罠2



 弱った獲物を弄ぶ陰湿な獣のような威圧感と嘲るような笑みを口元に滲ませてにじり寄る殿下の脇を掻い潜ろうと、決死の覚悟で飛びだす。

 だが、立ち上がった瞬間に柔らかなベッドが深く沈み込み、慌てて倒れないようもがいたものの慣れないドレスの裾に足を取られ、結果殿下の腕の中に突っ伏すという最悪の状況に陥った。


「自分から飛び込んでくるとは、いい心がけだ」


 耳元に囁かれた言葉に頭の芯まで凍るような恐怖に襲われる。


「いや!離して!!」


 半狂乱で悲鳴を上げて暴れると、殿下は聞き分けのない子供を見るように顔をしかめて笑いながら身を引いた。


「カラム、押さえろ」


 だが、殿下は軽く顎をしゃくって騎士に命じる。


「……や……やめて…ください……」


 救いを求めて騎士を見上げると、無表情な騎士の動きがかすかに躊躇われる気配がした。


「押さえろと言ったのが聞こえなかったか?」


 けれど間髪入れない殿下の鋭い命に、騎士は無言で応じた。

 再び私の腕を掴み、ベッドの中央まで引きずり戻し、強引に仰向けにする。騎士は枕元でしっかりと私の両腕を押さえることに専念し、殿下はゆっくりと覆い被さってくる。

 その、あまりの恐怖に喉が凍り、もはや悲鳴すら上げられなかった。


「あの日、お前は今ほど怯えも抵抗もしなかった。なぜだろうな? 茶番の婚約など大した意味などなかろうに」


 強烈な甘い匂いと粘つくような笑みとざらりとした耳障りな囁きに対する嫌悪と恐怖に、きつく目を閉じた。

 あの時――嫌悪はあっても、心の中を支配していたのは絶望的な諦めだった。こんなふうに泣き叫ばずにいられないような圧倒的な恐怖など凍り付いていた。


「……お前も、あの若造も、ヒースまでがこの私をたばかりおったな?」


 ぞ、と恐怖が上積みされて思わず瞠目する。

 殿下はそれを看過することなく笑みに怒りを漲らせ、私の首をぐっと掴んだ。


「身の程も弁えず、王たる私に!!」

「…………ぅ……っ」

「ヴィオール様」


 息ができずに呻くと騎士が静かに諭す声音で呼ぶ。おかげで殿下は首を絞めていた手を退けてくれたものの、私は弱々しく咳込むことしかできない。

 この人は、王弟として長らく王の補佐を務めていたはずだ。近年実権を握っているのも、王が政治を顧みないがための代理執行に過ぎなかったはず。それなのに自らを王と呼んだことに戦慄が走る。ならば本来の王は、ゴーシュ様はどうしているのだろうか。まさか、その手にかけたということは――。


「お前……あの後、あの男に抱かれたのか?」


 刹那の逡巡は、首筋を吐息が舐めるように掠めて遮られる。薄気味悪さから逃げ出したくて必死に首を振り、身を捩る。


「あいつは英雄気取りで私の獲物を意気揚々と手中に納めたのだろうな」


 彼の顔を思い浮かべてしまうと、恐怖と嫌悪が一気に数十倍に膨れ上がった。吐き気さえして、目尻に涙が滲む。


(違う!)


 叫びたかった。

 けれど、恐怖に痺れた舌はまったく動かなかった。


(違う。シオンをあなたと一緒にしないで!!)


 シオンは婚約した今でもキス以上のことをしない。同じベッドで休んでも、純潔の花嫁を迎えたいと照れくさそうに笑って、ただ抱きしめているだけでいつも朝を迎える。

 あの日だって――私は挑発的なことを言ったのに、あの人の方が泣きそうになってごめんと謝った。あの人はずっと気の迷いも自棄も取り合わず、まして諦めや忍耐を否定し、私が心から受け入れる日を待ち続けた。

 それほど、大事にしてくれる。

 たかが一領民に過ぎない私の意志を、人格を、尊重してくれる。


「正妻に据えるとは豪気だが、この腹はよほど具合がいいとみえる」


 腰や下腹を撫で回しながら、唇を舐めあげた舌が蝋燭の灯りにぬらりと蛇の鱗のように光り、吐き気がする。


「どれほどのものか、じっくりと味わせてもらうとしよう」

「………いやぁぁああっ!!」


 本能的に悲鳴が迸り、強く拳を握ってめいっぱいの抵抗を試みるが、豪腕の騎士に押さえつけられた両腕はびくともせず、痩身ながらも大の男が腿の上に乗っていては動けるはずがない。


「なに、肌を重ねればじきに情が湧く」


 あり得ない。

 絶対にあり得ない。

 こんな男に嫌悪と憎悪以外の感情など!!


 心の中で叫び、のしかかってくる男を必死に睨みつける。

 だが、それを殿下は喜んだ。

 うっとりと夢見がちに私に見つめ、目元に指を添える。


「ふふん、その強い目だ。それが堪らない。その目が絶望に染まり、私に屈しようとしたあの姿を思い出すだけでぞくぞくする」


――聞けば随分重い荷物を抱えているそうだな。ふふ……一思いに楽にしてやるか、医療費を稼ぐか、お前次第だ。


 あの時、耳の中に直接吹き込まれたその言葉に、体中のありとあらゆるものがごっそりと押し流されて抜け殻になった気がした。

 全身の力が抜け、泣きたくても涙も出てこなかった。

 無力だった。

 なにも持っていない。

 親も自分の身も救うこともできない自分が惨めで、情けなくて、辛くて。

 なすすべもなくただ諦め、されるがままになっていた。

 そんな時に突如として割って入った背中と不機嫌な猫のしっぽのように揺れる金色の髪……。


(……シオン――……)


 空っぽの心が海綿のように安堵とか感謝とか、そういう感情を吸い込んで温かく満たしてくれて――溢れ出す涙を、止められなかった。


「あいつは清楚な風情を好むのだろう? 自分以外の男を知ったお前を変わらず愛してくれるといいが」


――どうせなら純潔の花嫁を迎えたい。


 はらわたをぐちゃりと掻き混ぜられるような酷い気分がして、涙が滲んだ。


「これは報いだ。目の前で大事な婚約者を陵辱され、せいぜい悔しがればよい」


 シオンの怒り狂う様と少なからず失望する様など、想像するだけでも恐ろしかった。

 それに――このまま王弟殿下のいいようにされれば、婚約は白紙になるだろう。ヒース様が、義姉が、街のみんなが、守り支えてくれた縁談が。


 恍惚とした表情に、うっそりと笑みが浮かぶ。


「しかし、遅いな。浚われても気づかぬ、その程度であったか」


 おそらくその白々しい発言は私を動揺させるためだろう。だが、怒りしか湧かなかった。

 なにより、軽率だった自分に。

 きっとシオンは今頃心配して探し回っているはずだ。


 殿下は口元をにたりと歪ませ、腿に乗っていた男の体が浮いた。


「まあよい。始めておこう。なに、じっくり可愛がっているうちには来るだろうし、遅れてきてもわかるよう証拠を残しておいてやる」


 そういって殿下は私の首筋に痛みが走るほど強く吸いつき、私の表情を伺った。なにをされたのか理解できないでいると、予想外の褒美をもらったような歓喜を満面に浮かばせた。


「くくっ、キスの痕を残されたことがないのか。それなら次はお前にも見える場所につけてやろう」


 殿下は果物の品定めでもするように私を眺め回した後、さっきと同じように痛みが走るほど強く二の腕に吸いついて小さな赤い痣をつけた。

 烙印のようなその痣を見た瞬間、ひどい罪悪感が津波のように押し寄せ、思わず呻いた。


「次は、そうだな――」


 呻く表情を愉しむように、ドレスの胸元を支えるリボンを押さえていたブローチを外し、じわじわとリボンの端を引いていく。


「………………っ」


 つ、つ、つ、とゆっくり解けていくのと同じ速度で心が壊れていくような気がした。そして罅割れた心臓に染みていくのは恐怖と絶望だ。


「もうひとつのの前祝いだ。たっぷりと楽しませろ」


 たぐり寄せたリボンの端を舐め上げた殿下の暗い笑い声が、薄暗闇に響いた。


(もうひとつの、たのしみ――?)


 凍りついた思考では意図するところをはかりきれないが、嫌な予感だけはくっきりと胸に残る。

 殿下は満足そうに暗い笑みを深め、蝶結びが崩れリボンが上下に絡んでいるだけになったことを知らせた。


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