罠3


 押さえを失った胸元の生地がふわりと浮き、コルセットが見え隠れする。

 呼吸で胸元が上下してこれ以上緩まないように必死に息を止める。無駄な足掻きであることくらいわかっているが、それくらいしかできることがない。

 つ、と鎖骨に細い指が触れた。

 止めた息が苦しくて、凍えるような吐息が漏れる。

 熱い唇が鎖骨からいくつかの痣をつけながら降りていく。吐息も熱を帯び、時にぺろりと舐め上げられる。


「……いっ…や、やめて……! やめてください!!」


 発狂しそうなほどの恐怖に悲鳴が漏れた。怯えれば怯えるほど喜ばせるだけだと頭の隅では思うのに、震えが止まらない。凍り付いた喉の奥から必死に絞り出す声で、思いとどまることを願う以外になにもできないのが悔しくて、涙が滲む。

 殿下はそれを満足そうに眺めながら、細い指をつ、つつっと滑らせて襟に手をかけた。

 ふわりと空気が入り込む隙間が浮き、ぬるい空気が肌に触れる。

 けれどコルセットは侍女達の手によって背中できつく締め上げられて、それ以上あらゆるものの進入を阻んでいた。


「……結びは背中か」


 お腹と背中を撫で回してそれを確認すると、殿下は不機嫌に舌打ちした。

 それからゆっくりと私の上から降り、ベッドからも降りた。しかし両腕は相変わらず頭上で騎士に押さえつけられたままで、ただ息を詰めることしかできなかった。


 決して、これだけでやめてくれるはずがないという確信だけがあった。

 だが、殿下は何を考えているのか全く理解が及ばない。薄気味悪い恐怖だけが全身を支配して動くことができずに視線だけで彼を追った。


 殿下はベッドサイドのチェストから何かを取り出すと天蓋を下ろし、私の足下へと戻ってくる。

 にたりと口元を歪め、ドレスの裾を、手に取る。

 彼が手にしたものが水面のようにぬらりと光を反射し、刃渡り20センチほどの、柄に王家を象徴する竜の紋章が刻まれた短剣だと悟る。


「………っ!!」


 新たな恐怖に身が凍ると同時に鋭く響いたのは絹を引き裂く音だ。殿下は膝まで切り裂かれたドレスを手放し、また別の場所を手にとる。

 狂気の笑みを滲ませながらこのくらいの色気がなければつまらぬと呟いて腿までの深いスリットを幾筋も入れていく。無惨に切り裂かれたドレスを見るに耐えず、きつく目を瞑り唇を噛む。

 ドレスの深い裂目から手を差し入れ、強引に左足の膝を立てさせられて否応なく腿までが露わになり、そこにひたりと冷たい刃が押し当てられた。

 恐怖で全身が凍る。

 熱い手の温度とひやりとした剣の峰の感触が同時に腿から膝に向かって滑り、続いて首筋に添えられる。


「私の手元が狂わぬように、大人しくしておけよ」


 首筋から切っ先が皮膚を撫でるように胸元へと向かい、コルセットの襟元を持ち上げた。軽い衝撃とともにコルセットに切り込みを入れられるが、それはまだ小さい。次は押さえつけられている腕に剣を滑らせる。その次は横腹にできている皺を切り、そこから差し入れた剣が皮膚とコルセットの間をゆっくり、慎重に滑った。

 剣が人肌を移すほど執拗にその切れ味を見せつけられ、身につけているものがあちこち切り裂かれていくのに、私はただ怯えていることしかできなかった。

 全身を這い回る恐怖に耐えるために歯を食いしばる力すら残っていなかった。


「案ずるな。これから私に侍るならこれよりももっといいドレスを着せてやる。イグナスでは手が出ないようないい品を」

(――シオン……!!)


 家名が呼び水となって圧倒的な恐怖の中にシオンの姿が脳裏に浮かんだ。けれどその名の後になんと願えばいいのかは、わからなかった。


 嫌だ。

 怖い。

 助けて。

 でも――来ないで。


 あの人の前にこんな姿を晒したくはない。

 抵抗する気力すら削ぎ取られ、嬲り者にされている姿など。


 衣装の傷が増えるごとに、殿下の口元に浮かぶ笑みに残酷さが増していく。それは獲物をじわじわといたぶり殺して遊ぶ陰湿なけだものそのものだった。



「それにしても貧弱だな。揉むと大きくなると言うが、あいつは揉んでくれないのか?」


 無惨に切り刻まれたドレスの上から強く胸を鷲掴みにされた痛みとシオンの人格を踏みにじられる怒りから涙が溢れる。


「さっき迎えによこした侍女、あれはいい体つきだったろう。あの娘は3年も前から私が可愛がってやったからな」


(3年……年端もいかない子供に、なんてことを……)


――サラ様は私の憧れで、希望です。


 憧れはともかく希望とは大げさだと思った。

 けれど……けれど、あの子はどれほど切にと言ったのだろう――。


 ぼろぼろと涙がこぼれた。

 止めようと思うのに、止め処なく。


 かつてこの獣に仕えることを決意した時期があった。

 それを思い出すと戦慄が走った。

 もし――もし、ヒース様が、シオンが、救いの手を差し伸べてくれなかったら。

 そう思うと涙が止まらなかった。

 あの子に対する同情なのか、それが自分の身に降り懸かることへのおぞましさからか――その両方か。


 無遠慮に切り裂いた箇所から体中を撫で回していた獣の手が、慰めるようにそっとこぼれ落ちる涙を拭う。

 それが尚更悔しくて、情けなくて、涙が止まらない。

 耳元で囁く声が気持ち悪いほど甘ったるい。


「そうやって目を閉じ、愛する男に抱かれていると思っていればいい。お前が私の腕の中で可愛らしく鳴く様を見せつけてやれば、あいつもさぞかしいい顔をしてくれるだろう」


 無理だ。

 どれだけきつく目を閉じても、どれだけ思いこもうとしても、絶対に。

 こんな、力ずくでベッドに押さえ込み刃物で脅しをかけるような獣と、いつも優しく気遣ってくれるあの人が一緒などと、絶対にあり得ない。

 あの人は一度たりとも私をそんなふうに扱ったことがない。

 ふざけることはあっても、なにかを強要したことなど一度たりともない。

 つき合わない?と聞いた。

 断ったことを怒るわけでもなく、頭を下げた。

 対等でありたいと言った。

 呼び捨てにしてほしいと願った。

 身分を捨て、私のところまで降りてこようと――。


 はっとし、唐突にそこで思考が止まった。


 一陣の風が霧を散らすように恐怖をぬぐい去り、凍りついていた思考が急速に回転し始める。


 シオンは、私を妻にと望んだ。

 それは――なにより、対等でありたかったからだ。

 呼び捨てにしてほしいと望んだのも。

 貴族も平民も分け隔てなく、いいたいことを言える関係でありたいと望んだから。

 私は、そんなシオンの婚約を受け入れた。

 ならば、こんなことに竦み、怯え、ただ耐えていていいわけがない。

 戦わなければならない。

 人としての尊厳を持ち、こんな仕打ちを断固として拒否しなければならない。


 それがなにより、シオンが私に与えようとし続けてくれたものだから。


(シオン――助けて。勇気を、貸して……)


 もう一度目を閉じ、左手の薬指にはまる指輪に願う。


 指を締め付ける誓いの指輪。

 その内側に彫られた言葉。

 それらを深く心に刻み込む。

 あの時、命すら惜しむまいと誓った決意を胸に思い起こし、剣に対する本能的な恐怖を脇に押しやって、のしかかる男を睨む。


「それ以上、触れないでください。王弟の立場にありながら、他家の婚約者と知った上でこのような狼藉、どのような了見ですか!」


 きりりと睨みつけ、可能な限り毅然とした声を出した。


 私は今、ただ貴族に虐げられ耐えることしかできなかった平民ではない。

 イグナス家の子息・シオンの正式な婚約者だ。

 いくら好色で名高い王弟であろうとも、この婚約が前代未聞の喜劇だろうとも、それが正式なものである以上、手を着けていいはずなどない。


 ぴしゃりと打ち付けるような声音に、殿下はほんの一瞬呆け、手を止めた。


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