罠1



 騎士に先導され、人通りの少ない廊下に出た。

 個別の客室として使われるのだろうと思われる部屋がいくつも整然と並ぶ廊下。蝋燭に照らされているが薄い闇に沈む廊下を歩いていると、道のない森の中に迷い込んでしまったような不安に駆られる。

 できるだけ私の目の届くところか、無理ならば辛いだろうけどできるだけ多くの人目がある場所にいてくれ、とシオンは何度も念を押した。私がいなくなったことに気がついたら心配をかけるし、これでは騎士が伝言を伝えたとしても探すには苦労するだろう。

 やはり一旦戻ってシオンに一声かけなければと思案していると、見分けがつかないほど並ぶ扉のひとつの前に、深紅のドレスを抱えた先ほどの侍女が待っているのが見えた。

 彼女の顔色は相変わらず蒼白で、ドレスを差し出しながらこちらをお使いくださいというようなことを告げたが、震える唇からこぼれた言葉をはっきりとは聞き取れなかった。ドレスを受け取り、少女の肩にそっと手をおく。


「聞き入れてもらえるかわからないけど、あまり叱らないで欲しいとお願いしてみたからそんなに怯えないで」


 彼女は瞠目し、なにかいいたげに口元を戦慄かせた。

 しかし、何も言わないまま唇をぎゅっと引き締めて、悲壮な表情で深々とお辞儀をしただけだった。


「どうぞ」


 騎士がきびきびとした所作で扉を開けて入るよう促した時――妙な寒気がした。

 だが、今更断る理由が思いつかなかった。

 仕方なく、促されるままその部屋に足を踏み入れる。


 一歩踏み入れた部屋の中は薄暗くて、生ぬるい空気と甘ったるい芳香アロマが立ちこめていて、思わず顔をしかめた。

 頭の芯をくらくらと酔わせるほど強く焚かれたその香りは、イランイランだ。

 その香りには、嫌な思い出が付きまとう。

 あの方は、最初に朝市で声をかけてきた時にも、イグナス家の居城で「客人をもてなすのも仕事だろう?」と迫った時にも、この匂いがしていた――。


「カラム、遅かったではないか」

「……………っ!」


 陰湿な声が部屋の奥――正確には、部屋の奥にある豪奢なベッドの中――から響いて、記憶から飛び出してきたかと悲鳴を上げそうになり、思わず深紅のドレスを取り落とした。

 後ずさり、背後にいた騎士にぶつかる。その衝撃に我に返り身を翻そうとするが、カラムと呼ばれた騎士は無言で私の手首を掴んで圧倒的な力でひねりあげた。


「………ゃっ……!」


 痛みから、小さな悲鳴が漏れた。

 悲鳴のおかげか掴む力は緩められたが、それでも振り払って逃げられるような力ではない。


 風体に似合わず「すみません」と弱々しく答えた騎士は力ずくで引きずるように私をベッドの脇まで連行し、まるで罪人に問審を受けさせるがごとく両腕を後ろで捕まえて男の前に立たせた。

 ベッドの縁に腰掛けている男はけだるそうに笑み、背筋が凍った。

 蝋燭の灯りに照らされた男の顔は、見間違いようがない。

 王弟、ヴィオール・バジリオ。

 ガウンを一枚羽織っただけという姿は彼のひょろりとした印象をさらに強調している。蝋燭の灯りがゆらりと揺れ、乱れたベッドの縁にしどけない格好で座る殿下の笑みに暗い影を落としていた。


「エミリア嬢は家柄も文句のつけようがないし、踊りも上手だしかわいらしい女性だろう? なのにあのイグナス家の若造に縁談を断られ恥をかいたかわいそうなお嬢さんなんだ」

「なぜ――」


 震えを抑え込みながら、あの会場にいなかったのになぜシオンが踊っている女性を知っているのかと問おうとした。だが問う前に意図するところに気付いて息を飲んだ。


(――謀られた!)


 あのエミリアという姫君も共謀者で、私とシオンを引き離すために踊りに誘ったのだ。

 あの侍女メイドも本当の主人はバジリオ家で、私をこの部屋に誘い込むためにわざと葡萄酒を零したに違いない。

 表情から私の思考を察した殿下は、にやりと陰湿な笑みを浮かべて立ち上がった。


「しかし、今日のおまえは見違えたぞ。メイド姿もよかったが、今日はまた一段と美しい。あの市場で見た時の、私の目に狂いはなかったということだな」


 男の手がするりと頬を滑る。

 恍惚とした表情に、嫌悪感から全身に鳥肌が立った。

 殿下は私の髪に飾られていた三色菫を手に取り、ぐしゃりと握り潰して床に投げ捨てる。


「忌々しい……若造が、私が先に目をつけたのに……横取りしおって……!」


 呪詛のような陰険なつぶやきと吐息が首筋をなぞった。

 ぞっとするのと同時に殿下は一歩下がり顎でベッドを示す。腕が解放された感覚がした次の瞬間には軽々とベッドの中に投げ込まれた。


「…………っ!」


 悲鳴なんて上げるものかと歯を食いしばり、動きにくいドレスに苦心しつつも慌てて身を起こした時には、すでにふたりの男が悠然とベッド上に乗り込んで来ていて、身が竦みそうになる。


(怖じる暇なんか、ない!)


 自分を叱咤して、すばやくあたりを見回す。

 ベッドの奥は壁だ。窓はあるがここは3階。右手は枕元に蜀台がある程度で、やはり壁。左手、足元側には主人に忠実な騎士が立ち塞がり、正面が殿下。侍女は室内には見あたらない。扉の外で見張りでもしているのかもしれない。

 いかにこの豪奢なベッドが私の部屋くらいの大きさがあると言っても、大人の男ふたりの間に隙はない。あの精悍な騎士はどう抗っても到底かなう相手とは思えない。火の中に飛び込むのと同じくらいの抵抗はあるが、痩躯の殿下ならば、ふいを突けばなんとか、押しのけて逃げ出すくらいのことは、できるだろうか?


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