裁きの炎3




 両親は抱き合いながら泣き叫び、見届人である領主はそっと目を伏せる。

 そして――


「――…なんて、残酷な……」


 狂喜と野次に溢れた観衆の一番後ろで小さな呟きがこぼれた。






 駆けてきた足が、サラからもらった靴を持つ手が、震えていた。

 耳をつんざくような悲鳴と、痛みにもがき苦しみながら死にゆく姿を――それを見せ物として楽しむ人間がいることに、ただただ茫然と立ちつくした。


 風に乗って届く奇妙なほど甘い異臭に、吐き気がした。

 空まで振るわせるような凄惨な悲鳴に、眩暈がした。


 倒れないように歯を食いしばり、足に力を入れて地面を踏みしめた時。


――サラをこのまま死なせるくらいなら、こんな国なんか滅べばいい!!


 どこからともなく、そんな声が聞こえた。

 それは誰かの願いなのかもしれないし、双樹の思いなのかもしれない。

 けれど。


 ぐっと地面を踏みしめた足が、溶けるように肥大化し鱗に覆われた本来の姿へと戻っていく。転変に耐えきれずに開いた腹の傷が痛んだが、今サラが味わっているのはこんなものは比ではない壮絶な痛みだろうと思えばそんなことはとても些末なことに思えた。



――どうして、あの子が処刑なんて!


 狂喜に混じって聞こえる、怒り。絶望。悲嘆。

 そして――願い。


――誰か……どうか……助けてください……。

――誰か、サラを!サラを助けておくれよ!!

――神でも悪魔でもなんだっていい! どうか――サラを助けてくれ!!


 頭を割りそうなほどの痛烈な願いが次々に溢れ出て、ふらりと体が揺れる。


――竜!いるのなら助けろ! サラはお前を助けたのに、お前はサラを見殺しにするのか!!


 ドッと心臓を殴られたような息苦しさを覚えた途端、ぐっと靴を握った手のひらの先――爪が太く鋭く尖り、それに合わせて指も太く白い鱗で覆われはじめる。

 溶けるように歪んで膨張すると同時に骨格が変わり、背中から蝙蝠のような筋張った翼がマントを持ち上げて本来の姿を現していく。







「キュオォォオォォ―――……ンッ!!」






 転変の最後に甲高い――衝撃でまわりの人間が逃げる間もなく卒倒するほどの壮絶な咆哮を上げたのは、民家よりも大きな純白の竜だった。

 日を浴びてキラキラと虹色の光を放つ純白の竜の姿は、一瞬息を呑んで見とれるほど美しい。けれど、その青い瞳には子を奪われた母熊のような怒りをみなぎらせていた。


「グゥルルルルゥゥ…………グワォゥ――ッ!!」


 怒りに人語を操る理性は消し飛び、獰猛な獣の――否、温厚であっても手負いの獣故の本能が、唸り声とともに弾けた。

 白竜の腹には大きく深い傷があり、心臓が脈打つたびにどくんどくんと血が流れ出る。けれど白竜はそんな傷など全くないもののように、怒りに身を任せ石造りの家や逃げ惑う観衆を次々に踏み潰しては唸り、建物を爪で引き裂いては咆哮を上げた。




「急げ! 弓兵、前へ!!」


 待機していた騎士団が慌てて隊列を組み、竜に向けて矢をつがえる。

 猛る竜がぎょろりとした目でそれを睨みつけると、数人の騎士は臆して身を強ばらせた。


「怯むな!! 放て!!!」


 一部の隊列が乱れたまま、隊長の号令で一斉に矢が放たれる。

 だが。


『……煩い!』


 竜が怒号とともに放った炎の息が、矢もろとも前列の騎士のすべてを一瞬で炭へと変える。


「ひっ!」


 それはあまりにも人知を越えた圧倒的な力だった。難を逃れた騎士達は魂を抜かれたように悲鳴すら上げられずにその場に硬直した。

 深呼吸でもするように空に向けられていた竜の頭が、ゆっくりと残った騎士達に向けられる。白竜が敵を見定めるように目をすがめると、


「ひぃぃ……っ」


 我に返り、あるいは恐怖に耐えかねた一人が悲鳴を上げ、這うように逃げ出した。

 そこからは堰を切った濁流のように我先にと押しのけながら逃げていく。


 恐怖に竦んで動けずに取り残された人々を、白竜は冷ややかな視線で一瞥する。

 それだけで興味を無くしたのか、丘の上を見上げて苛立たしげに尾を振り、わずかに人の形を残していた炭の塊をなぎ払った。

 さらに何人かが逃げ出していくのを横目に優雅な動きで尾を振って炭の破片と灰を払った白い竜は、ふっと足下に落ちているものに目を奪われた。



 剥がれてしまった薬草。

 踏みつぶされた靴。


「………サラ………」


 胸の奥からこみ上げてくるなにかに喉が詰まり、懐かしい名を口にするために人の言葉がこぼれた。


――助けて……。


 切れ切れの言葉で熱さと痛みを訴え続ける奔流の間で紡がれた願い。


 痛い。

 開いてしまった傷口が痛い。

 でもそれ以上に、怪我をしていないはずの喉が、胸が、引き攣れた。


「――サラ、待ってて。すぐに助けにいく」


 彼女が丁寧に手当をしてくれたあの感触が蘇る。

 胸の痛みを堪え、届くかどうかわからない励ましを、穏やかに丘の上に向かって送る。

 サラを助けなければ。

 その一念が猛り狂う獣の衝動を押さえ込み、するりと人語を操る理性をもたらしていた。

 

 けれどふわりと翼を広げた時、行く手を塞ぐように新手の一団が双樹の前に現れる。

 揃いの竜の紋章を刻んだ銀の鎧を着た人間の集団だ。だが、さっきまでいた人間たちとは、覇気が違った。


「怯むな、私に続け」


 重く響く命令を発した先頭にいる人間。彼が握る剣からは紅の燐光がこぼれていた。竜族の血肉をもって竜族を屠るために作られた忌々しいドラゴンキラーの輝きだった。

 恐怖を覆いつくす鋭い殺意。

 それは双樹の胸の中にも、黒い靄のように溶けて広がっていく。

 生まれたばかりの淡い慈愛の心をかき消して。


「援護射撃を!!」


 短く叫び、突進してくるドラゴンキラーを持った騎士。

 尾を振ってその攻撃をいなし、翼をはためかせて軽く宙に浮くと一斉に無数の矢が放たれ、空へと飛翔することを阻んだ。

 あんな鏃など裁縫針のようなものだが、無数に飛来すれば鬱陶しい。やむなく翼を畳み、地に足をつけたままで再度騎士と対決する。


――殺す。


 ざわ、と背筋を駆ける悪寒。


――あの竜を、必ず倒す!!


 紅い煌めき。

 血肉の焦げる匂い。

 くらりと酔うような感覚に前足を振り上げてがむしゃらに振り下ろすと、燐光がはぜた。

 爪や骨までが果物のようにとはいかぬようだが、気を散らして滑れば前足の肉を削ぐだろう。

 前足にぐっと力を込めて押し返しながら、鍔迫り合いさながらにドラゴンキラーを操る人間と睨みあう。


「一斉攻撃っ!!」


 騎士が叫ぶ。

 前足は未だドラゴンキラーに取られたまま。

 ゾクゾクと駆けるのか悪寒か、それとも快感か。


「――ぐぅっ!?」


 雨のように飛来する鏃を反射的に振り払うために前足を振り上げると、爪に引っかかった騎士が宙を舞った。

 その隙に尾を振り、翼をはためかせて一小隊の前衛を薙ぎ倒す。


「きゃぁあぁぁっ!」

「ひっ、殺さないでくれぇ!」


 衝撃や風圧に倒れた騎士の姿に、腰が抜けたのか逃げることができずに遠巻きに見守っていた一般人が悲鳴を上げる。



――たすけて。

――殺される!

――誰か、助けて!!

――倒す。必ず!

――殺せ! 魔女だ!!

――守る。

――いやぁあぁぁっ。



 怒り。恐怖。絶望。悲嘆。憤怒。願い。悲鳴。

 それはまさに混沌と呼ぶにふさわしかった。様々な感情と願いと悲鳴が混じり合い、割れそうなほどけたたましく双樹の頭の中に響いた。



――サラを殺す国なんか、滅べばいい!!



 一際大きくそう聞こえた時、けたたましい悲鳴や願いが潮騒のように遠のいてしんと心が凪いだ気がした。




 ただ婚約者と一緒に穏やかに老いることを願ったサラを見て、人という生き物があたたかく穏やかなものなのだと信じた。

 だけど、今聞こえてくるのは醜い願いばかり。

 人が、あのサラをこんなに残酷な方法で殺すほどに罪深いと断じる生き物ならば、滅ぶべきだ。




 双樹は脈打つ血管が浮き出る翼をいっぱいに広げ、静かに宣言する。


「僕は、この神の業火をもってすべてを焼き尽くし、浄化しよう」


 カラリと音がしたかと思い見やれば、ゆらりと紅い陽炎が行く手に立ち塞がった。


「……させる…ものか……っ!」


 足を引きずるようにして、それでもドラゴンキラーを構えて決して退くことをしない様子は壁のようだった。


「この身が焼かれようとも、この国を焼かせはせん!」


 飛び越えることなどできない壁のような圧迫感に、双樹は大きく翼を広げて対抗する。


「――お前達が、サラを火炙りにしたんだ! 慈愛に満ち、なんの咎のないサラを!!」


 怒号に壁がわずかに揺らいだ気がしたが、あるいはそれは気のせいだったかもしれない。双樹の中で膨らむ感情は、それを歯牙にかけないほど臨界に達していた。


「サラをこのまま死に逝かせたりはしない!!」


 その言葉を最後に、双樹は完全に自我を手放して怒りの奔流に身を任せた。

 息をするように業火を吐き、悲鳴を隔絶するように咆哮を上げ、目につくものは手当たり次第にすべて破壊し尽くした。



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