風船を追いかける少女

バッハの「トッカータとフーガニ短調」BWV565。。バッハのパイプオルガン曲の中で前半のトッカータ部分は一番有名な曲だ。。

この曲は私が中学生の時、様々なクラシック音楽を当時のLP盤レコードで聞いたのが初めてだった。あれ以来、私はフーガの部分になると必ず脳裏に浮かぶ情景がある。曲は短調(マイナー)な曲なのに、とても明るい楽しそうな情景が浮かんでは消える。。明るくて楽しそうと感じていたのはいつまでだったのだろうか?

クラッシック音楽を否応なしに聞いていたのは音大付属の中学高校までだからおそらく18歳ごろまでの短い期間だった事は確か。。。

そのうちに学校を卒業するとクラシック音楽なんて殆ど聴かなくなった。。

過去の重荷の整理をしだしたのが50歳ごろ。。そんな時、懐かしく思って、ユーチューブでめぼしいクラシック音楽を聴いてみることにした。

「トッカータとフーガ」。。。

この曲のフーガの部分になり、十代の頃思い浮かべていた情景が同じように浮かんだ。。しかし、何かが違う。。


小高いなだらかな丘、太陽の光が柔らかく透き通るように抜けた空気、土から生えているのは雑草なのに、まるで芝生のように緑鮮やか、時々照らす太陽の光のせいで、草の穂先がダイヤのようにキラキラする。

薄いパステルピンクのブラウスに赤いスカート。長い髪を三つ編みにした少女はケラケラ笑いながら空に飛ぶ風船を追いかけている。

何のことはない。ただ、真っ白い雲が遠くに数個浮かぶ空に向かってひたすら風船を追いかけている。


フーガの低音が耳に飛び込んでくる。地面から噴き出すように響く和音。。フーガからはトッカータと違って軽い始まりだが、勿論、短調(マイナー)だ。

そして所々で低い和音を重厚に響かせるところがある。

中学生だった私は、不思議に思った。短調(マイナー)な音に対して、どうしてこんなに明るい情景を空想してしまったのだろう?

その意味が人生中盤も過ぎて理解できた。浮かぶ情景は同じなのに、明るくて楽しいという単純な感覚とは違い、明るくて楽しそうな事が儚く、むしろ悲しいとか痛々しいといった感情で、短調(マイナー)な曲とのアンバランスが、ただ明るいだけではなかったという事をかもしだしていたんだ。。。やっと分かったような気がした。


一般的な人が順調に生きていけば手に入るもの。風船はその象徴のような気がした。そして少女は歳をとらない。。。大人になれないのだ。

あの風船が手に入れば休むことも出来る。家に帰ることもできる。

しかし、その手に風船の紐が触れたとしてもスルスルと風に持っていかれ、

手から離れてしまうのだ。あの風船さえ手に入れば、少女は次のステップへと人生を運ぶことができる。それなのに手に入らない風船を永遠に追いかけねばならず、ずっと子供のままなのだ。不老不死ではない。いつかこと切れて少女は少女のまま人生を閉じる。その時まで回遊魚のように走り続けねばならない。それでも笑顔だけは絶やさず、あの柔らかな太陽の照り返しは、少女の喉を乾かし、草の穂先のダイヤのような水滴でさえ足を止めて口に含ませることもせず、乾いたまま生涯足り続ける。

あの情景は私の未来予想だったのだ。。


風船はやはり手に入らないのだろうか?

手に入らないと思い込むこと。。それはそのように自己暗示しようとする私の自虐思考。

どんな些細な事でも、手に入れたんだと感謝の気持に変換してあの情景の呪縛を手放す事。。そのほうが良い。

私の考えは答えが出ている。しかし、私の心(思い)はどちらを選ぶのだろう?

いつか、忘れた頃に再びこの曲を聴いたとして、私は又同じ情景を頭に浮かべ、涙を流すのだろうか?それともこんな情景とはさよならできているのだろうか?


答えは未来だけが知っている。

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