笹川楓のラブレター

藤岡 一

第一章 走馬灯

 それは、凄く寒い日の午後だった。朝から曇り空で、昼過ぎからは雪も舞っていた。帰宅時には雨なのか霙なのか良くわからない天気になっていた。

 その日は「ちょっと」良い事があり、気持ち的に浮かれていたのも事実だが、恐らくは人生で最大の失敗、18年生きてきた中でも「致命的」な出来事に遭遇していた。いや、今まさに遭遇中。致命的という表現は決して大げさな物ではなく、現在進行形で「死」に向かっている最中だ。自転車で転んだだけの話なのだが、俺は運悪く車道に転がり込み、目前にどう考えても回避不能な速度の車が迫っている。自動車の自動ブレーキ機能は年々高性能化が進んでいるが、何事にも限度がある。うん、無理。あの速度の車を急停止させるには壁にでもぶつけないと無理だ。そんな状況を比較的冷静に見つめている俺がいる。何もかもがスローモーションで展開しているような感じだ。なんか色々と昔の事なんか思い出してくる。これがいわゆる「走馬灯」なのだろうか?


 2022年8月13日。俺は笹川家の第五子、長男「楓」としてこの世に生を受けた。最初に感じたのは光。眩しい光だ。正直良く見えない。しかし声はよく聞こえる。これは親父の声だろうか。柄にもなく大喜びしているようだ。そういえば聞いた事がある。中々男の子が生まれず、俺が生まれた時は本当に嬉しかったと。それにしても不思議な物だ。普通は生まれた時の記憶はおろか、五歳の時の記憶だってありゃしない。そんな記憶にもないような昔のことを、追体験というか、もっとこう…なんていうか、自分の事なのに凄く他人事。録画した映像を見せられているような感じで見慣れた「夢」とは違う。笹川楓という人間のダイジェスト映像、劇場版総集編を見ているような感じだ。


 ウチは俺に姉が4人、両親と祖父の八人家族。姉さんは上から榊、椿、椛、桜とウチの家族は母と祖母を除けば木へんの漢字一文字で統一されている。親父は槐、爺ちゃんは椚だ。ウチは古くから茶道を教える家柄なのだが俺は家業のことなど何も知らないし興味もない。平安から続く長い家系で「茶道」を生業に今は生計を立てているが、元々は政府の隠密、いわゆる「忍者であり陰陽師的な物」だったとも聞く。武芸百般と魔術を用いて鬼と戦ったという伝承も残ってはいるが、ほぼお伽話で信憑性はゼロだ。その「伝統」だけは今も残っており、榊姉さんと椿姉さんは幼い頃から剣に槍、薙刀や弓、良く分からない宗教的な「陣」の張り方などを祖父と父から学んでいたが、それが実際に効果が有る物なのかは不明だ。だって試してみたくても妖怪とかいねぇし。まぁ物理的にも喧嘩が強いのは間違いない。


 家は今時では珍しい木造の平屋建て。敷地は無駄に広く庭の池には鯉もいる。ししおどしは近所からのクレームで水を止められている。

 古い伝統ではあるが、本来なら長男の俺が跡取りとなる所だが、一人っ子として家業を継ぐ事を余儀なくされたオヤジは若い頃から、それが嫌で仕方がなかったらしく、俺には昔からやりたい事をやれと言ってくれていた。家業の方は榊姉さんが去年結婚し、婿養子を取る形で解決した。義理の兄である真樹さんは凄く優しく朗らかな人だ。結局のところ家業で言う「当主」の座は榊姉さんが引き継ぐ事となった。


 3歳の頃だ。俺にとっては運命的とも呼べる出会いがあった。オヤジの友人一家が近所に引っ越してきた。自営を始めるという事で良い物件を探していた所、ウチのオヤジが近所に良い所があると紹介したのだという。元々は古い本屋があったと言うが、俺にその記憶はない。商店街に面した立地で、一家はそこに小奇麗なインテリアショップをオープンさせ、横の空き地に家を建てた。ウチから見れば道挟んでお隣さんだ。ウチとは違い洒落た二階建て。壁の作りからして異質だ。いやまぁ、世間一般を見れば異質なのはウチの方ではあるが。

 この日は引っ越しが完了したので挨拶に来たという話だった。近藤さんのご夫婦、光一さんと美咲さん。そして娘の神奈。美咲さんは腕に小さな赤ん坊を抱いている。これ、赤ん坊の頃の純か。正確には純一。年下であるが俺の一番の友人になる赤ん坊だ。神奈とは同い年で家も近く、俗にいう幼馴染みで、小さい頃から良く一緒に遊んでいた。走馬灯として当時の記憶を客観視すると、遊んでいたというよりは、遊んで貰っていたという感じだ。

 俺は当時から神奈の事が好きだし今でもそうだ。神奈の前でいいカッコをしようとしてはヘマばかりで、むしろ後始末ばかり押し付けている。うわ、俺カッコ悪い。忘れていた方が色々と都合の良い黒歴史を客観的に見せられるのは正直辛い。神奈は昔からどこか大人びた雰囲気を漂わせる少女だった。

 ウチのどの姉さんより頼りになるし、凄く面倒見がいい。とにかく一緒にいて安心できる、そんな女の子だった。客観的に見ていると神奈が保護者で俺はタダのガキだ。よく泣くしダダも捏ねる。見栄もはれば嘘も吐く。そんな当たり前のガキとは対照的に神奈はいつも冷静だった。

 神奈は小さい頃から背が高く、小学校の間は俺より頭ひとつはデカかった。まぁ中学に入った頃には俺にも成長期が訪れ、身長的には俺もデカくはなった。むしろクラスで一番デカくなった。

 高校一年の時には180センチを超え、色々な部活からのスカウトもあったが…基本的に不器用で何をやっても上手くはならなかった。重いものを持ち上げるとかなら得意なのだが、残念ながらウエイトリフティング部なんて物はなかった。勉強も決して出来る方では無かったし、進路について深く考えるような事もなかった。その日その日が楽しければそれで良かったんだと思う。

 そんな俺とは対照的に神奈は成績でも常に学年上位、スポーツも概ね万能。

身長170センチ、女子の中では校内でもトップ3に入る長身で外ハネのショートボブの似合う美人、と言うよりは目付きの悪さも相まってカッコイイ女。胸が小さいって事以外、特に弱点らしい弱点もない。逆に言えば、完璧すぎて可愛げが無い。人によっては怖いと感じるかもしれない。

 幼少の頃はバレエを嗜んでいたが中学に入ってからは空手に転向。現在では黒帯を習得し、つま先蹴りで人を殺せるレベルなのではないかとも噂されている。神奈の家の玄関先に小さい頃からの写真が順に並んでいるのだが、これが中々にシュールだ。

 フリフリのレオタードを着て可愛らしくポーズをとっている写真から、黒の地味なレオタードで柔軟体操する写真、そして道着に黒帯姿で高い位置に掲げられた板を蹴りで割っている写真だ。弟の純も昔はバレエをやっていたようだが、その頃の写真は当人によって破棄されたという。

神奈がモテるかというと、むしろ逆で、裏で悪口を言われている事も多い。スペック的には超高校級ではあるが、どこか人と人との間に壁を作っている感が強い。良く言えばクールな一匹狼だが、裏を返せば無愛想なはぐれものでもある。

 そんな神奈に「告白」してくる男子も稀にいる。卒業の近付いている今の季節になって急増している。と言っても二桁には届いてないようだが、いや女子も入れる二桁行くかもしれない。玉砕覚悟の特攻も男らしいとは思うが、今の所は「全てお断り」のようで、聞いた話によると「好きな人、いるから」がお決まりの返し文句らしい。

 もうすぐ卒業、別れと新たな出会いの季節だ。現時点で他人である者達にとっては卒業イコール「今生の別れ」にも該当する卒業式が目前に迫っている。

 でも俺はそんなに焦ってはいない。他の連中とは違い俺には卒業後も神奈に接触するチャンスはいくらでもある。親同士も仲が良く、ある種の家族ぐるみのお付き合いがあるワケだし、神奈の弟の純とは親友と呼べる間柄だ。神奈のお父さん、光一さんも俺には優しい。ような気がする。

とは言え、神奈との間になんとなく距離を感じているのも事実だ。幼馴染みで子供の頃は仲良く遊んでいたし、今でも一応「仲間内」と呼べる一団の中に俺の居場所もあるのだが、神奈の周りには何故かデカい女ばかり集まっているイメージだ。基本的に仲の良い三人組で固まっている。

 一番デカいのが元女子剣道部主将、伊倉しあん。漢字は難しくて書けない。色黒で銀髪ポニーテール。胸も一際デカい。一昔前ならおかしな風貌だと言われていたらしいが、現代ではそんなに珍しい物でもない。むしろ褐色銀髪程度では地味なくらいだ。十数年前、大体2025年頃から、遺伝子に働きかけるサプリが広く流通するようになり、髪の色や肌の色、眼の色なんかは安価に誰でも変更できるご時世だ。癌治療に関する研究の副産物だというが肝心の癌治療は今現在でも外科的に「切る」のが定番で日本人の死因の上位を独占し続けている。

 俺も同じようなサプリで髪を金髪にしている。脱色や染色と異なり、生えてくる毛の色を変更する物で効果は永続する。効果は頭髪だけに留まらず、眉や下の毛も色が変わる。とは言え瞬間的に変わる物でもないので、完全に生え変わるまでは昔ながらの方法で抜いたり染めたりする必要がある。俺は5歳くらいの頃からこの色にしているので、抜いたり染めたりって記憶はあんまりないが。

 これの普及と時代の変貌により、親の世代ならアニメの中にしか居ないような緑や青、ピンクの頭髪の生徒も多く、ウチの担任の教師も真っ赤なアフロだ。眉毛が黒いのでアレはズラだという噂もあるが…

 しあんの事は俺も良く知っている。家も比較的近所で幼稚園から小学、中学とずっと一緒だ。小さい頃から俺と純、神奈としあん、この4人で游ぶ事も多かった。稀にウチの姉ちゃんも混ざったが。昔のしあんは黒髪で前髪ぱっつんのお嬢さんタイプだったが、何がどうなったら、あんな女戦士みたいな強そうな女になるのだろうか。

 確か家は自動車やバイク整備などを行う小さな工場を営んでいたと思う。家の手伝いなどが重労働なのだろうか、部活に本気なのか、かなり筋肉質で引き締まったボディラインをしている。皆で泳ぎに行った際にはその豊満なバストよりも屈強な腹筋に目が行ってしまうくらいだ。

 次にデカいのが小笠原愛美。神奈より1センチほど背が高いようだが目測では判別付かないレベルだ。元女子バスケ部主将。何度も神奈をバスケ部に誘っていたようだが神奈が入部する事は無かった。一回だけ人数が足りずに試合に出られないって状況で試合に出た事があったような気もする。

 現役時代は髪をかなり短く刈っていたが、部を退いてからは伸びるがままのようでセミロングくらいになっている。最近髪を深いブラウンに変更したようだ。似たような髪型かつ同じ黒髪で神奈とカブるのが嫌だったのかもしれない。愛美という名前からニックネームは「あいみ」。そこから「あいみん」を経て「愛」と略されるようになった。元々二文字なのだから正しく「あみ」と呼んでやれとも思うが「愛」で定着してしまったようだ。神奈は何故か愛美の様々な行動、行為、言動などに対してくどくどと小言を言う癖があり、愛美からは「お姑さんみたいだ」と言われている。この子は高校に入ってからの友人なので俺も昔のことは知らない。

 一方で俺の「友人」周りはというと、ゲーム好きが集まった薄っぺらい集団に間借りしているような物で、下の名前を知らないのも何人か居る。休み時間限定の友達連中と言った感じで、本当に仲の良い友人となると…クラスに2人しか居ない。

 一人は片桐圭吾、コイツはゲーム仲間であり同時にライバルでもある。主に対戦格闘ゲームの。当たって砕けろが信条の熱い男ではあったが、その信条に従い、二年の時に神奈に告白して撃墜された稀有な存在でもある。それ以降、信条が無様でも生き残れ。に変わってしまった。

 もう一人は御門影次、コイツもゲーム仲間で俺に比べれば小柄だが、長身でスマート、青い頭髪のセットは日によってコロコロ変わる掴みどころの無い奴だが、ゲームにおけるプレイスタイルというか妙なポリシーには一切のブレが無い。実に変態的で、ドMを自負しているだけあって格闘ゲームであれば総合評価的に「弱キャラ」とされるキャラをトコトン極めては得意気に連勝を重ねている「強キャラ」完封して「潰す」とか、オンラインゲームでもパーティーお断りのお荷物クラスで高難易度ミッションをソロクリアし頂点を極める。ネット上では「師匠」と呼ばれる事も多い変態だ。バカだとは思うが、こういうバカは嫌いじゃない。俺もどちらかというとM気質だと思うし。

 この学校、霞ヶ丘商業高校には基本的に「クラス替え」は無い。例外的に2つクラスある「普通科」は毎年クラス替えがあるようだが、他の専門科は各一クラスしか無いのでクラス替えという概念が存在しない。クラスメイトが減ることは稀にあるが。

 中学時代の進路決定の段階では将来の事など丸で考えておらず、神奈と同じ学校ならどこでもいいと思っていたので、この学校は俺にとっては好都合だった。

 神奈の実力ならもっと上の進学校にも行けたのだろうが、自宅から近いという理由だけでここを選んだようだった。俺は神奈と同じ「情報処理学科」へなんとか滑りこんで今に至る。担任も一年から卒業までの持ち上がりで、「全員で卒業しよう」との目標も割と早期に打ち砕かれた。三年の三学期の時点で最初40人いたクラスの人数も今では36人になっている。

 現状で一応神奈とは「同じグループ」には属しているが親しい友人レベル止まりなのは間違いない。そのグループは通称「登山部」。

 勝手にそう呼んでいるだけで、ウチの学校に正式な登山部はない。そして部活動らしき事も一切していない。元々は部活動をしていない神奈が、しあんの部活が終わるまでの時間潰しとして担任教師が放課後に引き篭もっている生物準備室で駄弁っていたのが始まりだ。スナック菓子と飲む物くらいは常備されているので、気がついた頃には先生を慕ってなのか、餌に釣られたのかは分からないが常時5~6人の生徒が談笑する場となっていた。

 昔は本当に登山部が存在し、顧問を務めていたと聞き、いつしかこの集まりを勝手に登山部と呼ぶようになっていた。本来なら部活動から退く三年の夏以降もこの登山部だけは三年生中心に存続している。唯一の一年生は俺が引きこんだ純だけだ。

 高校三年の三学期、登校日数も残り僅かとなった頃、うん、先週の話だな。またどこかの知らない奴が校門前で神奈に告白しては即座に振られていた。そんなやり取りを校舎の中から見ていたら横から声がした。

「また迎撃か」

「そうっすね」

 腰に手を当て気の毒な動物でも見るかのようにそう言い放った先生に俺は気だるそうにそう答えた。この先生が西岡大地、俺の担任で担当教科は生物。通称「登山部」の顧問というか、責任者というか、とにかく俺達のボスだ。

 身長的には俺とほぼ同じなのだが、その特徴的な真っ赤なアフロを含めると2メートルを超えるだろう。体格は良く、角ばった顎が何となく「強そう」な印象で通称アフロ先生と親しみを込めて呼ばれている。歳は27~8だったろうか。フチ無しの楕円メガネに、いつもシワシワのワイシャツにノーネクタイ、その上から白衣を着ている事もあるが、冬場は赤いジャージ姿の事も多い。今日は赤いジャージ姿だ。

 実はアフロの先生はもう一人いるのだが、そっちは緑色のアフロなので「野菜先生」と呼ばれている。直接関係ない先生なので名前は忘れた。酒井とかそんな名前だった気がする。

「オメェさんはまだ行かねえのかい?」

「俺にゃ無理っしょ」

 ほくそ笑みながらお得意のべらんめぇ口調で無神経な質問をしてくるアフロに俺は愛想笑いしながらそう答えた。実際にどうにかなる気が全くしないのだから仕方がない。

「そうかぁ?ハタから見てる分にゃお前が一番可能性ありそうだがよ」

「ただの幼馴染みですよ」

 一見ありがたいお言葉にも俺は怪訝な態度でそう返した。背中を押してくれるのは有り難いが、俺まで「その他大勢」の仲間入りをしてしまっては明日から顔を合わせ辛いのも事実だ。実際に、片桐は振られて以来、登山部に顔を見せなくなってしまった。

「アイツが告られたときの変えし文句、知ってっか?」

「好きな人、いるから。でしょ。有名ですよ」

「そうか、そうだよなぁ、有名だわな。で、オイラは聞いてみたのよ。誰なんだ?ってな。そしたら意外とすんなり教えてくれたぜ」

「マジで?」

「知りたいか?」

 適当に話を合わせていただけの俺が急に食いついたかと思うとアフロ先生は少し悪い大人の笑顔でそう言った。

「そりゃ…一応」

「まぁー、気になるわなぁ。もしかしたら自分かもしれねぇ、恋敵の名前かもしれねぇとなると興味あるわなぁ?知りたいか?ンー?」

 遠慮気味に答える俺にアフロ野郎はニヤニヤと結論を先延ばしにする。

「誰ですか!」

 少しイラっとしたのも事実だが値千金の情報をアフロが持っているとなれば流石の俺も興奮するし焦りもする。

「まぁー、別に口止めされてねぇから教えてやる。

 神奈が好きな男ってのは寺沢光一。知ってる名前か?」

「いえ…」

 自分の名前で無かったのは正直辛い現実ではあるが、そんな名前の生徒は知らない。初めて聞く名前だ。

「この学校の生徒じゃねえ。かと言って別の学校の生徒でもねえ」

「じゃあ」

「むしろもう……この世にはいねぇ人間だ」

「え?」

 神妙な表情でそう言い放つアフロ先生の言葉に一瞬思考が停止しかけた。

「この世にいねぇは言いすぎたか」

 そういってアフロ先生は一気に破顔した。

「いやな、寺沢ってのはアイツのお父さんの旧姓だ。若い頃はそりゃいい男だったらしいぞ。まぁ、つまりアイツの好きな人ってのはお父さんって事だ。ああ、若い頃のな。好きな人というか、アイツの持つイイ男の理想像ってヤツかもな」

 俺がどう反応すればいいのか困っているとアフロ先生はこう続けた。

「言い換えりゃ該当者無しって事だろうが。そういう意味じゃオメェが一番近いトコにいんじゃねえかって事よ。ま、時間はたっぷりあるんじゃねえか?オメェにゃよ」

「ええ、まぁ…」

 俺には時間がたっぷりある。これは間違いない。卒業と同時に接点を失うその他大勢とは異なり俺は家も近いし、神奈の弟、純との関係も良好だ。適当な理由を付けて神奈の家、正確には純の家であるが、そこに上がり込める男子生徒は俺だけなのも事実だし、ご両親とも親しい間柄だ。むしろ笹川家と近藤家は家族ぐるみのお付き合いがあるのも事実だ。その辺の事情もしっかり把握しているアフロ先生には恐れ入る。

「アイツがファザコンなのかどうかは別として、オメェはアイツのお父さんの事も良く知ってんだろう?だったらそのお父さんに認められるのが手っ取りばええんじゃねぇのか?将を射るにはまず馬からって言うだろ。ついでに外堀も埋めときな」

 馬は光一さんで…外堀は純の事だろうか?俺が押し黙っているとアフロ先生は構わず話を続けた。

「ああいう理想高い系の女は結局嫁に行き遅れて消去法で無難な男を選ぶもんだ。お前の一番上の姉ちゃんもそのクチだったろう?」

「……確かに」

 言われてみれば榊姉さんも昔は「好きな人がいる」「自分は一途なんだ」と見合いの話を断っていたが、その好きな人とは高校卒業と同時に接点を失い、結局の所、無難な幼馴染みの真樹さんとくっついた。

 まぁ真樹さんが少々気弱な所もあり、自分の支配下に置きやすかったってのもあるかもしれないが、言われてみれば妙に説得力がある。性格的な面では榊姉さんと神奈は似ている所があるだろうか。どちらも我が強く自分本位。それでいて責任感は強く真面目で一途なのだ。つか、なんでウチの内情にまで詳しいんだ!姉ちゃんか?桜姉か椛姉が余計な事喋ってたのか?

「無難なポジションで害が無い事だけを見せ付けておけ。多分それで行ける。時間はかかるがな。あんなでも三十路前になりゃ多少は焦るだろうよ」

 そういってアフロ先生は片手を軽く振って生物準備室へ戻っていった。なんだかんだでこの先生の言う事は基本的に間違っていない。様々なシーンで的を得たアドバイスをくれる。そういう意味では「良い先生」なのかもしれない。問題を先送りにしているだけのような気もするが、悪い気はしない。これが俺のテンションを少し上げた要因の一つだった。


 その夜、夢を見た。どこかと言われればどこでもない。鬱蒼と茂る森の中。少し開けた空間に大きな池があり魚の姿も見える。そんな池の畔に神奈と並んで座っている。ただそれだけの夢だ。それだけでいい。それだけがいい。色々と試した結果、これがベストだ。今回はマイナスイオンの豊富そうな森の中だったが前回は海岸だった。満天の星空だったり、世界の観光名所だったり、これまでずっとこうやって物言わぬ神奈と共に様々な場所を旅してきた。ただ彼女は横にいるだけ。それ以上は求めないし求められない。だって夢なんだから。


 明晰夢。


 不器用な俺が唯一特技と呼べるのがコレ。夢を夢と気付ける能力。能力と呼ぶには大げさ過ぎる。聞けば百人に一人ぐらいは明晰夢を見られるという。中学生の頃、俺は「この世界」に足を踏み入れた。最初は「金縛り」からだった。ベタな幽霊話の導入部としてはありきたりなアレだ。金縛りに遭い、曰く兵隊の霊を見たとか、曰く老婆が部屋の隅に鎮座しているとか、曰く、布団の上に四足の獣の気配を感じるとか。そんな話はいくらでもある。

 初めての金縛りに俺も心底震え上がった。怖くて目も開けられなかった。凄く大きな人間がのしかかっているような重みを感じたり、足を素手で掴まれたりと、散々な目にもあった。誰に相談していいのかも分からず、とりあえず神奈に話した。

 すると神奈はこう教えてくれた。金縛りは夢の入口、むしろ身動きが取れない夢を見ているような物だと。怖いと思うと怖い夢に化ける。だから楽しいことを考えろと。金縛りを恐れるからこそ恐れるものが具現化してしまうのだと。

 そのアドバイスは実に的確だった。金縛りで体が動かないというのも夢だと思えば、その思い込みを取っ払うのは意外と簡単だった。むしろあまり激しく取っ払うと目が覚めてしまう。試行錯誤を繰り返しながら少しずつではあるが、夢の中の歩き方を覚えていった。何をどうしようとお咎め無し。個人で完結している世界だ。何でもできる。そりゃ、はい。エッチな事してえ!と思うワケですよ。思春期真っ盛りの中坊だもの。

 だかしかし、夢の中に持ち込めるのは実体験のみだと気付くのにそんなに時間はかからなかった。食べた事のない食べ物の味は分からない。それと同じだ。そう考えると「ここ」で出来る事なんて殆ど無い事に気がついた。

 人間の欲の大半は五感に根ざした物だ。肉体を他所に置いてきたような精神世界である夢の中では「感覚」や「物質」に根ざした欲求の全てが朧。結果として「何もしない」に行き着いてしまった。

 もちろん神奈を思い通りに喋らせる事もできるが、それってただの自問自答ではないか。長く明晰夢に入り浸りすぎた弊害で、普通の夢が見られなくなってしまった。ぶっちゃけ明晰夢を見る能力より、「見たい夢」を見られる能力の方が良かった。

 夢と明晰夢、同じ夢だが根本的に違う。明晰夢は「バレてるサプライズ」の様なもので、どのような状況であれ素直に楽しむ事はできない。

 一方で普通の夢は夢と気付かなければ現実と相違ない。どんなに突っ込み所満載のおかしな夢でも普通は目が覚めるまでは現実として体験できる。夢でもいいから神奈に愛されたい。夢に騙されたい。明晰夢を極めてしまったが故に、悪夢の一切から開放され、それと同時に、嬉しい夢も見られなくなってしまった。夢の中では完全な自由と同時に完全な孤独を手にしてしまった。

 得か損かで言えばギリギリで損しているような気がする。そして、人の夢とは文字通り儚い物で、夢の終わりってのも感じ取れるようになっていた。午後の授業中にやってくる睡魔に贖えず眠りに落ちていく感覚の真逆のヤツ。もっと夢を見ていたいのに、徐々に目覚めの時が迫っている。そして無常にも目が覚める。明晰夢に慣れきってしまってからは基本的に睡眠が浅い。と、言うか夢を「一本」見終わる度に目が覚めてしまう体質になってしまったようだ。

 聞けば人の睡眠サイクルで言えば一晩に見る夢の数は4~5本。覚えているのは最後の一本だけというが、毎度目が覚めてしまうので全て覚えている。こんな日が何日か続くと、流石に夢すら見ずに爆睡する事もあるのだが。

 なんだかんだで俺はこの儚い非現実にすがるように生きてきたのかもしれない。現実では実現困難な目標もここでなら簡単に達成できる。空を飛んだり、手からビーム出したりなんて現実では到底不可能な事もここでは可能だ。まぁ、それを楽しいと感じていられたのは極初期だけの話だ。巡り巡って結局の所、何もできない、何をしても意味が無いと結論づいた今は、僅かな慰めとしてパソコンの壁紙のような美しい風景を最愛の人と共に眺めているだけだ。俗にいう「心の平安」って奴か。

 その日の朝だった。うん、今日の朝だ。何かと世話を焼きたがる桜姉の声で目を覚ます。「外」からの音ってのは夢の中にまで聞こえてくる。不慣れな頃は外の音に夢を乱される事もあった。雨の音がすれば夢の中でも雨が降る。そんな感じで、夢の中に桜姉が割り込んでくる事もあったが、今ではきちんと「外の音」と認識できており、夢に影響を落とす事は無い。

 まだ少しばかり夢の時間はあったと思うが、中断して目を覚ます。

「早く起きないとチュ~するぞ~」

「起きてるからあっち行け!」

 飛び起きて桜姉を部屋から追い立てる。世話焼きを通り越してブラコン拗らせてるから困る。もしかすると俺のファーストキスは桜姉に奪われているのかもしれない。あまり考えたくないが…

 いつも通り朝の支度を済ませ家を出る。学校までは概ね2キロちょい。ギリギリで自転車通学を許されている距離だ。基本的にいつも同じ時間に家を出るのだが、神奈と遭遇するかどうかは割と時の運だ。まぁ会いたければ、早めに出て待ち伏せるのが手っ取り早いが、それもなんかアレなので俺は俺の時計で動く。

 神奈の家の前を通り、大きな道に出る。一応の商店街。霞ヶ丘サンロードと名付けられたその商店街はお世辞にも活気あふれる商店街とは言えず、ロクに管理もされていない「ふれあい公園」は草も生い茂り、「使用禁止」の札の立てられた錆びた遊具が軽くホラーだ。言うなれば普通のシャッター街。やってる店は限られる。

 よく使うのはT字路の右手側の大手コンビニくらいだ。左手側には神奈の両親がやっているインテリアショップ、店の名前は「イコン」。イコンはキリスト教における宗教画のような物で、語源はギリシャ語の印象、かたどり、イメージ、そういった意味だとネットで知った。窓という意味もあるようで、店舗の全面はガラス張りで格子窓のようなデザインになっている。

 インテリアショップとして考えれば中々に趣きのあるデザインに屋号だと勝手に感心していたが、実は「インテリアの近藤」の略でイコンだと聞いた時には軽くショックを受けた。見た感じは西洋雑貨各種?ガラスの小物や、正直良くわからない置物が所狭しと並んでいる。正直な話、繁盛している様子は微塵もない。

「おはよう楓くん」

「おはようございます」

 店先の雪を片付けていた神奈のお父さん、光一さんに声をかけられた。俺は自転車を止め、精一杯の笑顔で全力で感じ良く朝の挨拶を返した。ウチの親父はどちらかというと線の細い小柄な優男だが、光一さんはナイスミドル、良くわからんがなんとなくダンディーって感じがする。その風貌はピンクのエプロンのファンシーさを相殺する程度にダンディーだ。軽くウェーブのかかった髪と濃いヒゲにも随分と白い毛が混ざってきている。俗にいうロマンスグレーという奴か。渋い。

「最近はこのあたりも飛ばしてる馬鹿が多いから車には気をつけなさい」

光一さん掃除の手を止め怪訝そうな表情で通りの奥に目をやる。早朝ともあり車は疎か人の通りすら少ないが、この寂れた商店街を抜け道として使う地元のドライバーも多いと聞く。

「君に何かあったら家族が皆悲しむからな」

 光一さんはそう言って含みのある笑顔を見せた。

「は、はい、気をつけます」

 俺はそう返し、会釈してから学校に向かった。アフロの一件はともかく、お父さんにそう言われると悪い気はしない。むしろどう考えてもプラスだ。家族が皆、そうか、俺に何かあったら神奈は悲しむのか。お父さんが言っているのだから間違いない。

 そんな事もあり、その日は少しテンションが高かった。純に遊びに来いと誘われていたのもあって少し急いでいた。

 その時、排水口の溝に自転車のタイヤを取られた。普通に考えてこんな事はない。ああ、あの溝の金属の格子状のフタみたいなヤツ、裏と表があるんだ。向きを間違えると…こういう事になる。

 勢い良く急停止した形で前傾姿勢になった自転車から俺は車道に転がり落ちた。悠長に座り込んだまま「いってー」とか言ってる場合じゃない。後方から勢い良く車が文字通り滑り込んでくる。ブレーキは踏んでいるようだが、生憎のお天気で路上はシャーベット状だ。半身を起こしていたのはむしろ失敗だった。伏せていれば怪我で済んだのかもしれない。

 まだちょっと尺が余ってるのでもう一回、走馬灯って事には…なりませんよね。ドスンといった感じの重い衝撃が俺の胸を強く押す。よくある自動車事故の描写じゃ人間が派手に吹っ飛ぶイメージだけど、この姿勢、この状況、飛べる気がしねぇ!

 俺はそのまま車体の下に巻き込まれるように押し倒され、堅いアスファルトの地面に頭を強く打ち付けた。あーダメだコレ。頭割れてる気がする。不思議とあんまり痛くないんだな。むしろひんやりとしたアスファルトが少し気持ち良い。願わくば、次に目が覚めた時には病院の一室って展開が望ましいけど…

 無理っぽい。車、早く止まれ。俺を巻き込んだままどこまで行く気だ。とは言え、これは完全に俺の落ち度だし、不運だったのはむしろこの車のドライバーだろう。

 身も意識もゴリゴリと削られていく。俺の人生ここで終わりなのだろうか。そう考えると何とも薄っぺらい人生だ。せめて、一度、神奈に、愛されたかった。

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