理想と現実2
「失礼しました!」
葡萄酒を零した
申し訳ありません、と怯えた様子で繰り返し呟く侍女は15才前後だろうか。もしかしたら勤め始めたばかりで給仕に慣れないのかもしれない。珍しい漆黒の髪、雪のように白い肌にぱっちりと輝く黒曜石のようなつぶらな瞳と朝露に濡れるバラのような唇――あどけなさと妖艶さが同居する不思議な魅力の少女だった。
「大丈夫、きっと洗えば落ちるから」
実際には葡萄酒の染みがそう簡単には落ちないことは知っている。だが少女の怯えた様子があまりに痛々しくて、肩に触れて声をかける。少女は涙を溜めた目を見開き、首を振って申し訳ありませんでしたともう一度深々と謝罪した。
「……やっぱり、サラ様は噂通りお優しい方ですね」
「噂通り?」
俯いた少女が、弱々しい声で呟いた。
こういう場にのぼる私の噂といえば悪いものばかりだと思っていたが少女の呟きは意外にもそうではなさそうだ。問い返すと、少女は夢見るようにきらきらとした眼差しをまっすぐに私に向けた。
「はい。サラ様は私たちの憧れで、希望なんです」
自分でもまるで御伽話のようなあり得ない話だとは思っているが、それにしても希望とは大袈裟だとくすぐったく思う。
そのあまりにも切な少女の眼差しに口には出せなかったけれど。
「シオン様は以前から私達のような使用人にも優しい方でしたが、この1年ほどは一段と優しくなられて……私達にありがとうと声をかけてくださるのです」
少女の視線がためらいがちに、わずかに床に落ちた。
「他の方々は私達がかしづくのは当たり前でそんな言葉をいただくことなんてありません。ですが、シオン様は私達の生活があるのは君達が懸命に働いてくれるおかげだと。もったいないお言葉ですと申し上げたら、花一輪のためにどれだけの手間と愛情が込められているのかを、料理や衣装や宝飾品を作るのにどれほどの手間暇と技術が必要かを知れば、言わずにはいられないと……」
ほのかに朱が差す頬と、いじらしいほど反らされた視線が、あまりにも純粋無垢な羨望が、熱く私に向けられる。
「そんな方が選ぶのですからサラ様は絶対にお優しい素敵な方に違いないと、みんなで噂を――」
貴人達の噂や態度はこんな状態でも、リュイナールの民でなくとも、使用人達は私の株まであげてしまうほどシオンを好いているのかとくすぐったいような気持ちで聞いていたら、少女は唐突にはっとして息を呑んだ。
キラキラした光が漆黒の闇に沈み、紅潮した頬が青白くなる。
まるでつがえられた矢の標的になっていることに気づいて逃げられない恐怖に竦んでいる野兎のような――
「粗相をしておいて、お喋りが過ぎるのではないか」
異様な変貌に首を傾げようとした時に私の背中の上から厳しい声が降ってきて、少女は顔色を隠すように深々とひざまづいた。
「……申し訳、ございませんでした……」
少女が頭を下げた先を返り見ると、そこにいたのは背の高いがっしりとした体躯の男だった。
「うちの者が失礼した。すぐに着替えと部屋を準備させよう」
私に謝罪を述べつつもにこりともしない彼の居住まいも語り口も無骨で無愛想だ。
剣も鎧もつけていないけれど精悍な騎士という印象――襟元の
この舞踏会の会場にはこういう武芸を嗜んでいそうな風体の貴公子は少ない。この騎士然とした体躯ならば一度挨拶をしていれば印象に残っていても良さそうだけれども、顔も名前も紋章も全く覚えがない。しかし今日紹介された人数はあまりにも多く、絶対初対面かと聞かれると断言はできなかった。
知っていて当然という風で名乗ろうともしないので、私が覚えていないだけで既に挨拶した人なのだろう。
「どうぞ、こちらに――」
「いえ……あの、シオン様に心配をかけるので、一言声をかけてから――」
紳士然としてごく緩やかに手を取られた。
貴公子に触れられると鳥肌が立つのが常だが、不思議とこの人は平気だ。おそらくその雰囲気があまりにも実直で、聖職者のように色事とは無縁に思えるからだろう。
しかしだからといって勝手についていくわけにはいかず、踏みとどまってシオンを見た。まわりは多少ざわめいたはずだが、人波の向こうにいるシオンは踊りながらなにか話し込んでいて気づいていないようだった。
「彼には、私から伝えておく」
手を離した騎士は軽くシオンを一瞥してから、言った。他の人の痛い視線に慣れていたせいか、彼の言葉はとても穏やかに優しく心に響く。
「君は先に行け」
彼が頭を下げたままの侍女に視線をやると、彼女は怯えた表情のまま深々とお辞儀をして立ち去った。
「あの……彼女のこと、あまり叱らないでくださいますか?」
騎士はほんの一瞬だが瞠目し、それから苦い顔を背けた。
私達の生活費一年分だと思うと多少なりとも叱られるのは当然だろうが、あれほど怯えるなんて哀れだった。
私は以前、城の花瓶を割ったことがある。
花を生けている途中に貴公子に言い寄られ、思わず後ずさった拍子にぶつかって落としてしまった。おかげで近くを通りかかった執事が物音を聞きつけ貞操を守ることができたが、弁償は当然、叱咤や減給など様々な処罰を覚悟した。だが執事の報告を受けたヒース様はただ一言「それほど価値ある花瓶ではない」と言って許してくれた。
実際には値打ちのあるものだったのだと思う。
あの方は、そういう人だ。
しかしあの怯えようから察するに彼女の雇主はきっとそんなに寛大で優しくはないのだろうと思えて哀れだった。
「……主に、そのように伝える」
苦々しい返事を押し出した騎士に違和感を覚え、ついまじまじと見つめた。
うちの者と呼んだから、彼の家に仕える侍女なのかと思ったのだ。三十台前半と言った若さから当主ではなくとも、その息子あたりと見当をつけてみたのだが。しかし彼は父とか兄とかではなく主と呼んだ。それは、どういう意味なのだろうかと。
そんな疑問が浮かんだのだが、貴族の世襲とか上下関係というのは繊細なもので触れたらいけないこともあるから聞くなら私に聞くようにというのがシオンのいいつけだったのでひとまず口を噤む。
「時間が経つと一層落ちにくくなるのだろう? あの侍女を思いやるのなら早めに替えることを勧めるが」
促され、心が揺らいだ。
あの侍女のこともだが、このドレスをくれたシャルルリエ様のことが脳裏をよぎった。
義姉は人形を着替えさせて遊ぶ幼女のように楽しげに、あれもこれも着てみなさいと散々着替えさせては姿見鏡の前に立つ私を見て満足そうに笑っていた。そして最後に優しく背中から抱き寄せて、耳元に囁いた。
――私にはこのくらいのことしかできないけれど、かわいい
大事にします、と心から約束した。
シオンも、ヒース様もシャルルリエ様達も、とても優しくてあたたかい。
彼らの与えてくれたものはドレスでも気遣いでも、全部が宝物だった。
できることなら染みなどつけたくなかった。
必ず私の目の届くところにいてくれと、シオンは何度も念を押した。
だから着替えるにしても声をかけてからともう一度その姿を探したが、人並みに紛れてどこにいるのかわからなかった。大声で呼ぶわけにもいかないし、優雅に踊る貴人たちの人波を割って探すこともできない。
騎士は無理に手をとるわけでもなく、背筋を伸ばして私の決断を待っている。
騎士は国と弱者を守るのが勤めだ。
だから――このまま騎士に追従することを了解した。
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