踏み出す一歩2



――時々、ひどく心配になるのだ。


 ヒース様はいつものように書類に目を向けたままで呻くように呟いた。


――あれは、いつか王家に剣を向ける日が来るかもしれん、と。


 まさかと恐る恐る口を挟めば、ゆっくりと首を振った。


――あれは直情径行のバカ息子だ。激昂すれば私の言葉など聞かず、手が着けられない。


 深い深い溜息をついて。


――あれが耳を傾けるとすれば、君の言葉だけだろう。


 そして、憂い顔を上げて私に頼むと言った。


――君は、指標となり、重石となりなさい。


 戦慄きながら重石と口の中で呟くとヒース様は穏やかに微笑んだ。それは消しきれない苦みの残る笑みだったけれど。


――気負わずとも君は自分が正しいと思う生き方をすればいい。いずれにしろ川の流れを堰止めることはできないのだから。



 ふと気づくと、無意識に鎖骨の指輪の上に手をおいていた。

 この指輪は不安な時、挫けそうになった時、勇気を、力をくれるような気がする。最近は無意識にこれに頼る癖がついてきた気がしていけないと思うのだけれど。

 人心地はついたものの、うすら寒いものは剥がれ切れずに残った。


(……重石)


 あの方は由緒ある家名に愚者の泥を被ることになっても、シオンが反逆の徒となるよりはいいと判断したのだろうかと責任の重さを感じるたびに戦慄が走る。


「でも、心構えは騎士の心得に準じている。神に誓って、私利私欲のためには振るわない。この剣は君と、そしてリュイナールと弱者を守るためにのみ振るう」


 騎士が敬礼する時のように剣先を天に向け垂直に構えたシオンは、口元が笑っていても本気の目をしていた。それを見ていると反逆はさすがにヒース様の杞憂に思えた。

私の逡巡はよほど顔に現れていたのか、シオンが怪訝に首を傾げたので、急いで笑顔を取り繕う。


「本職の騎士ではない文官に辛酸を舐めさせられる騎士が可哀想ね」

「彼らの鍛え方が甘すぎるのが悪い。辛酸でも爪の垢でもいいから、もう少し本腰をいれて訓練すれば片手間に訓練した程度の私に負けるはずなどない。――あの騎士団長みたいに」


 本当に騎士達の訓練不足なのか、シオンの才能が類稀なのかは私には見当がつかないから、答えに困る。

 シオンは昨年の準優勝で大多数の騎士を敵に回したと噂に聞く。にもかかわらず、涼しい顔でこういうことを言ってしまうから、騎士達はさらに面白くないはずだ。


「ともあれ、今年は必ず優勝を君に捧げるつもりだから。褒美は何がいいか、決めた?」

「私はなにもいらないって言ってるでしょう?」


 シオンは予選を勝ち抜いてからというもの、私に褒美に何を望むかと聞いてくるので非常に困っている。昨年のように私に爵位をなどと言い出さないだけまだいいとは思うけれど。

 今この時間が十分な贅沢をしていると思うほどで、欲しいものがあるはずがない。


「……あなたが怪我をしなければ、それで十分」


 表彰台に上ることすらできない状態で帰ってきたシオンの姿を思い出すと怖くなって、彼の袖を掴んだ。

 今年こそ応援に来て欲しいと熱心に乞われているが、返事はまだできずにいる。目の前でシオンが傷つくのをただ見守るなんて、考えるだけでも怖いから。


「さすがに無傷で優勝はハードルが高いな」

「そういう意味じゃないわ!」


 ふざけた答えばかり返してくるシオンを睨むと、彼は私の髪を撫でながら笑い――それからふと何かを思い出したらしく、笑みをかげらせた。


「……その前に、私の未来の妻に仕事を頼まないといけないんだった」


 珍しく歯切れ悪く頭を掻くシオンに、ただ首を傾げる。


「妻の、仕事?」

「うーん……正確には私の仕事の補佐というか……」

「はっきり言ってくれないと応諾の返事もできないでしょう?」


 気乗りしないというのは既に十分わかったと急かすと、シオンは唸りながら剣を鞘に納めた。それから、決意するためかひとつ大きな嘆息をついて、ようやく私をまっすぐに見つめた。


「来月開かれる舞踏会に、君も私とともに参加してほしい。何度も断ったんだけど、どうしても一度、私の未来の妻のお披露目をと」


 そこまで口にしたシオンは苦笑いを崩し、助けを求めるように、縋るように、私を抱き寄せた。


「……すまない。君にも嫌な思いをさせる」


 シオンは月1回程度招かれている晩餐会や舞踏会から、毎回ひどく気疲れして帰ってくる。

 婚約を発表して2週間後に招かれた先月の社交会など、ひどく苛立った様子で帰ってくるなり私を強く抱きしめ、まるでおばけに怯える子供みたいに一晩中手を離さないでほしいと願った。

 なにがあったのかと聞いても首を振るだけで話してはくれなかったが、おそらくは心ない嘲笑に耐え続けたのだろうと思う。それくらいのことは覚悟の上だったとはいえ、街の人々の祝福とは真逆に口さがない人々の嘲笑は婚約してから加速している。街中にいる私はどちらかといえば祝福され守られているけれど、シオンはずっとひとりでその渦中にいるのだ。

 そう思うと居たたまれず、あなたがそばにいてくれるなら立場などこだわらなくてもいいと言った。妻でも妾でも愛人でも、呼ばれ方がどう変わろうと、シオンの想いが変わらないなら同じだと。

 でも、シオンは嫌だと言って譲らない。

 それだけで解決するような簡単なことなら父は婚約する前に助言したはずだ、と。

 ひとりで耐えているシオンにどうしてあげればいいのか、どんな言葉をかければいいのか見当もつかずに悔しさを噛みしめていた。


「あなたは苦労を承知で一緒に立ち向かってほしいと言って、私はそれを了承したのよ」


 シオンの腕のあたたかさに寄り添うと、笑みがこぼれた。


「そう、だけど――……」

「必要な付き合いならば行きます。苦難は覚悟の上であなたの妻になることを選んだのよ」


 きっぱりと言い切ると、少しだけ間をおいてからシオンは半笑いで嘆息をついた。


「うん……直接君に会った人が一人でも君の為人ひととなりをわかってくれることを期待するしかない」


 シオンは自分にいい聞かせるように呟いて、私の肩口に顔を埋めた。

 ひとつに束ねられた金色の髪が流れる広い背中。不規則な呼吸にあわせてその背中が揺れるのを少しの間眺めていると、石鹸の香りと汗と土埃が混じった匂いがした。

 まるで日溜まりに寝ころんでいるような匂いだと思う。

 木陰にきらきらと優しく降り注ぎ揺らめく光のまぶしさとあたたかさが見えるようで、目を細める。

 胸が締め付けられるような気がして息苦しさを覚え、そっと背中に腕を回してゆっくりと一撫ですると、少しずつ呼吸が穏やかになっていく。


「……落ち着いた?」


 頃合いを見て、そっと肩を押して体を離す。

 シオンは注目を浴び慣れていて気にならないようだが、人通りのある場所でいつまでも抱きしめられているのは正直恥ずかしい。街の人々の大半は見ない振り気づかない振りで通り過ぎてくれるけれども。

 私もこの1年余り随分と耳目を集めてしまったけれど、いまだ慣れずに困ってしまう。


「うん、ごめん」


 シオンに幾分いつもの笑顔が戻ってきて、私もほほえみを返す。


「舞踏会って、私も踊りを覚えるべきなのかしら?」

「あははは、別にいいよ。無理しなくても」


 真剣に聞いたのに、快活に笑われると多少むっとする。

 レッスンを受けてもまだ歩くのがやっとという不格好だが、努力するつもりだったのに。


「無理って言ったわね!」


 腰に手を当ててむくれると、彼の表情がかすかにいたずらめいた笑みに変わる。


「ごめん。正直に白状するとね――」


 シオンは笑いながら左手を私の腰に回してぐっと引き寄せ、右手で私の手を取った。

 ……近い。

 反射的にのけぞったが、それでもまだ吐息が触れそうなほどの距離にたじろいでいると、琥珀色の瞳がいたずら好きの子猫みたいにきらりと光った。


「私と踊るだけなら構わない。けれど君が私以外の男とこういう距離に近づいて踊るなんて耐え難い。ならばいっそ踊れないで押し通すほうがいい」


 溶けてしまいそうな熱っぽい瞳が体温を感じるほどに近く、反射的に胸が高鳴る。


「もう……社交ダンスでやきもちなんて!」


 呆れ半分、照れ隠し半分でぴしゃりと彼の手を打ち、逃げるように仕事へと戻った。


(――慣れた仕草だ)


 当然なのに、そう思ったら涙が滲みそうになった。

 今まであの慣れた仕草の相手がどんな貴婦人達だったのか、とか――そんな後ろ暗いことを一瞬考えてしまった。

 そんな自分が嫌で、悟られたくなかった。




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