」

 笑い話でも聞いたかのような口調で愛美がそう返す。文書にするなら草が三つくらい生えてるレベルの半笑い状態だ。

 獅庵のスピーチでは子供時代の思い出話や、俺の事で神奈を敵視していた事も交えつつ今では一番の親友だと締めくくった。神奈も獅庵も笑顔で泣いていた。新郎側の友人席のむさ苦しい連中の宴会芸などで盛り上がりつつ、定番のウエディングソングの贈り物、良い式になった。これで天気さえ良ければな。

 天候の都合もありブーケトスは会場内で行われる事となった。愛美の目がマジだ。既に低姿勢に構えどの方向へでも最速最短で向かえる姿勢だ。間違いない。これはバスケ部の主将時代に「鉄の壁」と呼ばれていた頃の姿だ。前回は新郎として向こう側から見ていたが、間際で見てると正に鬼気迫る物がある。

 背を向けた神奈の投げたブーケは大きな放物線を描いて飛ぶ。愛美からは少し遠い位置へのトスだが、誰よりも素早く落下地点を目測で弾き出し床を蹴って走りだす。落下予測地点のかなり前方で急停止、そして現役時代を彷彿とさせる驚異的なジャンプ力で見事に空中でブーケをキャッチし、中腰で着地してくるりと「敵」に背を向ける。流れで誰かにパスしそうな感じだったが、バスケじゃない事に気付いたようだ。長いヒールに丈の短いドレスで飛び回るな。パンツ丸見えだったぞ。

「とったー!」

 大喜びする愛美に他の友人達は若干引いている。うん、勝てるワケ無いだろ。

「ごめんねー私の方が先かもよー」

「お先にどうぞ」

 愛美の言葉に獅庵はそう言って笑う。実際、コイツも純が卒業してすぐ結婚したな。式は同じく6月だったかな。赤ん坊持参の結婚式でできちゃった感丸出しだった。皐月は言うまでも無く5月生まれだ。逆算すればこの夏にも愛美は妊娠しているハズだ。

 ホント夏はダメだな。どいつもこいつもアホになる。その一方で避妊していた訳でもないのに大地と神奈の間に子供が出来たのは、結婚から6年たってからだ。こればかりは時の運も絡むのか。

 楓と獅庵も結婚は遅かったし、子供ができたのも随分後だったな。神楽と梛が4歳差だったから史実どおりなら、ウチに子供ができるのは10年後の話になる。とは言え、妙な飲み屋をやるつもりはねぇし、俺の中身が4代目の時点で史実とは既に異なる未来が待っている事だろう。結婚ももっと早そうだし、こりゃ梛の方がお兄ちゃんになっちゃうかもしれないな。ヘタしたら息子じゃなくて娘が産まれる可能性も現時点では否定出来ない。

 同い年にしてやれれば楽しい事にもなるかもしれんが、こればっかりは中々狙い通りは行かない物だろう。場合によっちゃ孫の数も違ってくるかもしれない。世間一般、俗にいう「世界」に与える影響は殆ど無いが、あくまでウチの家系に限ればどんどん改変が加わっている。結果として生まれてこない子が出るのは不憫だ。むしろ増やすべきだろう。

 それから1年、成人式では懐かしい顔も集まった。別に成人式を待つ必要はなかったが、これで親の許可を得ること無く、一応は強引にでも結婚する事は可能な年齢となったワケだ。

 商売も一応の形になり、獅庵との結婚も真剣に考える時期が来たと言える。しかし商材として古本を選んだのは失敗だったかな。検品作業が凄く大変だ。全て読む必要はないが、中の汚れや落丁が無いかの確認は中々に骨の折れる仕事量だ。電子書籍全盛のこのご時世でも紙媒体をありがたがる世代はまだまだ多いのだが、ウチは基本的に暇だ。買い取りに関しては目利きが問われる職種だが、調べればネットでスグに価値がわかるし、売る客も事前に調べて相場を知っているので話は早い。俺の仕事は安く買い叩く為の粗探しにも近い。うん、同じ検品の粗探しなら超合金のロボででも遊んでる方が断然楽しかったな。

 年も明けて1月も半ば、寒さはより一掃厳しくなる季節。獅庵との結婚もズルズルと先延ばしになっている。親のお許しを得る前に、当人である獅庵にお許しを貰わなければならない。もちろん当人もその気だし、提案すれば明日にでも婚姻届は出しに行ける。保証人は近藤夫妻に頼めばいいだろう。

 痺れを切らした獅庵からプロポーズもされたが、もう少し待ってくれと、先延ばしにしたのは俺の提案だ。理由は一つ。

 獅庵には全てを打ち明けねばならない。俺の生きてきた人生の全て。生まれて死んで生まれて死んで、また生まれて死んでから今ここにいるという事実を。

 黙っていた方がラクだし、別の女を愛していたのも事実だし、黙っていればそれによって傷つけてしまう事もない。死んでも嘘を貫き通すのが正解のような気もするが、ここまで巻き込んでおいて他人事とは行かないだろう。それ以上に今の俺は獅庵との永遠を望んでいる。結婚後の事後報告で済ませられるような話でもない。包み隠さず、俺の全てを理解して貰った上で…正式にプロポーズしたい。

 客の全くいない店内。俺はカウンター席に座り、様々な考えを巡らせていた。どのような方法がベターかつ説得力を得られるか、と。そして答えが出た。

「何してるのー?」

 獅庵が後ろら俺を抱きしめて頬と頬をくっつけてグリグリと押してくる。

「ちょっと考え事」

「一人で考えないの。何でも相談してって言ったでしょ?」

 獅庵はそのままぐるりと回って俺のひざ上にまたがるように座り正面から俺の目を見てそういった。確かにその通りだ。一緒に歩んでいこうと言ったのは俺だ。なんだって、いつだって2人で考えよう。そう思っていたのは事実だ。

「こればっかりはまだ、お前に相談できない内容だ。俺はお前へのラブレターを書こうとしてるんだ。文庫本一冊分くらいの文量になると思うけど、お前がこれを読み終わったら…正式にプロポーズしたい」

「答えはイエスだよー」

 獅庵はそう言いながら目を閉じ少し長めのキスをした。俺は獅庵の両頬に手を添えてゆっくりと言葉を紡ぎだした。

「大事な告白なんだ。最初にお前に告白した時、俺、カッコ悪かったろ?ソコも含めて告白のやり直しだ」

「大丈夫、そのカッコ悪い告白、覚えてないから」

「覚えてないのかよ」

「嬉しかったって記憶しかないよ。お前が好きだって言われた瞬間から…頭の中真っ白で、子供の頃に帰ったみたいにずっと泣いてたから」

「だったら尚更だ。想い出は共有しなきゃならないし、お前は俺の事をもっと知らなきゃならない、俺もお前をもっと知りたい」

「小説書くんじゃなかったの?」

「小説だよ。俺が主役でお前に出会って幸せになるまでの恋愛小説。全員実名で登場する上に、お前が読んだ後はちゃんとした賞に応募する。運が良ければ世に出るし、落選したらネット上に掲載する」

「やめて!超恥ずかしい!」

「誰もが羨む相思相愛の夫婦の話だ。魅せつけてやりゃあいい」

「もうー知らない」

 そう言って獅庵は夕食の準備に戻った。すまない獅庵。また嘘ついた。こいつが出来上がるまでは「そういう事」にしておいてくれ。俺がこれから書こうとしているのはお前へのラブレターでもなければ娯楽小説でもない。言うなれば「私小説」、自分自身の暴露本だ。そして今のお前には全くもって身に覚えもなければ、それを確認する事もできないが、俺はそう確信している。お前の純粋な愛が死によって砕け、それが美咲と、神奈を産んだ。

 ああは言ったが、これを世に広く流布しようなんて気も更々ない。獅庵と、家族、親しい友人周り、後は子孫にだけでも残せればそれでいいだろう。


さて、どこから書こうか。最初の俺が死ぬ所からでいいかな。この時点で獅庵にとっちゃ意味不明な内容にもなりそうだが…嘘は一つも入れる予定はない。

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