第二章 そこで何を望むのか

 俺は死を覚悟したし、実際死んだのだろう。だとすればこの「意識」は何だろうか?俺は真っ暗で何も知覚できない「どこか」でそんな事を考えていた。冷静に物事を分析する余裕など無いような気もする。

 ひどく不安なのだ。この何も知覚できない状況が。真っ暗で何も見えない。完全な静寂で何も聞こえない。そもそも肉体すら知覚できないのだ。手も足も無い、目も耳も無いのだから五感と呼ばれるものが動作する筈もない。少しでも気を抜いたら無限の闇に意識が拡散して二度と戻れないような気すらしてくる。とは言え、このまま耐え忍べば光が差すのかどうかも不明だ。

 それでもやっぱり…死にたくない。もう死んでいるとしても死にたくない。ギリギリまで、この自我と呼べる物が残っている限り、魂としてはまだ生きているとも言えなくない。肉体を喪失しても残る生来の「本能」のような物か?それとも後天的に得た感情からくる「未練」だろうか?

 元々「死後の世界」なんて物は信じちゃいなかったが、俺の今置かれている状況ってのは良く聞く死後の世界とは全く違う。ベタな展開なら川の向こうで婆ちゃんがまだ来るなとか言ってる流れだが…何も無いじゃないか。本当に何もない。俺がもしマンガの登場人物だとしたらコマの中は真っ黒に塗りつぶして文字だけで展開するシーンが何ページも続くような状況だ。

 かと言ってこれは夢でもない。夢なら俺は「支配」できる。俺は夢と現実の区別くらいは付けられる人間だ。ここは…夢でも現実でもない。夢ほど軽くなく、現実ほど重くない。どこよここ?

 夢の中では状況をリセットする為に一面を真っ白に、文字通り「白紙」にする事もよくあるが、真っ黒は良くない。夢の中なら仮初とはいえ肉体を意識し知覚する事も簡単だし、むしろそれが俺という最小単位なのだ。今はそれすら失ってしまっている。

 この状況が長く続けば…恐らく持たない。そんな事を考えているとますます絶望に包まれ死期を早めてしまいそうだが、ここには何一つ、心の拠り所にするような、すがる物が無い。未知なる事象に対して想定でしか動けない、いや、動くことすらできない。どんどん不安が高まっていく。そんな事をぐるぐると思考し、気が変になりかけた時、大きな音というか、衝撃、世界その物が動いたような気がした。その衝撃はそれ以降、リズムよく動き始めた。

 間違いない。これは鼓動だ。心臓、動いてる。なんだ、俺生きてるのか。しぶといもんだ。体だけば丈夫だったのが幸いしたのか。そう思うと一気に気がラクになった。いや、このまま長期昏睡なんて線も…ここはいい方向に考えよう。俺は生きている。それで十分だし、きっと病院の一室で目が覚める。きっとそうだ。

 それからそれくらい時間が経過したのだろう。ぼんやりと光りを感じるようになってきたし、鼓動も振動ではなく音として知覚できるようにもなってきた。鼓動以外にもノイズのような音が混ざっている。生命維持装置の類だろうか?人の声のようなものは全く聞こえない。そんな事よりも、鼓動が二つあるような気がしてきた。

 もう一つの鼓動は遠いけどずっと大きい。そして何より、安心できる。そんな鼓動だ。って、あれ?俺もしかしてやっぱり死んでる?死んで生まれ変わろうとしてる?俺もしかして今。胎児か何かそういうモノ?そう想定したが、多分間違いないと日を追う毎に実感していく。  

 徐々にではあるが手足を感じられるようになってくる。その一方で生きているにも関わらず息もしていない、手足も満足に動かせない、時折聞こえる大きな音にビクビクしながら完全に無力な存在として耐えることしかできない状況は正直厳しい。このままでは確実に気が変になる。

 そんな中、いつの間にか眠っている事にも気がついた。眠くなって眠るのではなく、ストンと夢に落ちている。これはある意味で救いとなった。夢の中でなら俺は自由だ。一切の身動きが取れないというストレス過多の状況から抜け出す事もでき、幾分余裕もできた。

 ザバン。と水面に浮き上がるイメージがピッタリだろうか。俺はプールサイドの手すりを握り水の中から抜けだした。そのままごろりと寝転がり一息ついた。文字通り「息をする」何ヶ月ぶりだろうか。あくまで記憶に残っている行為の反復であり、呼吸をする意味など無いのだが、よく言う「深呼吸して少し落ち着け」ってのは本当にアリなんだと思う。イメージ的な物でしか無いが、それでも十分だった。

 明晰夢を損か得かで言えば少し損だと思っていたが、現状においては正に命綱とも言える存在となった。

 少しばかり夢の中でリラックスする物の「目覚め」の気配がってくる。またあそこに戻らなければならないと思うと気が重い。とは言え、この夢を夢と自覚できなければ、あの辛い現実の延長として夢を見ていたのだろうか。金縛りに恐怖し、自ら化け物を生み出してしまうかのように。

 それが普通だと考えれば、赤ん坊が前世の記憶なんてものを持ちあわせていないのも自然かもしれない。こんな状況に長くおかれていれば自我なんて吹っ飛びそうだ。成人に比べれば赤ん坊が眠る時間は圧倒的に長いと聞く。それは胎児も同じなのだろうか?そう考えれば俺にとっては都合がいい。夢が長ければ長いほど、あの辛い現実に浸かっている時間が短くなる。

 これなら行けると楽観視していたが、現実の与える苦痛は日々増大して行く。胎児が生育し、感覚が鋭敏になればなるほど子宮内という「現実」が経験上の「非現実」としてどんどんのしかかって来る。リアルに水の中で無呼吸、この現実だけでも気持ち的に溺れそうになる。あとどのくらい耐えればここから出られるのだろう。大体十ヶ月くらいだと言うが、ここには時計もカレンダーも無い。夢の回数でも数えておけば良かったが、そもそも一日何回夢を見ているのかも分からない以上、何の指針にもならないと思い数えるのを諦めた。

 もう随分とうんざりしてきた頃、「その日」は訪れた。頭の上で何かが割れたような気がした。その瞬間、温かい衣を急に剥ぎ取られたような「寒さ」が襲ってくる。冬場の朝に布団をひっぺがされたような、現実的な寒さだ。酷く辛いが酷く懐かしくも感じた。そして狭い穴に吸い込まれるような感覚。そして大きな手に頭を掴まれた。目は開けられないが酷く眩しい。そんな事よりも…息が、息ができない。喉の奥に何か詰まっているような感じだ。今までそんな事に気をもむ事はなかったし、不安はあったものの「そういうモノ」だと納得し、いつの日にか慣れていたハズの現状から急に「呼吸しろ」とスイッチが入ったような気がした。

 とにかく息がしたい。その為にできる事を総動員した結果、なんとか息をする事ができた。それはそのまま俺の産声となってその場に響いた。安心したら一気に眠くなってきた。さっきまで寝てたような気もするが…とりあえず…もう…気ぃ抜いても大丈夫そうだ。

 目が覚めた時、良く分からない状況にあった。そもそも目がよく見えない。光は感じるが物の輪郭がひどくボヤケていて物の形を正しく認識できない。どうも小さな箱のような物の中に寝かされている…ような気がする。俗にいう新生児室って場所だろうか?視力に不安を感じるが、きっとこういうモノなのだろう。特にできる事も無さそうなので寝た。

 それから何度かやたらとテンションの高い人に抱きかかえられたりしながら日々を過ごした。恐らくは両親とその周囲の人達だろう。聞き取れる範囲だと…とりあえず日本語なので安心した。

 それから数日後、俺の名前が決まったようだ。何度も親と思しき人が連呼しているので多分間違いない。俺はどうやら寺沢家の長男で「光一」と名付けられたようだ。


 あれ?

 

 生後七日頃。視力は随分と良くなった。家に連れ帰られたワケだが、徐々に視力が向上していくのを日々感じる。もしかしたら「楓」として生きていた頃より視力は良いのかもしれない。見えるようになってくると…これまた目に入る全ての家具が凄くレトロだ。テレビもなんか凄く厚みがある。両親の会話から父親が新一、母親が加奈子だと分かった。そして今が1983年の7月だと言う事も。

 確かに俺は死の間際に「神奈に愛されたい」と願った。そしてきっとこのまま人生を歩めばその願いは叶うのだろう。でもそれちょっと違うくね?俺が欲しいのはそういう家族愛的なものではなく…ああ、もういいや、このまま生きていけばまた会える。きっとそうだ。それで十分だ。今は深く考えても仕方がない。なるべく面倒を起こさないように全力で赤ん坊のフリをしなければならない。

 オムツ交換の屈辱に耐えながら美味くもない離乳食しか与えられない日々は正直辛かった。とは言え、用のある時しか泣かない赤ん坊の俺は「手のかからない」赤ん坊だと思う。

 3歳になり近所の幼稚園に通う事になった。この時代なら当然なのだろうか、登場人物全員の髪が黒い。園児はもちろん、保母さんもみんな黒髪だ。俺が通ってた幼稚園じゃ色とりどりだったが、この時代では妙な髪色してるのはミュージシャンか、お笑い芸人、アニメのキャラクターくらいな物だ。

 そんな事よりも、俺の置かれた今の状況。これはこれで正直、針の筵。18で死んで今3歳、延べ年齢で言えば、とっくに成人している人間がガチの3歳児の群れの中で楽しくお遊戯するのは逆の意味でやさぐれる。そんな中で…見つけてしまった。もう居たよ。神奈にそっくりな子がいる。

 名札に「こんどう みさき」と書かれているし間違いない。とは言えどうした物か。3歳児相手にガチで口説きに行っても仕方がないような気もするし、そもそも俺は女の口説き方など知らない。いい所見せてりゃ勝手に惚れてくれるだろうか?過去にそれでしくじってる感はトラウマに近いものだが、まずは「お友達」からだ。

 家も近所という事もあり自然と仲良くなれた。一緒に遊ぶ事も多かったし、別にいい所を見せようと意識せずとも、随分と年上のお兄さんである俺は彼女にとって非常に頼もしく見えたのだろう。ナチュラルな感じに好きだと言われたし、将来はお婿さんにしてくれるらしい。こういう幼年期の婚約フラグはどちらにでも化けるが、結果は確定している…のだろうか?

 そんな中、もう一つ確定させなければならないイベントも発生した。ような気もするが、俺がどうこうする必要があるのかどうか。実際の所「この件」については詳しく聞いてないし、聞く気もなかった。美咲さんの「友達」として紹介された女の子で名札には「しどう りさ」とある。漢字で書くと志藤理沙。少し背の高い女の子で長く黒い髪、凛とした表情が…小さいころの榊姉さんにそっくりだ。はい、俺の母です。

 気が強くて男勝り、俺と口論になる事も多く、美咲さんよりずっと神奈に近いような気がして来る。しかしながら俺は多分、この人には嫌われている位が丁度いいのだと思う。肝心要のウチの親父は確か中学生になるまで出てこないハズだ。

 小学校に入り、俺は勉強でも運動でも優秀な成績を収める。当然といえば当然だ。あまり勉強が得意でないとは言え、流石に小学校レベルで躓くほどお馬鹿でもない。生来「不器用」で特に球技が苦手だった前世とは異なり、何をやっても上手く行く。これは恐らく、光一さんの体、特に視力が大きい。楓として生きていた頃の俺は先天的に左目の視力が弱く、動く物との距離感を掴むのがとにかく苦手だったが、今は違う。ドッヂボールではヒーローになれる勢いだ。良く分からないが、この球技で活躍する男子はモテる。仲間からの信頼も厚くなる。

 話には聞いていたが、この時代の人達は本当に視力の矯正の為に眼鏡を用いているようだ。俺の時代では視力の矯正というか調整は眼科でチャチャっと行う物であり、眼鏡っていう物は情報端末用のディスプレイでしかなかった。俺の左目は先天性の「弱視」であり調整は叶わなかったが。

 眼鏡型の端末もあの頃には既に時代遅れで、コンタクトレンズタイプが主流になりつつもあった。まぁ俺が使ってたのも椿姉のお下がりで眼鏡というよりはゴーグルに近い物だったが、あのレトロ感は嫌いじゃなかった。この時代にも似たような物はあるが、ソレは映像を見る専用の物で無駄にデカく、装着中は前も見えない代物だ。携帯電話の普及率も低く、驚いた事に本当に電話する以外の機能が搭載されていないという。

 成績優秀な我が子に対して親は非常に満足気でもあったし、一人っ子ともあり大切に扱われているのも解る。「お願い」してみれば発売されたばかりのテレビゲームもすぐに買ってくれた。これは確か第六世代を牽引した伝説的なゲーム機で後にナンバリングされた後継機を生み出していく日本を代表するゲームハードの初代だ。

 しかし…気が抜ける程にチープだ。ポリゴン数が目で数えられそうなくらい荒々しく、テクスチャーの解像度も低い。俺の生きていた時代に企業が宣伝に配布する無料アプリよりも貧相なグラフィックのゲームばかりだし、ソフトも聞いた事のないメーカーばかりで糞に溢れている。

 ああ、この会社ハードなんか出してたんだ。一方で、この髭のオヤジは俺の時代でも現役だ。あの会社はまだあそこと合併してないのか。もっとこう、色々と社会情勢や経済についてしっかりと覚えていれば、株で大儲けもできたかもしれないと思うと、漠然と日々を生きていた事が悔やまれる。

 二人で同時に遊べるゲームでは美咲さんともよく遊んだ。外で遊んでいると、互いに友人から冷やかされる。この時代では男女が仲良くしていると色々と嘲笑の的となるようで色々と堅苦しい。そんな事もあり家でゲームをしている事が多かった。こうやって今の内からゲームに慣れ親しませておけば将来的にはきっとゲームに理解のある満点ママになるはずだ。

 そう言えば純の所へ遊びに行った時に光一さんと美咲さんも加えて四人で遊んだ事もあったが…二人共、全力で殺しに来ていた事をよく覚えている。勝負事では決して容赦しない。相手が子供であろうとゲームの中では対等だ。

 ふと思ったのだが、俺の知っている光一さんは「最初から」俺だったのだろうか?それとも今俺がここに居る事で光一さんの未来が変わってしまったのだろうか?SF的な理屈は良く分からないが今更俺にどうこうできる問題でもない。俺は今、この時代に生きている。その事が、その事だけが「現実」なのだから。

 そして小学校を卒業し中学に進む。これから入学するこの学校は元の俺の母校でもある。市内三箇所の小学校を束ねる比較的大きな中学校だ。歴史は古く、体育館は古い作りの木造だ。俺の時代には旧体育館と呼ばれ運動部が使っていたが、今の時代では学校行事などでも使われる現役の体育館のようだ。

 体育館前に張り出されていたクラス分けに従い、体育館で整列し入学式が始まるのを待つ。美咲さんとも母さんとも違うクラスになってしまったが、しっかりとオヤジの名前は同じクラスにあった。ここでも周囲の人間全員の髪は黒だ。生まれるのがさらに十年早ければ男子生徒は全員「丸刈り」を強要されていた時代もあると言うから恐ろしい物だ。

 少々騒がしいかと思えば年の頃30くらい、体育教師の怒号が飛び、水を打ったように静まり返る。あの先生、まだ居たのか。いや、「もう」だろうか。あの先生は確か、秋山なんとか。下の名前は忘れた。俺の時代では定年間近の初老の体育教師でアダ名は軍曹。とにかく厳しい先生だったのはよく覚えている。

 入学式を終え、教室に入る。出席番号順に座ると隣にオヤジがいた。オヤジ小せえ!身長155センチくらいか?細いし、前髪長いし、むしろその辺の女子より可愛い。桜姉を黒髪にしたらこんな感じかもしれないな。

 二列目の一番後ろと三列目の一番後ろで横並びだ。小学校の時にも気にはなったが、この時代は男女で出席番号が区切られているのに違和感を覚える。俺の時代には男女関係なく出席番号が当てられていたが、この時代はまだ違うようだ。

「なぁ、お前どこ小?」

 隣のオヤジが凄い笑顔で話しかけてきた。マジか。

「第一だけど」

「俺第三」

 俺がそう答えると親父はそう返して会話は終了した。なんだこの実のない会話は。オヤジだと思って相応の敬意は持って接しようかと悩んでいたが、これタダのバカだ。なんとか会話を続けようと自己紹介をする。人に名前を聞く時には自分から名乗る物だとオヤジから教わっている。

「俺、寺沢光一。光一でいいよ」

「よろしくな光一」

 オヤジは笑顔でそう言ってこっちを見ているだけ。おいィ?常識的に考えてこっちが名乗ったらテメーも名乗れよ!どんだけ指示待ち人間なんだよ!しっかりしてくれオヤジ!

「お前は?」

「ああ?俺?俺、笹川、笹川槐(えんじゅ)。笹川でいいよ」

 少々ムッとしたが顔には出さすに名前を聞くとオヤジはそう自己紹介した。俺の知る限り、ウチのオヤジと光一さんは下の名前で呼び合う仲のはずだ。

「槐じゃダメなのか?」

「この名前、あんまり好きじゃないんだよ。女の名前みたいだってよくからかわれるからね」

 そう言ってオヤジは照れ笑いして見せる。その気持は痛い程良く分かるよ。俺もそうだったからな。わかってんなら息子に楓って名前付けるなよ。

「木に鬼か。字はカッコいいのにな」

「だろ?」

 俺が名札を見ながらそう言うとオヤジは笑いながらそう言った。休み時間なんかにはオヤジと馬鹿話して過ごす。好きなマンガの話や昨日のテレビの内容など他愛もない雑談だ。クラス内を見回すと同じ小学校出身で何人か知った顔はあるが、四年生の時にクラスにいたような気がするってレベルで、友人かと言うと知人であるかどうかも怪しいレベルの朧な記憶だ。

 そういう意味では話し相手は横にいるオヤジくらいで、それはオヤジも同じようだった。初日は授業らしい授業もなく、学校案内やらクラス内での自己紹介などで時間が経過していく。午後からは部活の説明会と掃除があるようだ。そんな事より、給食が冷たい。小学校では給食作るオバチャンが校内に居たのだが、どうもここでは給食センターから送られてくるようで、余裕の冷や飯だ。昔は、いや、未来では普通に熱々の給食が出ていた物だが、これがジェネレーションギャップという奴か。

 昼休みになり自由に過ごせる時間ではあるが、楽しく談笑という雰囲気でもない。話をしているのは恐らく同じ小学校の者同士、運良く知り合いが同じクラスにいたケースの子供たちだろうか?一応午前中に自己紹介タイムもあったが、初日ともあり探り探りといった感じで皆周囲を伺っている感じだ。まぁ今後の学校行事やら班分けやら、色々と親しくなる機会はいくらでもあると思う。

 そんな中、別のクラスの女子生徒が臆すること無く教室に入ってくる。美咲さんだった。周囲を見回し俺を見つけるとまっすぐに向かってきて机の上に腰と手を下ろす。中々に豪胆だ。昔は少し気弱な面もあったが成長するにつれて次第に勝ち気な性格が表に出てきたようだ。常に冷静沈着だった神奈に比べると少し日焼けした元気一杯の女の子って感じだ。

「コーちゃん部活どうすんの?」

「説明会は午後からだろ?」

 美咲さんの言葉に俺は至極当然な感じでそう返した。まぁ何も考えてなかったのも事実だが。

「男女が別の運動部はダメだよ。男女で一緒のとこにして。ねぇねぇ、美術部と吹奏楽部ならどっちがいい?」 

「既に二択?」

 大きな声で説明すら受けていない部活の選択を迫ってくる美咲さんに俺はそう答えたというより突っ込んだ。

「男女が一緒のトコだとねぇ、他には園芸部や茶道部ってのもあるみたいだよ」

「美術部でいいです」

 第三、第四の選択肢を考慮せず美術部を選択した。絵が描きたかったのではなく楽器は今尚苦手なのだ。まだ絵心の方がマシだと思う。茶道は本能的に避けた。

「わかった。今日が終わったら校門の所ね。どっちが先かわからんけど」

 そう言って美咲さんは笑顔で教室を出て行った。ただ一言二言会話して出て行っただけなのだが、試験会場のような厳粛な雰囲気の漂っていた教室にとっては嵐のような存在だった。何人かはこっちをガン見している。横で見ていたオヤジが驚愕した様子で口を開く。

「お前、彼女いるの?」 

「え?ああ、まぁ。それよりお前は部活どうすんの?」

 さも重大な事かのように受け止められている案件を軽く流しながらオヤジに部活の話を振ってみる。

「俺?んー、茶道部以外ならどこでもいいかな。俺も美術部でいいかも」

 かもってなんだ。かもって。そんな事より家業の茶道を全否定しつつも、なんとなくオヤジが状況に流され美術部をチョイスしたようにも見えた。オヤジからは昔から「状況に流される事無く、自分で道を決めなさい」と言われていたが、俺が吹奏楽部って言ってたらオヤジも確実に吹奏楽部って言ってたような雰囲気が漂っている。間違いない。権威ある茶道家でもあり、平安より続く伝統的な家系の長男で笹川流十七代目当主の座を約束されている尊敬できる父親だったオヤジだが、「友達」というより、会ったばかりの俺に付き従う「舎弟」みたいな小物感が凄い。まぁ…こないだまで小学生だった中一の小僧なのだから仕方がないような気もする。

 その日の午後、予定通り各部の部長が部の説明と近年の成果などを発表していく。明日から一週間ほどは「体験入部」などで様々な部を実際に試して良いとの事ではあるが中学の部活に今更本気を出そうという気も更々ない。

 放課後は美咲さんに言われた通り校門で待とうと思ったが、先に居たのは美咲さんの方だった。なぜかしっかりオヤジも付いてきている。もう仲良しかよ。まぁ帰る方向が間逆だけどな。美咲さんだけかと思えばしっかりと母さんも居る。母さんも今のオヤジ状態で美咲さんにべったりだ。思えばこれがウチの両親の初顔合わせなのだろう。こちらに気付いた美咲さんがこちらに手を振る。

「コーちゃん、もう友達できたの?」

「ああ、席が隣で少し話したくらいだけどな。コイツは槐、こっちは美咲と理沙。二人とは保育園から一緒なんだ」

 と、双方に対して手早く紹介を済ませる。

「あ、俺、家こっちだから」

 それとなく立ち位置が進行方向を示唆していたのか、オヤジはそう言って早々と退散してしまった。

「今度遊びにこいよー」

「うん」

 去り際のオヤジにそう声をかけるとオヤジは振り返って手を振りながらそう頷いた。今から来いとは流石に言えない。爺ちゃんは凄く厳しい。笹川家では寄り道厳禁でロクに游ぶ時間もなかったとオヤジに聞いている。その反動か俺は好き放題甘やかされて育ったとも言える。

 結局の所、母さんも美咲さんにくっついてきた形で美術部にいた。数ヶ月が経過しようとウチの両親が仲良くなる気配が丸で感じられない。むしろオヤジの言動に対して母さんは常にイライラしているようにさえ見える。

 どちらかと言えば母さんは歳の割にはしっかりしているというか、何事もキッチリしないと気が済まないタイプだし、一方でオヤジは「まだ」ただのガキだ。精神年齢で上回っていればこそ、普通のガキは面倒臭い存在なのは良く分かる。とは言え、ここの仲を取り持たないと俺の体がスーッと消えていったりするのだろうか?なんか数年前にテレビでそんな映画を見たな。

 そして気がついたのだが、俺の学力は中学レベルだったようだ。真面目に勉強しないと常に満点とは行かなくなってきた。それはそれで俺は構わないのだが、中学に入って成績が落ちたとなるとコッチの両親の目が気になる。て言うか、教科書のレベルっていうか内容難しい気がする。

 結局、中学ではギリギリ上位と言えるレベルの成績を維持しつつ無難に卒業を迎えた。卒業後の進路は最寄りの商業高校、またしても古巣とも言える母校に進学する。美咲さんとオヤジ、母さんも結局一緒だ。オヤジからもガキっぽさは次第に抜けてきた。母さんとの仲も多少は進展があったというか、明らかに見る目が変わってきている。と、言うのも、母さんが習い事で茶を始めた際に叩いたのがウチの門だったようだ。

 オヤジが誘ったわけでも無ければ、母さんが事前に知っていた訳でも無い。オヤジは基本的に人前では家の話はしない。本当にただの偶然だったらしく、茶の席で想定外に「ちゃんとしている」オヤジの姿を見て、惚れたとは言わないものの敬意を持って接するようになっていた。オヤジはオヤジでしっかりと家と学校、茶道家と学生を切り替えているようにも見える。そもそも高校進学すら爺ちゃんは反対したようだが、高校卒業後は家業に専念することを約束した上でなんとか進学の許可を得た形だそうだ。

 高校はそれなりに楽しい。オヤジにしても学校に遊びに来ているような物なのか、家では見た事が無いような笑顔も見える。まぁオヤジは進路が確定している以上、別に卒業する必要もないのだが、俺はどう進路を決めればいいのだろうか?高二の夏の時点で進学か就職かの二択に困っている。光一さんと美咲さんがあそこに店を構えたのが…えーっと、楓3歳だから…2025年の事だ。神奈の生まれが俺と同じ2022年だからその数年前には結婚?その辺の近藤家の事情がさっぱり分からない。高校卒業後にすぐ結婚となれば…第一子は榊姉さんより年上になってしまうかもしれない。今が2010年。これから先の十年、どう過ごせば良いのだろうか。

 そんな疑問を抱えたまま高二の夏が過ぎていく。皆と海に行ったり、美咲さんと二人で花火を見に行ったりと、普通の若者カップル的な夏を謳歌していた。夏休みも残り少なく、二学期になれば真剣に進路を決めねばならない時期だ。

「コーちゃん、卒業後の進路考えてる?」

 美咲さんは俺の部屋で寝っ転がって携帯ゲーム機で遊びながら唐突にその話題を出してきた。

「全然」

 同じように寝そべってマンガを読みながらそう答えた。

「だと思った」

 そう言いながら美咲さんはゲームを中断して身を起こし胡座を組む。

「パンツ見えてるぞ」

 ショートパンツの隙間から白い下着が見えているのを素で注意してしまった。何故だろうか、普通ならドキドキしちゃうシチュエーションだが、姉だらけの家庭環境で育ったせいか、そういう物は見飽きてる感もあるし、前世も含めた実年齢で言えばアラサー通り越しているだけに対応がおっちゃん臭くもなっているのだろうか?

「いいじゃん別に減るもんでもなし。そんな事よりなーんも考えてないコーちゃんの代わりに私が考えておいた!」

 パンツの件はそんな事扱いですか。

「ほほう、で、俺は何をすれば?」

「色々考えたのよね。コーちゃんは夫にしても父親としても最高だけど、全くもって、お金の匂いがしないの」

「はい」

 ズバリと言われると流石に堪えるが実際その通りだろう。前世の記憶を有する特殊な人間ではあるが、収入に結びつくようなスキルも知識もない。人生留年しているような有り様にも関わらず前世と同じような学生生活に身を任せているだけだ。俺も身を起こし思わず正座してしまう。

「別にお金持ちになりたいワケじゃないの。普通の家庭でいいの。でも普通の家庭って結構大変なの。ちょっと計算してみたんだけど…」

 そう言いながらバッグから白い紙を取り出して広げた。何やら細かく色々書かれている。プロポーズするされる以前の問題で既に美咲さんの人生プランにしっかりと俺が組み込まれている事に気がついた。

「人並みの幸せって形で、コーちゃんが普通の会社に就職して社畜になったと過程した例がこれね」

 そう言いながら紙に書かれた「一般」の項目を指さす。

「社畜って…」

「一般的な労働時間が8時間として、お昼が1時間でしょ。通勤が片道30分として往復で1時間。この時点で会社に最低でも10時間取られちゃう訳。健康的な睡眠時間が8時間とすれば18時間、会社で残業2時間あったら家で過ごせる時間なんて4時間しか無いのよ。休みの日は16時間使えると仮定して週休2日だと…一週間で52時間ね。1年は約52週間だから年で2704時間。祭日やら盆正月は考慮してないからもう少し多いと思うけど、1年が8760時間とすれば一緒に過ごせる時間は三割くらいしかないの」

「ああ、うん、でもそれが普通なんじゃねえのか?」 

 つらつらと手書きの表を指さしながら力説する美咲さんに俺は自然にそう返した。

「だったら私は普通じゃなくていい。異常でいいから、一秒でも余分にコーちゃんと一緒にいたいの」

 俺の言葉に美咲さんは少し不機嫌そうにそう答え、話を続ける。

「それに会社に一年の七割も持って行かれたらきっとコーちゃんは良い夫でもいい父親でもなくなってしまう気がするの」

「まぁ…普通のおっさんになるだろうな」

 想像してちょっと笑ってしまう。職種は問わずともサラリーマン人生のテンプレートのような物が浮かんでくる。美咲さんの計算は仕事が終わって「直帰する」事が前提になっているので実際はもっと少なくなるのだろう。飲み歩いて酔っ払って帰宅即就寝のパターンだと美咲さん計算の「一緒に居られる時間」はゼロになる。

「この計算で40年務めると約10万8000時間。そこから余生が20年と仮定すると16時間の365日で年間5840時間を20年で約11万4000時間。合計で22万2000時間。これが一般的な数字」

「凄いあるようにも思えるが」

「で、私が考えているのはコッチの案ね。私が死ぬ気で十年働いで残りを全部余生にするの。最初の十年をゼロで計算して、余生が50年とすれば約30万時間になるの。こっちの方が30%ほどお得になるのよね」

「死ぬ気で十年って何する気だ」

「良い大学出て使える資格とって建築デザイナーにでもなろうと思う。十年じゃ余生も安泰ってくらい稼ぐのは無理だけど、お店構えるくらいはできるよね。自営業ならずっと一緒に居られるし」

「良くわかった。で、俺は何すればいいんだ?」

「十年浮気せずに待ってて。適当にバイトでもしながら」

 そう言って美咲さん笑顔を見せる。

「そうは言っても流石に全部任せっきりってのも気が引けるな」

「コーちゃん。一つだけ勘違いしないで欲しいんだけど、別にコーちゃんの為に頑張る訳じゃない。私は決して尽くす女でもなければ紐男を喜んで養うような甲斐性も無い。これは全部私の為なの。私が幸せになる為に私が全力で努力する。ただそれだけの話だからコーちゃんが気に病む事は一つもないんだよ」

「俺にできる事は浮気しない事だけか」

「ギリギリで浮気は許すよ」

「許すんだ」

「浮気ならね。ちゃんと戻ってくるなら許す。戻ってこないとなると許さない。コーちゃんじゃなくて相手の方、多分、んーん、確実に殺しちゃうから気をつけてね」

「しれっと恐ろしい事を言うな」

「あと、体には気をつけてね。80歳まで生きる計算で3割お得だけど、70歳で死なれると、ややお得くらいになるし、60歳で死なれると2割ちょいのマイナスだから」

 俺の死期まで人生プランに組み込んでいる美咲さんには恐れ入る。俺は人生はおろか卒業後の進路の事すら考えていなかった。楓としてあのまま生きていたとして、どういう人生が待っていたのだろうか?そもそも、この待っていたのかという考え方が「受け身」であり、美咲さんとは根本的に違っているのか。

 この人はしっかりと目標を定め、そこに至る為の手段を構築しようとしている。幸い、俺が行きたい、いや帰りたい場所もきっとそこなのだろう。そういう意味では全力で協力するのも吝かではないが、死ぬなと言われても人は死ぬ。油断しているとあっさり死ぬ。それは保証する。

「いつ死ぬかなんて分からんだろう」

「うん、でもそれでいい。これはコーちゃんを普通のおっさんにしたくないって話でもあるの。私の人生に必要なのは良き夫、良き父としての今のままのコーちゃんであって、会社に飼い殺しにされて年々太っていくだけのオッサンじゃないの」

「一見すると合理的な計画書ではあるが、十年以内に俺やお前がコロっと事故かなんかで死んでしまう可能性は考慮していないのな?」

 少なくとも楓として18歳時点で近藤夫妻がご顕在だった事は知っているが、この計画の一番の穴を指摘する。

「そんときゃ諦めるわ」

 これまた凄い笑顔でサラッと言う。

「私は人生ノーリスクで歩めるなんて思ってない。でも突発的に死ぬリスクなんてどんな歩み方したってついて回る物だし、考慮する必要はないと思った。コーちゃんに何かあったら私も生きてないと思うし」

「ここは一応、俺に何かあってもしっかり生きてくれとでも言うべきかな?」

「無理無理、絶対無理。一週間持たない自信がある。確実に無理。無価値な世界に留まる理由がないもん。手首じゃなくて首掻っ捌く勢いで即日ゴーしちゃうわ」

「そこはほら、子供がいるとかってケースもあるだろ」

「それでも無理。そこは約束する。出来無い事を約束する。そして私は約束を守る」

 自信たっぷりに胸を張って凄い早口でそう言われた。目がマジだ。

「もしかしたら息子が俺に似てくるかもしれないだろ」

「それを含めてもコーちゃんの居ないこの世界って無価値だと思うの。私にとっては子供ってのも幸せな家庭を構築するパーツの1つでしかないワケで、ぶっちゃけ私は世界に自分とコーちゃんだけいればいいと思ってるの。出来ることなら永遠に2人だけでずっと居たい。でもそれは無理だから一秒でも長く居られる道を行きたいの」

「ほら、天国で永遠に過ごせるかもしれないだろ。自殺は地獄行きだと聞くぞ」

「私はリアリストなの。死後の幸福なんて物をアテにして、のほほんと生きていける程、頭ン中お花畑じゃないの」

「まぁ確かにな」

 そう言って俺は深く頷いた。俺は死んだ事はあってもその一般的に言う「死後の世界」ってのを知らない。事実関係だけで言えば、今いるここがそのまま「死後に訪れた世界」であって現在進行形で「死後」とも呼べるが、ここは「現実」「この世」と呼ばれる世界だ。俺は既成概念として存在する天国も地獄も三途の川も見ていない。胎児として生きた十ヶ月は地獄のような物ではあったが、俗にいう「あの世」ではない。この世にある地獄のような場所だったという話だ。

 それに天国も地獄も三途の川も…宗教における概念の一つだ。そう考えれば現代人、特に日本人においては信仰心という物は希薄であると言わざるを得ない。その一方で善人が天国に、悪人は地獄にというお話のプロットは言語、宗教を超えて共有されているようにも思える。これこそ既成概念の一つであろう。

 経験談としては天国も地獄も無い。宗教の振りかざす死後の世界という概念が全て嘘だと身を持って証明し、神の存在を完全に否定したと言える。しかし、それは同時に全ての宗教、全ての神の存在を肯定できる可能性も内包している。

 俺は死の際に「神奈に愛されたい」そう願い、結果として今ここに居る。それは事実だ。多分このまま生きていれば願いは叶うのだろう。そう考えれば「望む場所」へ誰でも行けるのでは無いだろうか?

 安易な願いが災いし、結果として生き地獄に魂を砕かれる事があろうとも、一応は望む場所へ行く事自体は凄く簡単な事なのではないだろうか?

 そういう意味では「宗教」と呼ばれるものが死後の世界を提唱し信者を集めるのも…ある意味で善意なのだろう。誰だって人生やり直せたらと考えるだろうし、それを死の間際に願う事も簡単な事だ。それは同時に五感の全てを奪われ闇に落ちる事を意味する。意識を残したまま生まれ変わると言うのは、思っている以上に難易度が高い事なのだろう。俺は出来たけどな。

 そう考えれば無難に「あの世」を目指す方が遥かに簡単だろう。生き地獄を経由せず魂として意識を持っていられるなら…それは「まだ生きている」とも言える。死んだらどうなるかではなく、死んだらどうするか。生きている間に見つけなきゃいけないのはコッチの方かもしれない。

 なんか数多に存在する様々な宗教ってのが、旅行代理店の提示するツアーのプランのように思えてきた。ツアーなら道に迷う事も無いワケだし。俺は生きている間に次を考えなければいけない。当初の目的を完遂するのであれば…神奈の惚れた相手を確認して、そこへ行けば良いって事にもなる。「神奈に愛されたい」では目的地が曖昧すぎたのだろう。なるほど。信じる宗教のプランに沿ってあの世を目指すのも良し、生まれ変わりを望むのも良し、死後世界を否定してそこで終わるのも良し。やりたいようにやればいい。それが自由ってヤツだろう。

「あ、もし私に何かあったらその時はコーちゃん一人で頑張って生きてね。子供達の事は任せた!」

「凄い身勝手だー」

 そう言って俺達は大きな声で笑った。

 それから数年。高校を卒業して地元の小さな企業に就職した俺は美咲さんの言う「社畜」になっていた。朝出勤して残業して、未成年にも関わらず飲み歩かされて帰宅して寝る。確かにこれではいい夫になるのは難しい。金だけ稼いでりゃ「いい夫」と言われる風潮もあるが、それは美咲さんの望む「いい夫」ではない。美咲さんは国内でも有名な大学に進み、現状は遠距離恋愛の形となっている。

 年に数度、夏冬の長期休暇中には地元に戻ってくるのだが、やはり会えない期間が長いと寂しい物だ。心境の変化だろうか?20年近く会っても居ない神奈よりも数ヶ月会ってないだけの美咲さんを恋しいと思っている自分がいることに気がついた。

 成人式の日には懐かしい顔ぶれが全員揃っていた。オヤジに母さん、美咲さんも地元に戻って成人式に参加する。結局何がどうなったのか良く分からない内にオヤジと母さんがくっついていた。それも既に入籍している。妻として改めて母さんを紹介される。まぁそうだよな。来年くらいには榊姉さんが生まれる予定だ。こうじゃないと間に合わない。

 後日結婚式では友人代表スピーチを任される事となった。なんともやりにくい物だ。笹川家の親族席には懐かしい顔も多い。中学の時に他界してしまった婆ちゃんの顔もある。婆ちゃんには迷惑ばかりかけていた。出来ることならもう一度会って謝りたい事も沢山ある。しかしそれを今謝る訳にも行かない。俺があの世に行っていれば会う事もできたのだろうか?

 それからさらに数年が経過した。とある駅のデザインを決めるコンペで美咲さんのデザインが採用される事となり少しばかり話題となった。夕方のローカルニュースでも少し紹介されていた。少し地味でシンプルなデザインではあったが、逆に言えば現実的なデザインでもあり、コンペ自体では二位だったが、施工に至る段階で紆余曲折あり、実際に採用されたのは美咲さんのデザインだったという。

 この採用を皮切りに、美咲さんのデザインは各方面から注目を浴びるようになる。デザイナーであると同時に一級建築家でもあり、音響に関する造詣も深い。世間を騒がせるような奇抜さは皆無で、機能美を追求したシンプルなデザインと、建材の強度、予算も考慮した破綻なきデザインは「天使の造形」とまで呼ばれ海外からも注目されるようになった。と、土曜の夜のドキュメンタリー番組で見た。「海外で活躍する若き女性建築家」とかそんな煽り文句の番組で。

 海外での仕事が増えるにつれて年に一度会えるかどうかという状況になってきた。今では大きな事務所も構え、世界を飛び回っているようで、日本には忙しいスケジュールを縫うように一日だけ戻ってきてはスグに飛行機で現場に戻っていくような事もあった。そんな中、美咲さんは毎回新品の毛布を買ってくる。そして俺が普段使っているロクに洗いもしていない毛布を持って帰る。

 どうやら匂いフェチのようだった。この頃、務めていた会社を辞めた。かと言って再就職もしていない。美咲さんからの仕送りでそこそこいいアパートを借りて生活している。完全にヒモだ。親にはちゃんと仕事をしている風な事を言っているが、実際は毎日ゲームばかりしている。

 そう言えば先日オヤジ、槐から電話があった。三人目の子が生まれたが、また女の子だったと。電話口で散々男の子が欲しいのだと聞かされたので、次も女の子が生まれる呪いをかけてやった。まぁ事実として四女が生まれるのは知っている。もうちょっと頑張れオヤジ。そう考えるとウチもそろそろだろうか?美咲さんも想定以上に稼いでいるようなので十年待たずに帰ってきそうだ。

 予定では俺達が29歳の時には神奈が生まれている事になる。逆算すれば28歳の頃には家庭を作る準備が整っていると言う事だろう。そうであれば後3年程、のらりくらりと太らないようにだけ気を付けて過ごしていれば良いのだろうか。

 それから2年、美咲さんから電話でこの仕事が終わったら帰る。婚姻届を用意しておけとの知らせを受けた。これは事実上のプロポーズなのだろうか?

 言われた通り役所で婚姻届を入手し、現状で記入できる部分を埋めていく。「婚姻後の夫婦の氏」の項目は迷わず「妻の氏」の項目にチェックを入れておいた。バレなければこのまましれっと提出しよう。子供の頃の約束だもんな。お嫁さんになってあげるじゃなくて、お婿さんにしてあげると言われたのをよく覚えている。

 数カ月後、一流の国際的建築デザイナー近藤美咲は惜しまれながらも結婚を理由に最後の仕事は自宅のデザインだと言い残し業界を去る。

 2016年の11月、美咲さんは地元に戻ってきた。冬も目前の肌寒い季節には似つかない程に日焼けしている。

「戻る日くらい連絡しろよ」

「いいのいいの。言ったら迎えに来るでしょ?」

 いきなり大荷物を抱えたままウチを訪れた美咲さんに軽く文句をいいつつも、そのまま強く抱きしめた。

「おかえり」

「ん。ただいま」

 無言のまま暫く抱きしめていた。凄く、幸せだと思った。この時間が永遠になればいいと本気で考えていた。俺、間違いない。この人が好きなんだ。嘘でも方便でもなく、純粋に「愛している」と言えるのはこの人に対してだ。俺は、美咲が好きなんだ。

「俺、多分このまま息絶える事ができれば、それは文字通りハッピーエンドだと思うくらい今幸せだよ」

「私にバッドエンド押し付けないでね」

「で、どうするんだ?暫くここに住むのか?」

「うん、そのつもり。家建てる場所探さないと」

「そうだな、ちょっと心当たりがあるんで今度聞いてみるわ」

 これで槐の所に電話でもすれば隣が空いてるって話にもなるんだろうな。

「あ、それより婚姻届出しに行こう。これはスグやろう。そうしよう」

「荷物くらい置けよ。スグにってまだご両親に挨拶もしてないだろ?」

「そんなのいらないでしょ。知らない仲でもないし、コーちゃんと結婚したよー、って言えばウチの親も、ああそうかー、って感じだよ」

「そうは言ってもな、婚姻届の…ここ。証人の欄は普通は親に署名してもらうのが一般的らしいぞ。下にも書いてるけど本人の自署じゃなきゃダメみたいだ」

「めんどくさー」

「それに今日は土曜日だぞ。婚姻届は出せても一緒に出す戸籍謄本が取れないだろ。明日ご両親の所に挨拶に行って、証人になってもらって、月曜に出そう。まて、火曜なら大安だぞ」

「そこ気にする?」

 カレンダーを指さしながら六曜に気を使う俺に美咲はさも興味なさそうにそう言い放つ。俺はカレンダーを一枚めくって翌月も考慮し始めている。

「ほら一応出した日が結婚記念日になるんだぞ。いっそのことクリスマスに重ねるのはどうだ?いかん、クリスマスが土曜日だ」

「月曜に出すよ」

「はい」

 大声が出てくる雰囲気を事前に察知し素直に従うべきサインを読み取った俺は素直にそう返事をしてから、美咲の手荷物を受け取りリビングへ通す。

「妻の氏の所にチェック入っているように見えるけど?」

 バレた。

「当然だろ。力関係的にどう考えてもお前が家主だろうし、それに自分の持ち物には名前を書くモノだろ?」

 キッチンでコーヒーを用意しながらリビングに向かって会話を続ける。

「普通は旦那の苗字でしょ?」

「意外だな、お前の口から普通がいいなんて言葉が出てくるとは思わなかったよ。それに俺をお婿さんにしてくれるって約束だったろ?加えて、お前は、できない約束はしないって知ってる」

「覚えてたんだ」

「意外だったか?俺は案外と子供の時の事は全部覚えてるぜ?」

 これは冗談ではない。普通は幼少期の記憶は成長と共に失われる物で、幼児期健忘というらしいが、俺にとって幼児期は幼児期で無かった。乳児期どころか胎児期ですら青年期のエピソードだ。

「ま、我儘だと思って聞いてくれよ。どこかで自分の名前を書く度に俺はお前の物だという事実を噛みしめたいんだ」

「それ、ちょっと私も憧れていた感があるんだけど」

「お願いします。譲ってください」

「……んー。しゃーねーなぁー」

「ありがとうございます」

 なんとか「近藤」の苗字獲得。これで多分良いのだろう。

「お腹すいたよー。なんか食べに行こっか?」

「外で食わんでも俺が何か作るよ」

「……コーちゃん料理とかできるの?」

 何気なくそう言って腰を上げると、美咲はまるで犬か何かが喋ったかのような驚きっぷりでそう言って目を丸くしている。

「独り身が長かったモンでね。それに職を転々としていた頃に飲食にも少しは居たからな。パスタでいいか?辛いのは平気だよな?」

「うんと辛くてもいいよ」

「鼻から吹いても知らんぞ」

 俺はそう言ってキッチンで料理を始める。料理と言っても簡単な物だ。パスタを茹でている間にニンニクを潰して刻み、鷹の爪と一緒にオリーブオイルで炒める。パスタの煮汁を少々加えて振るべし振るべし、乳化させた所で湯を切ったパスタを入れて軽く和える。なんの変哲もないペペロンチーノだ。いつもより鷹の爪が多めに入っている。俺が鼻から吹かないように用心しなければならないかもしれない。

 美咲はそれは美味そうに食ってくれた。ただ飯を作って出した。それだけの事なのになぜこんなに俺は幸せなんだろうか。幸せだと感じれば感じる程に、失う事に対する恐れもまた増していくのを感じる。

 翌日、美咲の実家を尋ねる。事前に美咲が電話して両親が在宅中なのだけ確認して理由は告げていない。まぁ娘が帰宅する。それだけの話なのだが、「ついでに」結婚話が出てくるという算段?である。俺はキチンとスーツで行こうとしたのだが、美咲が必要ないと言い張るので普段通りというかむしろ凄くラフな格好で手土産一つ持たずに「お久しぶりです。ちょっと顔見せに来ました」ってノリで…

 呼び鈴も鳴らさず美咲は普通にドアを開ける。まぁ自分の家だもんな。

「ただいまー」

「おかえりー」

 大きな声で叫ぶ美咲に奥からおばさんの声が帰ってくるが出迎える様子はない。

「あがって」

「あ、ああ」

 美咲に促され俺は靴を脱ぐも、正直カチカチに緊張しているのが自分でも分かる。ちょっと遊びに来た雰囲気ではあるが、その先にはこれまででも最大の試練が待っていると言っても過言ではない。結婚をエンディングに例えるなら、これから起こる事は俺にとってはラスボス戦だもんな。

「二人共ここに居たんだ」

 美咲はキッチンの入口にかかった暖簾のような物を掻き分け中を覗いてそう言い、そのまま中へ入っていった。

「コーちゃんもこっち来て」

「失礼します」

 そう言ってキッチンに入る。ご両親、柿食ってた。

「光一君、久しぶりだねー。見ない内にまた一段とたくましくなったね、ささ、座って柿、食べなさい」

 凄くフレンドリーに着席を勧めてくるお父さん。どのタイミングで「娘さんを僕に下さい」なんて言えばいいのか丸でわからない。

「結婚するからこことここ、名前書いてハンコ頂戴」

 美咲が行ったー、ど真ん中ストレート。学校のプリントでも出すかのように婚姻届普通に行ったー。

「父さんと母さんでいいのか?」

「うん、早く出したいけどコーちゃんとこ今日留守だから二人でいいよ」

「母さん、ハンコ。二つ違うやつな」

「わかってるわよ」

 そういっておばさんは席を立った。何事も無く俺不在でどんどん話が進んでいる。どうしていいのか分からず席にも付けない俺を見かねたのかお父さんが少し笑っている。

「とりあえず座りなさい」

「は、はい」

 促されキッチンの食卓、お父さんの正面に座る。その横に美咲が座り柿を食べる。

「そこ私の席だけど今日はいいよ」

 美咲はそういって笑う。

「光一君、来るのが少し遅いんじゃないかね?」

「すいません、少し寝坊して」

「いやいや今日の時間ではなく、あと3年は早く来ても良かったと思ってね」

 慌てて言い訳をする俺にお父さんは笑顔でそう言った。

「クリスマスケーキも3日過ぎれば廃棄処分だよ」

「28日ならまだ7割引きでしょ」

 お父さんの言葉に美咲が口を挟む。

「普通は25日までには用意しなきゃいかん物だろう」

 ああ、娘の年齢とクリスマスケーキの末路を絡めているのか。

「こんなので良ければ是非貰ってやってくれ。腹壊しても知らんし、返品は受け付けないがね」

「そんな事言ってたらアナタは食中毒で死んでますよ」

 おばさんがハンコを手に戻ってきた。

「父さんがケーキ買ったの年明けてからだよね」

「ああ、カチコチで食えたもんじゃなかったが、見てくれだけは良かったからな」

 そう言って笑うお父さんに横からおばさんの肘が脇に刺さる。

「あと一つ、貰ってくれじゃなくて、私がコーちゃんを貰うの」

「そうかそうか。近藤光一か、語呂もいいじゃないか。なぁ母さん。見なよ、近藤光一だ。私達にも息子ができたぞ。ってなんで?なんでぇ?」

 見事なノリツッコミ。このお父さんやりおる。

「そういう事になったの」

「光一君、君まさかアチコチで借金していて名前変えなきゃローンも組めないとかそんな状況ではないよね?」

「違います!」

 もっともらしい推測を打ちたてながら心配そうな顔で言うお父さんに俺もそこは力強く笑顔で否定した。

「もし仮にそうでもお金の心配はしなくていいの!コーちゃんは私の物だから無くさないように名前を書いておくの。それだけの話」

「そうか、それなら仕方がないな」

「アナタ、それでいいんですか?」

 素直に納得するお父さんにおばさんが不安そうに口を開く。

「こういう事は当人同士で決めればいいし、下手に反対してこじれてぽしゃったらそれこそ貰い手がないぞ」

「でもー」

 お父さんの言葉におばさんはイマイチな顔を見せる。

「昔から事ある毎に、嫁の貰い手がなくなるぞー、が口癖だったのよ」

 そんなやり取りを見ながらボソリと美咲が言う。

「貰い手がないないなら貰えばいい、か。見事な逆転の発想だと感心する」

「そんな事ひとっことも言ってない」

 ドヤ顔で言うお父さんに美咲が呆れた顔でそう返した。

「孫は最低3人は欲しいなぁ」

 お父さん、虚空を見上げながら、もう未来に夢を馳せられている。

「2人もいれば十分でしょう」

「美咲、いいかい。男女一組、2人の人間から2人の子供ではプラスマイナスゼロだ。今の日本は高齢化社会でもなければ高齢社会でもない。超高齢社会だ。年寄りばかり増えていてはこの国に未来は無いんだよ」

「私一人っ子じゃないの」

「すまない。ケーキが古過ぎ…おぶ」

 セリフを言い切る前にまた横から肘が入った。

「つまり親の負債も抱えてプラス一人。光一くんも一人っ子だったよね。ならもう一人プラスで孫は4人必要だな。それで相殺、国の未来を考えると最低でも後一人追加になるがね」

「はい…頑張ります」

 引きつった笑顔で俺はそう答えるも、残念ながら子供は2人の予定だ。3人目が追加された場合どんな影響が出るのか分からない。それに5人の子供という意味であれば俺の実家でもある笹川家がノルマを達成しているので大目に見てもらおう。

 こうして後日婚姻届は無事に提出され、俺の苗字は正式に近藤となった。結局の所、美咲がここ数年で稼いだ額は約16億円と割と洒落にならない額になっていた。

 一般人の生涯所得の何倍だ。これだけあれば大きな家を建てても余生を遊んで暮らせるだろう。しかし美咲は当初の目標通りに「何らかの店」を構え自営業を始める気なのは変わっていない。「ウチはお金持ちだから」と親が遊んで暮らしているのは教育的に宜しくないというのが理由で、薄利多忙どころか無利無忙、100円で仕入れた物を1万円で売るような店でいい。

 それはアコギなボッタクリという訳ではない。そもそも売る気がないのだから、全く売れなくていい。販売努力も値引きも一切しない。子供と周囲に「自営業」ですというポーズを見せるだけの店でいいとの考えのようだ。そう考えると「インテリアの近藤」がシャッター街の隅で年中暇そうだった割には大きな家で良い暮らしをしていたって部分に納得も行く。

 結婚式は「一生に一回だから」と盛大に行われた。俺は友人代表のスピーチには槐を指定したし、美咲の友人代表も理沙が選ばれた。新婚旅行も数ヶ月をかけて美咲オススメの場所と言うか、自分の手がけた建築物を順に見せられた形だった。むしろ英語やドイツ語、フランス語と多数の言語を使いこなしている事に驚いた。海外生活が長いと自然に身につく物なのだろうか?

 それから暫くして槐の所に電話してみる。美咲が要求する自宅建築に必要な敷地面積と商用的な立地の双方を満たす物件は無い物か?と。丁度隣に良い場所があるのは知っているのだが。案の定、条件を伝えた瞬間に隣に空き地があって、そこに隣接する形で潰れた本屋があると言ってきた。後日美咲と共に「下見」に行く事となった。

 面積も立地も申し分なく、加えて数少ない友達の家が近いというのも高評価となり、その場所で即時決定となった。美咲はしばらく空き地をウロウロしながら時折目を閉じては奇妙なジェスチャーを見せる。恐らくは、事前に考えていた図面を実際の土地を見て頭の中でリファインしているのだろう。ハタから見れば変なオバさんだが。この日は周囲の写真を何枚か撮り、折角なのでと「笹川家」を訪ねてみる。

「よくきたなー」

「明けましておめでとう」

「もう3月だぞ」

 玄関先で冗談交じりの挨拶を交わす。ここに来るのも随分と久しぶりなような気がする。笑顔で出迎えてくれた槐の足にしがみつくように小さな女の子の姿が見えた。

「まーた、女の子だったみたいだなー。早くしないと名前のネタが切れるぞ」

「まだまだ候補は残ってるよ。梛に柊、楪ってのもいいな。楓とか欅もいける」

 その中から選べるなら俺は梛が良かったです。

「お嬢ちゃんお名前言えるかなー?何歳ですかー?」

 俺は槐の足元の女の子に声をかける。もちろん名前も歳も知っているのだが。女の子は隠れるように槐の後ろに回りこむ。余裕のガン無視である。

「この子は桜だ。ほらご挨拶しなさい」

 桜姉はそのまま奥へ走っていった。恐らく母さんの所だろう。

「まぁ上がってくれよ。茶ぐらい出すからさ」

「普通の茶なら頂くよ」

 苦笑いしつつそう言うと俺達は居間に通され腰を下ろす。暫く談笑していると廊下の奥から懐かしい声も聞こえてくる。母さんの声だ。

「足元にくっつかないで。危ないでしょ。熱いの持ってんだからちょっともー」

「ちょっと行ってくるわ」

 そう言って槐は腰を上げる。

「桜!こっち来なさい!椿、廊下を走っちゃいかん!榊、手伝いなさい!椛も何してんだ、それに触っちゃいかん」

 悪戦苦闘する槐の声が響く。これはもう、知っているオヤジの声だ。何もかもが凄く懐かしい。この居間の掛軸にもまだ俺の書いた落書きはない。

「賑やかだね」

「ああ、大変そうだが楽しそうだな」

 どこか少し羨ましそうに言う美咲に俺はそう返す。暫くすると、笹川夫妻が現れた。ちびっ子の姿はない。恐らく榊姉と椿姉が面倒見ているのだろう。

「待たせたな」

 そういって腰を下ろす槐。母さんは俺達にコーヒーとロールケーキを配る。意外と普通な物が出てきて少し驚いた。

「あれ、理沙、またおめでた?」

「うん、今4ヶ月なの。いい加減これで最後にして欲しいわ」

 母さんはそう言って苦笑いする。見た目で分かるほど腹は出ていないが、着物を着ていない時点で恐らくはそうなのだろう。

「5人目か、バレーボールのチームでも作るのか?」

「次こそ男の子だ」

 俺の言葉に槐はそう言って笑う。うん、そこに居るのは俺だ。次は男の子で間違いない。それにこれ以上兄弟姉妹が増えてしまうと子供部屋が足りないのも知っている。

「予定日はいつなの?」

「7月末あたり。でも予定日に出てきた子なんていないよ」

 美咲の言葉に母さんはそう返して笑う。実際に俺が生まれたのは翌月の13日だ。そう考えると随分と寝坊したもんだ。

「そっちはどうなんだよ」

「そのうちできるさ」

 こちらのことを気にかける槐に俺はそう答えてコーヒーに口を付ける。逆算すれば美咲の中には既に神奈がいる。俺が4ヶ月なら神奈は今2ヶ月といった所だろう。予定通りというか、史実通りなら10月15日には我が家にも長女が生まれる事になる。

「もう、物件の方は見てきたのか?」

「うん、バッチリ。商店街の寂れっぷりとか凄く理想的な立地だと思う。スグにで準備に取り掛かりたい」

 槐の言葉に美咲は嬉しそうにそう返す。

「寂れた商店街は問題ないんだ」

「正直な話、扱う物が物だけに立地はあんまり重要じゃないのよね」

 理沙の言葉に美咲は意味深にそう返す。一応、うん、最初から売る気とか無いから。とは言えない。

「何屋さん?」

「海外の高級インテリア専門店、かな?」

「こんな場所で本当に大丈夫なのか?」

「いいのいいの、ネットでも売れるし、小奇麗に並べられれば場所はどこでもいいし、そう考えれば見たいってお客さんが車止められる場所がある方が大事だし」

 立地面を疑問視する槐に美咲はもっともらしい事を述べて煙に巻く。それから数ヶ月、事前のエコー検査で赤ん坊の性別が男だと分かったと槐が嬉しそうに電話してきた。こちらも妻が妊娠しており予定日は10月の半ばだと告げると、子供は同級生だなという話にもなった。

 そして記録的な猛暑日の続く8月の13日に笹川家についに長男が生まれ、楓と命名された。それから約2ヶ月、我が家にも長女が誕生。10月、神無月の生まれなので「かんな」。「無」という字はアレなので「奈」に置き換えた。

「何してんの?」

 携帯端末を凝視している俺に美咲が横から声をかける。

「姓名判断だよ。見てみろ。近藤神奈という名前、悪くはないが特筆して優れてた部分もない。一方でこれが寺沢神奈だったとすると、部分的には大凶だったみたいだ。近藤で良かったなぁ神奈ぁ」

「そういうの気にするんだ」

「いや、ほら意外と当たってるというか思い当たる節も多いぞ。寺沢光一の家庭運の所見てみろ。嫁が実権を握って栄えると書いているぞ」

「マジで?でもアンタ苗字変わってるでしょ」

「こういうのは生まれた時の名前でやるもんだろ」

 自分で言って自分で気付いた。俺の生まれた時の名前は「笹川楓」だ。

「槐の所の息子の名前も調べてみよう」

「…見なかった事にしよう」

「うん、次私ね」

 笹川楓、五項目中三個で「凶」の判定。健康運は申し分ないが注意力に欠ける。突発的な事故やトラブルには注意とある。

「美咲つええ、最低でも半吉、吉と大吉しかねえ」

「若い内に独立して成功する人が多い…か。でもこういうのって当たり障り無いこと書いておけば勝手に当たってるって思い込んじゃうモンだよ」

「仕事に夢中になりすぎると婚期が遅れるそうだぞ」

「そこは解決してるでしょうが」

 それから2年が過ぎた。神奈は手のかからない子供だったが純一には手を焼いた。特に夜泣きが酷く睡眠時間を随分と削られた。

 これで会社勤めしていたらと考えるとゾッとする。そしてその年の12月、建造中だった自宅と店舗が完成した。店の方は表向きはインテリアショップだが、実際の所は美咲が気に入った小物を並べているだけの趣味の部屋にも近い。売りたくない、仕入が面倒うってのが本音のようで価格設定はかなり高めだ。普通に考えれば絶対に利益が出ない店だが…それでいいのだろう。

 店の名前を決める段階で中々いいアイデアが出ずにいたので、「インテリアの近藤、略してイコン」と、昔聞いたネタを出した所、美咲はそれを凄く気に入ってしまったので採用となった。荷物の搬入も終わり、明日からはここで美咲の言う「余生」を過ごす事になるわけだ。ご近所に挨拶周り。長居する事になりそうなので槐の所へは最後に行った。なんだかんだで、この人生、色々な人の若い頃ってのも見てきた。しかしながら自分自身と会うというのは中々に奇妙な体験だ。それがまだ三歳の鼻垂れ小僧だとしても。

 それからは緩やかに時が流れた。定期的に「仕入」と称しては家族で海外旅行に行っては気に入った「おみやげ」を店に並べるような生活だ。美咲の趣味で子供達はバレエを習っていたが、小学校に上がる頃には純一はバレエを辞めていたし、神奈も中学に入る頃には唐突に空手に転向していた。異なる視点で見ているだけで、俺のよく知る日常に戻って来た。

 時は流れ、2035年。俺が死んだ年。神奈は俺の知る通り、学業優秀、スポーツも概ね万能のハイスペック女子高生ではあったが、卒業後の進路に関しては「地元に就職」を希望している。神奈の学力ならかなり良い大学にも行けそうだが、なんというか「欲」が無いようで、食うに困らないだけの収入があれば良いと考えているようだ。   

 貯金は十分にあるワケで、金銭的な理由で夢を諦める事はない。何でもやれと言っているのだが、神奈の望んでいる物は「最低限文化的な生活」だそうだ。

 一方で純の方はゲームばかりしていて将来については何も考えていない。俺もそうだったのでなんとも言えないが、親としての立場から言わせて貰うなら、何かやりたい事を見つけてそれに打ち込みなさい。だ。まぁ、その結果ゲームばかりしているのだろうが、まだ高一だし、数年以内に答えを見つけてくれればいい。

 そして神奈の卒業も迫った凄く寒い日の朝だった。予報では午後からは雨が混ざるかもしれないとの話だったが、一応店の前の雪を片付けて入り口を作る。まぁ、客なんざ数ヶ月単位で見ていないが。若い頃はあちこちで温暖化だ、二酸化炭素軽減だと叫ばれていたが、むしろ気候的には寒冷化に向かっているのではないかと思う程に厳しい冬が続いている。

「おはよう楓くん」

「おはようございます」

 ちょうど通りかかった槐の所の倅に声を掛ける。笑顔で元気よく挨拶しているが、無理に笑顔を作っている感が半端ない。俺も美咲のお父さんに会う時はきっとこんな感じなのだろう。

「最近はこのあたりも飛ばしてる馬鹿が多いから車には気をつけなさい」

 俺は掃除の手を止め怪訝そうな表情で通りの奥に目をやる。早朝ともあり車は疎か人の通りすら少ないが、この寂れた商店街を抜け道として使う地元のドライバーも多い。

「君に何かあったら家族が皆悲しむからな」

 俺はそう言って含みのある笑顔を見せた。家族というのは言うまでもない、お前の家族であり…俺の家族でもある。「笹川家」の事だ。

「は、はい、気をつけます」

 なぜか嬉しそうにそう答えてから楓はその場を後にした。俺にならアイツを救うことはできるのだろうか?事故の直接的な原因は俺の今の言葉でもなければ数日前の先生との会話でもない。排水口の溝が逆にハマっていた事が一番の要因だ。

 とは言え、彼に「何か」ないと困るのは俺かもしれない。俺の知る限り、この人生は細かな部分まで意図せずとも完全に再現されている。意図して変える事はできるだろうが、そうしない限りは「史実通り」に事が進んでいる。先ほどの会話も事前に内容こそ知っていたものだが、言葉を選んだつもりはない。合っているかどうかも疑わしいが、恐らくは一言一句、相違ない物だろう。ウチの子も含め、笹川家の子供達の誕生日も俺の知る物と一致している。そう考えると…やはり楓君には死んで貰わないと今の俺が存続の危機に立たされる…のだろうか?

 なんとなくだが、多分大丈夫な気もするが…実験はもっと簡単に済ませておくべきだった。方法はいくつかあるだろう。とは言えそのキーマンはもう行ってしまったし、もう帰って来ない。今日が俺、笹川楓の命日なのだから。

 それと同時に俺にとっての「明日も過去」という奇妙な日常の終わりも意味している。明日から先はどこまでも知らない毎日だ。この1日を進めるのに47年も遠回りをしてきたとも言える。

 そして知りたくなかった事実も見えてくる。多少は考えもしたが、実際に目にするとこっちまで辛い。申し訳なかった言う気持ちと、今は幸せなのだから、この道で正解だっと言う気持ちが入り混じる。

 と言うか、普通は自分の葬式に参列するようなこともないだろう。生きている以上、誰かとの死別は避けられない。しかし死んだのがまだ十代の若者ともなれば、残された両親にとってはこれ以上ない苦痛となる。

 俺は槐にかける言葉を持たなかった。楓は今もこうして生きてるから心配すんなと言えればどれだけ楽だろうか。

 槐の顔に覇気は無く、弟大好き過ぎた桜姉は寝込んでしまったという。現在時刻は午前9時半を過ぎたあたりだ。葬儀は10時からの予定で自宅で執り行われる。喪主とは親友という建前と同じ自治会のメンバーともあり、焼香だけの参列ではなく、葬儀に参加する立場であり、葬儀の開始までは中で座って待つべきなのだが、中に居辛い。両親や姉の顔を見るのが辛く、敷地の外で煙草を吸いながら軽く現実逃避していた。

 ふと通りに目をやると色の黒い銀髪の女子高生が全力で走って来るのが見えた。獅庵だ。どこからどう見ても「これから誰かのお葬式」な装いの笹川家の様子を見て現実を受け入れたのか、徐々に足取りは重くなり…俺の目の前、笹川家の門前で力なく膝を付いた。

「嫌ぁあああああああッ!」

 この世の終わりが来たかのような表情で声というよりは音、そんな勢いで獅庵は泣きながら叫んだ。その刹那、息を切らしながら走り寄って来た神奈が獅庵を抱きしめた。声とも音とも判別が付かない、途切れ途切れの言葉に嗚咽が入り混じり、酷く混乱している様子の獅庵を神奈は無言で強く抱きしめている。

 神奈は昨夜の通夜にも参加しており、この事は事前に知っていた筈だが、あえて獅庵には伝えていなかったのだろう。学校で訃報を受け、とにかく走りだしてしまった獅庵を神奈が追って来た。そんな感じだ。

 俺はこの2人に対してもかける言葉が見つからない。正直今すぐにでもこの場から逃げ出したい気分になった。俺は今、どんな顔をしているのだろう。いつだって強く真っ直ぐで凛としていた、まるで武人のような獅庵をここまで悲しませ、絶望させ、泣かせてしまってから自分に好意を持っていた事に気づいた大馬鹿野郎は今どんな顔をしているんだ?

「コーちゃん…そろそろ」

 美咲が横から囁いた。そろそろ坊さんが来る時間だ。美咲も目の前で泣き崩れる獅庵とそれを抱きしめ黙したままの神奈を見て泣きそうになっている。美咲にとっても小さい頃から良く知ってる娘の幼馴染だ。俺は美咲に促されるまま、式場となっている広間の座布団に正座し葬儀が始まるのを待った。しばらくして坊さんが席に付きお決まりの念仏を唱え始めるがマジな話、それ意味ないぜ。俺生きてるし、そもそも仏教徒じゃねえんだから。そんな皮肉を言える立場じゃないよな。葬式はどっちかっていうと残された人間の為に行う儀式なのだから。

 少し遅れてアフロじゃないアフロ先生とクラスメイト達が焼香に参加するために徒歩でやってきた。クラスメイト達が順に焼香を上げていくが、神奈と獅庵の姿は見えない。正直それどころじゃないのだろう。


 それから数ヶ月が経過したが、何事も無く平穏な生活が戻ったようで戻っていない。遊び相手の居なくなった純は寂しそうだし、獅庵は無気力に引き篭もったままだと聞いた。槐も口数が少なくなり、桜姉も現実を受け止められないでいるようだ。

 神奈は高校卒業後、自宅からほど近い場所にあるディスカウントショップに就職した。時給制で本人曰く「まぁまぁ」らしい。

 そしてその年の初夏。俺は血を吐いて倒れた。

 診断の結果は「癌」だった。喫煙者の定めか、肺癌を発症し、転移もあちこちにみられる。余命は良くて1年との事だ。美咲は怒っていた。なんちゃって自営業ともあり検診を疎かにしていたのは事実だ。

「すまない」

「謝るなバカ」

 入院して数ヶ月。見舞いに来る美咲の顔を見る度に謝ってしまう。

「俺が死んでも後追ってきたりするなよ」

「純が高校卒業するまでは頑張ってみるけど、その先は保証しかねる」

「俺の分も生きて幸せになるって約束してくれよ」

「わかった。約束する」

 力なく言葉を紡ぎだす俺に美咲は至極アッサリと承諾し笑顔でそう答える。俺にだって分かる。これは嘘を吐いている顔だ。むしろ別の何かをしっかりと決意した顔に思える。この件に関してはこれ以上触れないでおこう。

 窓の外に雪が見えるようになった頃、鎮痛剤の影響も強く、意識も混濁している事が多くなってきた。そんなある日の午後、3時くらいだろうか。いつもの様に美咲が病室を訪れる。

「なぁ、美咲」

「ん?」

「生まれ変わりって…信じるか?」

「何、突然」

「もし、俺が俺として、記憶を持ったまま別の人間に生まれ変われたとするなら、俺は生きてるって…言えるかな?」

「うーん、まぁコーちゃんはコーちゃんかな」

「そうか」

 言質が取れた。俺が死んで居なくなっても、代わりの俺がそこに居ればいい。

「でも、死んでから生まれたんじゃ間に合わないよ。色々と」

「生まれ変わる先ってのが…常に今より未来とは…限らんだろう。俺の代わりはとっくに生まれていて…ドアの向こうで俺が死ぬのを待ってるかも…しれんぞ。俺が死んだ瞬間に、ただいまーって入ってくるタイミングを伺っててさ…」

「それなら間に合うね。色々と」

「ああ、そうしよう」

 これで、これなら大丈夫だ。俺のこの美咲を死なせなくて済む。そう思うと自然に笑顔が出た。

「見せてよ…やって見せてよ」

 美咲は笑いながらも下を向いて泣き崩れた。あ、分かる。分かるよ。今寝たら目が覚めないタイプの「眠気」だこれ。

「美咲…」

「ん?」

 俺の声に美咲が顔を上げる。

「ありがとな…ちょっと行ってくる」

 俺は精一杯の笑顔を作ってそう言った。大丈夫、すぐ戻ってくる。俺にとって何年かかるか分からないが、お前を待たせはしないさ。本当にちょっとコンビニ行ってくるってレベルの話だ。

 ちゃんと時計は見ておいた。この時刻を忘れはしない。さっきのは喩え話でもなければ、冗談でもはない。実行すると俺が決意しているのだ。確実に病室の外では俺が入るタイミングを見計らっている。俺が、これからそうするのだから。


 死の間際、完全な自由、その中であらゆる願いが叶うのなら、今一度「光一」として生まれ、文字通り人生やり直す事はできるだろう。

 健康に気を使い、喫煙も控え、いや止めてしまえば、もっと長生きする事もできるだろうし、これまでの人生経験もある。前よりも、もっと美咲にとっての「いい男」でいられるかもしれない。

 でもなぜだろう。今日までの人生、光一と美咲の「この関係」ってのを「無かった事」にはしたくない。俺は「この美咲」と居たい。そしてこの美咲ともっと歩んでいきたい。願わくば、「美咲を幸せにしてやりたい」そう願いながら俺はストンと闇に落ちた。ああ、これな。この感覚。随分と久しぶり二度目の感覚喪失。多分これだけは何度やっても慣れないだろう。

 この瞬間にも美咲は俺と再会を果たしている。俺は今からそこへ行くだけだ。前回同様に「気をしっかり持って」闇に贖う。

 前回よりはずっと目的がハッキリしている。今回も明晰夢により悪夢を一掃、リラックスタイムとして最大限に活用していく。前回とは違い未知なる物への恐怖が無い分随分と気が楽というか、ある種の覚悟ができている。


日々増大していく不快感と戦う為にも…夢の中で美咲と過ごす時間は何より大切だ。残してきた子供達も気がかりだし早く戻りたいのも本音だ。

 とは言え、美咲の再婚相手となれば…同年代の男であろうか?そうなると元の場所に戻るのに今度は50年近くかかる事になるが…

 とにかく行くしか無い。自分で決めた道だ。述べ68年生きてようやく自分の進むべき道、学生時代にはウゼェ単語のベスト3に入るであろう「進路」について真面目に考え、自ら決断を下したような気がした。

 

 そして約十ヶ月、俺はどこぞのだれぞとして生を受ける。両親に抱きかかえられ振り回され、親戚集まって大喜びして…この展開はどこでも同じなのだろうな。もちろん聞こえてくる言語は日本語だ。これで一安心だ。とりあえず少し休みたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る