理想と現実1



 初めて会った時の服だ、と一目見て思った。

 白を基調に青のライン、それからイグナスの家紋が銀糸で刺繍された盛装。それに身を包んで、深い青のリボンで髪をまとめたシオンの姿は見惚れてしまうほど麗しいが、ひどく鬱々とした表情なのが残念だ。


「……どうかしら?」


 窓際の壁に寄りかかって外を眺め、私の着替えを待っていたシオンの横顔に声をかける。

 きちんとドレスと宝飾品を身につけ化粧までするのはシオンの誕生日以来二度目になる。貴婦人の振る舞いのレッスンでコルセットは何度もつけて息苦しさは多少慣れたものの、やはりこの身に余る緊張感は拭い去れるものではない。

 振り返ったシオンは一瞬目を瞠り、それから眩しそうに目を細めてはにかむ。


「うん、すごく綺麗」


 自分で聞いておいてなんだけれども心底うっとりとした響きはかえって恥ずかしく、居心地悪く目をそらした。


 婚約の後、ヒース様は大事な亡き奥方サーシャ様のドレスや宝飾品の数々をすべてを私に与えた。恐れ多いと断ろうとしたが、妻も新しい娘が使ったほうが喜ぶだろうという一言と、それからこれらの品を取りそろえるのにかかる費用を思えば無駄にしてはいけないと説き伏せられた。

 だから今回もそれらのサーシャ様の遺品を使わせていただくことになるかと思っていたのだけれども、それを聞きつけたアゼル様の奥方・シャルルリエ様が急遽駆けつけ、「どんなにいい品でも、こういうのは年相応の意匠とか流行があるんですからね!」と男性陣を一喝した。男の人はこういうことに気が回らないんだからと憤然とした彼女は自分のドレスを大量に持ってきていて、一日かけて私をくるくるくるくると着替えさせた。そして最終的に7着のドレスとそれに合わせる小物一式を婚約祝いにあげるわと恐縮している私に押しつけるように置いて帰って行った。侍女達が仕立て直しをしたそれらのドレス等はひとまずシオンのクローゼットルームに保管されている。

 本日その中から意気揚々と侍女達が選んだのが、淡いミントグリーンが爽やかなマーメイドドレスだった。右上の方で結い上げた髪は真珠と小さなエメラルドのちりばめられた髪飾りと色とりどりの三色スミレで飾られ、自分の姿を鏡をみた時、別人のようだと思った。

 相変わらずコルセットは息が止まりそうなほどにきつく締められているし、マーメイドドレスっていっそう歩きにくいと内心思ってはいるのだけれど、これからこういうことに慣れていかなければならないのだからと自分に言い聞かせている。


「さて、じゃあ自慢の妻のお披露目に出発しようか」


 さっきまで渋々といった様子だったシオンが手のひらを返したようにいきなり機嫌よくなり、貴婦人にするように恭しく手を取るものだから、今度は私が溜息をつかずにはいられなかった。




     * * *




(はぁ……)


 心の中で再び深い溜息をついた。

 それも出かける前などとは比べものにならない憂鬱さで。


 居心地悪く壁の花となり、燦然と輝く眩しいシャンデリアの光に照らされた広いフロアで踊っているシオンの姿を視線で追う。

 楽団が奏でる楽しげな音楽も、ひとつも心の慰めにはならない。

 かわいらしい本物の貴婦人の手を握り、見つめあって踊るその姿を見ていると、気分は沈む一方だった。


 お相手の名はエミリア様。今は亡き王妃の姪にあたるアグライア家の姫君だとシオンは紹介した。年齢は二十歳ほどだと思う。きっちりとロールのかかったライトブラウンの艶やかな髪、サファイアのような瞳。身のこなし、指先の動きひとつとっても見とれてしまうほど可憐で優雅。唇と同じ桜色のふんわりとしたかわいらしいドレス。純白のレースと金糸の刺繍がふんだんにあしらわれたドレスがよく似合う少女は、女の子なら誰もが一度は憧れる絵本のお姫様がそのまま現れたみたいだった。

 仕草一つとっても本物のお姫様の優雅な所作は、ちょっと練習したくらいの農婦とは全く違う。やっぱり貴族と平民は人であっても同じではないと思うほどの隔たりを感じずにはいられないそのお姫様から、シオンは是非一曲とお誘いを受けた。

 断ろうとしたシオンに私が「大丈夫だから行ってきて」と言って送り出したのだ。

 他の男と踊るのは嫌だと言ったシオンにやきもちも大概にしてと失笑してみせたし、さらに言えば一応練習したダンスがまったく形にならず、舞踏会なのにひたすら見ているだけという居心地の悪い状況に陥ったのも、私に要因があると言ってよかった。

 だからこの状況は心細いだとか恨んだりだとか、シオンを非難することではない。

 しかし、知らない人ばかり――しかも、今まで神と同じくらい絶対に逆らえない存在だった貴族ばかりが集まっている場でひとりきり立ち尽くしているのだから、普段絶対に口に入ることのない豪勢な食事もお菓子も飲み物ですらとても喉を通る気がしない。


 ふ、と。

 初めて会ったあの日、シオンはお腹が空いたと厨房に転がり込んできたんだったと思い出して、少しだけ胸が暖まった。


(頑張らなきゃ……)



 今日ばかりはきちんと左手の薬指にはめてきた指輪に触れ、そっと目を閉じる。

 しかしまなうらに浮かんできたのは、シオンが紹介して挨拶を交わした時に私をちらりと一瞥したエミリア様の、氷のように冷え冷えとした瞳の奥に潜む激情にたぎる視線だった。

 そして今シオンを見つめる瞳は、完全に恋する乙女のものだと思う。


 普段のシオンは私達に合わせた服装をしているから一緒にいても気後れすることはないけれど、今日のような盛装はまるで別人のようで、隣にいても落ち着かない。

 それに引き替え今のあの二人は傍目にもよく似合っているし、それにあのマーガレットみたいな可憐な風情はあの人の好みだと、そんなことまで考えてしまう自分が嫌だった。


 気がつくとこぼれたインクを吸う紙のようにじわじわと染みていく苦い想いと、延々と深みに落ちていく気分を切り替えなければと、苦労してふたりから視線を引き剥がす。


 広いフロアの中央では優雅に身を翻して踊る人々。

 その外側で談笑する人々。

 その誰もが、時々ちらちらと私を一瞥する。

 ある人は憎々しげな、ある人は汚らわしいものを見るような、ある人は好奇の、ある人はじわりといやらしさを滲ませた視線を、遠慮なく向けてくる。

 ざくりざくりと刺さるそれらの視線は鋼鉄の処女と呼ばれる拷問具に押し込められたらこんな気分だろうかと思えてくるほどだった。


 シャルルリエ様は私をくるくると着替えさせながら、最近社交の場で女性達の話題になっているファッションの流行だとか舶来品のことだとか、話を合わせられるように丁寧に教えてくれた。だが、誰一人として話しかけてこないこの状況ではどうやら無用だったようだ。

 なんともいえない気持ちでいると、音楽が途切れた。

 フロアはそれぞれに丁寧なお辞儀をする姿で溢れ、曲が終わったのだと知る。

 次の曲が始まるまでの間に、戻る人や相手を替える人々が慌ただしくも優雅に動き出す。シオンが戻ってくるだろうかと期待を込めて人波の奥に目を凝らすと、エミリア様に手を取られて眉を下げている。シオンは首を振っていたが、エミリア様が手を離すよりも次の曲が始まるほうが早かった。

 やむなく――だと思う――もう一曲踊り始めたシオンの姿を確認し、再び大きな嘆息を落としてしまう。


 シオンが隣にいる間はここまで露骨な視線ではなかったと思うのは、やはり心細いせいだろうか。ここにきて最初の一時間ほどは次から次に声をかけたりかけられたりと目眩がするほど慌ただしく挨拶に回った。

 エミリア様のようにきちんと紹介されたのは片手で数えられるほどの人数で、ろくに言葉も交わさないような挨拶しか交わしていない方々がおそらく三桁に上る。こんなに次々紹介されても覚えられないとこっそり愚痴をこぼしたが、シオンは覚える必要がある人物はきちんと紹介するからかまわないと一蹴した。

 あれはきっと厭味のひとつも言わせないように配慮した結果なのだろう。シオンが話の途中であっても唐突に他の人に挨拶に移ったり、配給係に飲み物などを申しつける直前、相手の表情が歪んだような気がしたのは、多分気のせいではない。


 逃げ出してしまいたい、と何度思ったかしれない。

 ひとりでここに立っているだけのことがとても辛くて、心が折れそうになる。

 けれど、これは“仕事”だと必死に自分に言い聞かせる。シオンはきっと1年前からずっとこれと似たような状況にあっただろうに、それを心配させるような素振りを一度も見せなかった。皮肉も厭味も、きっと無数に浴びてきただろうに、それでも逃げずに耐えた。さらに増長することを覚悟して、私を望んでくれた。

 強く目を閉じ、薬指にはめている銀の指輪に触れ、シオンの姿を瞼の裏に描いて、慣れておかなければと自分に言い聞かせる。

 これから彼と一緒にいるために、これは必要な付き合いだ、と。

 しかし決意して目を開けた時に人波の切れ間に見えたのは、小柄でかわいらしい女性の肩を抱いて笑っている本物のシオンだった。

 シオンは彼女をきちんと紹介した。つまり親交深く、信頼もしているということなのだろう。

 それは、黒い靄のように心を翳らせる。

 まわりの視線も不快だが、このもやもやした気持ちも嫌で――憂鬱な嘆息が漏れるのを止められない。




「きゃっ……!」


 いったい何度溜息をこぼしたのかわからないが、唐突にすぐ近くから小さな悲鳴が聞こえ、葡萄酒がぴしゃんと足下の床を打ち、ミントグリーンのマーメイドドレスの裾に赤い染みが広がっていった。



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