第三章 誤算と打算と最適解

俺が再び生まれたのは2008年6月7日のようだ。そう考えると1987年生まれの美咲との年齢差は約20?結構若い男に生まれたようだ。それはそれで一気に予定が縮まった。50年の予定が30年に縮まった。これはこれで嬉しい誤算だ。

 どうやら俺は西岡家の三男として生まれ、大地と名付けられたようだ。西岡大地、西岡大地なー。おいちゃんその名前知ってるよー。ってアフロ先生じゃねえか。どうしてこうなった!

 兄が二人居るようで、6歳年上の兄が空也で3歳年上の兄が海斗、空、海と来て陸なワケね。なんだかんだで兄がいる生活ってのに憧れていた節もあるのが事実だ。

 同姓同名かとも思い何度確認しても俺は俺の知る西岡大地のようだ。

 父親の顔も見覚えがある。どこぞの骨法つかうコックにそっくりな強面のウチの高校の校長だ。まだ校長じゃないみたいだけど。

 確か、兄は自衛官と警官、まだ生まれてもいない妹も教師だ。公務員一家。それ以外の事は何も知らない。

 市内の外れ、山を切り開いて作られた閑静な住宅街、「希望ヶ丘ニュータウン」に俺の住む家はあった。同じような間取りの小さな家ばかりが並んでいて、道も碁盤の目のように仕切られている。いい年して迷子になりそうだ。

 アフロ先生は学校の近くのボロアポアートで一人住まいだった筈だ。つまりここは実家というワケか。それから数年が経ち、5歳の時には妹が生まれ来愛らいあと名付けられた。俺の知る限りは若いけどメチャクチャ怖い体育教師だ。男だらけの家庭環境で育つとあんな感じになるのだろうか?とりあえず俺は今回の人生では初めての大学受験に挑まねばならぬのは間違いないだろう。

 もし親に「将来何になりたいか?」なんて聞かれたら「お父さんみたいな立派な学校の先生になる」と満点解答しておこう。

 例により俺は波風立てぬよう「普通の子供」に擬態して生活している。とは言え、ちょっと抓られたくらいで泣くような事はない。相手が少々年上だろうと俺から見れば等しくガキだ。「毅然とした態度」というのは実に子供らしくない。

 ガキ特有の嘘と虚勢の入り混じった理不尽な物言いには筋道立ててキチンと論破してみせる。上級生から生意気なガキだと思われたのか絡まれる事も多かった。

 しかしながら怒れる子供の常套句「泣かしてやる」は俺には無効だ。俺が痛くて泣く事は恐らくないだろう。俺を泣かせたければ喜ばせる方が早いと思う。今幸せそうな美咲の顔を見たら確実に泣く。

 体格にも恵まれ健康優良児として育っていく俺は周囲からも頼られる存在となっていた。いい年こいてまたガキ大将をやっている。光一として生きていた時も幼少時代はこんな感じだったが、今は少し視点が違う。バカが無茶して怪我でもしないかと不安にもなる。光一の頃は「俺が居れば大丈夫」とバカもやったが、今はなんかもう、バカを止める側の人間だ。良くない事には良くないとハッキリと物が言える。もちろんそれは周囲にとっては望ましくないようだ。昔とった杵柄って言うか、弊害とも言えるが、一度「親」を経験すると誰だってこうなりそうだ。周囲からは真面目君だとか、いい子ぶってる、実はビビリ、などと茶化される事もあるが、やっていい事と悪い事はあるし、命の危険は見過ごせない。なんだかもう既に引率の先生になった気分だ。

 一番上の兄が柔道を習い始めた。追いかけるように次男も習い始める。お前は?と問われ「やる」と答えた。アフロ先生が柔道をやっていたかどうかは知らない。でもなんか「強そう」だったのは間違いないし、何かあった時に役に立つかもしれない。知識や技術はいくらあっても荷物にはならない物だ。今更ではあるが。

 そう考えると俺はこれまでの人生で「後に活かせる」ような技術も知識も何も持ち合わせていない。光一として生きていた時にも同じ内容の後悔こそあったが、そこから何かを得ようとはしなかった。

 美咲が居ればそれで幸せだったからだ。持ち合わせたスキルといえばちょっとした小料理の知識と赤ん坊のあやし方位だろうか?ああ、後は明晰夢。うん、何度考えても収入に繋がる物一つ無し。

 光一として生きていた頃は「次」なんて想定していなかった。あのまま幸せに暮らしながら、どこかで美咲に俺の得た「死生観」を伝え、死後は二人だけの世界で永遠にと考えていた。

 どこへでも行けるならそれも可能だろう。それは昔、美咲が望んだが現実的に「無理」と破棄された願いだ。きっと俺はそこに向かっている最中なのだと思う。一度で上手く行かなくとも、何度でも出逢えばいい。手を変え品を変え、何度でも何度でも、できるまでやればいい。

 むしろそれはそれで有限の時間を無限に繋げているとも言えるが、俺だけが美咲と擬似的に永遠に等しい時間を繋げていても全く意味が無い。共に歩み、共に生きねば、意味が無いのだ。

 美咲を導き共に永遠を得る。うん、今更ではあるがこれが俺の最終目標。取るべき進路だ。そう考えると、このアフロとしての人生を忠実に再現する必要性があるのか。行くべき場所も時間も分かっている。そう考えると、俺がこのまま「先生」になり、あの学校に勤める必要性は…あるような無いような…

 先生からは確かに勉強以外の事も色々と教わったが、当時の俺にとっては「神奈が好き」という点と「明晰夢」、この二点のみが今の俺に繋がる主な要因であろう。とは言え、やはり意図して変えない限りは収まる所に収まるのだろうし、流れに身を任せておこう。一体何があったら赤いアフロになるのか、そこが興味深いとも言えなくはない。

 中学、高校と順調に学生生活を送っている。学業もそれなりに優秀、体格も良く、部活として柔道にもそこそこ打ち込んでいる。県大会では団体二位のまずまずな成績を収めたが、全国大会を逃したのは普通に悔しかった。文武両道、中々にハイスペックな高校生だ。顔もまぁ悪くはないだろう。歌って踊れる系のスッキリ系の美形とは対照的なラガーマンタイプの「男前」といった感じだろうか?

 男というより漢。高校二年、17歳。青春ド真ん中。それなりにモテる。モテた所で困るので全てお断りさせて頂いている。決まり文句は「好きな人いるから」。正確に言えば妻も子供もいて帰る場所がある。

 ある朝、一年生の女子生徒が真剣な表情で無言のまま大きめの「茶封筒」を渡してきた。見覚えのある顔っていうか…俺の家族だ。

 榊姉さんマジか。渡すだけ渡して逃げてしまった。そんな所だけは歳相応に乙女なのだが、普通ラブレターってのはもっとこう可愛らしい封筒にシールでデコって丸文字でだな…茶封筒に入っていたのは高品質な半紙で、これを折り曲げない為に大きな封筒を選んだのだろう。

 豪快かつ達筆。見事な筆使いで「好きです。付き合って下さい 笹川榊」と…書いているように思える。達筆すぎて解読が困難だ。しかし素人目にもこれが美術品レベルの「書」であり、相応の想いが込められているのは感じる。姉ちゃん…多分だけど、花じゃなくて書の道でも食っていけるんじゃねえのかな?

 ここでもし俺が榊姉さんとくっついてしまうと、結局俺が婿養子として笹川家の家業を次ぐハメになる。展開としては面白いオチだとは思うが遠慮させて貰おう。後日、誠意を持ってお断りさせて頂くとしても、この恋文は額に入れて飾っておきたいレベルの作品だと思う。

 今日も一年生の女子に告白された。いい加減面倒臭くなってきた。何か良い手は無い物かと考えていたその時、ティーン!と閃いたというか、疑問と解答が繋がったような気がした。それから数週間、あれこれとネットで調べ、通販サイトでベストと思われる物を発見し、即座にポチった。

「おい、西岡。なんだソレは」

「商品」が届いた翌日の登校中、呆れ顔で声をかけてきたのは数少ない友人の片桐大吾。こいつは圭吾の兄貴だ。長身で色黒、短めの金髪、セットにどのくらい時間がかかるのか知らんが、怒髪天を突きまくりな感じだ。シャツのボタンも満足に止めておらず、首元には安っぽいネックレスも光っている。一目で不良と分かる問題児ではあるが、キチンと筋は通せる男で、同性からの信頼が厚い。俺とは対立する事も多々あったが今ではそこそこ気の許せる男だ。

「これか?別に校則違反ではなかろう?」

 俺は「自慢」のアフロに手を伸ばし得意気にそう言った。

「アフロは手入れが面倒でスグに臭くなるんだぜ?俺のダチはココナッツオイルのシャンプーで匂い誤摩化すのに必死だぞ」

「ほう、大吾にアフロの友人がいたとはな。だが心配は無用だ。コイツは通気性にも優れているし、洗い替えも二つ用意してある」

「ンだよ、被りモンかよ。ってまぁそんなスグにアフロになるわきゃねえか」

 納得したような顔で大吾はそういってアフロを掴む。

「なんか、イイ感じじゃね?柔らかくも固くもねぇっていうか?何?」

「最もユーザーレビューで評価の高かった物だ。重量といい、毛の密度といい、ボリュームと言い、申し分ないアフロだ。構造的にも画期的な工夫が施されており日常生活で取れたり落ちたりすることもないそうだ」

 俺はそう言って満足そうに笑ってみせる。

「なんだって急にンなモン被って来やがった?」

「こうでもせんと俺はモテてしまうからな」

「ほざいてろ」

 困り顔で首を傾げる俺に大吾は呆れた顔でそう返す。

「好意を持たれるのは嬉しい事だが、俺には応えてやれんからな」

「あー、それそれ、前から聞きたかったンだがよ。お前が好きな女って誰よ?なんなら俺様が力になってやんぜ?」

「その点も心配無用だ。バカだと思うかもしれんが、子供の頃に将来を約束した女がいる。その約束は守らねばならない」

「マジで?誰よ?幼馴染みってヤツ?このガッコにいんの?写メとかねえの?」

「幼馴染みには間違いないが、この学校の生徒はないし、写真もない。もう何年も会ってすらいない。ただこの約束が反故にされたという事実もない。ならば俺は待たねばならんだろう」

「お前、ホントバカな。バカ真面目。ガキの頃の約束なんざ普通は覚えてる方がおかしいぜ」

「約束は約束だからな。俺は出来ない約束はしない男だ」

 そう言って昔を思い返す。出来ない約束はしない。これは美咲の決意表明の際の決めゼリフだ。

「へいへい、そーでしたねっと」

「俺の事はいいとして大吾、お前は進路について真面目に考えているのか?夏の間はともかく、ヤンチャ坊主のままではいかんぞ」

 俺の言葉に大吾は暫く黙ってしまった。いかんいかん、つい説教臭くなってしまった。こういう干渉を嫌う男だと言う事も失念していた。

「気を悪くしたなら謝るが」

「そうじゃねえよ。俺は俺でちゃんと考えてんだよ。だけどやっぱ現実的じゃねえと思ってよ」

「なんだ。話してみろ」

「笑うなよ。あと人には言うなよ。ゼッタイだぞ」

 いつもヘラヘラとしている大吾が珍しく真顔でそういって少し距離を詰めてくる。

「なんだ?オリンピックでも目指すのか?それとも宇宙か?」

「ンなワケねぇだろ!俺な、ちょっと教師になりてぇと思ってよ」

 大吾は俺の言葉を少し恥ずかしそうに否定してから意外な事を口にする。

「元ヤンが教師になって体当たりで生徒に接するマンガでも読んだのか?」

「いや、ソレは確かに読んだけどソレに影響受けたわけじゃねえよ!」

「まぁ、お前には向いているかもしれんな」

 俺は鼻で笑いながらそう答えた。事実、圭吾の兄貴も学校の先生だという話を昔聞いた事がある。

「マジでそう思う?」

「お前は確かに不良生徒で問題児だが、行動に筋は通っている。人を思いやる心も持っている。後輩の面倒見もいい。目前の問題からも逃げない。資質としては十分だと思うぞ」

「照れるぜ」

「だが、今の成績では進学はおろか卒業も怪しかろう」

「わーってるよそんくらい」

「そんな事よりもお前と俺の進路が被っている事に驚いた」

「オメェも教師になりてぇのか?」

「ああ、子供の頃に父さんのような立派な先生になると言ってしまったからな。言い切った以上これは約束だ。破る訳にはいくまい。「なる」ではなく「なりたい」にしておけば良かったと今になって思うよ」

「窮屈な生き方してんなオマエ」

「何、自分で決めたことだ」

「ンな事より、俺の秘密を知った以上、テメーも共犯者だ。責任持って俺様に勉強教えろ下さい」

「それは一向に構わんが、この夏はしっかり遊んでおけ。高二の夏は特別な夏だ。身も心もバカでいられる最後の夏だ。普通は二度来ない物だからな」

 俺にとって高二の夏はコレで3度目だけどな。

「オメェは夏の予定とかどうなのよ?」

「部の合宿やら試合やらだな。大きな試合は年が明けてからだが、去年は後一歩の所で全国大会に進めなかったからな」

 思い出して少し悔しい思いをしているのだから俺も人並みにスポーツマンなのだろうか?こうして夏が過ぎ、秋も暮れ、冬が訪れ年が明ける。俺の柔道家としての歩みもここで止まる。県大会3位。去年より遠ざかってんじゃん。部を退き、以後は受験の為の勉強だ。

 大吾にとっては少々「詰め込み」気味にはなったが根は真面目な男だけにギリギリ間に合いそうな形にはなってきた。ただ、大吾が目指していたのは小学校の教師であった。すまぬ大吾よ。俺にもピアノは教えてやれぬ。その辺は大学に入ってから考えよう。

 そして高校を無事に卒業し、大吾も一緒に現役合格。大学生、俗にいうキャンパスライフはそれなりに楽しかった。大吾は水泳の方は問題ないようだが、やはりピアノには苦労しているようだった。一方で俺の方は専門一科目でいいだけに多少気が楽だが、採用倍率で見ると中高の方が圧倒的に狭き門だ。アフロ先生がこっちも現役合格だったのかどうかは知らない。

 そして数年、俺は無事に採用試験に合格できたが、大吾は無念にも落ちてしまった。塾の講師をしながら来年の合格を目指して今も勉強している。

 翌年には大吾も無事に合格を果たし夢であった小学校の教師となった。俺の方は地元の高校、言うまでもなく母校である霞ヶ丘商業で生物教師として教壇に立っている。生徒に舐められない為にはべらんめぇ口調が良いと過去の文豪も書に認めている。恐らくは「なんちゃって」べらんめぇ口調。本物がどういう物なのかわかりゃしねぇ。文字通り聞きかじったレベルのモンだが、コレもまぁ、味ってやつさな。

 三年生の女子に見覚えのある顔があった。椛姉だ。そう言えば笹川家の連中は全員この学校出てるんだよな。最初の俺は卒業前に死んだけど。

 部の顧問ってのはどうやら損な役回りで、残業代は出ないのだと知る。幼少の頃より柔道をやってきた経歴はガン無視で「登山部」の顧問を任された。経験ゼロ。合宿で山に行く事もあったが本格的な登山の経験など無いし、部室にある妙な金具や紐の使い方もサッパリわからん。

 部長を中心に部は動いていたが先生やることひとッつも無し。システム上顧問がいなければならないという話で俺のポジションは一番下っ端の部員のような物だろう。実際に登山となると顧問として同伴せねばならぬ。こいつは大変なことになったと個人的にも専門書を読んだりと研究をしていたが、一年生がおらず二年後には廃部となっていた。そして今になってようやく時代が俺の知る元の時代に近づいてきたとも思える。

 携帯はより小型、軽量化の道を進み、多機能化も著しい。携帯電話がスマートホンと呼ばれる時代を経て、携帯端末のディスプレイは眼鏡型のデバイスに姿を変えつつあった。最新のマウント型ディスプレイ端末のカタログを眺めていたら懐かしい物が目に入った。最新機種GH301、耐衝撃性に優れ、ライダーゴーグルとしてアウトドアでも大活躍…か。こいつぁ、俺の使っていた端末の初期モデルだな。見た目は同じだが品番が違う。操作には指輪型のデバイスが必要なタイプか。数年後には専用のマニキュアを塗ることで指全部使えるようになるんだよな。そう考えるとまだまだこの型落ちのスマホで我慢しておこう。

 それから数年後、一年生のクラスの副担任となった。クラスの生徒の中には見覚えのある顔もある。桜姉だ。そういえば中学の時に桜姉から聞いた事もあったな。副担が変なアフロだったと。

 今思えば「変なアフロ」とは何事だ。こんな立派なアフロはそうそうお目にかかれんだろうが。まぁ自分の担任になった時には正直ビビったが。

 その後は二年の副担任を経て翌年は一年の担任となる事が決まった。まぁ、ベテランの副担任付きではあるがな。

 年も明けて桜が咲く頃にゃ「あいつら」が俺の生徒として入学してくるワケか。一日で全員の名前と顔を覚えてやらぁな。っていうか元クラスメイトの名前は忘れてねぇ。扱い方もキチンと心得ているモンさな。こいつは随分とイージーモードかもしれねぇな。

 そして桜の咲く季節になった頃、言うまでもなく4月の話だ。入学式には懐かしい顔がズラリと並んでいる。光一時代にも神奈周辺のメンツと顔を合わせる事もあったが他の連中は何年ぶりだ?楓で死んで光一で51年。俺が今25だから合計76年ぶりか。普通、高三から76年も会ってなきゃ全員死んでるわな。

 どいつもこいつも新高校生らしい緊張感と…担任であるオイラのアフロにビビってるビビってる。楓も「マジかよ」って顔でこっちを見ている。ポーカーフェイスがデフォルト装備の神奈ですらその顔には若干の困惑の色が伺える。

 無事に入学式を終え、ちょっとした連絡事項の後に解散。明日以降も細々とした説明なんぞ挟みながら実際に授業が始まるのは来週からだ。俺は自室として使っていると言っても過言ではない生物準備室に戻りネクタイを解いて備え付けられていた古びたソファーにどっと腰を下ろす。

 ここの風景は昔とあまり変わっていない。まだテーブルの上はスッキリしているが、数年後には様々な資料が山のように積まれ、生徒に崩落注意とかかれた紙を貼られる事にもなる。

 その時、準備室の扉をノックする音が聞こえた。

「はいー、開いてますよー」

 そのままの姿勢で声を返す。今日は生徒ももう居ない時間だし、ここへ来る用事のある先生も居ない。居るとすれば俺に直接用事のある先生だろうし、そうなると数えるくらいしか居ない。校長をしているオヤジ殿か、副担任の田中先生か。どちらにしても目上の存在だ。普段なら返事は「あいよー」だったかもしれない。

 ガラリと戸が開き、そこに立っていたのは神奈だった。神奈は室内を軽く見回してから無言で入室する。

「近藤か?どうした、今日はもう帰っていいぞ」

 神奈は俺の言葉を完全にスルーしつつ、入ってきたドアの鍵をカチャリとかける。

「何してんだ」

 神奈は俺の問を無視しながら部屋の奥に早足で進み、そのまま窓に暗幕を引いた上で、隣の生物室に通じるドアの鍵もかけ、今度はこっちに向かって早足で近づいてくる。表情はいつなく…険しい。何ていうか、ヤる気の目だ。獲物を狙う獣の眼だ。

「おい近藤」

 俺がそう言いながらソファーから立ち上がった瞬間、神奈は俺に飛びかかってきた。ねっとりと、じっくりと舌を絡めてキスされたかと思うと、その刹那、神奈は般若のような形相で右手を小指から順に握りこみ、見事な正拳突きを俺の顔面に突き刺した。

「ぶるぁ!」

 俺はソファーに強制着席させられた。鼻折れたかも。

「アンタ馬鹿なの!なんでタバコで死んだ人間がまたタバコ吸ってんの!何?バカって死んでも治らないの?」

「…申し訳ありません」

 俺は鼻血を押さえながら床に正座して面目なさそうにそう言った。細かい説明は一切抜きでも一撃で分かった。


 こいつ、中身が美咲だ。


 会話の内容以前にそのキスの癖が完全に美咲の物だった。百の言葉を尽くすよりも雄弁な自己紹介だと思った。

「アンタが早々とくたばって30年近くどんな思いで生きていたと思ってんの」

「あ、いや、スグ会いに行くつもりで、はい。すいません」

 美咲が長いセリフを早口で話すときはキレてる時だ。下手に言い訳するより素直に謝った方がいい。何があったのか知らんが、なんぞしくじった結果がコレなのか?

「ああ、そうね。そうする「つもり」だったのは聞いてるし、実際にスグ来たよ。アンタが死んで、心電図が一本線になってアラーム鳴った直後にアンタは来たよ」

 さっきよりも長いセリフを息継ぎなしに一気に解き放つ。こりゃ相当キてる。

「じゃあ…お前、ここで何してんだよ」

「アンタは来たけど神奈も一緒っだった。俺は戻ったけどお前も一緒なんだ。すまねぇ。とかなんかワケわかんない事いいながらね」

 つまり、それはこの状況から生まれる未来という事なのだろう。コイツが紛れも無く美咲である以上…まぁ…事情を説明して理解を求める他無いだろう。

「…まぁ、お前が一緒ならしょうがないわな」

「おまけに娘にまで、今まで娘のフリしててごめんなさい。とか言い出すし、急に偉そうにされるようになったし!」

「そりゃ、お前から見た美咲だと思えば…そうだろうな」

「話したい事は山ほどある!でも先にエッチしよう」

「まて」

「ダメだね。待てないね。私も最初はそんなつもり無かったんだけど、もうスイッチ入っちゃったね。美咲の時はアンタに対して何も感じなかったけど、神奈になった今なら解るのよね。アンタ、凄くいい匂いがする」

「お前のその体臭好きも死んでも治らなかったのか」

「体臭とは少し違うんじゃないかな。匂いっていうか、きっと本能的に感じる相性の良さっていうか?あんなに大好きだったコーちゃんの匂いが今はキツくてキツくてしょうがないのよね。体臭と違って洗って落ちるようなモンでもないしね」

「あー、アレな。年頃の娘が父親の洗濯物と自分の衣類を一緒にするな的なヤツね。わかっちゃいるけどお父さん少し悲しかったよ」

 俺はそう言いながら神奈の父として生きていた頃の思い出を反芻していた。

「今のアンタは凄く煙草臭いけどその奥に何かこう、性的に興奮せざるを得ない何かがあるっていうか…もうとにかく辛抱たまらんのだ」

 そう言いながら神奈はするすると服を脱ぎ始める。

「まてまてまて、バレたらクビになるだろうが」

「少なくとも卒業式までは首繋がってるのはアンタも知ってるでしょう?ああ、もうダメ我慢できない。そういう欲ってのは、とうに枯れ果てたと思ってたけど、どうも若い体が疼くのよね。中身は90過ぎたババアなのにね」

「妖怪かよ!」

 不敵な笑みを浮かべてそう言い放つ神奈に俺はそう突っ込んだ。妖怪JKババア。

「あんたも90過ぎたジジイでしょうが」

「俺は…ほら光一で51、俺は今25だからまだ…えっと、76だ」

「何楓の18年無かった事にしてんの」

 俺のまだ若いんだぞアピールに神奈はジト目でそう言い返す。

「ご存知でしたか」

「全部アンタに聞いた。今のアンタは延べ94歳。美咲が80で死んで私が今15でしょ。合計95歳。私の方がお姉ちゃんになっちゃったね」

「お姉ちゃんで済ませられる次元の話じゃねえ!」

「いいからズボン脱げ。はよ」

 こうして俺は入学式早々、95歳の女子高生に押し倒された。

「さて、落ち着いた所で提案、というか進行中の決定事項についてお話します」

「なんだよ。急に改まって」

 急に真顔で話し始める神奈に合わせて俺も座り直す。なんかこんな事、昔にあった気がするな。うん、美咲が俺の進路の話をした時だ。あの時もパンツが見えていたが今回はダイレクトに床に落ちている。

「私が私を救う。そしてこの先に私を待っている不幸も回避する」

「何をどうするって?とりあえず服を着ろ」

 俺はそう言いながら身なりを整える。

「私が今こんな所に居るのは前世がロクでもない結末だったからなの。美咲が美咲として普通に幸福になっていれば私はこんな所に居ないの」

 神奈は着衣を整えながらそういって少しため息を吐いた。

「そりゃまぁ、そうなんだろうけどよ、美咲のこの先をどうこうしちまうのは、そのままお前の過去を変えちまうって事だろう?」

「よく言うタイムパラドックスってヤツ?それについては関連性、連続性が無い事は実験によって既に実証済みなの。だから安心して今の時代を好き勝手に変えちゃっても大丈夫なのよ」

「実験って、お前何したんだ?」

「これは私の娘の提案だったんだけどね。実は私、サックスが超上手に吹けるの知ってる?」

「知らねえ。お前楽器なんて触ったこと無かっただろ。それにウチにもサックスなんて無いハズだ」

「うん、家にサックスはないしもう15年触ってないかから、超上手に吹けるは言い過ぎたかもしれないけど、貴方が死んだ後に私が習い始めたのよ。でもそれによって私の娘の神奈がある日突然サックスが吹けるようになったりはしなかったの」

「えっと、それはつまり」

「楓を助けてもコーちゃんが長生きしても、今のアンタには何の影響も無いって事よ。私達は死んだ瞬間から見れば過去の時代を生きてるけど、決して同じ時間軸の過去ではなく、あくまで別世界、別次元の今を生きているの」

「えっと、SFで言う所の並行宇宙ってヤツ?」

「そう考えるのが無難でしょうね。無限に存在する私と貴方。貴方の知ってる神奈と今ここにいる神奈は少し違う。でも私は貴方と生きた貴方の美咲であって、貴方は私と生きた私のコーちゃんなの」

「まぁ、そうだろうな。お互い、ソコを目的地にしてたんだ。間違いようがねえ」

「無限に広がる砂漠の中からたった一粒の砂を探すような話だけど、それができるのが絆とか縁ってヤツなのかしらね。まぁ仕組みはどうでもいいの。それに加えて私が幸せに生きていく為にも防げる不幸は防ぎたいの」

「防げる不幸?」

「まずコーちゃんには長生きしてもらわないと美咲が困る。って事でタバコは随分昔に止めさせた。アンタにその記憶は無いでしょう?」

「あ、ああ」

「後もう一つ、楓君に死なれても困る。事故原因はアンタの方が詳しいでしょ?」

「ああ、でもアイツは多分死んだ方が後々幸せになれると思うけどな。道筋は険しいが今、俺ほら。こんなに幸せだ。正に生き証人って奴だ」

「結果論でモノ言わないの。アイツが死ぬことで周りの人がどんだけ不幸になってると思ってんの。アイツが死ぬと私の友達が死ぬ程悲しむの。それは私としても絶対に回避したい事なの」

「母さん…理沙の事か」

「理沙より獅庵の方が重症でね。文字通り死ぬ程辛かったんでしょうね。アンタの事故現場で車に飛び込んで自殺しちゃったのよ」

「えー!」

「私の娘も一回目の自殺は止めたけど、止めた後の未来がどうなるかなんて分からないワケじゃない。二回目は止められなくて、可哀想に酷く落ち込んでたわー」

「サラッと言うなよ、そういう事」

「問題ないでしょ。もう起こらない事だし、それにコーちゃんはあの日、自分が死ぬ事知ってて泳がせたんでしょ?その結果がどうなったかは自分の目で見てるよね?」

「ああ、二度と御免だ。自分の葬式に二度も出たかねぇよ」

「私の数少ない友達をホイホイ殺されちゃたまんない訳。理解した?」

 美咲は腕を組み少し首を傾げた状態で深いため息を吐く。

「お前友達は多い方だろ。愛美とか千佳とか美雪に亜子、理恵に由梨香とか」

「愛美以外知らない名前なのは高校に入ってからのお友達なのかしらね?結局地元に残ったのは獅庵と愛美だけみたいなのよ。愛美と私はまだ友達じゃないっていうか、あの子は純の嫁だから友達としては絶対に見れないと思うの」

「愛美が?純の?」

「うん」

「俺もアイツを生徒としても友人としても見れなくなっちまったじゃねえか」

「大事な一人息子の嫁だもんねぇ」

 そう言って神奈はニヤリと笑ってみせる。

「ああ、どうやらウチに娘なんか居なかったみたいだからな」

「まぁ、そういう事だから、できれば楓と獅庵の仲取り持ってやってちょうだい。そういうのもセンセーのお仕事でしょ?」

 そう言って神奈はなんとも味のある顔で笑ってみせる。

「先生の仕事には含まれてねぇが、俺の仕事ではあるようだ」

 自分の葬式で見た獅庵の嗚咽は今でも忘れられない。それだけでなく、後追い自殺するような女を放っておく訳には行かない。

「獅庵はね、本当にイイ子なの。小さい頃から良く知ってるし可愛くて仕方がないの。あんないい子が幸せになれない世の中ってホントに糞だと思うの」

「お前、お婆ちゃんから見た孫みたいな視点でアイツの事見てないか?」

「あー、割とソレだね。本当は飴じゃなくてお小遣いあげたいくらい」

 そう言って神奈はなんだかホンワカしている。孫が遊びに来るのを心待ちにしているババアのようなオーラを放っている。

「つか、アイツ小さい頃は黒髪で色白なお嬢さんだと思ってたんだが、何があったら白黒反転しちまうんだ?」

「アンタ、覚えてないの?」

 俺の言葉に神奈はきょとんとした表情で当たり前のようにそう返す。

「何が?」

「全部アンタのせいでしょ」

「俺の?」

「4歳の時ね。獅庵がアンタにどんな女の子が好きかって話を振ったの。相当勇気を振り絞って聞いてたみたいだけど、覚えてないの?」

「4歳の時の事なんか覚えてるワケ無いだろ。お前よく覚えてるな」

「神奈4歳って事は私にとっちゃ80過ぎの頃の話よ。アンタだって光一としてなら0歳の時の事だって覚えてるでしょ」

 言われてみればその通りだ。0歳の青年期も0歳の中年期も経験している。そういう意味では神奈の4歳はごく最近の壮年期の記憶なのだから覚えているのも当然だ。

「まぁな。で、4歳の楓少年が何ほざいたんだ?」

「うん、シルファみたいな強い女がいいって」

「なんだよシルファって」

「知らないわよ。アンタが子供の頃に好きだったアニメか何かのキャラクターじゃないの?なんちゃらスターとか言う」

「ああ、ああ。思い出した。エピソードⅢのシルファか。確かに色黒で銀髪のポニーテールだったな。いや、あんなに腹筋バキバキに割れてはなかったと思うが」

「ま、何にせよフツーは忘れてるような4歳児の話をあの娘は忘れてなかったし、そこ目標にしちゃったみたいなのよね。ホント一途で真っ直ぐで、凄く強い。その強さ故に凄く脆かった。なんか他人のような気がしなくてね」

「お前も昔から俺が死んだら死ぬ死ぬ言ってたもんな」

「そういう事なんで色々よろしくね。センセ。次から避妊具はソッチ持ちだから箱で買っときなさいよ」

「まじかよ。安月給なの想像付くだろ!」

「タバコやめればソレでお釣り出るでしょ」

 そう言って神奈は俺を睨みつける。

「お言葉だがよ、俺は禁煙する気はねぇよ」

「アンタ!」

 再びブチ切れ大声を上げる神奈の言葉を遮るように俺は話を続ける。

「怖いんだよ。長生きしちまってよ、ボケてお前の事を忘れちまうのが」

 俺の言葉に神奈は一瞬ハッとしたような顔をして押し黙った。

「文字通り、生きるってのは命がけなんだ。まぁ、俺達にとっては死は終わりじゃ無いのは知ってる。だがよ、ソイツをボケて忘れちまったら次はねぇんだよ」

「…そう、だね」

「お互いこんな経験しちまってる訳だ。永遠にでも今を繋ぎ合わせて生きて行けそうな錯覚にも陥るが…実際は有限、続ければ続けるほどリスクも増えるし、限界も自ずと訪れるようにできてんだ」

「限界?」

「生物教師としての立場から言わせてもらうと、俺らまだ100歳程度の人生しか歩んじゃいねえし、その程度なら問題ないのも分かるし元気な100歳も結構な数で存在しているのも事実だ。だがこれが200年、300年と続けば…そのうち頭ン中に収まらない情報量になっちまうのは明白だ。限界容量がどの程度かはハッキリ言えんが、なんだかんだで俺らは物質であって、記憶ってのもシナプスの結合による電子回路の集まりだ。無限じゃない。有限の記憶媒体に魂を保存してるんだよ。記憶容量が一杯になったらどうするんだ?新しい記憶が入るとトコロテン式に何かが抜け落ちていくのか、もう何も入らないのかは知らんが、俺は今の所、何も消したくないし、止まりたくもねェんだよ」

「だからって命削らなくてもいいでしょ」

「もういいじゃねえか。なぁ?人として生きるのはお互い最後にしようぜ。次はあの世で一緒になろう。そこでなら永遠も得られる」

「あの世ってそんな」

「無いなら作ればいい。行きたい場所に行けるんなら、簡単な事だろう?俺もお前と同じでよ、お前さえ居てくれりゃ他にゃ、なーんもいらねえのよ。それが俺らの目指す天国って奴じゃねぇのかな?」

 俺はそう言って笑ってみせる。きっと幸せそうな顔をしているだろう。

「そうだね。そうしよう。次はそこに行こう」

 少し考えて納得が行ったようで神奈は嬉しそうにそう言って俺を抱きしめた。

「ああ、ガキの頃、お前が「そうしたいが無理だ」と破棄した願いだ。また俺の方が先に死ぬとは思うがよ、そんときゃ土産話の一つでも持ってこいよな。アッチにゃ持ってる物しか持ち込めないのは知ってるだろ?」

「わかった。一つでも多くの何かをソッチに持って行くよ」

「ああ、二人で夢を見よう。覚めない夢を」

 そう言って俺は眼を閉じ神奈を強く抱きしめた。これで二人の目的地が一致した。もう道に迷う事も無いだろう。

「100年近く生きてようやく目標が定まった感じね」

「ああ、これでお互い隠し事は無くなった訳だ」

 俺はそう言って申し訳無さそうに笑ってみせる。

「そうね。貴方は美咲の未来の姿を、私は楓君の未来の姿を愛してた」

「そして互いに相手の過去を見守っていた訳か」

「交差してた線がやっと一本に繋がった感じね」

「別の場所から再出発だろ。一本線を足しとけ。今までは二人だけど一人だった。こっからは俺とお前で歩んでいくんだ」

「バッテンに下から一本足しときゃいいのかな?」

「そうだな、テンキーの右上の方に付いてるアレみたいだな。米印ってのかね?」

「あれ米じゃなくて星だから。アスタリスクっていうのよ」

「言い得て妙だな。死んで星になる人生たぁな」

「ホント、ファンタジーなお話だけど私達にはリアルな話よね」

「お前、昔っからリアリストだもんな」

 この後、特に会話は無かった。お互いに強く抱きしめ合い、ただ時間だけが流れていった。お互いにこのまま永遠にこうしていたいと願っていた。本当に心が一つになったような、決して離したくない。そんな幸福な時間の中に居た。完全に二人だけの世界にいた。そこに水を刺したのが学校のチャイムの音だった。

「邪魔すんなよ…」

「現実にいる以上、いつだって邪魔は入るよ。お腹もすくし寝なきゃ死んじゃう。だから…絶対に行こうね。誰にも何にも邪魔されない場所に」

「ああ、必ず」

 そう言ってこの日は神奈を送り出して仕事に戻った。生徒に関する書類の山だ。こいつを片付けちまわねぇと明日から仕事にならんな。他にもやることは山積みだ。

 こうして三回目になるこの時代が動き出した。教師として、担任としてコイツらを見ているとよく分かる。獅庵は確かに楓の事ばかり見ているし、楓は神奈の事しか見ていない、神奈は俺の事しか頭に無い。不器用な連中ばっかりだ。

 楓は誘われるがままに運動部を転々としては才能の無さに打ちのめされている。それは視力のせいだから諦めろ。獅庵は剣道部で日々頑張っているようだし、愛美は毎日のように神奈をバスケ部に引き込もうとアプローチを繰り返している。気のせいだと思いたいが、愛美の神奈に対する目が恋する乙女状態だ。もしかしてだけど将来的にくっつくと聞いている純は神奈の代用品か、将来的にも残る接点の一つなのかもしれない。まぁいくら口説かれても神奈が部に属する事はない。多くの生徒が部活動に勤しむ「その時間」は俺と過ごす大切な時間なのだから。


しばらく経った頃か。事を終え一息ついて談笑している所にドアをノックする音が聞こえた。

「あいよー」

 気怠く返事をする。

「失礼しまーす」

 愛美の声だ。

「あ、いたいた。獅庵待ってんでしょ。私もここで待たせてよ」

 そう言って愛美は神奈の横に腰を下ろす。神奈と愛美は比較的仲良くなれたのだろうか?神奈がいつもここで獅庵を待っている事を聞きつけてやってきたようだ。聞く所によると女子剣道部はかなり遅くまで頑張っているようでバスケ部の方が先に終わっているようだ。剣道部とか着替えるのにも時間がかかりそうだしな。

「コーヒーしか無いぞ。砂糖とミルクは?」

 俺はそう言って席を立ち、部屋の奥へ向かう。

「お砂糖多めで、ミルクは結構です」

「あいよ」

 そういって俺はご注文通り、砂糖多めのインスタントコーヒーを愛美の前に置く。

「なんで私だけビーカーで出てくるの!」

「ここをドコだと思ってる。余分なコーヒーカップなんざ置いてねぇっての」

 俺はそう言って腰を下ろし自分のマグカップに手を付ける。

「神奈のソレは?」

 神奈が手に持っている比較的大きめで熊さんの絵の入ったピンクのマグカップを指差して愛美は不満そうにそういった。

「マイカップ」

 神奈はさらりとそう答える。愛美は不満そうにビーカーのコーヒーに口をつける。前回何に使ったビーカーかは知らんが、ちゃんと洗ってるから大丈夫だろう。暫くして再びノックの音が聞こえた。

「失礼します」

 返事も待たずに獅庵が入ってくる。いつもの事だ。

「何してんの愛みん?」

「やだなー、アンタ待ってたんじゃないの。一緒に帰ろ」

「いや、その黒いの…何?」

 屈託のない笑顔で一緒に帰ろうと提案する愛美に獅庵は真顔で突っ込んだ。

「コーヒーだけど」

「そんなのに入ってると有害物質にしか見えないよ」

 愛美の持ったビーカーを指差して怪訝な顔でそう言い放つ獅庵。確かにタール状の何かにしか見えない。透明な容器に黒い液体。分かりやすいラベルでも貼ってなきゃコーラなのかコーヒーなのか醤油なのかソースなのか、そもそも口にしていいモノなのかも一見するだけでは判別できない。そんなやりとりを見て神奈が少し笑っている。

「アンタも頂きなよ。下校時間までまだ少しあるでしょ?」

「遠慮しときます」

 神奈の提案に獅庵は真顔でそう答えた。

「帰りにマグカップ買って帰ろうよ」

「それなら、まぁ」

 愛美の提案に獅庵は上を見ながらそう答える。

「お前ら部の仲間とかと帰らなくてもいいのか?普通部活終わったら部員同士で遊びに行ったり何か食いにいったりするもんだろ?」

「あー、大丈夫です。そんな元気残ってないくらい絞られてるし、私ら同学年じゃちょっと浮いてるっていうか?」

 俺の言葉に愛美は苦笑いしながらそう言って獅庵の方を見る。

「一緒にしないでよ」

 不満そうに言う獅庵を見ながら神奈が荷物を持って席を立つ。

「じゃ、帰ろうか。お菓子も買っといてね。センセっ」

「お前ら、部費取るぞ。全く」

 そう言って俺は三人を見送った。明日は来る途中にでも適当に袋菓子でも買っておくか。コーヒーも余分に買っておこう。長居する嫁さんが水代わりに飲むからな。

 それから暫くして日直になった楓がその日の日誌を持って俺の所にやってきた。

「何やってんだお前」

 何食わぬ顔でコーヒーすすりながらお菓子を摘んでいる神奈を見て楓は驚いた顔でそう言った。

「愛美と獅庵待ってるだけ」

 神奈は顔も合わせず携帯端末つつきながらそう言った。

「毎日コレなんだよ。暇なら部活でもやりゃあいいのによ」

 俺は苦笑いしながら楓から日誌を受け取って腰を下ろした。案の定、翌日から楓も放課後はここで時間を潰すようになった。名目上は圭吾の部活が終わるのを待ってるって事だが、お目当ては神奈なのは俺も知ってる。もう一人の友人である影次は生粋の帰宅部というかゲーマーだ。こんな所に寄り道している暇があったら直帰してトレーニングモードで技を磨くか、経験値でも稼いでいるのだろう。

 むしろ日直が日誌を持ってきてから愛美が来るまでの2時間ちょっとの「二人の時間」が無くなった事に神奈は少しばかり不満気味で、それからは土日には俺のボロアパートに押しかけるようになった。

「失礼しまーす。あれ?」

 楓の声だ。段々と遠慮も無くなってきたのか当たり前のように遊びに来るようになったが、今日は少し様子が違う事に気がついたようだ。水曜は神奈がない。

「近藤か?アイツ水曜はいねえぞ。習い事で空手やってんの知ってんだろ?」

「あ、ああ、そうでしたねー」

 しまったー、なんか微妙に居辛い!と思っているのは知ってる。俺も通った道だ。その時は他愛もない話題で圭吾が来るのを待ったが、ここから先はシナリオを少し修正させて貰う。

「お前が近藤目当てでここに顔出してるのは解ってる」

 俺はそう言いながらテーブルにコーヒーを置く。

「あ、いや、俺はそんな。別に」

「隠すな。見りゃわかる。まぁ飲め」

 俺はそう言って正面のソファーに腰を下ろす。

「教師って立場で見てるとよ、色々見えてくるモンもあるわけよ。誰が誰を好いてるとか誰と誰が付き合ってるとかな。噂好きの女子もココにゃ多いしよ」

「は、はぁ…」

 楓は遠慮気味にそう答えながらも様子を伺っているようにも思える。

「近藤は諦めろ。お前にゃ無理だ」

「え、いや、え?」

 ダイレクトに否定され慌てる楓。少なくともこの時期であれば、自分は他の奴らより近い位置にいるし、可能性は高い方だと思い込んでいた頃だ。

「恋は盲目って言葉知ってるか?お前は周りが丸で見えちゃいない。高嶺の花を欲しがるより、足元の薬草詰んで帰った方が良い事もある」

「どういう…意味っすか」

「伊倉だよ。アイツお前さんに惚れてる。俺の見立てじゃ、今日にでもお持ち帰りできると思うぞ」

「しあんが俺を?マジで?憶測でしょ?」

「いや、マジな話。俺がそう思うとか、そう見えるって話じゃねえ。確かな情報ソースによって裏付けされている物だ」

「何すか。その確かな情報ソースって」

「伊倉の大親友の近藤だよ。むしろこれは近藤に頼まれたんだ。伊倉とお前の仲を取り持ってやってくれってな。友達想いの良い子じゃないか。そういう意味でもお前と近藤の線は無いってこった」

 暫くの沈黙の後に楓が口を開いた。

「そう…ですか」

「真っ直ぐで良い子じゃないか。お前さんとも幼馴染なんだろう?ソッチの線は考えた事なかったのか?」

「はい、全く」

「ったく、ニブチンってのはお前みたいな奴の事を言うのよ、いいか?高校生活の3年間ってのは人生の中でも、かーなーりぃー重要な3年間だ。後の10年よりずっと比重が重い。部活に打ち込んでる訳でもねぇお前さんにとっちゃよ、彼女の有無ってのは後になって青春ってのを振り返る際の最重要項目だぞ」

「そう…ですか?」

 恐らくコイツはなんだかんだで先生の言ってる事は「的を得ている」とか思っているのだろう。楓よ。的は得るものではなく射るものだ。と、突っ込みたい所だが俺はエスパーでは無いのでやめておこう。

「俺も高校生の時にゃ彼女はいなかったが部活には勤しんでたぞ。だーがしかしだ、それは先生がモテなかった訳じゃねえぞ。何度も下級生に告白されたもんだ」

「マジで?先生が?」

 明らかに疑っている目だ。ここは話に信憑性を持たせる為にも「最後のカード」を切るしか無い。

「ああ、下手したらオイラはお前の兄貴になってたかもしれねえんだぞ。そういう微妙な縁もあってオイラはオメエの事を思って言ってんだ」

「え?それ、どういう意味っすか」

「帰ったら一番上の姉ちゃんに聞いてみな。西岡大地って男の事をよ。キレるかもしれねえから機嫌のいい時を狙うんだぞ」

「姉ちゃんと何があったんすか」

「何もねぇよ、何も無かったらこそ…後引いちまったんじゃねえのか?」

 釈然としない様子の楓だったが、暫くして獅庵と楓が付き合いだしたと神奈から聞いた。どんな不器用な告白をしたのかは気になるが、とりあえずは第一段階はクリアか。後はアホがチャリの前輪を溝に取られる前に溝の表裏を戻しておけばいいだろう。

それにあの時とは状況も違う。純に呼ばれたからと神奈目当てに大喜びですっ飛んで行くとも限らない。女ができると友達付き合いってのは自然と減る物だしな。

 それから2年、ここは随分と賑やかになっていた。大半は俺のクラスの生徒で部を退いた三年生のたまり場だ。本来なら受験勉強に本腰を入れなきゃならん時期なんだが、揃いも揃って「就職組」だ。貴重な一年生として純の姿もあるし、愛美がやたらとベタベタ寄り添っているのも見て取れる。

 そして年も明け、卒業も差し迫ってきた。本来なら楓の命日となる前日に現場の下見に行って見た。案の定、格子状の蓋が上下逆に取り付けられていた。糞寒い中、俺は力任せにソイツを引っ張りだして正しい状態に戻しておいた。

 次の日の午後、生物準備室の外の廊下の窓から外を眺めていた。あの時と同じように朝から寒い一日で午前中には雪も舞っていた。今は霙にかわり既に薄暗い。

「本当に大丈夫なの?」

「ああ、事故の大本であろう物は昨日の内に塞いでおいたし、今日も獅庵と帰ったんならどっか寄り道してるだろうからそもそも、事故のあった時間、あの場所にはいねぇだろう。まぁ…意地悪なお話だと手を変え品を変え、何度時間を遡って助けようとも、死ぬ人間は死んじまうのかもしれねぇが、どうやらそういう世界じゃねえみたいだしな」

 不安そうに聞く神奈に俺は皮肉交じりにそう答えた。

「あったね。そんな映画。事故の原因塞いだって、何したの?」

「道路脇にあるだろ。排水口」

「排水口?」

「ああ、ブロック数個に対して金属の格子の部分があるだろ?あの蓋、上下があってな。それが逆だと自転車のタイヤがバッチリハマっちまうんだよ。それで盛大に前のめりにすっ飛んで車の進路上に飛び出しちまったのさ」

「そうなんだ。獅庵も一緒なら多分駅前のモールで飼い食いしてるか二人でカラオケ行ってると思うから、事故原因そのものより、その時、そこに居ないって事の方が重要っぽいし大丈夫だね」

 そう言って神奈は少し安心したような表情で溜め息を吐いた。

「ンな事よりお前、卒業後の進路が家事手伝いになってるぞ。手伝う事なんて無いの知ってんだろ」

「無し。とは書けないでしょ。かと言って働く気もないし」

「どうすんだよお前。俺の安月給当てにしてないだろうな?」

「あったりまえでしょ。私がノープランで来てるワケないでしょ。前回は娘と婿に家と財産乗っ取られたけど、今回はそうもいかないからね」

「何、考えてる」

「同じことする」

 神奈は真っ直ぐに窓の外を見ながら力強く呟いた。確かにコイツは美咲の持っていた知識もセンスもそのまま持ち合わせているんだ。その気になれば、仕事の多くが天使のデザインと評されるも惜しまれつつも業界から姿を消した天才建築家近藤美咲の再来と騒がれるかもしれない。

「大学受験の時期はとっくに終わってるぞ。資格がなきゃ仕事は取れんだろ」

「そうじゃない。その部分は無駄な時間なの。卒業したらすぐにお店屋さんごっこしながら残りの人生平穏に生きるの。春からは残りは全部余生にする」

「そんな金どこにあるんだよ。親から毟るのか?」

「まさか、ちゃんと自分で稼ぐよ。とりあえず「アタリ」買っといたから預けとくね。流石に私が換金しに行くと色々面倒だから」

 そう言って神奈は懐から一枚の宝くじを取り出した。数字を7つ選んで買うタイプの奴だ。

「お前、それもしかして」

「キャリーオーバー発生中で私の記憶なら次もアタリ無し。で、これがその当たりクジってワケ。人一人生きてるくらいじゃ影響無いと思うけど、ハズレたらハズレたで株や為替で稼ぐ方法もあるよ」

「ズルくね?」

「死ぬ思いして生まれてきてんだからこれくらいは特権でしょ?むしろアンタが何も考えて無さ過ぎ。初回はともかく2回目は生まれ変わる前提で死んでんでしょ?普通なんか持ってくるでしょ?」

「と、と、当選日いつだ」

 神奈の小言は既に俺の耳には届いていなかった。風が吹けば飛ぶようなこの紙切れ1枚が8億?平凡なサラリーマンの生涯所得の3~4回分?そう思うと両手でしっかりと掴んでいても震えが来る。

「毎週金曜でしょ」

「明後日か、よし、いや、えー」

「オロオロしすぎ」

「だってお前これ、キャリーオーバーって最大当選額…8億だろ?」

「声大きいって!」

「俺が帰りに事故って死にそうだわ…」

 そして翌日、楓は何事も無く生きて登校してきたし、その翌日には俺の手元に8億円の当たりクジがあった。とりあえず落ち着いて…辞表を書いた。結婚を理由に自営業への転身…と。

 神奈の卒業後、俺達はスグに結婚した。神奈はまだ未成年で結婚には親の同意が必要な立場ではあったが、神奈が既に事の成り行きを両親に説明済みともあり「理解ある」両親のお陰で話は凄くスムーズだった。初代の美咲は半信半疑ではあったが光一は理解が早い。と言うか、二人の生き証人の登場で「証明の困難な持論」をリアリストの美咲に説明する説得力を得たという形で想定外の助け舟を歓迎しているようにも思えた。俺が光一であった事も、神奈が美咲であったことも、物理的に証明する事は困難であるが、当事者しか知り得ない「思い出話」ならいくらでもできるし、神奈は神奈で光一すら詳細は知らなかったデザイナー時代の海外の苦労話や、デザインに込めたこだわりまで語り出す。リアリストを自称する以上、この現実は受け入れなければならないのも事実であろう。

 卒業と同時に教え子と結婚となるとブチ切れてるのはコッチのオヤジ殿の方で、勘当同然に二度と顔を見せるなと言い渡され、妹からもケダモノ扱いされる始末だ。それから俺は苗字を近藤に改め、長年愛用したアフロに別れを告げた。

 数ヶ月後には寂れた商店街の端に趣味の店をオープンさせていた。前回は美咲の趣味を優先してので今回は俺の趣味で商品を選んで良いという事になった。

 店名、ホビーショップ近藤。気がついた頃にはレトロなホビーで棚が溢れ返っていた。ネットで買ってそのまま三割増しくらいの値段で並べておくと…不思議と稀に売れるから困る。余り稼ぎすぎると税金の管理が面倒だ。とは言え嫌いじゃない。スグに古物商の許可も取り、商品の買い取りも始めた。検品と称してオモチャで遊ぶのも大切な仕事だ。

 神奈の卒業から1年、純も高校三年になった年の6月に「2度目」の結婚式は盛大に執り行なおうという事になった。むしろ知らせを受けた神奈の友人周りの反応が気になる。俺が楓の立場なら盛大に茶を吹く勢いだろう。

 神奈の友人代表スピーチは獅庵が担当し、こちらの友人代表には片桐を指名した。高校時代の柔道部の連中なども招いた。新郎側の席はかなりむさ苦しい。渋々ながらもオヤジや兄貴、妹も参加してくれた。大雨の振る中、屋内で行われたブーケトスは愛美が見事にかっさらって行った。一瞬だが完全にバスケ部主将時代の動きだった。アレが「鉄の壁」との異名を持つ女の瞬発力と跳躍力か。

 ブーケのご利益があったのかどうかは知らんが、翌年、高校を卒業したばかりの純と愛美が結婚した。式は俺達と同じく6月で愛美が既に赤ん坊を抱いている。できちゃった婚全開だ。純と愛美の間にできた子は5月に生まれ、女の子なので近藤家的な命名規則に従い、皐月と名付けられた。

 それからは平穏に時は流れた。光一が癌で倒れる事もなく、本来なら光一の命日である日も何事も無く過ぎ去り、近藤家は今日も平和なようだ。

「アンタもたまには家に顔出しなさいよ」

「いや、なんか行き辛いだろ…」

 実家から戻った神奈の言葉に俺は面倒くさそうにそう返し、ネットから仕入れた商品の検品作業を続けていた。やっぱ超合金はいいな。稼働部位、変形合体、付属品も問題なし。箱、やや傷と日焼けあり…と。

「昔の自分はあんまり見たくないって感じ?」

「違うよ。それは散々見てきたから慣れてる。むしろ昔のお前を見たくないんだよ」

「何それ、嫁と畳は新しい方がいいってワケ?」

「逆だ。抱きしめてキスしたくなるだろうが。初恋は神奈、お前だったが、俺が愛したのは美咲の方だよ。まぁ、それもお前の事だが」

「ふーん」

 少し照れくさそうに言う俺を見て神奈は少し満足そう言って笑った。

「まぁ、来なくて正解かもね。その抱きしめてキスしたくなる美咲さんは私の事が嫌いなようで口論が絶えないから」

「美咲の性格ならそうだろうな。アイツっていうかお前、プライド高いもんな。長年出し抜かれ続けた上に完全に下に見られりゃ、憎しみとは言わんが妙なライバル心燃やしちまいそうな気はするぜ」

「そう考えれば私は随分丸くなっただしょ?」

「なんも変わってねえよ。お前のそれは勝者の見せる余裕みたいなモンだろう。そいつが見え透いてるから美咲も苛立つんだろ?」

「そうかもしんない」

 神奈はそういって嬉しそうに笑う。

「やっぱお前Sなんだよな。まぁMの俺が言うのもなんだが、惹かれ合うのも納得がいくってもんだ」

「自覚はあるんだ」

「それより楓と獅庵はよろしくやってんのか?」

「同棲してるみたいだけど、楓が一向に働く気配無いみたいだよ」

「そりゃロクでもねぇな。どれ俺が一言言ってやろうか」

「いいのいいの、獅庵はそれで幸せなんだから。ってアンタが言っても説得力全く無いでしょ」

「はい、そうでした。すいません。いや、でも一応俺はアイツにとっては尊敬すべき恩師にあたる存在なわけで、俺は形だけでも自営業を営んでる。ヒモとはちょっと違うだろ?」

「現在進行形で尊敬されてると思ってるの?その初恋の相手をかっさらっていったクソ教師くらいに認識改めてるんじゃないの?」

「…はい、その通りで御座います」

 言われてみれば全力で嫁さんに養われているのは俺も同じだったし、アイツの立場からすりゃ、いいようにあしらわれて初恋捨てさせたのは俺だよな。うん、憎まれてこそいないと思うが尊敬できる人間ではないな。

「とは言え、獅庵が少し気の毒だろう。経済的な支援として…ほら一緒に宝くじでも買って分前やったらどうだ?」

「アタリ番号全部覚えてるワケ無いでしょ。的を絞って一個覚えるのだって大変だったんだからね」

「じゃあ、株は?上がりそうな会社の名前くらいは覚えてるんだろ?」

「あそこに株式投資に回せる余裕なんてあるわけないでしょ」

「それじゃあ…窓から現金投げ込むか?」

「何時の時代の話よ。幸せなんて人それぞれなのよ。獅庵は楓の為に働く。それで幸せなんだから放っておきなさい。それにアンタが獅庵を不憫に思うなら、ソレは楓も同じでしょ?まだ若いとはいえ、私の惚れた男を安く見ないでちょうだい。そのうち働くわよ」

「俺を高く買ってくれるのはありがてぇ話だが。お前はそれを許さなかったけどな」

「私は社畜に成り下がったアンタを見たくなかっただけ。自分の為よ。案外あの子も同じなのかもね」

「変な所、似てるよね。お前ら」

「時代は違えど、奇しくも同じ男を愛した者同士だもんね。シンパシーって奴かな。私だったら横から施しなんて受けたくない」

 神奈は真顔でそう言ってから腕を組む。

「案外…自殺した獅庵の生まれ変わりが…お前なのかもな」

 俺は商品を磨きながらポツリとそう呟く。

「そんなワケ無いじゃん。私は私だよ」

「覚えてないだけかもしれんぞ。生まれ変わりに失敗して、砕けた魂の欠片だけが微妙にお前に残ったとかな。後追い自殺するような女は死ぬ間際に何を願うかな?」

「…楓君に会いたい…かな」

「その楓君はその時どこにいた?」

 俺の言葉に神奈は一瞬固まった。

「ちょっと止めてよ。マジ怖いんだけど」

「実際に死んじまったらその先なんて周りににゃわかんねぇもんな。ほれ、モールの片隅に占いの店あっただろ?前世占いかなんか知らんが。一回いってみるか?」

「見て貰わなくても私の前世は美咲だし。獅庵には困ったらいつでも相談しろとは言ってるから大丈夫よ。アンタらは生きてるだけで価値があるの」

「俺は、楓も含めて俺らは飼い主のやる気出すための愛玩動物かよ」

「あ…いや…うん。そうだね」

「そこは否定しろよ!」

「誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある。アルベルト・アインシュタイン」

「偉人の名言で綺麗に纏めようとするなよ!」

 後日二人でショッピングモールの「前世占い」の店を面白半分に尋ねてみた。俺の前世は勇猛果敢な武者で主君の為に忠義を尽くし、戦で命を落とした武将、神奈の前世は幕末に暗躍した暗殺者で時代の移り変わりに対応できず自害したと言われた。店出た瞬間に二人で大笑いしたのは言うまでもない。

 それから一年開けて純の所に第二子として男の子が生まれ「武一ぶいち」と名付けられた。その翌年には随分と時間がかかったようだが楓と獅庵が結婚した。コツコツ溜めたお金で寂れた飲み屋街の片隅で小さいながらも小洒落たバーを始めたようだ。店の名前はメープル。何の捻りも無い。メープルって楓の事じゃねえか。

 楓もそこでバーテンとして働いている。後方支援と言わんばかりに俺達二人は頻繁に飲みに行っては一番高いボトルを空にして帰った。とは言え、あんまり酔っ払うのは良くないな。無意識にだが神奈の事を美咲と呼びそうになるし、神奈も俺の事を何度か「コーちゃん」と呼ぶ事もあった。

 それから数年、ようやくウチにも娘が生まれた。10月生まれだったので神奈という訳にも行かないので「神楽かぐら」と名付けた。その後第二子として男の子が生まれ「真一」と命名。そういや光一のオヤジの名前も新一だったな。もう他界しているし問題無いだろう。この「一姫二太郎」も近藤家の伝統のような物なのだろうか?いや、美咲は一人っ子だったな。それから数年、下の子が2歳になった頃か。楓と獅庵の所にも子供が出来たようだ。男の子でなぎと名付けられたと聞いた。

 それから数年、神楽が小学生になった。入学式には一緒に参加した。門の前は記念撮影する親御さんとちびっ子の列だ。

「あれ、先生なの?ヤクザかと思った。でも、どっかで見たような…」

 小声で囁く神奈の視線の先にはアゴ髭はワイルドに頭は無造作ヘアー、ふち無しのスクエア型のメガネに白スーツとインテリ系半社会的な組織の一員というか中ボスクラスな出で立ちの男がいた。

「忘れたのかよ。片桐だ。片桐大吾。結婚式で俺の友人代表スピーチしただろ」

「あーあの時の。って小学校の先生なの?あれ?」

「あれとか言うな。あれで結構いいヤツなんだって」

「子供泣くでしょ。アレ」

 小声で言い争ってると向こうがコチラに気付いた。

「コッチ来るわよ!どうすんの!」

「アレアレ言うんじゃねえ。アレは敵じゃねえって!」

 駆け寄ってきた大吾は神奈に軽く会釈する。

「奥さんお久しぶり、ご無沙汰してます」

「いえ、ご丁寧に…」

 引きつった笑顔で神奈はそう返して娘の手を握る。

「って、お前居たのかよ!アフロじゃねえから一瞬わかんなかったじゃねえか」

 そう言って大吾は大笑いしながら俺の肩を叩く。

「アフロの代わりはコイツで十分よ」

 俺はそう言って左手中指の指輪を見せる。

「そういやオメエ、ありゃ女避けだっつってたもんな。こんな綺麗な嫁さん貰っちまったらもう要らねえわな。あー貰われたんだっけか」

「ああ、今は近藤だ。お前も変わらんな、その格好、子供がビビるだろ」

「そーでもねぇーんだって。朝の子供番組?なんつーの?なんちゃら戦隊なんちゃらレンジャー的な?ソレに出てくる長官に似てるって言われてよ。なんだかんだで低学年の男子児童にはウケがいいのよ」

 そう言って大吾は嬉しそうに大笑いしている。

「言われてみれば似てるな」

「お前知ってんのかよ」

「ああ、下の子が男の子でな。毎週一緒に見ているよ。戦隊物にしちゃ珍しくシリーズ化してるからな。今年一杯も長官殿でいられるかもな」

「そーかー、ソイツはいー事聞いたぜ。なんか無えの?その長官殿の決め台詞みたい感じのヤツ?」

「諸君!出動だ!だな」

「いいねぇ、そいつ頂きだ!」

「指はこうだ、人差し指と親指でLの字を作ってな」

「こうか?」

「横だ、横に倒せ。真横じゃ無え、気持ち斜めだ。左手でLを作るんだよ。ロボの名前がレジェンダーⅤでな…」

「私ら先に行ってもいいかしら?」

 子供番組の話で盛り上がってるいい歳こいたオッサン二人に神奈が呆れた顔で口を挟む。今いい所なんだと文句を言おうと思ったら大吾が深々と頭を下げた。

「すいません姐さん!体育館はあちらです」

「どうも」

 そう言って神奈は娘の手を引いて入学式の会場でもある体育館へと歩いて行った。見えなくなるまで見送ってから大吾が口を開いた。

「マジでビビったわー。ナニモンなんだいあの姐さん…俺の弟と同い年なんだろ?年不相応なボス級オーラマジ半端ねぇんスけど」

「タダの鬼嫁だよ」

 俺はそう言って笑った。

「なぁ大地、立ち話もナンだからよ、今度どっか飲みにいかねぇか?」

「お?いいねぇ、その言葉待ってた所よ。実は俺、いい店知ってんだコレが」

 大吾からの飲みのお誘いに俺は得意気にそう返して笑ってみせる。

「マジで?どこよそれ」

「寂れた飲み屋街の片隅で細々とやってる店なんだがよ、やってんのが教え子の夫婦なんだよ。あー、お前の弟のダチでもあるぞ。圭吾も誘ってやったらどうだ?デカイ店じゃねえが雰囲気だけはいいぞ。基本的にBGMはジャズだしな」

「そういや圭の担任はお前だったな。そりゃ久しぶりに圭も誘って飲みに行くか」

 後日、神奈と愛美、純に加えて地元に残ってた神奈の旧友数名も誘って楓の店に押しかけた。ちょっとした同窓会だ。片桐兄弟はなんだかんだで大酒飲みだ。今後もいいお客さんになってくれるだろう。

 

 それからも緩やかに時は流れていく。避けられないとは分かっているが、年老いた者から順に死んでいくのは世の定めだ。神楽が高校生になった頃にはウチの母親が他界、数年後には光一も体調を崩し、神楽が高校三年になった年の秋には他界した。

 ウチの両親はともかく、亭主を失った美咲の顔には深い悲しみの色は無かった。これまでの人生の中で光一の得た「死生観」は共有できていたのだろう。「死んだらどうなる」ではなく「死んだらどうするか」まで考えている。そんな顔だった。

 二人だけの世界、そんな物が無数に存在していたっていいだろう。それは俺達も同じ考えだ。当人の希望もあってか葬儀に坊さんを呼ぶ事はなく、喪に服すって雰囲気でもない。

 むしろ披露宴か、お誕生日会のようなパーティーで、遺影の写真も貰い笑いしてしまう程に陽気な物だ。念仏の代わりに当人が好きだったロックミュージックがBGMとして流れている。一見すると風変わりな葬式で困惑する一般の参列者もいるが、親戚周りと親しい友人、そして家族は皆笑顔だ。この辺りは皆、光一の死生観に一定の理解を示しているのだろう。

「お前の葬儀もこんな感じでいいのか」

 俺は美咲の横に立ち、顔を合わせずに声を掛ける。事情は理解しているハズなので元亭主として遠慮無く質問した。

「そうして頂戴」 

 美咲は葬儀の様子を満足そうに眺めながらそう言って笑った。俺は美咲の背中をポンと軽く叩いて席に戻った。

「何話してたの?」

 席に戻ると神奈がそう聞いてくる。俺が美咲に直接声を掛けていたのが少し気になったようだ。美咲と神奈の溝は深まる一方でここ数年はロクに会話もしていないようだったので俺が仲介役となった。

「お前の葬式の話だよ。このノリでいいのか確認してきた」

「それで?」

「ああ、このノリでいいってよ。俺の葬儀もコレで頼むわ」

 そう言って俺は笑ってみせた。俺の言葉に神奈は少し首を傾げて口だけ笑っている。これは大抵、良からぬ事を考えている時の顔だ。多分、俺の葬儀は小規模な祭になる。

 それから数年後の話だ。娘の神楽が結婚を考えているという男を連れて来ると言った。もうそんな時期か。神楽も今年で24だ。クリスマスケーキ論で言えば最適なタイミングだ。あっという間だったな。時の流れを染み染みと噛み締めていた。

 約束の日になり、そこそこ立派なスーツに身を包み、ガチガチに緊張した様子のガタイのいい男が家に訪れた。まだ少し若い、神楽からみて少し年下の男のようだが、そのガチガチに緊張した姿は美咲の両親に結婚のお許しを頂きに行った時の自分と姿が重なる部分がある。

 居間のテーブル越しに座り「いかにも」な雰囲気の中、その男は中々話を切り出せないでいた。そんな所までそっくりだ。神楽に肘で押され言葉をなんとか紡ぎ出そうとしている様子のソイツの言葉を遮るように俺は口を開いた。

「あー、いい。持ってけ。これも腐れ縁って奴だろ」

 俺はそう言って笑ってみせた。自己紹介も不要だ。この不器用なガキの事はよく知ってる。楓と獅庵の息子で名前は「笹川梛」。背格好も俺の若い頃にそっくりだ。他人のような気がしねえ。まぁ楓の息子なんだ。本当の意味での「俺の息子」みたいな物だろうか。確か今年で20歳じゃなかったかな?

「そんな事より覚悟はできてんのか?ウチの女共は気が強ぇぞ。どうせお前さんもソイツに押し切られたんだろう?」

「あ、いえ、はい」

 遠慮気味にも否定はしない梛の姿を見て横で神奈がクスクスと笑っている。昔の俺の姿と重なって見えたのかもしれない。

「お前、この事知ってたんだろ?」

「当然でしょ。昔から獅庵の所に遊びに行く時には神楽もよく一緒に連れて行ってたし、二人は子供の頃からの幼馴染よ」

 俺の問に神奈はそう答えて笑みを見せる。

「仲良し3人組、楓も加えて4人か。結局みーんな家族にしちまいやがったな」

「貴方も加えて5人でしょ。面白い巡り合わせもあるものね」

 そう言って神奈は満足そうに笑っている。

「仲良し3人組?」

「ああ、愛美おばさんと獅庵と神奈、楓もみんな同じ学校のクラスメイトでな。父さんが初めて担任を受け持ったクラスの教え子だ。厳密には違うが全員同じ部にいてな、俺が顧問みたいなモンだったのさ。純のおいちゃんも加えて主な部員全員がこれで家族か親戚になっちまったな」

 神楽の言葉にそう返して俺は笑ってみせる。

「オメェのオヤジも体だけはデカかったからな。そんなのが固まってると他が小さくみえらぁ」

「一番デカかったのはアンタでしょ。アフロ込みで2m越えてたでしょうに」

 得意気に思い出話をする俺に神奈が余計な事を突っ込む。

「アフロ?っていうか学校の先生だったの?」

「言ってなかったか?まぁ昔の事ぁいいんだよ」

 驚いた様子の神楽に俺はそう返して話を逸らかす。そういえば子供達にはあまり昔の話もしていないし、コイツらが生まれた時には自営業を営む個人経営者だ。今となっては赤いアフロは黒歴史だ。極力触れないようにしたいが、卒業アルバム開けばバッチリ写ってるんだよな…

「ま、細けえ事ぁどうでもいい。お前さんの仕事がどうとか年収がどうとか、そんな話するつもりは全くねえ。互いに幸せなら形は問わねえよ。ただ金に困った時は遠慮なく言って来い。どうせ遺産の半分はお前らのモンだ。小分けにして生前贈与の方が税金安くなるんだろ?」

「大げさに言うほど大富豪でも無いでしょ」

 俺の言葉に神楽は呆れ顔で返す。

「どのくらい残ってる?」

「まだ6億くらいはあるよ。実家の方にも12億はあると思うから、純と分けてもまだ6億はあるね。相続税で半分取られてもプラス3億?合計9億だから、貴方達の取り分は4億5千万、そっから税金でさらに半分取られても2億チョイは残るんじゃないかしら?」 

「ちょちょ、何、どういう事?」

「生きてる内に全部話してやる。とりあえずウチはそれなりに金持ちだ。その辺も考えて人生設計からやりなおせ」

 若干取り乱している神楽に俺はそう言って笑顔を見せる。

「そんな事より、お前ら今日はハンコ貰いに来たんだろ?さっさと婚姻届出せ」

「あ、いえ、今日はご挨拶だけでして…」

「なんでぇ、気が利かねえな。オイラはジャージ姿でハンコだけ貰いに行ったぞ」

「ウチは理解ある両親だったからね」

 そう言って神奈は笑う。どっちの両親だ。神奈の両親か?それとも美咲の両親か?まぁどちらも理解あるご両親ではあったな。

 それから数年、孫もできた。第一子が弥生、第二子が葉月。両方女の子だ。息子の新一も結婚し親となった。六月に生まれた女の子で水無月から美奈と命名された。純の娘と息子もそれぞれ親になっており正直把握しきれないくらいに親族が増えてきた。「健一ってのは武一の倅か?」

「健一は皐月のトコでしょ!武一の所のは早苗と総一」

「そうか、総一は来年小学校に上がるんだっけか?ランドセル何色がいい?」

「他の親戚と相談してから決めて。ランドセル被っても困るでしょ」

「ランドセルが一人一個って考えがおかしいんだよ。その日の気分で選べてもいいとは思わねえか?なんなら五~六色送るか?デニム地の奴とか高そうなバッグみたいなデザインの奴もあるんだろ?」

「そもそも今時ランドセルってのが流行んないみたいだよ。それにランドセル贈るなら去年の5月くらいから狙わないと間に合わないのよ」

 正月も近づくと爺と婆は大忙しだ。何より孫の顔を見るのが楽しみだ。こんな人並みの余生、当たり前の幸福に辿り着くまでに俺は随分と遠回りをした物だし、その都度先立っては多くの人を悲しませていたのだろう。

 もうどちらの両親も生きちゃ居ないが、親より一秒でも長生きするのは子の勤めだと思う。もちろん、不幸な事故や病気など万が一は存在するし、それを強要できる物ではないが、親となり、祖父となった今、子供達に望む事は一日でも長く生きて幸せになって欲しいと願う。この一点に限る。どっかで孫が事故って死んだなんて聞いたら、お爺ちゃんまた生まれ変わって助けに行っちまう。そんな事繰り返してたら街中俺だらけになっちまうじゃねえか。

 余談だが長年の喫煙が祟り俺は肺癌を患った。しかし今では自己細胞から培養した新品の臓器ととっかえる事で癌は克服可能な病気となっている。こんな事だから年寄りばかりが増えるんだ。現在では男性の平均寿命は96歳、女性は102歳となっている。これが世界一の長寿国日本の現状だ。

 それからさらに数十年、随分と長生きしたものだ。ひ孫に玄孫やしゃごは当たり前、その先の来孫らいそんなんて言葉もよく聞くようになった。その先は昆孫こんそんと言うらしいが、存命中に昆孫ができればテレビが取材に来るレベルだ。逆に言うと、その程度のレベルでもあり結構頻繁にメディアで紹介されている。

 ウチの直系子孫だけでも五代下まで数えれば今では100人を超えている。親戚筋まで含めると、お爺ちゃん流石に全員把握できない。

 それからさらに数年、平均寿命とされる96歳を過ぎてもまだまだお迎えは来そうにない。100歳のお祝いも日常化している今の日本ではあるが、俺はそれを目前に他界しそうだ。

 どうやらここが俺の寿命。風邪で体調を崩してから入院生活、ひっきりなしに訪れる子孫が病室に収まりきらない。

 なんとなく解る瞬間ってのがある。もう目を覚まさないであろうと思う、そんな贖え無い眠気だ。

「先に行って、待ってるからな」

 神奈にそう伝え目を閉じる。

「行ってらっしゃい」

 神奈のその声を最後に俺は深い眠りに落ちていく。行き先は定まっている。神奈と、いや、正確には美咲と俺だけの世界。他には何も要らない。覚めない夢を永遠に見ていよう。二人でそう約束した場所だ。俺達だけの天国。一足先に行って場所だけ確保しておけばいい。

 俺にとって「ここ」は馴染みの深い場所だ。見慣れた明晰夢の世界と変わりない。死後の世界に関しては様々な意見があるだろう。実際問題、死んだ事のある人間なんて居ない。それが前提になっている議論に答えは出ない。それゆえに宗教の振りかざす「まやかし」でもあり、「最強の剣」でもある。

 しかし、結論は一つだ。実際に二度も三度も死んでるから言えるって話じゃない。話はもっと単純で、死は誰にとっても、かなり身近な存在で日常的な話題だとも言えるだろう。生まれた以上、いつかは必ず死ぬという長期的スパンで見た一般常識的な話ではなく、もっと短いスパンで頻繁に起こっている事象だ。

 俺達は毎日死んでいる。80歳まで生きたと仮定しても3万回近く死んでいる計算になるだろうか?

 眠る度にその日を生きた魂は死を迎える。脳の中にある記憶、シナプスの電気的な信号回路というバックアップを元に翌日「再起動」しているに過ぎない。連続した記憶として過去を認識できているだけであって、俺達は例外なく、毎晩死んでは、毎朝生まれている。そういう意味で言えば生と死の狭間にある「夢」という空間は俗に言う「あの世」を垣間見ているような物だ。

 覚めない悪夢は文字通りの地獄だろう。幸せな夢が覚めないならそこは天国と呼べるだろう。死を永眠と呼ぶのであれば永遠に夢を見ていたっていいじゃないか。

 幸い俺は初めて訪れた死後の世界である「ここ」に慣れている。明晰夢という名のリハーサルは何万回、いや何十万回と繰り返している。

 俺は慣れた手つきで世界を真っ白に塗りつぶす。水平線を一本だけ引いて地面を意識する。後は自己を表す記号として生きていた頃の姿を意識する。鏡は無いが、恐らくは若い頃の楓の姿をしている事だろう。

 それからスグに美咲がやってきた。若い頃の美咲の姿だ。そもそもここには時間の概念がないのだから、待ち時間もまた存在しない。ここはアッチの時間軸とは別に存在する全く別の次元、俺達だけの待ち合わせ場所に過ぎない。

 特に会話は無かった。そんなものは必要無かったんだ。二人でここにいる。その事実だけで十分だった。ただお互いに泣いているのはよく分かった。長い旅路の果てにようやく辿り着いたこの場所こそ、俺達の目指した「天国」だ。ただただ一人の人間を愛している。それだけだ。今は強く抱きしめ合い、これから続く永遠の幸せを噛みしめて行こうと考えていた。今はただ、この幸せを離したくない。そんな思いで一杯だった。

 それでも聞きたい事は山程ある。俺の死後、何があったのか、お前を何年待たせちまったのか?子供達は元気で幸せか?お前は俺の葬式でどんなバカをやらかした?孫は増えたか?見たかった映画の続きはどうなった?コイツの持って来たみやげ話もまたここでの貴重なお楽しみでもある。

 

 そして、美咲が消えている事に気がついた。


「え?」


 思わず声が出た。どこにも居ない。そもそも二人だけの世界だ。世界の隅々まで探さなくとも居ないという事は知っている。分かってしまう。

 俺は愕然とその場に崩れた。そして察した。全てが終わった事を知った。これまで共に歩み、共に築き上げてきた物全てが、俺達が共に感じた苦難や幸福、良い事も悪い事も全てが総じて俺達をここに導いた。

 最後の最後で幸せなら…例え最底辺で地べたを這いずるような人生でもいい。最後に幸福を得られるなら底辺を這いずる意味と価値がある。だが逆はダメだ…最後の最後で一番大切な者を、望んでいた「この世界」に最も必要としていた美咲を殺された。今の俺には生まれてきた事すらを後悔する勢いの絶望しか残ってない。


 美咲は…満足してしまったのだ。本当にもう何も要らないと。


 俺の望んだ通り、その文字通りの意味で美咲は「幸福」になってしまった。世界に溶けてしまった。俺が五感を失い恐怖と不安で闇に溶けそうになっていたのとは真逆。幸福に満たされた美咲は自我を失い光に溶けてしまったのだ。

 時間という概念すら無い世界だ。都合よく巻き戻すなんて事もできない。俺も同時に消えてしまえれば…それはそれで文字通りハッピーエンドだったのかもしれない。ただ、俺の方が、少しだけ「欲張り」だった。それがこの結果を招いた。

 俺の美咲はもうどこにも居ない。無限に存在する平行世界の中から見つけ出した俺の美咲は消えてしまった。類似品は無数に存在する。しかし俺と共に歩んだ美咲は今ここで死んだ。つまりここに別の美咲が来るなんて事もないし、そんな物は俺だって望んじゃいない。

 防ぐ手段はあった。それもいくつもあった。喜びに舞い上がり、俺のミスで死なせてしまったのか、それともこれは美咲の望んだ結末なのか。それ以前に「美咲を幸せにしたい」と望んだのは俺自信ではなかったのか。

 このままここで俺も死を望み消えてしまう事は簡単だ。これが欲張り者の末路として受け入れ、失意の中で無に消えてしまうのも当然の報いなのかもしれない。

 しかし本当にこれで良かったのか?ちょっとした油断が招いた不幸な事故かもしれない。事故ならば防げる。防げる事故を見過ごすのは美咲を二度、いや、それこそ未来永劫、無限に存在する他の美咲を永遠に殺し続けるような物だ。

 再び西岡大地に生まれ変わり「やり直し」を行う事も可能だ。それは同時に美咲から共に歩んだ美咲のコーイチを奪うことになる。もう、俺は俺であって俺じゃない。この失敗を「無かった事」にして嘘を重なるのは簡単だ。ただ俺はもう、美咲に嘘はつかない。ならばできる事は一つだ。

 別の人間に生まれ変わり、第三者として美咲の本意を確認した上で、あれが事故であったならば俺が二人を救う。実際に失敗し全てを失った俺にしかできない事だ。犠牲者は一人でも少ない方がいい。昔美咲に言われた皮肉の一つが今でも強く印象に残っている。


「誰かの為に生きてこそ、人生には価値がある。

 アルベルト・アインシュタイン」  

   

 ありがとよ。美咲。そしてアインシュタイン。俺はまだまだ消える訳には行かないようだ。この犠牲と失敗を無にはできない。何より美咲の為、そして俺の為にも、俺にしか出来ないことを俺達の為にやろう。やるしかない。美咲が自分自身を、そして俺達を救おうとしたように、今度は俺が、俺と俺達を救うんだ。本当に…美咲からは学ぶばかりで何も返してやれなかった。今こそ、成すべき事を成そう。それまで俺は死ねない。死ぬ事を俺が許しはしない。

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