裁きの炎1



 石でできた大きな壁を見上げているうちに口が半開きになっていたことに気がついて、慌てて口元を引き締めた。

 竜の姿でも乗り越えられそうにはない――飛翔すれば話は別だが、至近距離から翼を射抜かれる可能性があるから逃げ道の手段は多いに越したことはない――高さの壁の中から、たくさんの人間達の声が聞こえてくる。


 転変の時に傷口が開いてしまうので、完全に傷口が塞がるまで数日は人の姿でいなければならない。

 ならば、木を隠すなら森。子供の姿で森を徘徊するよりも街中の方が目立たないだろうかと考え、人の匂いを辿ってここまできてみたのだった。だが、大勢の人間の声を聞いた途端、数歩先に見えている扉をくぐろうとしていた足が止まってしまった。


 サラは自分のような人はたくさんいると言った。空の上から人間達を見つめる時、心は母に抱かれているような温もりに満ちた。

 だからここまできてみたけれど、実際に会った人間のほとんどに追い立てられた記憶が足を竦ませた。


(やはり、森の中に身を潜めていた方が――……)


「ボウヤ、もしかして、迷子かい?」

「…………っ!」


 逡巡の中で唐突に声をかけられて飛びあがりそうになった。

 恰幅のいいおばさんがリンゴを3つほど抱えて心配そうに僕を見ていたので、慌てて首を振る。


「お父さんかお母さんを待ってるのかい?」


 緊張しつつ、こくんと頷いてみせる。

 すると、おばさんは表情を緩ませた。


「そうかい、ならいいんだ。こっちへおいで。森のほうは危ないからね。ちゃんとこの門より中にいなきゃねぇ」


 僕はフードを目深にかぶりなおしてから、誘われるまま門をくぐった。

 門の近くにはたくさんの大きな机が並べられていて、ところどころに、いろとりどりの布で簡易の屋根が作られている。

 机の上には、果物が並べられているもの、パンがならべられているもの、鍋や茶碗が並べてあるものなどいろいろだが、何も置いていない机が圧倒的に多い。

 おばさんはそのうちのひとつ――リンゴや、ぶどうなどの果物がまばらに並べられている机の奥に座り、僕を手招きした。


「市場が珍しいかい? ――ほら、これお食べよ」


 おばさんは人懐っこい笑顔で赤いリンゴを渡してくれた。

 けれど僕は食事をしたことがなかったから、しばしリンゴをまわしたり眺めたり匂い嗅いでみたりした。

 甘い、とてもいい匂いがして、それだけでも心がふわんと浮いた心地がした。


「さっき落として傷がついちゃったからもう売り物にはできないけど、充分食べられるよ。ほら」


 そう言っておばさんはリンゴをそのままがぶりとかじって見せた。

 その真似をして思いっきりかじってみると、しゃりっという小気味いい音と共に甘い匂いと果汁が口いっぱいに広がる。

 おいしいものを食べる楽しみがないのは残念ね、と言ったサラの顔が浮かんだ。


「……おいしい……」


 これがおいしいという感覚だろうかという疑問半分、けれどリンゴの味に疑問も緊張もほぐれて消えていくようだった。


「とても、おいしい……」


 思わずもう一度呟くと、おばさんはとてもとても眩しそうに目を細めた。その笑い方はサラの言葉を思い出させる。


「そうかい。じゃ、もう一個あげるよ。いつもならこの市場もいろんなものがたくさん売られてて人も多くて賑やかで、ボウヤが見に来ても面白いものがあるんだろうけどねぇ」


 おばさんはリンゴを齧りながら、閑散とした市場通りを眺め、苦笑いをこぼした。


「みんなね、あの子の処刑される姿が見たくなかったり、処刑なんか見に来るやつに売るものなんかないって怒ったりして、今日は店を出してないんだよ。私は――なんだか、落ち着かなくてね。処刑なんて何かの間違いでさ、ここにいたら、あの子がいつものように店を出しに来るんじゃないかって……そう、思ってさぁ……」


 呻くように俯いたおばさんは、絞り出すように重いため息をついてから顔を上げた。


「でも、もう閉めようと思ってたんだ。そろそろ、始まる時間だからねぇ」


 僕はリンゴを齧りながら、ただ首を傾げる。


「ボウヤは帰らなくていいのかい? まさかあんたみたいな子供を連れて公開処刑を見物にきたわけじゃないんだろう?」

「ショケイ?」

「あぁ、酷い話だよ。王に逆らった罰と見せしめのために、大勢の人前で殺されるんだ」


 おばさんの表情はさっきのあたたかな笑顔からどんどん遠ざかる一方だ。

 街の奥の方を忌々しげにちらりと見遣り、次に隣のがらんとした空間を眺め、目にいっぱいの涙を溜める。


「お父さんが病気になってから、あの子がそこに店を出してたんだよ。毎朝毎朝。デートなんか二の次にして朝から晩までとてもよく働く子でさ」


 エプロンで涙を拭き、すまないねぇと言って僕に笑いかけようとするが、次から次に涙が溢れて、とても笑顔にはならなかった。


 ヒトは不思議だ、と思う。

 何故、泣きたくても泣かないで、無理に笑おうとするのだろう。


「確かに気が強くて、自分が正しいと決めたら相手かまわず向かっていってしまう、向う見ずなところがある子だったけどねぇ。まさか反逆罪だなんてさ――」


 おばさんはほんの少し、懐かしそうに思い出に向かって微笑んだ。


「ガラの悪い男がうちの商品にいちゃもんつけた時だって、サラが毅然と抗議してくれたんだよ。それで、たかが市場の小さないざこざ坊ちゃんやら領主様まで出てくる大騒ぎになったもんさ」

「――サラ? 森で花を育てている、あの、サラ?」


 話し半分に聞き流しながらリンゴを齧っていた僕は、急に覚えのある名が出てきて、咀嚼を忘れて大きなリンゴの破片をそのまま飲み込んだ。食道に合わない大きさにちょっとした痛みが喉元を通り過ぎる。


「ボウヤ、サラを……知ってるのかい?」


 おばさんが目が見開いていくのを最後まで見るのももどかしく、先程おばさんが忌々しげな視線を投げたほうに向かって弾かれるように駆け出した。


「ボウヤ! 処刑なんて子供が見るもんじゃないよ!!」


 おばさんが追いかけてきて僕の腕をむんずと掴んだ。掴まれた勢いで振り向いたら、齧りかけのリンゴが路上にころころと転がるのが、視界の端に見えた。


 なぜだろう。

 胸の中にじわりじわりと嫌な感覚が広がっていった。


 その焦燥から、有らん限りの力でおばさんの腕を振り切ってもう一度駆け出す。

 尻餅をついたおばさんはさら声だけで追い縋ったが、振り切るように猛然と走った。








 走ると、腹の傷がじわじわと痛んだ。

 サラが貼ってくれた薬草がまだ残るその傷口を押さえると、サラの笑顔が脳裏を横切る。


「――………っ!!」


 その瞬間、ブカブカの靴が脱げて転んでしまった。脱げた靴を胸に掻き抱くと、ぽとりと涙が落ちた。


「なんで……なんで、あんなに優しいサラが殺されなければならないんだ!!」


 怒りとも悲しみともつかない気持ちが、白紙に墨をこぼしたように滲んで、広がっていった。

 睨んだ道の先では、悪意が黒い渦を巻いて青い空を覆っていくように見えた。



 慣れない靴を履き直すのがもどかしく、靴を抱いたまま裸足でもう一度駆けだした。



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